第14話 新しい祈りは、誰のものか
双月礼拝の翌朝、王宮は静かだった。
少なくとも、表面上は。
白い廊下には朝日が差し込み、侍女たちは水差しや布を運び、神官たちは小礼拝堂へ向かっている。
けれどセレネは、その静けさの下に小さなざわめきを感じていた。
昨夜、王太子夫妻は太陽国式でも月国式でもない祈りを捧げた。
太陽国の神官と月国の祭儀官が認めた、神話婚の新しい祈り。
双つ月は、同じ夜を照らす。
二つの国も、同じ空の下にある。
太陽の民も、月の民も、眠る時は同じ夜に守られる。
露台に集まった者たちは、その言葉に礼を取った。
ユリアンも、オルガも、王も、王妃も、多くの貴族たちも。
だが、美しく収まったものほど、後から異議を唱えられることがある。
形になる前の疑念が、霧のように王宮を漂っている。
昨日まで深く頭を下げていた神官の中に、今日は視線を伏せすぎる者がいる。
侍女たちの話し声が、不自然に途切れる。
貴族の近習が、セレネを見るなり慌てて礼を取る。
恐れられているわけではない。
だが、測られている。
和合祭で古式を戻し、披露茶会で誓詞を変え、双月礼拝で新しい祈りを作った妃。
彼女は、どこまで太陽国の儀礼へ踏み込むつもりなのか。
そして王太子は、どこまでそれを許すのか。
(いいえ)
セレネは心の中で言い直した。
許す、ではない。
昨日、アレクシスはオルガの前で言ってくれた。
月の祈りは、彼が許すものではない。初めからセレネのものだと。
その言葉を思い出すと胸の奥が温かくなる。
けれど同時に、痛みもあった。
あの言葉は、太陽国の者には王太子が月国の王女に寄りすぎたように聞こえたかもしれない。
昨日の祈りは、月国の者には正式な双月祈祷を崩したものに見えたかもしれない。
どちらにも完全には寄らない。
その道を選んだからこそ、どちらからも問われる。
セレネは左手首に触れた。
銀十字の下、銀糸はまだ結ばれている。
少しよれていたが、ほどく気にはなれなかった。
「王太子妃殿下」
前方からユリアンが歩いてきた。
手には数枚の書類。
表情は、いつもより硬い。
「昨夜の双月礼拝について、大神官猊下より正式な記録化の指示が出ました」
「それは、問題なく?」
「記録そのものは問題ありません。太陽国神官と月国祭儀官が確認した新しい祈りとして残されます」
そこまでは予想通りだった。
「ですが、今朝早く、数名の貴族から神官会議へ問い合わせがありました。昨夜の祈りは太陽国の正式儀礼なのか。王太子夫妻が新たな祈りを作る権限はどこにあるのか。今後の神話婚でも同様の祈りを用いるのか、と」
やはり来た。
「侯爵家からですか」
「直接の名は出ていません。ですが、近い家の者です」
「そうでしょうね」
「神官側としては、昨日の祈りを異端視するつもりはありません。ですが正式儀礼とするには、神官会議での承認が必要になります」
「つまり、そこを突かれるのですね」
「おそらく」
セレネは窓の外へ目を向けた。
朝の光が眩しい。
昨日、同じ王宮で双つ月を見上げたことが、もう遠い出来事のように思えた。
一回限りの祈りにすれば、反発は抑えられる。
けれど、今後の先例にはなりにくい。
逆に正式儀礼へ進めれば、反発は大きくなる。
ここで決めるべきことではない。
制度へ変えようとすれば、敵に格好の口実を与える。
けれど一回限りとして閉じれば、昨日の祈りは美しい例外として保存されるだけになる。
何を残し、何を広げるか。
それは、王太子妃一人で決められることではなかった。
「アレクシス殿下には?」
「すでに報告が入っております。殿下より、妃殿下にも共有するようにと」
隠さない。
彼は、約束を守ってくれている。
「わかりました。後ほど殿下と相談します」
ユリアンは礼を取った。
だが、立ち去る前に少しだけ足を止める。
「私は、昨夜の祈りは必要なものだったと思います。太陽国式でも月国式でもない。それを不安に思う者はいるでしょう。ですが、神話婚とは本来、片方が片方を呑み込むためのものではありません」
ユリアンは苦笑した。
「ただ、どうかお気をつけください。儀礼は、人の心をまとめるためのものですが、人を分けるためにも使われます」
「心得ています」
ユリアンは深く頭を下げ、去っていった。
太陽国か、月国か。
古式か、新式か。
正式か、特別か。
