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第3話 月の姫は太陽の礼を学ぶ

 朝は、太陽国の名にふさわしく、容赦なく明るかった。


 目を覚ましたセレネは、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。

 見慣れた月国の青い天蓋ではない。白い布地に、金糸で太陽の円環が刺繍されている。高い窓から落ちる光は、水面を渡る月国の光よりも、ずっとまっすぐで眩しかった。


 太陽国の王宮。

 王太子妃の私室。


 そう思い出して、セレネはゆっくりと身を起こした。


 机の上には、昨夜読み続けた和合祭の資料が置かれている。

 聖句を書き写した紙が几帳面に重ねられ、指先にはまだ、かすかな墨の跡が残っていた。

 婚礼の翌朝の花嫁にしては、あまり優雅とは言えない痕だった。


 扉が叩かれる。

「王太子妃殿下、お目覚めでいらっしゃいますか」

「ええ。入ってください」

 侍女たちが静かに入ってきた。

 盆には朝の水、香油、衣装、そして太陽神への祈りに使う銀十字が置かれている。


「本日は、朝の礼拝の後、王妃陛下へのご挨拶がございます。その後、昼餐、和合祭のための神官の説明、女官長より宮廷内の慣例についてお話が」

「わかりました」

 婚礼の翌朝にしては、容赦のない予定だと思った。

 だが、セレネは月国から来た王女であると同時に、太陽国の王太子妃なのだ。

 休息より先に、形を整える必要がある。


「和合祭の資料ですが」

 セレネが言うと、侍女の一人が顔を上げた。

「昨夜いただいたもののほかに、過去の儀礼記録はありますか。できれば、他国から妃を迎えた際の記録も確認したいのですが」


 侍女たちが一瞬だけ顔を見合わせた。

 新しい王太子妃が、寝起きの最初に過去の儀礼記録を求めるのは、普通ではないのかもしれない。

 けれど、必要だった。

「難しければ、閲覧の許可が必要なものと、すぐに確認できるものを分けていただければ構いません」

「……女官長に確認いたします」

「お願いします」


 支度が始まる。

 鏡の中のセレネは、昨日より簡略な装いをしていた。白と淡金の宮廷服に、月国から持ち込まれた銀の飾り。

 金と銀。

 太陽と月。

 どこまでも、象徴がつきまとう。


「王太子妃殿下は、昨夜あまりお休みになられなかったと伺っております」

 侍女が首元の留め具を整えながら言った。

「少し、和合祭の資料を読んでいました」

「婚礼の後でございますのに」

「三日後に間違えるよりは良いでしょう」

 侍女は曖昧に微笑んだ。

「王太子妃殿下は、ご熱心でいらっしゃいます」

 熱心。

 そう表現されるのだと思った。


 月国では、それは当然の備えだった。

 王女が神前で誤ることは、自分一人の恥ではない。国の礼を疑われることになる。

 だがここでは、セレネはまだ「月国から来た姫」なのだろう。


「熱心なのではありません」

 セレネは鏡越しに微笑んだ。

「まだ知らないことが多いだけです」

 侍女は少しだけ目を伏せた。

 距離のある丁寧さの中に、ほんの僅か、感情の揺れが見えた気がした。


 ※


 朝の礼拝は、太陽国の小礼拝堂で行われた。


 大聖堂ほど広くはない。

 だが、白い壁と金の祭壇、東向きの大窓から差し込む朝日が、室内をまっすぐ照らしている。

 月国の礼拝堂が暗さの中に灯を置く場所なら、太陽国の礼拝堂は、光を神の視線として人の上に置く場所だった。


 祭壇の前には、アレクシスがいた。

「おはようございます、王太子妃」

「おはようございます、王太子殿下」

 やはり、名前ではない。

 だが、公の場ではそれで正しい。


 神官が朝の聖句を唱え始めた。

 セレネは昨夜読んだ順を思い出す。


 第一節で頭を下げる。

 第二節の後に銀十字へ触れる。

 第三節で右手を胸元へ。

 月国式なら、ここで左手を添える。だが太陽国式では添えない。


 間違えないように。

 しかし、不自然に見えないように。


 神官の視線が、一瞬こちらへ向いた。

 月国の姫が、太陽国の礼をどこまで覚えているのか。

