12話 逃走の苦味
少女は湿った地面の上に横たわっていた。
額を貫通した穴から血がゆっくりと流れ出し、湿った土の上へと広がっていく。
地下室には重苦しい沈黙が落ちた。
誰もが、もはや命の気配を失った彼女の身体を見つめていた。
「いやあああああああっ! アルマァァァ!!」
一人の盗賊が彼女のもとへ駆け寄った。
その場に膝をつき、這うように近づく。
「アルマ! アルマ! アルマァ!!」
彼は少女の肩を掴み、必死に揺さぶった。
そしてそっと頭を持ち上げ、自分の膝の上へと乗せる。
「起きてくれ……頼む……俺はここにいる……そばにいるんだ……」
チャオは耐えきれず顔を背けた。だがザオは目を逸らさなかった。その瞳には確かな憐れみが浮かんでいた。その時だった。
檻の扉がゆっくりと開く。
誘拐犯たちが気を取られている隙に、アーサーは密かにプリンセスたちのもとへ近づいていた。
「プリンセスたち……必ずここから連れ出します……」
彼は小声で囁く。そして素早く周囲を見回した。
盗賊たちは皆、アルマの遺体の周囲に集まっている。
どうやら彼女は彼らにとって、それほど大切な存在だったらしい。
そのせいで、誰もアーサーに注意を払っていなかった。
しかも彼は事前にかけていた魔法によって、自らの存在感を薄めている。
プリンセスたちは大きく目を見開いていた。
まるで目の前の少年が人を殺したという事実を信じられないかのように。
アーサーはしゃがみ込み、二人へ手を差し伸べる。
チャオとザオは顔を見合わせた。
そして同時に、自分たちの手を彼の手へ重ねた。
「今、何を考えているのかは分かっています……」
アーサーは静かに言った。
「僕も……こんなことはしたくありませんでした」
彼は視線を逸らす。
「でも……そうしなければ、あなたたちが傷ついていたかもしれない」
アーサーは二人の手を握り、慎重に金属製の檻から連れ出した。
チャオは思わず盗賊たちへ視線を向ける。
彼らは今もなお、仲間の死を嘆いていた。俺は人を殺したのか?
アーサーの胸の奥が小さく揺れる。
でも、なぜだ?俺は今まで誰も殺したことなんてない。なのに、どうして俺はあの女に向かって躊躇なく撃った?後悔もなく?迷いもなく?
アーサーは幼い頃から魔法に優れた才能を持っていた。
その魔力量は常人を遥かに超えている。
その事実を知ってからというもの、彼は密かに図書館へ忍び込み、有名な魔導士たちの魔法を研究していた。
彼の驚異的な魔法適性は、巨大な魔法図書館で見つけたほとんどの魔法を再現可能にしていた。
だが、それでも今まで誰一人として殺したことはない。
前世の世界では、人を殺すことは最も重い犯罪の一つだった。
法がそれを裁く。
しかし、この世界は違う。
アーサーは未だにこの世界の法を十分理解していなかった。
だからこそ、自由な時間のほとんどを自身の力を鍛えることに費やしていた。
「アーサー様……」
チャオの声にアーサーは振り返る。
「これからどうするのですか?」
殺しについて聞くと思ったんだが……
アーサーはゆっくりと息を吐いた。
そして二人のプリンセスを見つめながら答えた。
「まずはここから脱出しないと」
アーサーは盗賊たちの方へ視線を向けた。
連中はまだアルマのことで手一杯だった。言い争っている者もいる。黙り込んでいる者もいる。
だが、この状況が長く続くはずがない。
遅かれ早かれ、誰かが自分たちの脱走に気づくだろう。
「自分たちがどこにいるかわかりますか?」
アーサーは小声で尋ねた。
プリンセスたちは同時に首を横に振る。
「いいえ……」
「僕もです」
彼は石造りの壁を見回した。地下室はさらに闇の奥へと続いている。廊下の一つには弱々しい松明の灯りが揺れていた。
「なら、出口を探しましょう」
「うん……」
「もし見つかったら、どうするの?」
アーサーは視線を落とし、盗賊たちの方を見た。
「その時は……戦います」
「戦う?」
その言葉を聞いた瞬間、チャオはその場にしゃがみ込んだ。
「プリンセス!」
アーサーはすぐに駆け寄り、彼女の肩を支えた。
隣にいたザオもすぐに膝をつき、妹のそばへ寄る。
「ご気分が悪いのですか、殿下?」
「だ、大丈夫……」
「こういうこともあります……」
アーサーは慌てて盗賊たちの方を振り返った。
すでに子供たちがいなくなったことに気づいている。
「どこへ行った!?」
「あのガキを殺してやる!」
「だから言っただろう! プリンセスなんかに手を出したら俺たちは終わりだって!」
アーサーはチャオへ視線を戻した。
高まる恐怖のせいで、彼女は立ち上がることすらできない。
「プリンセス、急がないと! 歩けますか?」
「だ、大丈夫……歩けます……」
チャオは妹に支えられながら立ち上がろうとした。 だが、再び足が崩れ落ちる。