祈りか、政治か。
分けるための言葉はいくらでもある。
それをどう結び直すか。
そのために、セレネはここにいるのかもしれなかった。
※
午前のうちに、セレネはアレクシスの執務室へ向かった。
机の上には、すでに書類が広げられていた。
神官会議への照会。
侯爵家周辺の貴族名。
そして月国使節団からの意見書。
「月国側からも?」
「はい。オルガ殿からです。昨夜の祈りについて、月国神殿の正式な双月祈祷とは異なるため、月国国内へ伝える際には神話婚特別祈祷として扱うべきだと」
「妥当ですね」
「妥当ですか」
「はい。オルガ様は昨日認めてくださいましたが、月国神殿として正式な祈祷と同じ扱いにはできない。名称を分けることは、月国側の保守派へ説明するためにも必要です」
アレクシスは黙って彼女を見ていた。
「貴女は、月国側の厳しい言葉にもずいぶん公平ですね」
「公平でなければ、王太子妃として月国と向き合えません」
「傷ついていないことにはしない、という約束は」
「覚えています。ただ、傷つくことと、相手の言い分が妥当かどうかは別です」
「また」
セレネは、アレクシスの言葉を遮った。
「私の言葉を私に返すのは、殿下だけの特権ではありません」
思わずそう返すと、アレクシスは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、ごく小さく口元を緩める。
「では、お互い様ですね」
「はい」
少しだけ空気は軽くなった。
だが、机の上の書類は軽くならない。
アレクシスは、侯爵家周辺からの問い合わせをセレネへ差し出した。
文面は丁寧だった。
昨夜の双月礼拝の美しさを称え、王太子夫妻の尽力を認めた上で、慎重な確認として問いを並べている。
双月礼拝は我が国の正式儀礼か。
王太子夫妻が新たな祈りを作る権限はどこに由来するか。
神官会議の承認なしに王家の儀礼を変更できるのか。
月国の祈りを王宮儀礼に取り入れることは、我が国の神官制度を損なわないか。
どれも、表向きは正当な問いだった。
だからこそ厄介だった。
「これは、老侯爵よりも上手いですね」
「侯爵家の若い世代でしょう。正面から侮辱するのではなく、手続きの問題へ移してきた」
「こちらが感情的に反発すれば、手続き軽視と言われます。無視すれば、疑念が広がります。答えれば、その答えの中からまた攻められます」
「なら、答え方を選ぶしかありませんね」
アレクシスはすぐに聞いた。
「どう答えますか」
以前なら、まず自分で処理しようとしただろう。
それを思うと、セレネは少しだけ胸が温かくなる。
「昨夜の祈りは正式儀礼ではなく、神話婚に基づく、一度限りの祈りと位置づけます。太陽国神官、月国祭儀官、王家の承認を受けた一回限りの。これで、神官会議を飛び越えて正式儀礼を変えたという攻撃は避けられます」
「ですが、それでは昨日の祈りを小さく扱うことになる」
「いいえ。一回限りだからこそ、私たちの神話婚に結びつきます。制度を変えたのではなく、私たち二人がこの婚姻のために捧げた祈りだと」
アレクシスの視線が、わずかに動いた。
「私たち、二人の祈り?」
「はい。制度として広げるのは、今ではありません。まずは、私たちがこの祈りの意味を背負えるかどうかです」
アレクシスは黙った。
昨日の祈りは政治的な対応だった。
儀礼上の調整でもあった。
だが、それだけではないと、二人とも知っている。
「権限については、私たちが勝手に祈りを作ったのではなく、神話婚に伴う両国の和合を示すため、太陽国神官と月国祭儀官の確認を受け、王家の場で行った特別祈祷である、と」
セレネが言えば、
「神官制度を損なわないか、という問いには」
アレクシスが疑義を呈する。
「損なわない。むしろ、太陽国神官が確認したことで儀礼の秩序は保たれたとします。ただし、今後正式儀礼化を検討する場合は、神官会議の手続きを経ると明記する」
「逃げ道を残すのですね」
「違います。手続きを尊重すると示すのです」
アレクシスが少しだけ口元を動かした。
「ユリアンのような言い方です」
「神官に学びました」
セレネも小さく返す。
二人はすぐに返答文を整えた。
太陽国式の文体はアレクシスが整え、月国側への配慮や神話婚の表現はセレネが補う。
言葉を出す前に、相手が何を懸念するかがわかる。
