第12話 夜の国から来た手紙
披露茶会の成功は、翌日には王宮中に知れ渡っていた。
古式に基づく誓詞は王妃と神官たちの承認を得て読み上げられ、王太子アレクシスは、王太子妃セレネの祖国と名誉を我が名誉として守ると誓った。
太陽国と月国の神話婚にふさわしい儀礼。
少なくとも、記録にはそう残るだろう。
だが、人々の胸の内まで美しく収まったわけではなかった。
朝の礼拝へ向かう廊下で、セレネはそれを理解した。
昨日までより礼は深い。
道を譲る者は増え、神官の中には古式誓詞へ敬意を示す者もいる。
だが同時に、視線も増えた。
太陽国の誓詞を変えた王太子妃。
月国の祈りを残すと公言した姫。
王太子殿下にまで、月を守ると誓わせた妃。
それは神話婚として正しいのか。
それとも、月国の姫が太陽国の宮廷を動かし始めたのか。
言葉にならない声が、白い廊下の壁に染み込んでいるようだった。
小礼拝堂へ向かう途中、ユリアンが声をかけてきた。
「昨日の誓詞について、大神官猊下より改めて記録に残すよう指示がございました」
「問題があったのでしょうか」
「いいえ。古式誓詞を復元した例として、今後の儀礼記録に加えるとのことです。王太子妃殿下と王太子殿下の誓詞は、神話婚の新たな先例となります」
新たな先例。
罠を退けるために戻した古式が、後の時代に参照される記録になる。
自分たちの言葉が、自分たちだけのものではなくなっていく。
「光栄です。同時に、身の引き締まる思いです」
「そうお感じになるところが、妃殿下らしいですね」
ユリアンは少しだけ声を落とした。
「ただ、侯爵家周辺では反発もあるようです。古式の根拠がある以上、神官側から大きく異を唱えることはできませんが」
「神官側からは、ですか」
「はい。ですから次は、神官の外から来るかもしれません」
神官の外。
貴族。
あるいは、月国側。
セレネは静かに頷いた。
「心得ておきます」
※
その予感は、午後には形を取った。
月国使節団から、正式な面会を求める書状が届いた。
父王の名代である叔父と、月国神殿に属する祭儀官が、王太子妃セレネに確認したいことがあるという。
場所は、王宮内の月国使節用控室。
太陽国側からは女官長が一人、記録のために控える。
アレクシスは同席しない。
月国使節との面会に毎回王太子が同席すれば、セレネが祖国と直接言葉を交わせない妃に見える。
それは避けるべきだった。
ただ、面会前にアレクシスは一言だけ言った。
「一人で抱え込まないでください」
セレネは少しだけ笑った。
「殿下に言われると、不思議な気持ちになります」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
アレクシスは不満そうに目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
「面会が終わったら、報告を。公務としてではなく」
セレネは顔を上げた。
アレクシスは、少しだけ視線を逸らす。
「……隣に立つ者として、聞きます」
胸の奥が、静かに揺れた。
「わかりました。では、隣に立つ者として、報告いたします」
※
月国使節用控室は、太陽国の王宮の中では珍しく、光が抑えられていた。
窓には薄い青の布がかかり、卓上には月国から持ち込まれた白い花が飾られている。
異国の王宮の中に作られた、小さな月国。
それだけで、セレネの胸に懐かしさが広がった。
だが、そこにいる人々の表情は柔らかくなかった。
叔父は穏やかに見えたが、その隣に座る年配の祭儀官は硬い顔をしている。
月国神殿の高位祭儀官、オルガ。
銀の髪をきっちりと結い、青い石の首飾りをつけた女性だ。
叔父が月国式の礼を取る。
セレネも同じ礼を返した。
太陽国式ではなく、月国式で。
それだけで、叔父の表情が少し和らぐ。
月国の茶が出された。
香りを吸い込んだ瞬間、夜の庭、白い花、月光を受ける水路が胸に戻ってくる。
祖国はもう遠い。
オルガが口を開いた。
「披露茶会での誓詞について、月国神殿として確認したいことがございます」
「はい」
「王太子妃殿下は、月の祈りを失わぬと誓われた。そのこと自体は、月国の者として安堵いたしました。ですが同時に、太陽国の王太子妃として、太陽の光の下に立つとも誓われた」
「はい」
「月国の姫として、その表現に迷いはございませんでしたか」
太陽国に寄りすぎていないか。
月国の姫として、太陽国の言葉に自分を委ねすぎていないか。
問いの奥にあるものは明確だった。
「迷いがないわけではありません」
セレネは正直に答えた。
「ですが、私は太陽国に嫁ぎました。太陽の光の下に立つことを拒めば、神話婚の妃としての務めを果たせません」
