第15話 神の面影だけでは足りない
諸侯小会議の朝、セレネは鏡の前に立っていた。
今日の装いは、白と金を基調にした。
王太子妃として、まず太陽国の礼を示す。
ただし、袖口と襟元には月国の青銀の刺繍を入れた。
髪には太陽国の金の髪飾りと、月国の小さな銀細工を並べる。
どちらか一方を強くしすぎない。
どちらも隠さない。
それが、今日の答えでもあった。
侍女が左手首の銀十字を整える。
その下には、月国の銀糸がまだ結ばれていた。
婚礼の翌朝から、ずっとこの糸を結んだまま立った。
少しよれてはいたが、ほどく気にはなれなかった。
扉の外から、近習の声がした。
「王太子殿下がお迎えにいらっしゃいました」
侍女が扉を開ける。
アレクシスが、そこに立っていた。
白と濃紺を重ねた礼装に、太陽国の金刺繍。
胸元には王太子の印と、太陽神の円環。
誰が見ても、太陽国の王太子とわかる装いだった。
けれどセレネが見たのは、金の瞳だった。
太陽神の面影。
アレクシスを第三王子から王太子へ押し上げたもの。
彼自身が、罪のように抱えてきたもの。
「おはようございます、アレクシス様」
あえて、名前を呼んだ。
アレクシスの表情が、ほんの少し揺れる。
「おはようございます、セレネ」
彼もまた、名前を返した。
侍女たちが、気づかないふりをして目を伏せる。
アレクシスは手を差し出した。
公の手。
王太子が王太子妃を導くための手。
けれど今では、その意味だけではなくなっている。
セレネは手を重ねた。
「参りましょう」
「はい」
二人は並んで部屋を出た。
※
諸侯小会議は、王宮東翼の会議室で開かれる。
選ばれた諸侯、大神官、書記。
国王も王妃も出席する。
イリアスは、出席しないことになっていた。
妥当な判断だった。
彼がいれば、議題は必ず第二王子派へ結びつけられる。
今日問われるのは、王太子夫妻の儀礼権限と神話婚の正統性。
そこへイリアス本人を置くのは危険だった。
会議室へ向かう途中、アレクシスが低く言った。
「侯爵家は、正面から来るでしょう」
「はい」
「儀礼権限の問題から入り、最終的には私たちの正統性へ進む」
「予想通りですね」
「怖くはありませんか」
セレネは、正直に答えた。
「怖いです。ですが、今日問われるのは私だけではありません。殿下もです」
アレクシスの手が、わずかに強くなる。
「なら、怖さも半分ずつ持ちましょう」
「半分ずつ」
「正確には、アレクシス様の怖さはアレクシス様のもの。私の怖さは私のものです。ですが、隣に立つなら、相手が怖いのだと知っていることはできます」
アレクシスは短く息を吐いた。
「貴女らしい言い方です」
扉の前で、近習が二人の到着を告げた。
扉が開く。
重い空気が、二人を迎えた。
※
会議室には、すでに人がそろっていた。
国王と王妃。
大神官。
主要諸侯。
そして、老侯爵。
その隣には、三十代前半ほどの男が座っていた。
穏やかな表情をしているが、目だけが鋭い。
おそらく、先日の問い合わせ文を書いた侯爵家の縁者だろう。
老侯爵より厄介だ、とセレネは思った。
侮蔑をにじませる者は、失言もする。
だが、礼儀正しい言葉で正当な疑義を積み上げる者は、崩しにくい。
アレクシスとセレネは国王の前で礼を取り、席に着いた。
進行役の高官が議題を読み上げる。
「本日の議題は、先日の双月礼拝における神話婚特別祈祷、および近頃の神話婚関連儀礼における王太子夫妻の関与について」
言葉は整っている。
だが、その奥にある問いは明らかだった。
王太子夫妻は、儀礼をどこまで動かしてよいのか。
そして、神話婚の中心に立つにふさわしいのか。
最初に発言を求めたのは、予想通り、侯爵家の若い男だった。
「ズラート侯爵家の名代、ミロンと申します」
声は穏やかだった。
「まず初めに、王太子殿下ならびに王太子妃殿下が、一連の儀式において両国の和合のため尽力なさったことには敬意を表します」
丁寧な前置きだった。
その後に来るものが本題だ。
「しかし、古式の復元、誓詞の改定、特別祈祷の創設が相次いでおります。一つ一つは神官および祭儀官の確認を経たものでも、連続して行われれば、宮廷内に不安が生じるのも事実です」
アレクシスが口を開いた。
「もっともな懸念です」
会議室に、小さな緊張が走る。
彼は否定から入らなかった。
「和合祭の古式は、大神官猊下の承認を受け、太陽国式の範囲内で復元しました。披露茶会の誓詞は、侯爵家から提示された現行誓詞が月国の王女に対して不適切な意味を持つため、古式に基づき整え直したものです。双月礼拝は、正式儀礼の変更ではなく、神話婚に伴う一回限りの特別祈祷として記録されます」
