第17話 今から先は、契約の外
夜、セレネは婚礼の夜に通された部屋の前で足を止めた。
あの夜、この扉の向こうで、アレクシスは彼女に契約を差し出した。
公の場では神話どおりの夫婦を演じる。
私情は求めない。
互いの役目を果たし、両国のために不足なく振る舞う。
冷たい言葉だった。
けれど今ならわかる。
あの契約は、アレクシスがセレネを軽んじた証ではなかった。
彼が自分自身を閉じ込めるための檻だった。
テオドロスの影。
王太子位への負い目。
兄の妃になるはずだったセレネを迎えた罪悪感。
それらすべてから目を逸らすために、彼は契約という形を選んだ。
そしてセレネもまた、その契約を受け入れた。
傷つかなかったからではない。
月国の王女として、そうするしかなかったからだ。
扉の前に控えていた近習が、深く礼を取る。
「王太子妃殿下。王太子殿下がお待ちです」
「ありがとうございます」
扉が開かれる。
室内には、白金の燭台が灯っていた。
婚礼の夜と同じ場所。
同じ机。
同じ窓。
けれど、あの夜と同じではなかった。
アレクシスは机のそばに立っていた。
礼装ではなく、深い紺の静かな装いだった。
王太子の印も、今夜は最小限しか身につけていない。
彼はセレネを見ると、ゆっくりと礼を取った。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
そう答えてから、セレネは少しだけ微笑んだ。
「婚礼の夜のようですね」
「ええ。だからこそ、ここにしました」
机の上には、一通の書類が置かれていた。
婚礼の夜、セレネが最後の頁に署名した契約書だった。
端正な文字。
必要事項だけが並ぶ、花嫁への甘さのない書面。
王太子アレクシスの署名。
王太子妃セレネの署名。
あの夜、自分は確かにここへ名を書いた。
「破棄なさるのですか」
セレネが尋ねると、アレクシスは首を横に振った。
「いいえ。この契約が、すべて誤りだったとは思いません」
「はい」
「私たちは王族です。公の場で互いを軽んじないこと。太陽国と月国のために務めること。神話婚に泥を塗らないこと。それらは今も必要です」
「私も、そう思います」
セレネは契約書へ目を落とした。
「この書面があったから、私は婚礼の夜に崩れずに済みました。冷たいと思いましたが、何を求められているかは明確でした」
アレクシスの表情が痛む。
「冷たかったでしょう」
「はい」
セレネは正直に答えた。
「ですが、曖昧な優しさで期待だけを与えられるよりは、誠実でした」
「セレネは、今でもそう言ってくださるのですね」
「今だからこそ、そう言えます」
あの夜は、そう思おうとした。
今は、そうだったのだと理解できる。
ただ、それだけではもう足りない。
セレネは、机の向こうのアレクシスを見た。
「この契約は、必要でした。けれど、足りませんでした」
アレクシスは黙って頷く。
「ええ。足りませんでした」
燭台の火が揺れる。
アレクシスは、契約書の上にもう一枚の白紙を置いた。
「新しい契約書を用意しようとも思いました」
「新しい契約」
「はい。今後は互いに隠し事をしない。必要な情報は共有する。王太子夫妻として、儀礼や政治の判断を共に行う。そういった条項を」
「アレクシス様らしいですね」
セレネが言うと、アレクシスは少しだけ苦笑した。
「私も、そう思いました。ですが、書こうとして気づいたのです。私が本当に言いたいことは、契約の形にはできない」
セレネの胸が、静かに鳴った。
アレクシスは白紙に触れた。
「セレネを尊重すること。セレネの祖国を軽んじないこと。セレネが傷ついた時に、それを見ないふりをしないこと。私が逃げそうになった時、逃げていると認めること。それらは書けます。ですが、なぜそうしたいのかは、条項にはできない」
「なぜ、そうしたいのですか」
セレネは、静かに尋ねた。
アレクシスの指が、白紙の上で止まる。
彼は顔を上げた。
金の瞳が、燭台の光を映している。
太陽神の面影と呼ばれた瞳。
けれど今、セレネの前にあるのは神の光ではなく、人の目だった。
「貴女を。セレネを、大切に思っているからです」
声は硬かった。
けれど、逃げていなかった。
「妃としてだけではありません。月国の王女としてだけでもない。神話婚の相手としてでも、兄上の妃になるはずだった人としてでもない」