この表現は太陽国側に強すぎる。
この一節は月国側に弱すぎる。
ここは神官の手続きを入れる。
ここは王太子夫妻の意思として残す。
気づけば、午前の時間は過ぎていた。
侍従が昼食の準備を告げに来て、セレネはようやく筆を置いた。
「もうそんな時間でしたか」
「貴女は、集中すると本当に時間を忘れますね」
「殿下もです」
「否定できません」
二人は顔を見合わせ、ほんの少しだけ笑った。
笑った後に、セレネは気づいた。
今、自分は王太子の執務室で、当たり前のように彼と書類を作り、当たり前のように意見を交わしていた。
婚礼の夜、机を挟んで契約書を見ていた時とは、まるで違う。
今も机を挟んでいる。
扱っているのも、祈りと政治の文書だ。
それなのに、冷たさは同じではない。
アレクシスが、ふとセレネを見る。
「疲れましたか」
「少し」
「では、昼食を」
「はい」
そこで終わるはずだった。
だが、セレネは口を開いた。
「アレクシス様」
部屋の空気が、静かに止まる。
アレクシスの指が、筆の上で止まった。
金の瞳が、ゆっくりとセレネへ向く。
昨日の露台で、彼は言った。
まだ、殿下ですか、と。
セレネは答えた。
次に呼ぶ時は、逃げないで聞いていただきたい、と。
だから今、名前を、呼んだ。
人目はない。
侍従はすでに下がっている。
ここにいるのは、王太子と王太子妃であり、同時にアレクシスとセレネでもある。
「……はい」
アレクシスは、逃げなかった。
それだけで、セレネの胸が強く鳴った。
「昨日の祈りを、一回限りにすることを、私は寂しいと思っています」
アレクシスは黙って聞いている。
いま、言わなければ言う機会を、今度はセレネが逃してしまう。
だから。
「制度として広げるのは今ではないと、わかっています。正式儀礼にするには手続きが必要で、反発も大きい。だから、今は特別祈祷として置くのが正しい」
言葉が溢れて、止まらない。
「はい」
「それでも、寂しいです。私たちが作った祈りが、一夜だけのものになるのだと思うと」
言葉にして、初めて自分の気持ちがはっきりした。
政治的には正しい。
儀礼上も妥当。
敵に口実を与えないためにも、今はそうすべきだ。
それでも、寂しい。
アレクシスは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに言う。
「一夜だけではありません」
セレネは顔を上げた。
「記録には残ります。王家の記録にも、神官の記録にも、月国使節の記録にも」
「はい」
「そして」
彼は少しだけ言葉を探した。
「私が覚えています、セレネ」
セレネは息を止めた。
アレクシスは、視線を逸らさなかった。
「貴女も、覚えているでしょう?」
「……はい」
「なら、一夜だけではありません」
胸の奥が熱くなる。
甘い言葉ではない。
けれど、セレネには十分だった。
「そうですね。私も、覚えています」
アレクシスは頷いた。
「それに、正式儀礼にすることだけが、祈りを残す方法ではありません」
「ほかに?」
「私たちが、毎年祈ればいい」
セレネは目を見開いた。
アレクシスは、少しだけ気まずそうに視線を伏せた。
けれど、言葉は続けた。
「王宮の正式儀礼としてでなくとも、双月の夜に。貴女が望むなら」
毎年。
双月の夜に。
二人で。
それは、制度ではない。
政治でもない。
契約の条項にもない。
だが、祈りを残すには十分すぎる提案だった。
「……望みます」
セレネは小さく答えた。
アレクシスの目が、わずかに和らぐ。
「では、そうしましょう」
「はい」
それだけの約束だった。
書類には残らない。
書記もいない。
神官の承認もない。
けれど、セレネにとっては、昨日の祈りが一夜で終わらないと示すには十分だった。
※
昼食の後、双月礼拝に関する正式な回答文が出された。
昨夜の祈りは、太陽国と月国の神話婚に伴う一回限りの特別祈祷であること。
太陽国神官と月国祭儀官の確認を受け、王家の場で行われたこと。
正式儀礼そのものを変更するものではなく、今後の制度化には神官会議の手続きを要すること。
同時に、神話婚において太陽国と月国の祈りが同じ場に置かれることは、和合の本義にかなうこと。
侯爵家周辺は、すぐには反論しなかった。
だが、沈黙は納得ではない。
その日の夕刻、王妃のもとへ別の知らせが入った。