アレクシスの声は冷静で、よく通る。
「したがって、私たち夫妻が神官会議を越えて正式儀礼を変更した事実はありません」
ミロンは頷いた。
「承知しております。私が問いたいのは、事実関係ではなく、受け止めの問題です」
「受け止め?」
アレクシスの声が、やや低くなった。
「はい。我が国の儀礼が月国の姫君のために続けて変えられたように見えれば、不安を覚える者もおります」
視線が、セレネへ集まる。
ここで来るか。
セレネは背筋を伸ばした。
「王太子妃殿下にお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「王太子妃殿下は、月国の第二王女でいらっしゃいます。しかし、月国において最も月神の面影が強いのは、次代女王となられる姉君であると伺っております」
会議室の空気が張った。
「その通りです」
セレネは、ミロンの問いを否定しなかった。
「ならば、王太子妃殿下ご自身は、神話婚において月国を代表するに足ると、どのようにお考えでしょうか」
痛いところを突くと、セレネは思った。
姉ほど月神に似ていない第二王女。
その彼女が、太陽国の儀礼を動かし、月の祈りを残すと主張している。
それは正統な月の代表なのか。
問いは、そういうことだ。
セレネは静かに息を吸った。
「私は、姉ほど月神の面影が強くありません。私の青銀髪も瞳の青も、ご覧のように淡い。しかし、姉は見事な象徴を持ち、月国の誰もが認める次代の女王です。そのことに、私も異議はありません」
ミロンは黙って聞いている。
「ですが、月国を代表するということは、月神の面影が最も強い者だけに許される務めではありません。姉は王座に立ち、月国そのものを守る方です。私は、月国の外で月国を守るために育てられました」
会議室の空気が変わる。
「姉ではなく私が来たことは、月国が女王を手放さず、同時に神話婚を軽んじなかったということです。月国にとって、私は余り物ではありません。外へ出すために育てられた王女です」
ミロンの目が、わずかに細くなった。
「では、太陽国の妃としてはどうでしょう。王太子妃殿下は、月国の祈りを失わぬと誓われた。双月礼拝でも、月国の祈りを特別祈祷へ取り入れられた。それでも、我が国の妃として月国の祈りを残されるのはなぜです」
ミロンの声は、穏やかだった。
だが、その問いは深く刺さる。
セレネは、左手首の銀十字に触れた。
「神話婚だからです」
静かに答えた。
「太陽国が求めたのは、月国を捨てた女ではありません。月国の王女です。月の祈りを失った私では、太陽国にとっても神話婚の妃ではなくなります」
「我が国にとっても?」
「はい」
セレネは、会議室の諸侯たちを見る。
「月国の祈りを持つ者が、太陽国の妃となる。だからこそ、この婚姻には意味があります。もし太陽国の礼だけを知り、月国の祈りを持たない妃でよいなら、太陽国のご令嬢で足りたはずです」
誰かが息を呑んだ。
率直すぎる言葉だったかもしれない。
だが、必要だった。
「私は太陽国の妃として、太陽国の神と礼を敬います。けれど、月国の祈りを捨てることはできません。捨てれば、私はこの婚姻の意味を自分で壊すことになります」
セレネは、ミロンを見た。
「ゆえに、私は月を残します。太陽に背くためではなく、太陽国が迎えた月国の王女であり続けるために」
沈黙が落ちた。
ミロンは、しばらくセレネを見ていた。
「王太子妃殿下のお考えは、理解いたしました」
彼はそう言った。
だが、終わりではなかった。
「では、王太子殿下にもお尋ねしたい」
今度はアレクシスへ向く。
「殿下は本来、第三王子であられた。テオドロス殿下が薨去され、第二王子であるイリアス殿下を越えて、アレクシス殿下が王太子となられた。それは、貴方様が太陽神の面影たる金眼をお持ちであったからと理解しております」
「その通りです。国王陛下はその一点で、私を王太子と定めました」
アレクシスが静かに答えた。
「しかし、王太子とは神の面影だけで務まるものではございません。アレクシス殿下は、我が国の王太子として、何をもってご自身の正統性を示されますか」
金眼だけで王太子なのか。
兄の代わりではないのか。
イリアスを飛ばすに足るのか。
それを、ついに正面から問われた。
アレクシスは、しばらく黙っていた。
沈黙は長く感じられた。
けれど、それは逃げの沈黙ではなかった。
やがて、彼はゆっくりと口を開く。
