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第16話 失われた約束ではなく

 諸侯小会議の後、王宮の空気は一度だけ静まった。

 王が裁定を下した以上、侯爵家も表立って王太子夫妻の越権を責めることはできない。

 和合祭も、披露茶会の誓詞も、双月礼拝も、王家と神官の承認を得たものとして記録された。

 けれど、静けさは終わりではない。


 儀礼を問えないなら、感情を問う。

 制度を問えないなら、過去を問う。

 そして太陽国の王宮には、アレクシスとセレネの間に置くには重すぎる過去があった。


 先の王太子テオドロス。


 その名が再び二人の前に置かれたのは、諸侯小会議から二日後の午後だった。

 テオドロスの命日に先立ち、王宮奥の小礼拝堂で内々の追悼祈祷が行われる。

 例年は王家と近しい者だけで行われるが、今年は神話婚を終えた王太子妃にも参列してほしい。

 その申し入れは、礼としては自然だった。


 セレネは本来、テオドロスの妃になる予定だった王女だ。

 今はアレクシスの妃であっても、亡き王太子へ弔意を示すことは礼にかなっている。

 ただ、その確認を届けたのは、ズラート侯爵家だった。

 老侯爵本人ではない。

 縁者のミロンを通じて、追悼祈祷への参列確認が届いていた。


 セレネは、アレクシスの執務室でその書面を読んだ。

「断る理由はありませんね」

 アレクシスはすぐには答えなかった。

 書面に目を落としたまま、指先だけが止まっている。

「アレクシス様」

 呼ぶと、彼はようやく顔を上げた。

「この件について、私は冷静ではありません」

 以前の彼なら、そうは言わなかっただろう。

 問題ありません。

 王太子として対処します。

 そう言って、自分の内側を閉じたはずだ。


 けれど今、彼は閉じなかった。

「侯爵家がわざわざ確認してきたということは、そこに意味を作るつもりでしょう」

「私がテオドロス殿下の妃になるはずだったことを、改めて見せるためですね」

 アレクシスの表情が、わずかに強張った。

「そして、アレクシス様に思い出させるためでもある。あなたはテオドロス兄上の席だけでなく、その婚姻も継いだのだと」

「……ええ」

 低い声だった。


 テオドロス。

 これまで、二人の間ではほとんど名で呼ばれなかった人。

 先の王太子。

 亡き兄。

 本来の婚姻相手。

 だが、命日の祈りの前で、その名を避け続けることはできない。


「わかっていて、参列しますか」

「参列します」

 セレネは迷わなかった。

「逃げれば、テオドロス殿下への弔意を欠いたと言われます。参列しても利用されるでしょう。ならば、参列して、こちらの意味を示す方がよい」

 アレクシスは、長く彼女を見つめた。

「貴女は強い人です」

「強いからといって、傷つかないわけではありません」

「はい」

 彼は静かに頷いた。

「私も、そうでした」

 その言葉だけで十分だった。

 王太子として強く立つことと、兄の影に傷つかないことは別だったのだと。

 アレクシスは今、それを自分で認めている。


「一緒に参列しましょう」

 セレネは言った。

「私一人でテオドロス殿下の記憶の前に立つのではなく。アレクシス様一人でテオドロス殿下の影の前に立つのでもなく」

 一度、言葉を切る。

「二人で」

 アレクシスは深く息を吐いた。

「はい。二人で参りましょう」


 ※


 追悼祈祷は、王宮奥の小礼拝堂で行われた。

 祭壇には、テオドロスのための小さな灯が置かれている。

 参列者は限られていた。


 国王と王妃。

 アレクシスとセレネ。

 イリアス。

 数名の王族と神官。

 そして、テオドロスに近かった諸侯たち。


 ズラート老侯爵の姿もあった。

 その横にはミロンもいる。

 セレネは、ここにあるのが政治だけではないことをすぐに悟った。


 王妃の目元には、隠しきれない哀しみがある。

 イリアスは穏やかな表情を保っていたが、その手は固く組まれていた。

 国王は何も言わず、祭壇の灯を見つめている。

 アレクシスは、隣でまっすぐ前を見ていた。


 無理もない。

 テオドロスを亡くして、まだたった二年しか経っていないのだ。

 セレネだって、愛する家族を失って、短期間で立ち直ることはできないだろう。


 兄を悼む弟。

 兄の席を継いだ王太子。

 兄の妃になるはずだった女を迎えた夫。

 そのすべてを背負って、彼はここに立っている。


