最終話 陽月婚姻譚
翌朝、王宮の空はよく晴れていた。
夜のうちに降った雨が、白い石畳に薄い光を残している。
太陽が昇るにつれ、雨粒はひとつずつ金に変わっていった。
セレネは、その光を窓辺から見下ろしていた。
昨夜、契約を結んだ部屋で、アレクシスは言った。
今から先は、契約の外です。
その言葉は、朝になっても消えなかった。
契約は残っている。
神話婚としての務めも、二国の同盟も、侯爵家の敵意も、月国側の不安も、何も消えていない。
けれど、昨夜ひとつだけ変わった。
二人はもう、契約の内側だけにいない。
扉が叩かれ、侍女が入ってきた。
「王太子妃殿下。王妃陛下より、朝食後に小広間へお越しいただきたいとのことです。王太子殿下もご一緒に、とのことです」
「わかりました」
侍女が下がると、セレネは左手首に触れた。
太陽国の銀十字。
その下には、月国の銀糸。
婚礼の翌朝から、この糸と共に越えてきた。
この糸は、セレネが月国を失わないためのものだった。
けれど今は、それだけではない。
月を失わず、太陽に背かず。
セレネとして、アレクシスの隣に立つ。
昨夜、白紙に書いた言葉を思い出す。
セレネは、侍女を呼んだ。
「この銀糸を、新しいものに替えてもらえますか」
侍女は少し驚いた顔をした。
「よろしいのですか」
「ええ。ほどくのではありません。結び直すだけです」
古い銀糸が丁寧にほどかれる。
手首から離れた瞬間、少しだけ寂しさがあった。
だが、その下にあった銀十字は変わらずそこにある。
新しい銀糸が結ばれる。
その上に、太陽国の銀十字が重なった。
月国から来た祈り。
太陽国で受けた証。
どちらも、今の自分のものだった。
※
王妃の小広間へ向かう途中、アレクシスが迎えに来た。
彼の目が、セレネの手首に留まる。
「糸を替えたのですね」
「はい。昨日で、ひとつ区切りがついたと思いましたので」
「古いものを捨てたのではないのですね」
「結び直しただけです」
アレクシスは静かに頷いた。
「よく似合っています」
「ありがとうございます」
以前なら、その言葉にどう返せばいいかわからなかったかもしれない。
今は素直に受け取れた。
アレクシスが手を差し出す。
セレネは、その手を取った。
公の場へ向かうための手。
だが、それだけではない手。
二人は並んで小広間へ向かった。
小広間には、国王と王妃が待っていた。
さらに、大神官と書記、そしてユリアンの姿もある。
これは単なる朝の呼び出しではない。
王妃は、机の上に置かれた薄い綴じ書を示した。
「神官会議と王家記録室で、ここしばらくの神話婚儀礼について、正式な記録名を定めることになりました」
大神官が説明を引き継ぐ。
「和合祭における古式復元、披露茶会の相互誓詞、双月礼拝。そして諸侯小会議で示された神話婚解釈。これらは個別の記録として残ります。ですが、後世の参照に備え、一連の神話婚儀礼としてまとめた呼称が必要です」
後世。
その言葉に、セレネの胸が鳴った。
自分たちが必死に乗り越えてきた日々が、もう記録になる。
侯爵家の罠も、二人で探した古式も、双つ月の夜に重ねた声も。
それらが、後の誰かに読まれるものになる。
王妃が、綴じ書を開いた。
「いくつか候補はありましたが、最終的にこの名を推すことになりました」
書記が、静かに読み上げる。
「陽月婚姻譚」
その言葉が、小広間に落ちた。
陽月婚姻譚。
太陽と月。
婚姻。
物語。
記録であり、物語でもある名。
「物語として残すのですね」
アレクシスが静かに言った。
大神官が頷く。
「単なる儀礼記録ではありません。今回の神話婚は、古式の再確認であり、同時に王太子夫妻が人として神話をどう担うかを示したものです。ゆえに、儀礼録ではなく婚姻譚とするのがふさわしいと判断しました」