老侯爵家の若い縁者たちが、次の諸侯小会議で議題を出す準備をしているという。
議題は、王太子夫妻の儀礼権限について。
そして、その背後にもう一つ。
王太子アレクシスの神話婚は、我が国の正統性を高めるものか。
それとも、月国の影響を王家中枢へ招き入れるものか。
ついに、儀礼だけの話ではなくなる。
それらをめぐる個別の争いではなく、王太子夫妻そのものが問われる。
アレクシスは本当に、太陽国の王太子として正しいのか。
セレネは本当に、神話婚の妃としてふさわしいのか。
二人が並ぶことは、太陽国と月国のためになるのか。
次に来るのは、その問いだ。
王妃の居室から戻る廊下で、セレネはアレクシスと並んで歩いていた。
夕暮れの光が、廊下を淡い金に染めている。
その柔らかさの下にある緊張を、二人とも感じていた。
「諸侯小会議は、いつですか」
「三日後です」
「早いですね」
「相手も時間を置きたくないのでしょう。双月礼拝の余韻が残っているうちに、疑念を形にしたい」
「議題は、受けるのですか」
「拒めば、隠したと言われます」
「では、受けるしかありませんね」
アレクシスは、少しだけ彼女を見る。
「貴女は、怖くないのですか」
「怖いです」
セレネは正直に答えた。
「ですが、問われること自体は避けられません。ならば、場を選べるうちに向き合う方がよいと思います」
「王太子妃として?」
「それもあります」
セレネは足を止めた。
少し離れて侍女と近習が控えている。
声を低くすれば届かない。
「セレネとしても」
アレクシスの表情が、わずかに動いた。
「私は、アレクシス殿下の隣に立つと契約しました。ですが今は、契約だからだけではありません」
アレクシスは黙っていた。
逃げなかった。
「問われるなら、答えたいのです。私がなぜここに立つのか。月国の第二王女として、太陽国の王太子妃として。そして、私自身として」
夕暮れの光が、アレクシスの金の瞳に映っている。
昼の光ほど強くない。
けれど、消えてはいない。
「私も」
アレクシスが言った。
「問われるべきなのでしょう」
「殿下が?」
「はい。なぜイリアス兄上ではなく私なのか。なぜ金眼を持つというだけで王太子なのか。ずっと、問われないようにしてきました」
セレネは、胸が痛んだ。
「問われれば、答えなければならない。答えられなければ、王太子として立てない。そう思っていた」
「今は?」
アレクシスは、少しだけ目を伏せた。
「今も怖いです。ですが、セレネが隣にいるなら、答えられるかもしれない」
セレネは、息を止めた。
アレクシスは、すぐに視線を逸らさなかった。
むしろ、まっすぐに見ていた。
「セレネ」
名前を呼ばれる。
王太子妃ではなく。
「三日後の小会議で、隣に立ってくれますか」
その問いは、公務の依頼でもあった。
政治的な確認でもあった。
だが、それだけではなかった。
セレネは、静かに微笑んだ。
「はい、アレクシス様」
今度は、迷わず呼んだ。
「隣に立ちます」
アレクシスの表情が揺れた。
けれど、逃げなかった。
「ありがとうございます」
その声は、とても低く、そして柔らかかった。
廊下の向こうで、夕暮れの鐘が鳴る。
太陽が沈み、夜が近づいている。
双つ月は、まだ空に見えない。
けれどセレネには、昨日の夜の光がまだ胸の奥に残っていた。
双つ月は、同じ夜を照らす。
二つの国も、同じ空の下にある。
ならば、二人もまた、同じ問いの前に立てるはずだった。
残り4話になりました。読んでくださってありがとうございます。
▼おまけ
太陽国、月国はどちらも王家の力が強いですが、私たちの世界でいう「王権神授説」を取る以上、それぞれの主神をまで祀る神殿も相応に権力を持っています。
神殿側は国政に関してはあまりできませんが、
神事に関しては王家ですら逆らえない事もままあります。
王家としては、彼らが味方につけば最高、敵に回せば最悪、という感じです。
作中では、アレクシスとセレネ夫妻が無茶をしていますが、きちんと神官を通じて事前に神殿側の意思確認や了承を得ているので、上手く「お付き合い」ができています。
根回しが大切なんですよね。
もしお気に召されましたら、
ブックマークや★評価、誤字脱字報告頂けると大変励みになります!
ここまで読んでくださったあなたに、心より御礼申し上げます。