 神官が、テオドロスの名を読み上げた。

 王家の長子として生まれ、太陽国の未来を担うはずだった者。

 若くして病に倒れ、神の御許へ召された者。

 その魂が、太陽神リザーブの光の内に安らかであるように。


 セレネは目を伏せた。

 彼女はテオドロスを深く知っていたわけではない。

 幼い頃の顔合わせ。

 交わされた礼。

 将来の夫になる人だと教えられた記憶。

 それは確かに、セレネの中にある。


 しかし、恋をしていたわけではない。

 いや、テオドロスが病に倒れず交流が続いていれば、芽生えたかもしれない。

 しかし、それは仮定の話だ。


 けれど、彼が亡くなったことで、セレネの人生の筋書きは変わった。

 アレクシスの人生も、イリアスの人生も、太陽国の継承も、月国との神話婚も、すべて形を変えた。


 死者はもう何も望まない。

 だが、生きている者は死者の名に意味を作り続ける。


 祈祷が終わると、参列者は順に祭壇へ花を捧げた。

 国王。

 王妃。

 イリアス。

 次に、アレクシスの番が来る。


 彼は白い花を受け取り、祭壇の前へ進んだ。

 セレネは半歩後ろに控える。


 アレクシスは花を置き、深く頭を下げた。

「テオドロス兄上」

 小さく、低い声だった。

 隣にいるセレネには、確かに聞こえた。

 テオドロス兄上、と。


「私は、まだあなたの席を継いだことを、正しく受け止めきれていません」

 予定された追悼の言葉ではない。

 アレクシス自身の言葉だった。

「ですが、あなたの影から逃げることも、あなたの名を言い訳にして今を捨てることも、もうしません」

 礼拝堂の空気が変わる。

「私は、あなたにはなれません。けれど、アレクシスとして、王太子の務めを果たします」

 それだけ言って、彼は一歩下がった。


 次はセレネの番だった。

 白い花を受け取り、祭壇の前へ進む。

「テオドロス殿下」

 声は、礼拝堂に通るように整えた。

「私は、かつて殿下の妃となるはずだった者です」

 空気が張る。

 あえて言った。

 隠せば、誰かがその言葉を刃にするからだ。

「ですが今、私は王太子アレクシス殿下の妃として、ここに立っております」

 アレクシスの気配が、わずかに揺れた。

「テオドロス殿下との失われた約束を、軽んじるつもりはありません。幼き日に交わされた礼も、月国と太陽国の間にあった未来も、悼むべきものだと思っております」

 セレネは、一度だけ目を伏せた。

「けれど、私は失われた約束そのものではありません」

 礼拝堂が静まり返る。

「誰かの妃になるはずだった影としてではなく、今ここにいる王太子殿下の妃として、太陽国と月国のために立つことをお誓いいたします」

 言い終えて、深く礼を取る。


 本来の婚姻。

 失われた筋書き。

 テオドロスの妃になるはずだった自分。

 それは事実だ。

 消えない。

 消す必要もない。

 けれど、自分はその影ではない。

 今ここにいる。

 アレクシスの隣に。


 セレネが一歩下がると、アレクシスが彼女を見ていた。

 金の瞳は揺れていた。

 けれど、逃げていなかった。


 その時、老侯爵が静かに口を開いた。

「美しいお言葉ですな、王太子妃殿下」

 礼拝堂の空気が、再び固まる。

「ただ、死者の前であればこそ、問いたくなります。もしテオドロス殿下がご存命であれば、妃殿下はその方の妃であられた。アレクシス殿下もまた、第三王子として別の道を歩まれた」

 彼は、静かに二人を見る。

「今のお二人の絆は、運命の誤りが生んだものではありませんかな」

 冷たい問いだった。


 死者の前で言うには、あまりに酷い。

 だが、だからこそ刺さる。

 けれど、今度はアレクシスが先に答えた。

「侯爵」

 声は低く、よく通った。

「兄上が生きていれば、今の私はここにいなかったでしょう」

 老侯爵は目を細める。

「ならば」

「ですが、生きていればという仮定で、今を無効にはできません」

 アレクシスは、まっすぐに老侯爵を見た。

「兄上が亡くなったことを、私は望んでいません。王太子位を望んで得たわけでもない。……そうです、王太子位など欲しくなかった」

 アレクシスの声に珍しく感情が乗る。

「私は今でも、兄上を、テオドロス王太子殿下と呼び、慕いたいほどです。私たちが、兄上が病を克服して欲しいと願っていたのは、おわかりでしょう。――国王陛下は、兄上が亡くなるその日まで、兄上を王太子から廃嫡なさらなかった」