 それを測っている。


 構わない。それは王族の務めの一つだ。


 最後の礼を取る。

 セレネは一度も手順を誤らなかった。


 小礼拝堂に、短い沈黙が落ちた。


「王太子妃殿下」

 神官が静かに言う。

「昨夜のうちに、お覚えになられたのですか」

「資料をいただきましたので」

「太陽国式の朝の礼拝は、月国式とは細部が異なるはずですが」

「ええ。ですから、間違えぬよう確認いたしました」

 神官が感心したように眉を上げる。

 その前に、アレクシスが低く言った。

「王太子妃は、三日後の和合祭の資料も昨夜確認しています」


 神官がはっきりと驚いた顔をした。

「和合祭のものまで」

「必要であれば、過去の儀礼記録も見たいとお伝えしました」

 セレネが補うと、神官は姿勢を正した。

「手配いたしましょう。王太子妃殿下がそこまでお心を砕いてくださるのであれば、我々も十分にお支えせねばなりません」

「ありがとうございます」


 小礼拝堂を出ると、廊下にはすでに人の気配があった。

 侍女、近習、文官、神官。彼らは王太子夫妻を見るたび、深く頭を垂れる。

 セレネはその一人一人に、太陽国式の軽い礼を返した。


 月国の姫が、太陽国の礼をしている。

 その確認と、値踏みと、少しの驚き。


「無理をする必要はありません」

 隣で、アレクシスが言った。

「無理?」

「すべてに応じていれば、疲れるでしょう」

「疲れます」

 セレネは正直に答えた。

 アレクシスが、わずかにこちらを見る。

「ですが、今日疲れることと、明日以降に侮られることを比べれば、今日疲れる方がましです」

 アレクシスは黙った。

 その沈黙を、セレネは失言とは受け取らなかった。

 たぶん、彼は測り直しているのだ。

 この月国の王女が、どこまで理解してここにいるのかを。


「私が間違えれば、笑われるのは私一人ではありません」

 セレネは前を向いたまま言った。

「月国も、私を妃に迎えた太陽国も、貴方の判断も、すべて一緒に笑われます」

「私の判断?」

「はい。貴方は私を王太子妃として迎えた方ですから」

 実際には、彼個人が選んだ婚姻ではない。

 それはセレネもわかっている。

 だが、今この婚姻の表に立つのはアレクシスだ。

「貴方の名を汚さぬよう努めると、昨夜申し上げました」

 アレクシスの歩みが、ほんの少しだけ遅れた。

「……覚えています」

「でしたら、その通りにするだけです」

 しばらくして、アレクシスは静かに言った。

「律儀ですね」

「器用で、律儀。今のところ、私の評価は悪くなさそうですね」


 口に出してから、少しだけ後悔した。

 皮肉に聞こえただろうか。

 だが、アレクシスは怒らなかった。

 むしろ、ごくわずかに息を吐いたようだった。


「悪くはありません」

 彼なりの冗談なのか、本当に評価を述べただけなのか、セレネには判断がつかなかった。


 ※


 王妃陛下への挨拶は、穏やかに始まった。


 太陽国の王妃は、柔らかな物腰の女性だった。

 髪には金の色が薄く混じり、瞳は茶に近い。

 太陽国の貴族の家から輿入れしたと聞いているが、その佇まいは、長年王宮の中心にいた者のものだった。


「よく来てくださいました、セレネ」

 王妃は、初めて彼女を名で呼んだ太陽国の人だった。

 そのことに、セレネは少しだけ胸を突かれる。

「お迎えいただき、光栄に存じます、王妃陛下」

「堅くならずともよいのですよ。と言っても、今日すぐには難しいでしょうね」

 王妃は小さく笑った。

 その笑みには、無理に距離を詰めようとする押しつけがなかった。

「昨日は長い一日だったでしょう」

「はい。ですが、皆様に丁重にお迎えいただきました」

「それはよかった」

 王妃は頷き、セレネの手首に視線を落とした。

 太陽神の銀十字。


「重くはありませんか」

 飾りの重さを問われているのではない。

 セレネは一拍置いて答えた。

「まだ、慣れません。けれど、慣れるよう努めます」

「そう」

 王妃は責めなかった。

 ただ、少しだけ寂しそうに微笑む。

「私も、ここへ嫁いだ時はそうでした。古い家門から嫁いだ私でさえ、王宮は別の世界でした。まして、あなたは月国からいらしたのですもの。慣れぬものがあって当然です」