「では、月国の姫としては」
「月国の姫としても、拒むべきではないと考えています。月神ティアは、太陽神リザーブと同じ天を分かち合う神です」
「それは、太陽国寄りの解釈ではありませんか」
叔父がわずかに眉を寄せる。
だが、止めなかった。
「月国でも、古い神話には同じ記述があります。昼と夜は互いを追い払うものではなく、世界を分け持つものだと」
「今の月国神殿では、太陽国の神話解釈には慎重であるべきとされています」
「承知しております」
「ならば、王太子妃殿下が太陽の光の下に立つと誓われたことは、月国の保守的な者たちには不安を与えます」
「でしょうね」
セレネは否定しなかった。
「おわかりなのですね」
「はい」
「では、なぜ」
「私は、月国や太陽国の不安を鎮めるために嫁いだのではないからです。私たちの婚姻は、最初から、神話の再現のはずです」
オルガは黙った。
「月国から見れば太陽国に近く、太陽国から見れば月国を残しすぎる。おそらく私は、ずっとそう見られるでしょう」
「それを、受け入れると?」
「受け入れるしかありません。どちらか一方に完全に寄れば楽かもしれません。ですが、その瞬間、神話婚の意味は失われます」
室内が静まった。
オルガはまだ厳しい顔をしているが、その表情の奥にわずかな動揺があった。
「王太子妃殿下」
オルガは、少しだけ声を低くした。
「月国では、姉君である王太女殿下の方が月神の面影は強いと、多くの者が考えております」
「はい。事実です」
「そのため、今回の神話婚についても、本来であれば王太女殿下こそが月を代表するにふさわしかったのではないかという声が、ないわけではありません」
叔父がはっきりと眉を動かした。
「オルガ殿」
「必要な確認です」
セレネは、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
姉の方が月神に近い。
それは幼い頃から知っている。
セレネは第二王女。
月神の面影はあるが、姉ほどではない。
だから外へ嫁ぐ。
だから神話婚の駒になる。
納得してきた。
それでも、痛くないわけではない。
「姉上は、月国を守る方です」
セレネは言った。
「私は、月国の外で月国を守るために育てられました。姉上が王座で月国を守るなら、私は太陽国の王宮で月国を守ります」
「太陽国の王太子妃として?」
「はい。太陽国の王太子妃として、月国を守ります」
「矛盾しているとは思われませんか」
「太陽国に受け入れられない月国の姫では、月国の名を守れません。月国を捨てた太陽国の妃でも、月国の名を守れません。私は、そのどちらにもならないために立っています」
オルガは、長く沈黙した。
やがて、静かに息を吐く。
「……王太子妃殿下は、幼い頃より理屈の強い姫君でしたね」
「褒め言葉として受け取ってよろしいですか」
「半分は」
オルガの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「残りの半分は?」
「神殿を困らせる姫君になられた、という意味です」
「それは、こちらでもよく言われます」
叔父が小さく笑った。
オルガも、わずかに目元を和らげる。
だが、話はそこで終わらなかった。
「もう一つ、確認がございます。明後日の夜、双月礼拝がございます」
双月礼拝。
和合祭の後、最初に双つ月が並ぶ夜に行われる小儀礼だ。
太陽国では王宮の露台で王太子夫妻が二つの灯を掲げる。
月国では、月神ティアへの祈りとしてより重要視される。
「太陽国側からは、太陽国式の簡略礼拝を行うと通達がありました。ですが、月国神殿としては、王太子妃殿下に月国式の双月祈祷を行っていただきたい」
「太陽国の王宮で、ですか」
「はい」
「太陽国側の許可は」
「正式には、まだ」
つまり、月国側から先に求めてきたということだ。
太陽国式を選べば、月国側が不満を抱く。
月国式を選べば、太陽国側が警戒する。
また、選ばされる。
「オルガ様。月国式の双月祈祷を、そのまま太陽国の露台で行うことは難しいと思います」
「王太子妃殿下は、月国の祈りを残すと誓われたはずです」
「はい。ですが、ここが太陽国だからこそ、月国式をそのまま持ち込めば、月国の祈りが攻撃の材料にされます」
「では、何もしないのですか」
「いいえ。太陽国式の双月礼拝の中に、月国式の祈りの核を入れます」
「核?」
「双つ月は、月神と太陽神の子でしょう? 兄月と妹月が並び、離れず、同じ夜を照らすもの。月国式の祈祷で大切なのは、その部分です」
「それは、月国神殿の正式な祈祷ではありません」