「私は、兄上たちの代わりにはなれません」
会議室が静まり返った。
「テオドロス兄上の代わりにも、イリアス兄上の代わりにもなれない。私がどれほど努力しても、テオドロス兄上が生き返るわけではなく、イリアス兄上が本来持っていたはずの道が消えるわけでもありません」
声は静かだった。
だが、震えていない。
「私は第三王子でした。王太子となるために生まれた者ではない。金眼を持っていたために選ばれた。その事実は変わりません」
セレネは、息を止めた。
彼が、自分で言っている。
ずっと罪のように抱えていた事実を。
「ですが、金眼だけで王太子であり続けるつもりはありません。それだけを理由に、玉座に座ることはない」
会議室の空気が変わった。
「私は、選ばれた理由を変えることはできない。だが、選ばれた後に何をするかは選べます」
彼は、そこで一度だけセレネを見た。
「私は王太子として、テオドロス兄上が残されたものを忘れず、イリアス兄上を敵とせず、王家を割らぬこと。月国の王女を妃として迎えた以上、その祖国と祈りを軽んじぬこと。我が国の民にとって、この神話婚が不安ではなく和合の証となるよう努めること」
アレクシスの声が、少し強くなる。
「それが、今の私にできる王太子としての務めです」
アレクシスは続けた。
「私は神そのものではありません。太陽神の完全な写し身でもありません。金眼があるからといって、迷わず、傷つかず、誤らないわけではない」
神官たちの一部がわずかに動いた。
だが、アレクシスは止まらなかった。
「それでも私は、王太子として立ちます。神の面影だけでは足りないと知っているからこそ、学び、選び、責任を負う者として」
会議室の誰もが、黙っていた。
アレクシスは最後に言った。
「私の正統性を問うなら、金眼だけを見ないでいただきたい。私が何を選び、何を守るかを見ていただきたい」
静寂。
ミロンは、ゆっくりと礼を取った。
「王太子殿下のお考え、承りました」
納得ではない。
だが、軽く扱える答えではなかった。
次に、老侯爵が低く口を開いた。
「殿下のお言葉は立派です。しかし」
まだ来る。
老侯爵は、ゆっくりと立ち上がった。
「神の面影だけでは足りないとおっしゃる。月神の面影が最も強いわけではない妃殿下も、外で月国を守るために来たとおっしゃる。なるほど、理屈としては見事です」
声には、以前ほど露骨な侮辱はない。
だが、底に冷たいものがある。
「しかし、民は理屈だけで王家を仰ぐのではありません。神話を見たいのです。太陽神の王子と、月神の姫。完全な象徴を。迷いも傷もない、神々の再演を」
老侯爵は二人を見る。
「両殿下は、あまりに人でありすぎる」
その言葉が、会議室に落ちた。
あまりに人でありすぎる。
それは、祝福ではない。
否定だった。
「神話婚とは、神話を人の世に映すためのもの。両殿下の答えは、立派な人の努力ではありましょう。ですが、神話の再演として、民に仰がれるに足るのでしょうか?」
神話婚とは何か。
神々の完全な再演なのか。
それとも、人が神話を背負って生きることなのか。
会議室の視線が、二人へ向けられている。
セレネは立ち上がった。
「侯爵閣下。私たちは、神話を再演するための人形ではありません」
会議室の空気が、張りつめる。
アレクシスも、同時に立ち上がった。
二人は並んだ。
「太陽神リザーブと月神ティアそのものにはなれません。私は月神ではなく、アレクシス様も太陽神ではありません。けれど、神話とは、神と同じになるためのものではないはずです」
老侯爵が何かを言いかける。
だが、セレネは言葉を重ねた。
「神話は、人がどう生きるべきかを示すものです。太陽と月が同じ天を分かち合うというなら、私たちもまた、同じ国の上に立ちながら互いを消さずにいる道を探す。それが、この神話婚ではありませんか?」
アレクシスが、静かに続けた。
「完全な象徴を求めるなら、私は不足でしょう。テオドロス兄上の代わりではなく、イリアス兄上より明らかに優れていると誇ることもできない。金眼を持っていても、私は神ではない」
彼の声は、先ほどよりも落ち着いていた。
「ですが、民が仰ぐべき王家が、傷も迷いもない神の人形でなければならないのなら、人は誰も王冠を戴けません」
国王が、わずかに目を細めた。アレクシスが言葉を継いだ。
「私、アレクシス・ソンツェリアは、人として、王太子の責任を負います」
セレネもまた、言葉を置く。
「私、セレネ・ミーシャリア=ソンツェリアは、人として、月国と太陽国の間に立ちます」