 一度だけ、アレクシスが胸元の王太子の印に触れた。

「そして、私はセレネを、兄上から奪ったわけでもない」

 セレネは、息を止めた。

「けれど、今ここにいる彼女を、テオドロス兄上の影へ返すつもりもありません」

 礼拝堂に沈黙が落ちる。

「セレネは、失われた約束ではない。今、私の隣に立つ人です」

 その言葉に、セレネの胸が熱くなる。


 老侯爵が何かを言おうとした時、イリアスが静かに立ち上がった。

「侯爵」

 いつもの穏やかな声だった。

 けれど、今日はその奥に明確な強さがあった。

「もういいでしょう。今日は、兄上の追悼の場です」

 それだけで、十分だった。

 イリアスは続ける。

「亡きテオドロス兄上の名を、弟夫婦を裂くために使うことを、私は望みません。おそらくテオドロス兄上ご自身も」

 老侯爵は口を閉ざした。

 イリアスは、アレクシスへ視線を向ける。

「アレクシス。テオドロス兄上の席を継いだことを、お前が悔やみ続けているのは知っている」

「兄上」

「だが、テオドロス兄上はお前を恨まない。私もだ。お前が王太子として立つなら、私は支える。前にも言った通りだ」

 アレクシスの表情が、わずかに崩れそうになる。

 そしてイリアスは、セレネへ向いた。

「王太子妃殿下。弟を、よろしくお願いいたします」

 政治的な言葉ではなかった。

 兄としての言葉だった。

 セレネは深く礼を取った。

「はい。イリアス殿下」


 老侯爵は、もう何も言えなかった。

 死者の名を刃にしようとした。

 だが、その場にいた生きている兄弟が、それを止めた。

 テオドロスの追悼の場でこれ以上食い下がれば、今度こそ弔意を欠くのは侯爵家の方になる。


 祈祷は、静かに閉じられた。


 ※


 小礼拝堂を出た後、セレネとアレクシスはしばらく無言で歩いた。

 人の少ない回廊の角で、アレクシスが足を止める。

「セレネ」

「はい」

「私は、ずっと恐れていました」

 アレクシスの声は静かだった。

「テオドロス兄上の席を継いだことも、その婚姻を継いだことも、いつか誰かに責められると思っていました。実際には誰よりも、私自身が私を責めていたのだと思います」

 セレネは黙って聞いた。

「セレネを見るたびに、兄上の妃になるはずだった人だと思った。だから近づいてはいけないと思った。優しくする資格がないと思った」

「はい」

「ですが今日、貴女が言った。失われた約束ではない、と」

 彼の金の瞳が揺れている。

「私は、その言葉でようやく、自分が何から逃げていたのかを見ました」

 セレネは息を吸った。

「私もです」

 セレネは言った。

「私も、自分が失われた約束の残りのように思えることがありました。姉上ほど月神の面影が強くなく、テオドロス殿下の妃になるはずで。……それが変わって、アレクシス様の隣に立つことになって」

 一度、言葉を切る。

「けれど、今は違います。私は、自分の意思でここに立っています」

 アレクシスの目が揺れる。

「セレネ」

「はい」

「私は、契約を盾にしていました」

 彼は、ようやくその言葉を出した。

「貴女に期待させないためだと言いながら、本当は私が逃げるために」


 婚礼の夜の契約書。

 公の場では理想の夫婦を演じる。

 私情は求めない。


 その言葉で始まった関係が、今ようやく二人の前に戻ってきた。

「アレクシス様」

「はい」

「その契約を、今どう思っていらっしゃいますか」

 アレクシスはすぐには答えなかった。

「必要でした」

 彼は言った。

「婚礼の夜の私には、必要だった。貴女をどう扱えばよいかわからず、自分の罪悪感も制御できず、曖昧な優しさで傷つけることを恐れていました」

「はい」

「ですが、今も同じ契約の中にセレネを閉じ込めたいとは思いません」

 セレネの胸が、静かに鳴った。

「では、今夜、お話しできませんか」

 アレクシスが彼女を見る。

「王太子と王太子妃としてではなく。契約を結んだ二人として。そして、その先へ進むかどうかを選ぶ二人として」

 アレクシスは、長く黙っていた。

 だが、その沈黙はもう逃げではなかった。

「はい。今夜、伺います」

「私の部屋へ?」

「いいえ」

 アレクシスは少しだけ首を振った。

「婚礼の夜に契約を結んだ、あの部屋で」

 セレネは息を止めた。

 王太子妃の私室ではない。

 公務の執務室でもない。

 婚礼の夜、二人が向き合い、契約書に署名した部屋。


 始まりの場所。


「わかりました」

 セレネは頷いた。

「今夜、参ります」

 今日、テオドロスの影の前で、自分たちはようやく言えた。


 失われた約束ではない。

 兄の影ではない。

 誰かの代わりではない。

 ならば次は、契約そのものと向き合う番だった。


 公の務めではなく。

 神話婚の儀礼でもなく。

 太陽国と月国の同盟でもなく。


 セレネとアレクシスとして。

▼おまけ

神話婚の話が持ち上がったのは、セレネが幼い頃です。

神話の再現とは名ばかりの、いわば政略結婚なので。

テオドロスが亡くなったのは2年前ですが、彼は生前何度か王太子兼婚約者として月国を訪問していたため、セレネは面識はありましたが、うっすらとしか覚えていません。

テオドロスが成長して病気を患い、月国を訪問することがなかったからです。

それでも彼を王太子のままにしていたのは、国王以前に親の願いですね。

王太子はテオドロスであると最期まで定められたため、セレネとアレクシスは2年後。

つまり本編1話まで対面したことがありません。

肖像画くらいは見たことがあるかもしれませんが。


なので、追悼行事を持ち出したのはある意味で、太陽国王家の傷を抉る行為でもありました。



もしお気に召されましたら、

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ここまで読んでくださったあなたに、心より御礼申し上げます。

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