「はい」
「太陽国の正式な礼拝とも異なるでしょう」
「はい」
「では、それは何ですか」
問いは厳しかった。
セレネは、少しだけ考えた。
そして、答えた。
「私たちの神話婚の祈りです」
室内に沈黙が落ちる。
「月国神殿だけの祈りでも、太陽国神殿だけの祈りでもありません。太陽国の王太子と月国の王女が、同じ天の下に立つための祈りです」
オルガは、セレネをじっと見ていた。
「……王太子殿下は、それをお認めになりますか」
「これから相談します」
「まだ相談していないのですか」
「はい。ですが、アレクシス殿下は月の祈りを妨げないと誓ってくださいました。だからこそ、私も太陽国の礼を損なわない形を探します」
叔父が、静かに頷いた。
「私は、王太子妃殿下のお考えを支持します」
「名代殿」
「月国としては、本来の双月祈祷を望む者もいるでしょう。ですが、ここは太陽国です。王太子妃殿下が月国の祈りを捨てないと言い切った以上、その方法については、妃殿下に任せるべきです」
叔父の言葉は穏やかだった。
だが、父王の名代としての重さがあった。
オルガは、長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……承知いたしました。ただし、月国神殿としては、祈りの核が失われていないか確認したい」
「もちろんです。草案ができましたら、お見せします」
面会は、それで終わった。
表面上は穏やかに。
しかしセレネの胸には、新たな重さが残った。
双月礼拝。
次の場は、そこになる。
※
面会後、セレネは約束通りアレクシスの執務室へ向かった。
中へ通されると、アレクシスは机から顔を上げ、すぐに筆を置いた。
「お疲れでしょう」
「少し」
「座ってください」
「ありがとうございます」
椅子に座ると、思っていた以上に身体が重いことに気づいた。
月国の者の言葉は、よく知っている分、深く入ってくる。
アレクシスは侍従に茶を命じた。
出されたのは太陽国の茶だったが、香りは軽い。
おそらく、セレネが飲みやすいものを選ばせたのだろう。
「何を言われましたか」
セレネは、面会の内容を順に報告した。
披露茶会の誓詞への確認。
太陽の光の下に立つと誓ったことへの不安。
姉の方が月神の面影が強いという指摘。
そして、双月礼拝で月国式の祈祷を求められたこと。
アレクシスは最後まで黙って聞いていた。
「姉君のことを言われたのですか」
最初に返ってきたのは、そこだった。
「はい」
「それは、貴女に言う必要があったのですか」
声が低い。
珍しい。静かだが、怒っている。
「月国側から見れば、必要な確認だったのでしょう」
「貴女を傷つけてまで?」
セレネは息を止めた。
アレクシスは、自分の言葉に気づいたように少し目を伏せる。
だが、取り消さなかった。
「……傷つかないわけではありません」
セレネは静かに言った。
「ですが、事実です。姉上の方が月神の面影は強い」
「それでも、神話婚のためにここに来たのは貴女です。ならば、それ以上何を問う必要があるのですか」
その声には、王太子としての理屈だけではないものがあった。
セレネは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいです」
アレクシスは黙った。
視線を逸らす。
けれど、逃げるほどではない。
「双月礼拝についてですが」
彼は話題を戻した。
「月国式をそのまま行うのは難しい。太陽国式だけで済ませるのも、貴女の立場を損なう」
「はい」
「ならば、また古式を探しますか」
「今回は、古式だけでは足りないと思います」
セレネは茶器を置く。
「和合祭と誓詞は、過去の形を戻すことで道を作れました。ですが双月礼拝は、太陽国式と月国式で重視する意味が違いすぎます」
「では、どうしますか」
「新しい形を作るしかありません。太陽国式でも、月国式でもない。けれど、どちらの神話にも背かない形を」
「反発は大きいでしょう」
「でしょうね」
「侯爵家は、王太子妃がまた儀礼を変えたと言う。月国神殿の一部は、正式な祈祷ではないと言う」
「それでも」
セレネは、まっすぐにアレクシスを見た。
「どちらかを選ばされるたびに片方を失うなら、私たちはずっと誰かの用意した二択に閉じ込められます」
アレクシスは静かに聞いている。
「太陽国か月国か。王太子か第二王子か。兄の影か今の殿下か。契約か意思か」
最後の言葉を口にした時、アレクシスの目がわずかに揺れた。
「どちらか一方だけを選べと迫られるたび、私は違うと思ってきました。きっと、神話婚はそのためにあるのではありません」
沈黙が落ちた。