 その言葉は、今日初めてセレネに向けられた、役目ではない労わりだった。


 不意に、胸の奥が緩みそうになる。

 セレネはそれを押さえ、静かに頭を下げた。

「お気遣い、痛み入ります」

「ただし」

 王妃の声が、少しだけ低くなる。

「この宮廷には、あなたが慣れるのを待たない者もいます」

 セレネは顔を上げた。

「承知しております」

「ええ。昨夜、あなたが侯爵へ返した言葉は聞きました。月神の祈りを捨てず、太陽神への敬意も欠かさなかった。よい返答でした」

「ありがとうございます」

「けれど、今後はあれよりも鋭い言葉が来るでしょう」

 王妃は静かに言った。


「あなたは、月国の姫としてここに来ました。同時に、太陽国の王太子妃でもあります。どちらか一方だけを選べば、必ずもう一方から責められる」

「……はい」

「だから、簡単に選んではなりません」

 それは助言だった。

 そして警告でもあった。

「心に留めます」

「よろしい」


 王妃は頷いた。

 それから、少しだけ視線を和らげる。

「アレクシスは、あなたに冷たく見えるでしょう」

 セレネは返答に迷った。


 冷たい。

 そう言ってしまえば、あまりにも正直すぎる。

 けれど、否定すれば嘘になる。


「……誠実な方だとは思います」

 王妃は、少し驚いたように瞬きした。

 それから、小さく笑う。

「そう答えますか」

「曖昧な期待を持たせない方です。ですから、誠実ではあるのだと思います」

「傷つかなかったわけではないでしょうに」

 柔らかな声だった。

 セレネは、手元で指を重ねる。

「それとこれは、別です」

「そうですね」

 王妃は静かに頷いた。

「あなたは、思っていたよりずっと強い方のようです」

 王妃は、窓の外へ視線を向けた。

「アレクシスは、本来あの場所に立つはずの子ではありませんでした」

 セレネは息を止める。

「陛下」

「わかっています。今、詳しく話すことではありません。ただ、これだけは覚えておいてください」


 王妃は、再びセレネを見た。

「あの子は、自分が得たものを、得たとは思っていません。奪ったと思っている」


 兄の席を。

 王太子の名を。

 神話婚の花嫁を。


 言葉にされなくても、セレネにはその意味がわかった。


「私は、奪われたとは思っておりません」

「ええ。あなたはそうおっしゃるでしょう」

 王妃の微笑には、痛みがあった。

 息子を、喪っているのだから。

「けれど、それをあの子が受け取れるようになるには、少し時間がかかると思います」

 セレネは、すぐには答えられなかった。

 自分が受け入れているからといって、相手の罪悪感が消えるわけではない。

 それは、当然のことだった。

「王妃陛下」

「何でしょう」

「私は、アレクシス殿下の痛みを癒やすために嫁いだわけではありません」

 王妃の目が、静かにセレネを見る。

「ですが、王太子妃として隣に立つ以上、殿下が何に傷ついているのかを知らずにいるつもりもありません」

 それが今のセレネに言える、ぎりぎりの誠実さだった。


 王妃はしばらく黙っていた。

 やがて、深く息を吐く。

「……本当に、月国はよい姫を送ってくださいましたね」

「そう思っていただけるよう、努めます」

「ええ。けれど、努めすぎないように」

 その言葉に、セレネは少しだけ目を瞬かせた。

「昨夜、和合祭の資料を読んでいたのでしょう。女官長が驚いていました」

「必要でしたので」

「必要なことと、今すぐすべきことは、時々違います」

 叱責ではなく、案じる言葉だった。

 セレネは、もう一度深く礼を取った。

「覚えておきます」


 ※


 和合祭の説明は、午後に行われた。


 場所は、王宮内の小会議室だった。

 長い机の上には儀礼書、過去の記録、配置図、献灯に用いる灯皿の模型まで並べられている。

 説明役は大神官補佐の若い神官で、名をユリアンといった。


 同席したのは、セレネ、アレクシス、女官長、神官二名、そして儀礼書記だった。


「和合祭は、太陽神リザーブと月神ティアの結びつきを祝う大祭です。王太子殿下と王太子妃殿下には、祭壇前で両神の灯を合わせていただきます」