神話を再演する人形ではない。
神話を、人の世で生きられる形にする。
諸侯小会議で口にした言葉が、記録名にまで反映されている。
王妃が二人を見る。
「どう思いますか」
アレクシスは一度、セレネを見た。
その視線に、どう思う、と問われた気がした。
セレネは、静かに頷く。
「私は、よい名だと思います」
「理由を聞いても?」
「神話婚は、両国のための儀礼です。けれど、私たちが向き合ったのは、儀礼だけではありませんでした。失われた約束や、二国の不安、私たちの意思でした」
声は自然に出た。
「それをただの儀礼録と呼ぶには、少し足りない気がします。婚姻譚という名なら、人が神話を背負って歩いたことも残せると思います」
王妃が満足そうに目を細める。
「アレクシスは?」
「私も、よい名だと思います」
短いが、はっきりした声だった。
「この婚姻は、神話の再演であると同時に、私たちが選んだものです。記録として正確であり、物語としても残る名ならば、ふさわしいと思います」
国王は静かに頷いた。
「では、その名で記録せよ」
書記が深く礼を取る。
「承知いたしました」
その瞬間、セレネは不思議な感覚を覚えた。
自分たちの婚姻が、ひとつの名を得た。
それは重荷でもあった。
だが、鎖ではなかった。
陽月婚姻譚。
それは、二人を神話に閉じ込める名ではない。
二人が神話を人の世へ引き寄せた証のように思えた。
王妃は綴じ書を閉じ、穏やかに言った。
「この名は、太陽国が月国を呑み込んだ記録ではありません。月国が太陽国を変えた記録でもありません。太陽と月の神話を、人の世で担おうとした婚姻の記録です」
セレネは、胸の奥でその言葉を受け止めた。
「王太子夫妻は、完全な神ではありません。だからこそ、神話をただ再演するのではなく、今の二国に必要な形で生きることを選びました」
王妃は二人を見る。
「その歩みは、まだ始まったばかりです」
始まったばかり。
本当に、その通りだった。
困難も不安も、明日から急になくなるわけではない。
王太子夫妻としての務めは続く。
神話婚として背負うものも、ますます重くなるだろう。
けれど、それでも。
セレネはもう、一人で立っているとは思わなかった。
国王が二人へ視線を向ける。
「この名を、どう受け止める」
アレクシスが先に答えた。
「重く受け止めます。陽月婚姻譚と記されたからといって、私たちがすでに完成した夫婦であるわけではありません。両国の不安がすべて消えたわけでもありません」
彼の声は静かだった。
「ですが私は、王太子として、そしてセレネの夫として、この婚姻を両国の和合のために生きることを誓います」
夫として。
その言葉に、セレネの胸が強く鳴った。
次に、セレネも口を開く。
「私は月国の王女として、太陽国の王太子妃となりました。月を失わず、太陽に背かず、二つの国の間に立つことを選びます」
一度、息を吸う。
「そして、アレクシス殿下の妻として、その隣を歩むことを選びます」
妻として。
口にした瞬間、頬が少し熱くなった。
だが、声は震えなかった。
王妃が静かに微笑む。
大神官は深く頷き、ユリアンはどこか誇らしそうに目を伏せた。
国王は、短く言った。
「よい」
それだけで十分だった。
※
小広間を出た後、セレネとアレクシスは少し離れた回廊へ歩いた。
王宮の中庭には、朝の光がまだ残っている。
人々はいつも通り行き交い、遠くで神官たちの声が聞こえる。
王宮は何も変わらない顔をしていた。
けれど、セレネの中では確かに何かが変わっていた。
「陽月婚姻譚」
セレネが呟く。
「少し、照れますね」
「私もです。自分たちの婚姻が、物語として記されるとは思っていませんでした」
「神話らしくなりました」
「人の話なのに?」
その言葉に、セレネは微笑んだ。
