第5話 差し出された手は、契約の内か
和合祭の通し稽古は、大聖堂で行われた。
婚礼の日にも立った場所だというのに、朝の大聖堂はまた違う顔をしていた。
参列者のざわめきも、楽の音も、祝福の花びらもない。高い天井に反響するのは、神官たちの足音と、儀礼道具を運ぶ者たちの低い声だけだった。
人が少ない分、建物そのものの大きさがよくわかる。
白大理石の床には、朝日が長く差し込んでいた。
太陽神の円環を象った窓から落ちる光が、祭壇前に金の輪を作っている。
その輪の中心に、今日の稽古でアレクシスとセレネが立つことになる。
セレネは、聖堂の入口で足を止めた。
昨夜、眠る前に何度も手順を確認した。
太陽の灯が先。
月の灯は第二聖句の後。
祭壇の左側へ進む。
第三聖句の前に一礼。
献灯の後、王太子と王太子妃が同時に振り返る。
手順は頭に入っている。
だが、頭で覚えた礼と、身体で覚えた礼は違う。
月国で身につけた所作は、セレネの身体の奥にある。
月の祭儀では、足運びはもっと静かだ。灯を持つ時も、右手だけでなく左手を添え、光を守るように胸元へ引き寄せる。
太陽国式は違う。
光を隠さず、掲げる。
灯は人々に示すものであり、神の視線を受けるものだった。
同じ献灯でも、意味が違う。
意味が違うから、身体も変わる。
「王太子妃殿下」
ユリアンが近づいてきて、深く礼を取った。
「本日は、まず祭壇までの動線を確認し、その後に聖句と合わせます。古式の一節については、大神官猊下のご許可が下りました」
「ありがとうございます」
「ただし、完全な復活ではなく、第二聖句の後に短く加える形となります」
「十分です」
セレネは頷いた。
すべてを月国式に変えたいわけではない。
ここは太陽国であり、和合祭は太陽国式で執り行われる。
ただ、月神の名と役割が、飾りではなく意味を持って置かれるなら、それでいい。
アレクシスは、すでに祭壇近くにいた。
神官と何かを確認している。今日も姿勢に乱れはなく、黒に近い濃紺の礼装に、金飾りをつけていた。
金の瞳が朝日を受けて、遠目にもはっきりと光る。
太陽神の面影。
そう呼ばれることを、彼はどう思っているのだろう。
昨日、アレクシスは言った。
自分は第三王子だった。
本来なら第二王子が王太子となるべきだった。
だが、自分には金眼があった、と。
まるで、その瞳が彼自身をここへ引きずり出したかのような言い方だった。
セレネの視線に気づいたのか、アレクシスがこちらを見る。
彼は短く頷いた。
「おはようございます、王太子妃」
「おはようございます、王太子殿下」
大聖堂にいる以上、それが正しい呼び方だった。
「眠りましたか」
小さな声だった。
周囲の神官たちには届かない程度の。
セレネは少しだけ瞬きした。
まさか、最初にそれを聞かれるとは思っていなかった。
「はい。稽古に差し支えない程度には」
アレクシスは、何か言いたげに彼女を見た。
けれど、神官が近づいてきたため、それ以上は続かなかった。
「殿下、妃殿下。まずは入場から献灯までを確認いたします」
稽古が始まった。
最初は、神官の合図に従って歩くだけだった。
入口から祭壇までの距離。
立ち止まる位置。
視線の向き。
礼の深さ。
アレクシスは慣れていた。
当然だ。
彼はこの大聖堂で何度も儀礼に立っている。
どこで歩みを緩め、どこで顔を上げ、どこで民衆へ視線を向けるべきか、すべて身体が覚えている。
セレネは、その半歩後ろを歩きながら、彼の動きに合わせた。
月国の祭儀では、王女はもう少し静かに歩く。
太陽国式では、堂々と光の中を進む。
歩幅も、背筋の張り方も、手の位置も違う。
月国で美しいとされた慎ましさは、ここでは弱く見えるかもしれない。
太陽国で正しいとされる堂々とした姿は、月国では強すぎると取られるかもしれない。
それでも、セレネは王太子妃として歩かなければならない。
「王太子妃殿下」
ユリアンが声をかける。
「祭壇前では、もう少し左へ」
「左へ?」
「はい。月の灯は太陽の灯の左後方に置かれますので」
左後方。
控える位置。
昨日も聞いた言葉が、身体の中で引っかかる。
セレネは指示通りに移動した。
だが、そこに立つと、アレクシスの影が自分の足元に落ちた。