二人の声は重ならなかった。
けれど、同じ方向を向いていた。
「神話を壊すのではありません」
セレネは言った。
「神話を、人の世で生きられる形にするのです」
沈黙。
今度の沈黙は長かった。
やがて、大神官が口を開いた。
「神話は、人が神になるためのものではない」
低い声だった。
「神の姿を通して、人が何を選ぶかを問うもの。王太子妃殿下のお言葉は、神学的にも誤りではありません」
老侯爵の顔が、わずかに強張った。
「無論、王家の象徴性は軽んじられるべきではない。しかし、象徴とは血や髪や瞳だけで完成するものでもありません。儀礼、言葉、選択、責任。それらを通して民に示されるものです」
王妃が静かに言った。
「私も、そう思います」
そして、国王が口を開いた。
「アレクシス。セレネ」
二人は同時に顔を上げた。
「そなたたちは、完全な神話ではない」
セレネは息を止める。
王は続ける。
「だが、完全な神話だけが国を守るわけではない。むしろ、完全であると偽る者ほど危うい」
会議室の空気が変わった。
「我が国は、月国の王女を迎えた。月国は、我が国の王太子へ姫を送った。これは神話の再演であると同時に、現実の同盟である」
国王は諸侯たちを見渡した。
「現実を背負えぬ神話は、国を守らぬ」
老侯爵は口を閉ざした。
「王太子夫妻の儀礼関与については、今後も神官会議および王家の承認を必要とする。これは明文化せよ」
高官がすぐに記録を取る。
「しかし、先日の和合祭、披露茶会、双月礼拝について、王太子夫妻に不当な越権はなかったものとする」
セレネは、静かに息を吐いた。
完全勝利ではない。
けれど、正式に認められた。
国王は最後に言った。
「また、神話婚の意義については、王太子夫妻が今後もその務めをもって示せ」
務めをもって示せ。
それは、終わりではなく始まりだった。
アレクシスが深く頭を下げる。
「承知いたしました」
セレネも続いた。
「謹んでお受けいたします」
会議は、その後いくつかの確認事項を経て閉じられた。
※
会議室を出た後、セレネとアレクシスは短い間だけ、無言で歩いた。
誰もすぐには声をかけてこない。
アレクシスが、低く言った。
「今日は、助けられました」
「私が、ですか」
「はい。老侯爵に人でありすぎると言われた時、私は否定しなければと思いました。ですが、貴女が言った。神話を再演する人形ではないと」
彼は足を止め、セレネを見る。
「人として選べばいいのだと、初めて思えました」
セレネは、静かにアレクシスを見上げた。
「私は、アレクシス様が神でなくてよかったと思います」
アレクシスの目が揺れる。
「神なら、きっと隣に立てません。遠くから祈ることしかできません」
セレネは、一歩だけ近づいた。
「あなたが人だから、私は隣に立てます」
アレクシスは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに頷く。
「……はい」
政治は終わっていない。
侯爵家も、反月国派も、完全に退いたわけではない。
太陽国と月国の間には、まだいくつもの問いが残っている。
けれど、今日一つだけ確かなことがあった。
神の面影だけでは足りない。
だから、人として選ぶ。
その答えを、二人は公の場で示したのだった。
▼おまけ
太陽国、月国両国共に、
王位継承順位が「いかに神の面影を持つか」で決まる以上、
太陽国の国王と王太子、月国の女王と王太女は
常に『自身が持つ神の面影』について批判される可能性があります。
国家の運営がうまく行っているあいだはまだしも、
災害や疫病などが流行った場合、
「神の面影が薄いのに、王位を継いだから神罰がくだったのでは?」と言われたりします。
太陽国では太陽神の金髪金眼にいかに近い色を持つか。
月国では、月神の青銀髪青眼にいかに近い色を持つか。
これが大事です。
対して、セレネは毛先が青銀髪ですが毛先が淡く、瞳も薄青です(1話より)
アレクシスも同様に、淡い栗毛に金眼を持ちます(同上)
セレネの姉は完璧な青銀髪に冴えた青の瞳を持ちます(1話より)
アレクシスの長兄テオドロスは褪せた金髪に金眼(同上)
イリアスは淡い栗毛に琥珀に近い茶の瞳です(9話より)
セレネの姉以外は、おそらく誰が王位を継いでも容姿に文句を言われたでしょう。
もしお気に召されましたら、
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ここまで読んでくださったあなたに、心より御礼申し上げます。