「人の歩みだから、物語になるのではありませんか」
アレクシスは、しばらく彼女を見ていた。
それから、静かに頷く。
「そうかもしれません」
二人は並んで中庭を見た。
完全な幸福ではない。
何もかもが解決したわけでもない。
けれど、静かな充足があった。
「アレクシス様」
「はい」
「この先、私たちは神話どおりの夫婦になれるでしょうか」
アレクシスは少し考えた。
「なれないと思います」
あまりにも率直な返答に、セレネは思わず笑いそうになった。
「そうですか」
「太陽神と月神そのものにはなれません。私は神ではないし、貴女も女神ではない」
「はい」
「ですが」
彼は、そっと手を差し出した。
「私たちは、私たちの夫婦にはなれると思います」
セレネは、その手を見た。
婚礼の夜、契約書を差し出した手。
和合祭で庇ってくれた手。
双月の夜に共に祈った手。
契約の外へ誘った手。
今、朝の回廊で、もう一度差し出されている。
セレネはその手を取った。
「では、それがいいです」
アレクシスの目が、柔らかく揺れた。
「私もです」
人々から少し見える場所だった。
だから、それは公の所作としても説明できる。
王太子夫妻が並んでいるだけだと。
けれど、二人は知っている。
この手は、演技のためだけではない。
アレクシスが空を見上げる。
「今夜も、双つ月が見えるでしょうか」
「雲がなければ」
「では、あとで見に行きますか」
セレネは彼を見た。
「正式儀礼としてではなく?」
「はい」
「神官の承認もなく?」
「必要でしょうか」
「いいえ」
セレネは小さく笑った。
「必要ありません」
以前、双月の夜には毎年祈ろうと彼は言った。
正式儀礼でなくても、二人で覚えていればいいと。
その約束が、もう自然に二人の間にある。
「では、今夜」
セレネは言った。
「二人で見ましょう」
「はい。二人で」
陽月婚姻譚。
後世の記録は、きっとこの婚姻をそう呼ぶのだろう。
契約から始まった婚姻。
神話を演じるための夫婦。
失われた約束の影を越え、太陽と月の名を背負い、それでも人として手を取った二人。
けれどセレネにとって、それはもっと静かで、もっと近いものだった。
アレクシスの隣に立つこと。
彼が差し出す手を、自分の意思で取ること。
月を失わず、太陽に背かず、同じ空の下を歩くこと。
それだけでよかった。
その夜、二人は約束どおり、双つ月を見上げた。
一つ目の月が光り、やがて雲の向こうから二つ目の月が姿を見せる。
双つ月は、同じ夜を照らす。
セレネは、アレクシスの手を握り返した。
神話どおりの夫婦ではない。
けれど、二人の物語は、ここから始まる。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。
陽月婚姻譚はここで一旦終わりますが、省かざるを得なかったエピソードがいっぱいあるので、どこかで、セレネとアレクシスの物語を出せたら良いなと思っています。
余韻を壊してしまう気がしますが、
最後のおまけです。
▼おまけ
前話で二人が書いた『名前』は、
二人が「アレクシス」「セレネ」になる前の『生まれた時につけられた名前』、つまり本名です。
太陽国の王太子アレクシス・ソンツェリアの本名は、
ブロニスラウ・ダニーロ・ソンツェリア
「太陽の国に生まれ、守護の栄光と神の裁きを負う王子」
月国の第二王女セレネ・ミーシャリアの本名は
ミロスラヴァ・ゾリアナ・ミーシャリア
「月の国に生まれ、平和の栄光と暁の星を宿す王女」
そのうち、二人っきりの時に
ダーニャ、ミラと愛称呼びする姿が見られるかもしれませんね。
さて、長々とお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら、幸いです。