朝日を背に受ける彼の後ろで、セレネはやや光から外れる。
なるほど。
太陽国式の月は、この位置に置かれるのか。
「この位置でよろしいですか」
セレネは穏やかに尋ねる。
「はい。古くからの形です」
ユリアンはそう答えた。
悪意はない。
彼にとっては、それが当然の配置なのだ。
セレネは頷いた。
「承知いたしました」
アレクシスが、ほんの少しだけこちらを見た。
だが、何も言わない。
次に、灯皿を持つ稽古へ移った。
太陽の灯はアレクシスが受け取り、月の灯はセレネが受け取る。
銀の灯皿は思っていたより重かった。装飾が多いせいだろう。両手で持てば安定するが、太陽国式では右手を主にし、左手は軽く添えるだけと説明された。
両手で包むように持つやり方とは、また違った。
セレネは灯皿を掲げ直した。
灯を隠さない。
光を守るのではなく、示す。
それは太陽国らしい。
だが、右手を主にすると、手首に負担がかかる。
月国式のように胸元へ引き寄せられないため、少し重心が前へ出る。
長い聖句の間この姿勢を保つなら、慣れが必要だった。
「重いですか」
アレクシスが言った。
「問題ありません」
「問題があるかどうかを聞いているのではありません。重いかと聞いています」
セレネは、少しだけ返答に迷った。
神官たちの前で、弱いと見られたくはない。
しかし、アレクシスの問い方は、見栄を許さないものだった。
「……月国式よりは」
「ユリアン」
アレクシスが神官を呼ぶ。
「はい」
「本番の灯皿もこの重さか」
「はい。儀礼用の正式なものですので」
「王太子妃が第二聖句の間持つには長い。持ち手に薄布を巻けるか」
ユリアンは一瞬驚いたが、すぐに考え込んだ。
「装飾を隠さぬ形であれば可能です。古式にも、姫君の手を守るために白布を巻いた例がございます」
「ではそうしてください」
「承知いたしました」
セレネは、灯皿を持ったままアレクシスを見た。
「殿下」
「何ですか」
「お気遣いはありがたいのですが、私が重いと申し上げたように見えたでしょうか」
「見えたでしょうね」
淡々と返される。
セレネはわずかに眉を上げた。
「それは少し困ります」
「本番で手元が震える方が困ります。そのための準備です」
正論だった。
腹立たしいほどに。
神官たちの前で言い返すこともできず、セレネは静かに息を吐く。
「承知いたしました。では、白布の件はお願いいたします」
アレクシスは頷いた。
それだけだった。
けれど、セレネは灯皿を持つ指に意識を向ける。
たしかに、このまま本番を迎えれば、長い聖句の間に指先が強張るかもしれない。
それをアレクシスは見ていた。
セレネ自身が認める前に。
公のための配慮。
そう考えれば説明はつく。
王太子妃が本番で失敗すれば、王太子にも傷がつく。
だから事前に手を打った。
それだけだ。
それだけのはずだ。
稽古は続いた。
聖句に合わせて歩く。
灯皿を掲げる。
祭壇前で礼を取る。
太陽の灯と月の灯を並べる。
何度目かの確認で、問題が起きた。
第二聖句の後、セレネは月の灯を持って祭壇へ進む。
足運びは覚えていた。
だが、祭壇前で一礼する瞬間、身体が月国式の深い礼を取ろうとした。
太陽国式では、ここは浅い礼でよい。
月国式では、月の灯を捧げる時、深く頭を垂れる。
ほんのわずか、動作がずれた。
灯皿の炎が揺れる。
セレネはすぐに姿勢を戻したが、足元の裾が床に触れ、重心が傾いた。
「セレネ」
声が聞こえた。
次の瞬間、アレクシスの手がセレネの腕を支えていた。
灯皿は傾かなかった。
炎も消えなかった。
大聖堂の中に、短い沈黙が落ちる。
セレネは、自分の腕に添えられた手を見た。
手袋越しとはいえ、しっかりとした力がある。
それは儀礼で差し出される手ではなかった。
転びかけた相手を支えるための、ごく自然な手だった。
そして、今、彼は自分の名を呼んだ。
小さなことだ。
聞き間違いだったかもしれない。
周囲にはほとんど届いていなかっただろう。
けれど、セレネには聞こえた。
「……ありがとうございます」
セレネは、声を整えて言った。
アレクシスはすぐに手を離した。
表情は変わらない。
だが、その金の瞳に、一瞬だけ動揺が見えた。
「足元が……何かありましたか」