アレクシスは、一度だけ息を吸った。
「セレネ。私は、貴女自身を大切に思っています」
セレネは、すぐには言葉を返せなかった。
甘い言葉ではない。
華やかな告白でもない。
けれど、彼らしい言葉だった。
慎重で、誠実で、少し不器用で。
それでも、逃げずに差し出された言葉。
「アレクシス様」
「はい」
「私は、怖いです」
アレクシスの目が、わずかに揺れる。
「アレクシス様の言葉が嬉しいのに、怖いのです。私は月国から来ました。太陽国の王宮で、まだ知らないことも多い。これからも、私たちはきっと何度も政治に巻き込まれます。神話婚として見られ、両国から測られ、時には利用されます」
「はい」
「その中で、私情を持つことは弱さにもなります」
「そうですね」
「けれど」
セレネは、左手首に触れた。
太陽国の銀十字。
その下の、月国の銀糸。
「私も、あなたを。アレクシス様を大切に思っています」
アレクシスの瞳が、はっきりと揺れた。
「もちろん、婚礼の夜には冷たい人だと思いました」
「……当然です」
「けれど今は、違います」
セレネは、静かに続けた。
「和合祭で、あなたは私と月国を庇ってくださいました。双月の夜には、私と一緒に祈りを作ってくださいました。テオドロス殿下の影に苦しみながら、それでも逃げないよう努めてくださいました」
言葉にするたび、ここまで歩いてきた道が胸に戻ってくる。
「私は、アレクシス様が神でなくてよかったと思いました。神ではなく、人として迷いながら選んでくださるから、隣に立ちたいと思いました」
アレクシスは、何かを堪えるように唇を結んだ。
「だから私も、契約だけであなたの隣に立つのは、もう嫌です」
燭台の火が揺れた。
あの夜の自分が聞けば、驚いただろう。
理想の夫婦を演じましょうと微笑んだ自分が。
恋を望んでいないと思っていた自分が。
けれど、今は違う。
国も、儀礼も、過去も、影も消えない。
そのすべてを知った上で、それでも手を取ることだ。
アレクシスは、ゆっくりと机を回り込んだ。
セレネの前で足を止める。
近い。
けれど、触れるにはまだ一歩ある。
彼は、その一歩を勝手には詰めなかった。
「セレネ」
「はい」
「この婚姻は、これからも両国のためのものです。私たちは、これからも神話婚の夫婦として振る舞わなければならない」
「はい」
「ですが」
彼は、右手を差し出した。
婚礼の夜、契約書を差し出した手。
祝宴で彼女を導いた手。
露台で共に祈った手。
そして今、誰も見ていない部屋で差し出される手。
「今から先は、契約の外です」
セレネの胸に、その言葉が落ちた。
短い言葉。
けれど、これまでのすべてがそこにあった。
和合祭の夜には、まだ早かった。
彼も彼女も、兄の影から逃れられていなかった。
契約を越えたい気持ちがあっても、その意味を受け止めきれなかった。
けれど今は違う。
テオドロスの名を呼んだ。
失われた約束ではないと言った。
兄の影へ返さないと言った。
自分の意思でここに立っていると認めた。
だから、この言葉はようやく二人のものになった。
セレネは、差し出された手を見る。
「契約の外は、少し怖いですね」
「はい。私も怖いです」
「では、怖いまま行くのですか」
「貴女がよろしければ」
その答えがあまりにも彼らしくて、セレネは少しだけ笑った。
「よろしければ、なのですね」
「セレネの意思を聞かずに進むつもりはありません」
「では、私の意思を申し上げます」
セレネは、彼の手に自分の手を重ねた。
手袋越しではない。
肌と肌が触れる。
温かい。
「私も、契約の外へ行きたいです」
アレクシスの指が、そっとセレネの手を包む。
「ありがとうございます」
「礼を言うところですか」
「わかりません。ですが、言いたかった」
セレネは胸がいっぱいになるのを感じた。
この人は本当に不器用だ。
けれど、その不器用さごと、今は愛しいと思う。
「アレクシス様」
「はい」
「私は、あなたの隣へ行きます。公のためだけではなく、私の意思で」
彼の目が静かに揺れる。
「私も、貴女の隣へ行きます。兄上の影から逃げるためではなく、王太子の務めだけでもなく、私の意思で」
二人の間に、沈黙が落ちた。
あの夜の沈黙は冷たかった。
今の沈黙は、言葉が尽きたからではない。