 ユリアンは配置図を示した。

「まず王太子殿下が太陽の灯を取り、第一聖句の後に祭壇中央へ。続いて王太子妃殿下が月の灯を取り、第二聖句の後に王太子殿下の左側へお進みください」

「左側ですか」

 セレネが確認すると、ユリアンは頷いた。

「はい。太陽国式では、月は太陽の左に控えます」


 控える。

 その言葉に、セレネは引っかかりを覚えた。

 だが表情には出さない。


 説明は続いた。

 聖句、献灯、礼、神官の祝詞、民への披露、諸侯への挨拶。

 セレネは必要な箇所で質問した。

 聖句の後の間はどれほどか。

 灯皿は右手で持つのか、両手か。

 月国使節へ礼を返す場面はどこか。

 王太子妃が単独で言葉を述べる機会はあるか。


 ユリアンは最初こそ驚いていたが、次第に答え方が丁寧になっていった。


「王太子妃殿下は、月国式の和合祭をご存じなのですね」

「何度も参列しております。王族として必要でしたので」

「では、太陽国式との違いも」

「はい。いくつか気になりました」

「どの点でしょうか」

 セレネは手元の紙に目を落とした。

「太陽国式では太陽の灯が先に置かれ、月の灯が後から添えられます。月国式では、月の灯を先に置き、太陽の灯が後から重ねられます」

「月国では、月神を主に置くためですね」

「ええ。ですが、和合祭は本来、上下を定める祭儀ではないはずです」


 室内が静かになった。

 女官長が少し緊張したようにセレネを見る。

 ユリアンも、返答を選んでいるようだった。


「もちろん、太陽国式に異を唱えるつもりはありません。ただ、月国使節も参列します。太陽の灯に月の灯が従うだけに見えれば、月国側には不満が残るでしょう」

「では、王太子妃殿下はどのように」

「手順は太陽国式のままで構いません。ただ、祝詞の中に、月神が夜を守る一節を加えることは可能ですか」


 ユリアンは、はっとしたように儀礼書をめくった。

「古い式文には、確かにその一節があります。現在は省略されることが多いですが」

「省略される理由は」

「祭儀時間の短縮と、太陽国式の簡略化です」

「ならば、今回は加えていただけませんか。月国の使節には、月神の領分が尊重されたと伝わります。太陽国側にとっても、古式に則っただけですので、不自然ではありません」


 ユリアンは黙って考え込んだ。

 そこで、アレクシスが初めて口を開いた。

「可能か」

「……可能です。大神官猊下の許可は必要ですが、古式にある以上、問題にはなりにくいかと」

「では確認を」

「承知いたしました」


 ユリアンは深く頭を下げた。

 その態度は、説明役の神官が異国の王女に向けるものから、儀礼の意図を理解する王太子妃に向けるものへ、少しだけ変わっていた。


 説明が終わると、女官長と神官たちは資料をまとめ始めた。

 ユリアンは去り際、セレネに言った。


「王太子妃殿下。過去の儀礼記録ですが、古式の写しを含め、夕刻までにお届けいたします」

「ありがとうございます」

「こちらこそ。殿下のご指摘がなければ、月国使節への配慮を欠くところでした」

「配慮というより、和合祭ですから」

 セレネは静かに微笑んだ。

「どちらか一方だけが満足する祭儀では、名に反します」

 ユリアンは深く礼を取った。


 人々が部屋を出た後、室内にはセレネとアレクシスだけが残った。


「貴女は」

 アレクシスが言った。

「一度読んだだけで、そこまで考えたのですか」

「一度ではありません。昨夜、何度か読みました」

「そういう意味ではありません」

 アレクシスの金の瞳には、いつもの冷静さがあった。

 けれど今は、それだけではなかった。


 警戒。

 驚き。

 それから、わずかな感心。


「和合祭の手順に、違和感がありました」

「月国の姫として?」

「それもあります。ですが、太陽国の王太子妃としてもです」

 セレネは答える。

「月国使節が不満を持てば、祝宴の場で誰かがそれを利用します。太陽国側の貴族が、月国は細かいことに不服を言うと嘲るかもしれません。月国側も、太陽国は月神を軽んじると受け取るかもしれません。小さな省略でも、場が悪ければ火種になります」