「はい。今のは月国式の礼に身体が引かれました」
「怪我は?」
「ありません」
そう答えると、アレクシスはどこかほっとしたように尋ねた。
「稽古はまだ続けられますか」
「はい」
会話は、あくまで稽古の確認として処理された。
神官たちも、すぐに動きを戻す。
ユリアンが申し訳なさそうに言った。
「王太子妃殿下、今の箇所は太陽国式では浅い礼でございます」
「はい。頭では理解していたのですが、身体が月国式を覚えていたようです」
「無理もございません。月の灯を捧げる場面ですので」
ユリアンは、少し考えてから続けた。
「本番では、王太子殿下が太陽の灯を置かれた後、半歩だけ妃殿下の方へ向きを変える形にしてはいかがでしょう。そうすれば、妃殿下は殿下の肩の線を基準に、礼の深さを合わせられます」
セレネはアレクシスを見る。
アレクシスも、少し考えるように祭壇の位置を見た。
「不自然ではないか」
「和合祭では、太陽と月が互いを確認する動作として解釈できます。古式にも近い動きがございます」
「なら採用しましょう」
アレクシスは即座に決めた。
セレネは思わず口を開く。
「殿下」
「何ですか」
「よろしいのですか。私のために動線を変えることになります」
「和合祭のためです」
彼は静かに言った。
「貴女が誤りにくくなるなら、祭儀全体も乱れません」
また、公の理由。
それは正しい。
正しいからこそ、反論できない。
だが、さきほど彼が自分の名を呼んだことは、公の理由では説明できなかった。
稽古は再開された。
今度は、アレクシスが太陽の灯を置いた後、わずかにセレネの方へ向きを変える。
その肩の線に合わせて、セレネは浅く礼を取る。
月国式に身体が引かれる前に、太陽国式の形が視界に入る。
やりやすい。
悔しいほどに。
何度か繰り返すうちに、動きは安定していった。
灯皿に巻かれた薄布のおかげで、手元も先ほどより楽になった。
「よいでしょう」
ユリアンが安堵したように言った。
「この形で本番に臨めるかと」
書記が新しい動線を書き留めている。
セレネは灯皿を返し、ようやく肩の力を抜いた。
自分では平気なつもりだった。
けれど、指先が少し強張っている。
婚礼から日が浅い。
知らない場所、知らない礼、知らない視線。
それらの中で、思っていた以上に身体は緊張していたのかもしれない。
「休憩を」
アレクシスが言った。
「まだ確認が」
「休憩を」
今度は、有無を言わせない声だった。
神官たちはすぐに頷き、稽古は一時中断された。
セレネは控えの椅子へ案内される。
侍女が水を持ってくる。
杯を受け取ろうとした時、自分の指先がわずかに震えていることに気づいた。
灯皿の重さのせいか、緊張のせいか、睡眠不足のせいか。
おそらく、すべてだ。
アレクシスは隣ではなく、少し離れた位置に立っていた。
近すぎず、遠すぎず。
人前で王太子妃を放置しているようには見えない距離。
けれど、私的な親しさを疑われるほどではない距離。
この人は、距離の取り方まで正確だ。
セレネは杯に口をつけた。
「王太子妃」
アレクシスが声をかける。
「はい」
「この後の確認は、午後に回します。午前の分は十分です」
「和合祭は明日です」
まだ確認すべきことはある。
そう告げれば、
「だからこそ、今日倒れられると困ります」
言い方は冷静だった。
しかし、その内容は気遣いだった。
セレネは杯を置く。
「私は倒れるほど弱くありません」
「弱いとは言っていません。強い人間でも、休まなければ倒れます」
セレネは返答に詰まった。
正しい。
また正しい。
アレクシスは、どうしてこうも反論しづらい言い方をするのだろう。
「殿下は、私を休ませたいのですか。それとも、王太子妃が本番で倒れることを避けたいのですか」
言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。
だが、もう言葉は戻せない。
アレクシスはすぐには答えなかった。
金の瞳が、静かにセレネを見る。
「両方では、いけませんか」
セレネは息を止めた。
両方。
その言葉は、契約の内にも外にも置ける。
王太子妃を休ませることは公の利益だ。
だが、セレネ自身を気にかけることは、契約にはない。