言葉だけでは足りなくなったからだ。
アレクシスが、ほんの少し身を屈める。
それでも、最後の距離は残した。
「触れても?」
低い声だった。
セレネは、小さく頷いた。
「はい」
彼の指が、セレネの手から腕へ、そして肩の近くへ移る。
壊れ物に触れるようではない。
けれど、確かめるように慎重だった。
セレネもまた、彼の袖に触れた。
アレクシスの唇が、セレネの額に触れた。
口づけというには、あまりに静かで。
それでも、祈りより近い。
セレネは目を閉じた。
太陽国の王宮。
婚礼の夜に契約を交わした部屋。
燭台の光。
机の上の契約書。
白紙のまま置かれた新しい紙。
どれも消えない。
消す必要はない。
契約は、二人の始まりだった。
けれど、終着ではなかった。
アレクシスが顔を離す。
セレネは目を開けた。
彼の金の瞳が近い。
昼の太陽のように眩しいわけではない。
夜の灯のように、静かに揺れている。
「セレネ」
「はい」
「もう一度、名を呼んでも?」
セレネは思わず微笑んだ。
「もう呼んでいます」
「そうでした」
彼は、ほんの少し困ったように笑った。
「では、何度でも」
そう言って、彼はもう一度呼んだ。
「セレネ」
「はい、アレクシス様」
名を返す。
それだけで、胸の奥にあった長い緊張がほどけていく。
机の上の契約書は、まだそこにある。
破られもしない。
燃やされもしない。
書き換えられもしない。
けれど、その横の白紙に、アレクシスが筆を取った。
「何を書かれるのですか」
「条項ではありません」
彼は短くそう答え、少し考えてから一文を書いた。
双つ月の夜、互いの意思をもって、同じ空の下に立つことを選ぶ。
ブロニスラウ・ダニーロ・ソンツェリア
セレネはその初めて見る名前を見つめた。
「契約ではないのですね。これは、改名前の……アレクシス様の本名ですか?」
「はい」
「では、これは?」
「覚え書きでしょうか」
「アレクシス様らしいです」
彼は満足したように頷いた。
セレネは筆を受け取り、その下に書き添えた。
月を失わず、太陽に背かず、セレネとしてアレクシスの隣に立つ。
ミロスラヴァ・ゾリアナ・ミーシャリア=ソンツェリア
それはセレネの本名だ。セレネが『セレネ』になる前の。
それに気付いたアレクシスは、その文を静かに読んだ。
そして、さらに一文を加える。
太陽の名で月を焼かず、アレクシスとしてセレネの隣に立つ。
誓詞でもない。
契約でもない。
公的な記録にも残らない。
けれど、二人にとっては十分だった。
「これは、どこに置きますか」
「契約書と一緒に保管します」
「契約の外なのに?」
「始まりを忘れないために」
セレネは、その答えに頷いた。
アレクシスは契約書と白紙を重ねず、並べて置いた。
契約と、その外。
どちらか一方を捨てるのではない。
どちらも、二人が歩いてきた証として置いておく。
窓の外で、夜が深くなっていた。
雲の隙間から、双つ月の一つが見え始めている。
セレネは、アレクシスと並んで窓辺へ歩いた。
彼は自然に手を差し出し、彼女も自然にその手を取った。
演じるためではない。
誰かに見せるためでもない。
ただ、そうしたいと思ったから。
窓の外の月は、まだ片方だけだった。
もう一つは雲に隠れている。
けれど、見えないだけでそこにある。
神話どおりの夫婦になれなくてもいい。
太陽神と月神そのものにはなれない。
失われた約束も、アレクシスの罪悪感も、自分の痛みも、すべてがなかったことにはならない。
それでも、自分の意思で隣に立つと決めたなら、そこから先は、誰のものでもない二人の物語になる。
セレネは、アレクシスの手を握り返した。
「アレクシス様」
「はい」
「明日からも、きっと大変ですね」
「ええ」
「侯爵家も、完全には退かないでしょう」
「そうですね」
「月国からも、また何か言われるかもしれません」
「あり得ます」
「それでも」
セレネは月を見上げた。
「今夜は、少しだけ嬉しいです」
アレクシスは、隣で静かに頷いた。
「私もです」
短い言葉。
けれど、十分だった。
窓の向こうで、雲がゆっくりと流れる。
隠れていたもう一つの月が、淡く姿を現した。
双つ月は、同じ夜を照らしていた。
短編で好きな場面でした。
次話が最終話です。
よろしければ、二人の物語をぜひ見届けてあげてください。