「……そこまで見ていたのですか」

「見るように育てられました」

 セレネは一拍置いて続けた。

「私は月国の第二王女です。姉のように王位を継ぐ者ではありません。だからこそ、外へ出るための教育を受けました。他国へ嫁ぎ、月国の利を守り、嫁ぎ先の家を損なわず、その間で立つための教育です」

 アレクシスの表情が、ほんの少し変わった。

「殿下」

「何ですか」

「私は、太陽国の礼を学びます。けれど、月国の礼を知らない者として扱われるつもりはありません」


 声は穏やかだった。

 けれど、自分の中にある芯を、少しだけ見せる言葉だった。

「それで構いませんか」


 アレクシスはしばらく答えなかった。

 この問いは、ただの夫婦の会話ではない。

 太陽国の王太子と、月国から来た王太子妃の立ち位置を決める言葉でもある。


 やがて、アレクシスは言った。

「構いません」

 セレネは、ゆっくりと礼を取った。

「ありがとうございます」

「礼を言うことではありません」

 彼は視線を落とし、机の上の儀礼書を閉じた。

「月国の礼を失った貴女では、この婚姻の意味がない」

 その言葉に、セレネは息を止めた。


 思っていたより、ずっと正確な返答だった。

 彼は、セレネに月を捨てろとは言わなかった。

 少なくとも今は。


「そう言っていただけて、安心しました」

「安心?」

「はい。昨夜の契約には、そこまで明記されていませんでしたから」

 アレクシスは、少しだけ眉を動かした。

「必要でしたか」

「必要です。私は月を背負ったまま、太陽の隣に立つために来ました」

 言ってから、セレネは自分の言葉に少し驚いた。

 昨夜、心の中でだけ思ったことを、今、彼の前で口にしている。


 アレクシスもまた、その言葉を受け止めるように黙った。

「……貴女は」

 彼が言いかける。

 だが、そこで言葉を止めた。

「何でしょう」

「いえ」

 アレクシスは視線を逸らす。

「和合祭の古式については、私からも大神官へ話しておきます」

「お願いいたします」


 彼は頷き、書類を手に取った。

 会話は終わりだと示す所作だった。

 だが、扉へ向かう直前、足を止めた。


「王太子妃」

「はい」

「昨夜、あまり眠っていないのでは」

「必要な分は」

「それは必要な分とは言いません」

 淡々とした声だった。

 責めているというより、事実を訂正しているようだった。


 セレネは思わず小さく笑いそうになり、堪えた。

「では、今夜はもう少し眠るよう努めます」

「そうしてください」

 アレクシスは、そこでようやく部屋を出ていった。


 扉が閉まる。

 セレネはしばらく、その扉を見つめていた。


 冷たい人だ。

 事務的で、距離があり、夫婦としての情は求めないと言い切る人。


 けれど、彼はセレネが月を背負ったまま隣に立つことを否定しなかった。


 それだけのことだ。

 それだけのことなのに、人は時々、ほんの小さな言葉に心を動かしてしまう。


 セレネは目を伏せ、深く息を吐いた。


 和合祭まで、あと二日。


 太陽国の礼を学ぶことは、月国の礼を捨てることではない。

 そのことを、まずは自分自身が誰よりも信じていなければならなかった。

▼おまけ

セレネは現在18歳ですが(本文に出せてないなあ…)、

第一王子/元王太子テオドロスは存命なら24歳、

第二王子イリアスは23歳で、第三王子アレクシスが21歳くらい、という設定です。

本来ならセレネは16歳で嫁ぐはずだったのですが、

病弱気味だったテオドロスが急逝し、太陽国側が喪に服し、一旦凍結されました。

月国側も事情が事情ですので了承しています。

それから一年半ほどして立太子の儀もおわり、アレクシスが王太子となったことで、神話の再現は再び動き出したのです。


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