どちらなのか。
問い詰めることはできない。
今の二人には、まだその権利がない。
「……いけないことは、ありません」
セレネはそう答えるのが精一杯だった。
アレクシスは一度だけ頷いた。
「では、午後に回します」
そのまま神官たちへ指示を出す。
稽古は午前で一度打ち切られた。
セレネは、椅子に座ったまま、彼の背を見ていた。
公の場では、彼は完璧な王太子だった。
必要な時だけ手を差し出し、必要な時だけ隣に立ち、必要な時だけ守る。
そのすべては、理想の夫婦を演じるための契約の範囲内に見える。
だが、転びかけた時に呼ばれた名。
灯皿の重さに気づいた目。
休めと言った声。
両方ではいけないかと返した言葉。
それらは、契約の中に入るのだろうか。
セレネには、まだわからなかった。
※
稽古の後、セレネは王太子妃の控室で昼食を取ることになった。
大聖堂に隣接する小部屋で、壁には和合祭のための古い織物が掛けられている。太陽の円環と、月の弓が並び、その下に双つ月が刺繍されていた。
月国から持ち込まれたものではない。
古くから残る和合祭用の織物だと、侍女が教えてくれた。
セレネはそれを見つめた。
古い時代の太陽国は、今よりも月を丁寧に描いていたのかもしれない。
あるいは、神話婚が必要だった時代ほど、月国への敬意を形に残す必要があったのかもしれない。
時が経つにつれて、必要だった敬意は習慣になり、習慣は簡略化され、簡略化されたものだけが正統として残った。
それは月国でも同じなのだろう。
月国の神話では、太陽神リザーブは時に強すぎる光として語られる。
月を傷つけず、照らしすぎず、遠くから見守るべき神として。
それもまた、月国に都合よく整えられた太陽神の姿なのかもしれない。
神話とは、国の鏡だ。
そこに映る神は、いつも少しだけ人に似ている。
食事は軽いものだった。
白いパン、香草を少しだけ使ったスープ、果実。
女官長の配慮だろうか。昼餐の席よりもずっと食べやすい。
「王太子殿下より、午後の稽古は一刻後にとのご指示です」
侍女が言った。
「一刻後?」
思っていたより遅い。
「はい。それまではお休みになるように、と」
セレネは匙を持つ手を止めた。
「殿下が、そう?」
「はい」
侍女は少しだけ微笑んだ。
「王太子殿下は、あまりそのようなことを細かく仰る方ではないのですが」
その言葉に、セレネは返答に困った。
あまり細かく言う方ではない。
なら、なぜ自分には。
いや、理由はある。
明日の和合祭で、王太子妃に失敗されては困るからだ。
それ以外の意味を見ようとするのは、早すぎる。
セレネは自分にそう言い聞かせた。
「では、殿下のご指示に従います」
「はい。寝台のご用意をいたします」
「寝台までは結構です。少し、椅子で休むだけで」
侍女たちは顔を見合わせた。
「ですが」
「本当に眠ってしまうと、起きた時に身体が重くなります。短く休めば十分です」
そう言ったものの、実際には寝台で眠るのが少し怖かった。
ここで深く眠ってしまえば、月国の夢を見るかもしれない。
目覚めた時に、ここが太陽国だと思い出す一瞬が、朝よりも重くなるかもしれない。
侍女はそれ以上強くは勧めず、椅子の近くに薄い掛け布を用意した。
セレネは窓際の椅子に座り、目を閉じる。
大聖堂の奥から、神官たちが聖句を確認する声がかすかに聞こえる。
太陽神リザーブ。
月神ティア。
昼と夜。
光と影。
和合。
何度も聞いた言葉なのに、今はどれも自分の身体の上に置かれているようだった。
いつの間にか、意識が浅く沈んだ。
夢と呼ぶほどのものではない。
幼い日の月国の宮廷。
白い手袋。
大人たちの声。
この方が将来お前の夫となり、太陽国の王になられる方です。
顔はぼやけている。
テオドロスの顔は、もう思い出せない。
代わりに、金の瞳がこちらを見た。
セレネ。
大聖堂で呼ばれた声が、夢の中でもう一度響く。
セレネは、はっと目を開けた。
窓からの光は、少し傾いていた。
思ったより眠っていたらしい。
膝には掛け布がかけられている。侍女がかけてくれたのだろう。
ただ、机の上に一枚の紙が増えていた。
セレネは身を起こし、それを手に取る。
短い伝言だった。