アレクシスは、長く何も言わなかった。
けれどその沈黙は、拒絶ではなかった。
「私たちの神話婚の祈り、ですか」
「オルガ様にも、同じ言葉を言いました」
「おかしいでしょうか」
「いいえ。むしろ、それが必要なのだと思います」
セレネは、彼を見た。
「殿下も、そう思われますか」
「はい。古式を戻すだけでは、いつか足りなくなる。私たちは過去の神話婚をなぞるだけではなく、今の太陽国と月国の間に立つのだから」
私たち。
彼は、そう言った。
アレクシスは、自分でも気づいたのか、一瞬だけ口を閉じた。
だが、言い直さなかった。
「双月礼拝は、私も共に考えます」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
「また睡眠ですか」
「それもあります」
セレネが少しだけ眉を上げると、アレクシスは真面目な顔で続けた。
「月国側から言われたことを、傷ついていないことにしないでください」
セレネは、言葉を失った。
「貴女は処理できることと、傷つかないことは別だと言いました。あれは、貴女自身にも適用されるはずです」
逃げ道のない正論だった。
セレネは、思わず小さく息を吐く。
「殿下は、時々ずるいです」
「私が?」
「はい。私の言葉を、あとから私に返してきます」
「必要だと思ったので」
その返答があまりにも彼らしくて、セレネは少しだけ笑った。
笑ったら、胸の奥にあった重さが少し揺れた。
でも、傷つかないわけではない。
「少し、痛かったです」
セレネは小さく言った。
アレクシスは黙って聞いている。
「姉上を誇りに思っています。私の役目が外へ嫁ぐことだったのも、理解しています。それでも、月神の面影が姉上ほど強くないから、私でよかったのだと言われると、やはり少し痛いです」
声は震えなかった。
けれど、胸の奥は静かに痛んでいた。
アレクシスは、ゆっくりと口を開いた。
「私は」
そこで一度止まる。
「私は、貴女でよかったと思っています」
セレネは、息を止めた。
アレクシスは視線を逸らさなかった。
金の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
「隣に立つのが姉君ではなく、貴女で」
言葉は短かった。
甘い言い方ではない。
けれど、逃げていなかった。
セレネは何かを返そうとした。
しかし、うまく言葉にならない。
アレクシスは、少しだけ目を伏せる。
「今の言葉は、王太子として不適切かもしれません」
「では」
セレネは、胸の奥の揺れを押さえながら言った。
「アレクシス様としては?」
初めてだった。
私室でも、公務の場でも、セレネは彼をほとんど「殿下」と呼んできた。
それでも、今はそう呼んでしまった。
アレクシスの表情が、はっきりと揺れた。
長い沈黙。
けれど、彼は逃げなかった。
「……アレクシスとしても」
低い声だった。
「貴女でよかったと思っています」
セレネは、左手首の銀十字に触れた。
指先が少し震えている。
今度は灯皿の重さのせいではない。
「ありがとうございます」
それだけを、どうにか言った。
アレクシスは、ほんの少しだけ苦しそうな顔をした。
けれど、その苦しさの中に、以前のような拒絶はなかった。
「双月礼拝の草案を作りましょう」
彼は静かに言った。
「はい」
セレネも頷いた。
月国から来た手紙は、セレネを傷つけた。
同時に、アレクシスの言葉を引き出した。
貴女でよかった。
その一言は、どちらかを選べと迫る罠の中で、初めてセレネ自身を選ぶ言葉だった。
窓の外では、昼の太陽が白く輝いている。
まだ双月の夜には遠い。
けれど、セレネの胸の中にはもう、夜の光が静かに満ち始めていた。
▼おまけ
統一した方が親切かな?と思いながら、
太陽国では、神官、礼拝。太陽神が男神なので、男性王族が王になる。
月国では、祭儀官、祈祷。月神が女神なので、女性が女王になる。
という差別化を図っていました。
王権の根拠がいわゆる「王権神授説」によるもので、
太陽神が王権を託した→象徴色を与えた→王位を継ぐのは太陽神の面影のある男性
月神が王権を託した→象徴色を与えた→王位を継ぐのは月神の面影のある女性
といった文化です。
この二国は、別々の国ですが「太陽神・月神は夫婦である」というのを根拠に、小国ながら生き延びてきました。
月は二つありますが、大きい方が兄月エティス、小さい方が妹月リエスと呼ばれています。
もしお気に召されましたら、
ブックマークや★評価、誤字脱字報告頂けると大変励みになります!
ここまで読んでくださったあなたに、心より御礼申し上げます。