仕方ない……
アーサーは二人に背を向け、その場にしゃがみ込んだ。
「プリンセス。よろしければ、僕がお運びします」
こんな状況にもかかわらず、チャオは頬を赤らめた。
それでも小さく頷く。
「ザオ王女、手伝ってください」
「わかった!」
ザオは妹を支えながら、ゆっくりとアーサーの背中へ導いた。アーサーはチャオを背負い、その脚をしっかり支える。
チャオは何も言わなかった。アーサーは彼女の表情を見ることができなかった。
だが、プリンセスの心臓が激しく鼓動しているのははっきりと伝わってきた。
「しっかり掴まっていてください」
チャオは黙って頷いた。ザオは不安そうに後ろを振り返る。地下室の奥からはすでに怒鳴り声が聞こえてきていた。
「いたぞ!」
「あっちだ!」
「探せ!」
アーサーは歯を食いしばった。まずい……
彼はもう一度、前方の暗い通路へ視線を向ける。選択肢はなかった。
「走りましょう」
三人の子供たちは駆け出した。
正確には走っているのはアーサーとザオだけだった。
チャオはアーサーの肩にしがみつき、必死に後ろを見ないようにしている。松明の光が次々と流れていく。湿った地下通路は果てしなく続いていた。背後からは徐々に足音が近づいてくる。
「逃げたぞ!」
「急げ!」
「逃がすな!」
ザオの顔が青ざめた。
「追いつかれる……」
「わかっています」
アーサーは勢いよく角を曲がった。その瞬間、彼の頭のすぐ横を魔法の弾丸が通り過ぎる。
石壁が爆発し、破片が飛び散った。
「くそっ……」
もう魔法を使い始めたか。囲まれたら終わりだ。三人は薄暗い地下通路を走り続けた。しかし――
突然、目の前に石壁が現れる。
「行き止まり?」
くそっ!
「捕まえたぞ!」
「短い逃走だったな!」
盗賊たちは唯一の通路を塞ぐように立ちはだかった。武器を抜き、魔法を構えながら戦闘態勢に入る。
「殺す! 殺す! 殺す! 殺す! 殺すゥゥゥ!!!」
アーサーは静かにチャオをザオへ預けた。
「ザオ王女……チャオ王女をお願いします」
「あなたは?」
「僕が時間を稼ぎます。その間に逃げてください!」
ザオは目を見開いた。その表情はすぐに不満そうなものへ変わる。
「はぁ!? 私も一緒に戦うわ!」
「チャオ王女のそばにいる人が必要なんです!」
少女は言葉を失った。そして不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ふん! バカ……」
そう言いながら、ザオはアーサーを離そうとしないチャオを優しく支えた。
「お姉ちゃん、待って! アーサーを置いていくわけじゃないよね!?」
「もちろん置いていかないわ!」
チャオはザオの腕からゆっくりと地面へ降りた。
だが、その足は震えていた。何度も崩れ落ちそうになりながら、必死に立っていた。
アーサーはチャオを見つめた。
彼女の顔は青白かった。それでも、彼女は立っていた。震えながら。かろうじてバランスを保ちながら。
それでも、立っていた。
「殿下……」
チャオはアーサーを見上げた。その瞳にはまだ恐怖が残っている。しかしそこには少しずつ、意志が生まれていた。
「怖い……」
小さく彼女は告げる。
「とても怖い……」
ザオは彼女の手を強く握った。
「姉さん……」
チャオは深く息を吸った。
「でも私はプリンセスです」
盗賊たちは顔を見合わせた。そして一人が大声で笑う。
「プリンセスだと?」
「それで小さなプリンセスが何をするっていうんだ?」
「泣くのか?」
数人がそれに続いて笑った。アーサーはゆっくりと一歩前に出る。
手を伸ばしながら。
「最後の警告です」
「おいおい」
「また指を向けてるぞ?」
「もう一回やってみろよ?」
アルマの亡骸はまだ数十メートル後ろにあった。
しかし恐怖はすでに薄れ始めていた。
あれは偶然だったのだと、自分たちに言い聞かせていた。
ただ運が悪かっただけだと。首領が手を上げる。
「捕まえろ」
盗賊たちが一斉に飛びかかった。
アーサーは目を細める。
時間がゆっくりになったように感じた。彼は一人ひとりの動きを見ていた。
顔に浮かぶ汗の一滴までも。
魔力が指先に収束していく。淡い青い光が地下の闇に浮かび上がった。その時ようやく、盗賊たちの笑みが消え始める。
「待て……地震じゃないか?」
誰かが呟いた。地面が大きく揺れた。天井から小石が落ちてくる。盗賊たちの表情が一変する。地下にいる時の地震は最悪の状況だったそして天井が轟音と共に破壊された。岩と土埃が一気に舞い上がる。
何かが猛烈な勢いで、子供たちと盗賊たちの間に落下した。
アーサーは瞬時にチャオとザオを庇う。衝撃波が顔を打った。土煙が視界を覆う。数秒間、誰も何も見えなかった。
そして煙が薄れていく中で、アーサーはその姿を捉えた。
「……お母さん?」