午後の稽古では、月の灯の動線を再確認する。
無理に月国式を消す必要はない。
太陽国式の中で、誤りにならない形を探す。
署名はない。
だが、筆跡はアレクシスのものだろう。
端正で、迷いの少ない字だった。
無理に月国式を消す必要はない。
その一文を、セレネはしばらく見つめていた。
これは、王太子としての指示だ。
和合祭を成功させるための、実務的な判断。
そう考えることはできる。
できるのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
セレネは紙を丁寧に畳んだ。
捨てる理由はなかった。
書類として保管するほどのものでもない。
けれど、今はまだ、手元に置いておきたかった。
※
午後の稽古では、動線がさらに整えられた。
太陽国式の枠組みは変えない。
だが、月の灯を捧げる際、セレネが完全にアレクシスの後方へ下がるのではなく、半歩だけ横に並ぶ形へ調整された。
古式では、太陽と月が互いを確認する動作があったとユリアンが説明したため、神官たちも反対しなかった。
アレクシスは太陽の灯を置いた後、ほんのわずかに肩を開く。
その動きに合わせて、セレネは月の灯を置く。
礼は浅く、しかし両手は月国式に近い形で灯を守る。
太陽国式として誤りではない。
月国式を完全に捨ててもいない。
何度か繰り返すうちに、セレネの身体の中で二つの礼が少しずつ重なっていった。
「よいと思います」
ユリアンが言った。
「本番はこの形で参りましょう」
神官たちも頷く。
女官長も安堵したように息を吐いた。
セレネは灯皿を置き、アレクシスへ向き直る。
「殿下」
「何ですか」
「ありがとうございました」
「私は何も」
「伝言をくださいましたよね?」
アレクシスの表情が、ほんの少しだけ変わった。
どうやら、あの紙のことをセレネが口にするとは思っていなかったらしい。
「実務上の判断です」
「はい」
セレネは頷いた。
「それでも、助かりました」
アレクシスは黙る。
大聖堂の光が、二人の間に落ちていた。
婚礼の日には、その光の中で手を重ねた。
今日も、明日も、おそらく何度もそうすることになる。
公の場で理想の夫婦を演じるために。
けれど、今この瞬間、セレネは少しだけ思った。
演じるだけの夫婦なら、相手の身体に染みついた礼まで見ようとするだろうか。
月国式を消さずに済む形を、わざわざ探すだろうか。
答えは、まだ出ない。
アレクシスが、静かに手を差し出した。
「最後に、退場まで確認します」
稽古のための手だった。
王太子が王太子妃を導く、公の手。
セレネは、その手を見た。
今朝、腕を支えた手。
灯皿の重さに気づいた手。
契約の中にあるようで、少しだけ外側に触れている手。
セレネは、ゆっくりと自分の手を重ねた。
「はい、殿下」
手袋越しに、体温はほとんど伝わらない。
それでも、確かに支えられている感覚だけはあった。
二人は祭壇の前から、並んで歩き出す。
高い窓から差し込む光の中を、太陽の王太子と月の王女として。
明日の和合祭では、誰もがこの姿を見るだろう。
理想の夫婦。
神話どおりの二人。
太陽国と月国の和合。
そのすべてが、演技であることをセレネは知っている。
けれど、演技のために差し出された手の温度を、心が勝手に覚えてしまうことまでは、契約に書かれていなかった。
▼おまけ
この世界における神話は
https://ncode.syosetu.com/n0189mi/13
こちらで見れますが、
『太陽神リザーブと月神ティアが、世界を昼と夜に分けた。
昼を司るリザーブは銀の双剣でもって魔性を切り捨て、守護の証として太陽を空に浮かべた。
夜を司るティアは、二神の子である双つ月、兄月エティス、妹月リエスと無数の星を空に散らした。』
というのがベースです。
長い時間をかけて、作中で語られる神話に形を変えていきました。
どの国も「うちの神様すごいよ!その神様に王権を認められた!」というのが統治根拠なので、自国の神様贔屓の神話になりがちです。
もしお気に召されましたら、
ブックマークや★評価、誤字脱字報告頂けると大変励みになります!
ここまで読んでくださったあなたに、心より御礼申し上げます。




