第4章:「妊娠? ああ、気のせいだったわ」狂い始める歯車
麗奈が義実家に引っ越してきてから、わずか数日でその家のヒエラルキーは完全に崩壊した。
いや、正確には「麗奈という絶対君主」が誕生したのだ。
「お義母さん、お茶。あと肩が凝ったから揉んでくださる?」
リビングの特等席である大きなソファを占領し、スマホをいじりながら麗奈が顎で指示を出す。
かつて美咲を「不良品」と罵り、ふんぞり返っていた和子は、今やエプロン姿でオロオロと這いつくばるように動いていた。
「あ、はい……すぐにお持ちしますよ、麗奈さん。でも、お腹の赤ちゃんに障るといけませんから、あまり無理は……」
「は? 私の体に指図しないでくれます? さっさと持ってきてって言ってるんです」
ピシャリと言い放たれ、和子はビクッと肩を震わせてキッチンへ逃げ帰った。
健太はといえば、自分の上司であり、これからの出世の命綱でもある麗奈に全く頭が上がらない。和子がコキ使われるのを横目で見ながら、愛想笑いを浮かべて小さくなっているだけだった。
「あのさ、麗奈さん。そろそろ夕飯なんだけど……」
健太がおずおずと尋ねると、麗奈は心底馬鹿にしたようなため息をついた。
「お義母さん、私の時給いくらか知ってます? 家事みたいな生産性のない無駄な作業、私がやるわけないじゃないですか。さっさと夕飯作ってくださいよ」
「ヒッ……わ、わかりました! すぐ作りますから!」
和子は悲鳴のような声を上げ、大慌てで冷蔵庫を漁り始めた。
優秀な遺伝子を残してくれる、キャリアウーマンの素晴らしいお嫁さん。
和子と健太が思い描いていた輝かしい未来は、早くも地獄の奴隷生活へと姿を変えていた。
その頃、私――美咲は、実家の自分の部屋で温かいハーブティーを飲んでいた。
窓から差し込む朝の光が心地よい。あの息の詰まる義実家での生活が嘘のように、穏やかで静かな時間が流れていた。
「美咲、ご飯できたわよー」
「はーい、今行く!」
下の階から呼ぶ母の声に返事をし、私は大きく伸びをした。
理不尽な暴言も、冷たい視線もない。心身ともにすり減っていた私にとって、実家での生活はまさにオアシスだった。
健太との離婚手続きもスムーズに進み、私は今、新しく事務のパートの面接を受けようと準備をしているところだ。
(あの人たちが今どうなっているか……まあ、私にはもう関係のないことね)
憑き物が落ちたように体が軽い。私は前を向いて、自分の人生を再出発させることだけを考えていた。
一方、義実家の空気は日を追うごとに限界へと近づいていた。
麗奈が同居を始めて一ヶ月。あれほど我が物顔で振る舞う麗奈だが、彼女の口から「病院」や「検診」といった言葉は一度も出てこない。酒も平気で飲むし、休日は夜遅くまで遊び歩いている。
ついに痺れを切らした和子が、ある晩、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……麗奈さん。そろそろ産婦人科に行ったほうがいいんじゃ……。いくらなんでも、お酒も控えませんと、ウチの大事な跡取りが……」
その言葉に、グラスでワインを飲んでいた麗奈は「ん?」と首を傾げた。
そして、悪びれる様子もなくカラカラと笑い出したのだ。
「ああ、妊娠? あれ、気のせいだったわ」
「……え?」
和子と健太は、揃って間の抜けた声を上げた。
「生理が少し遅れてただけ。この前ちゃんと来たから、完全に勘違いだったわ~。まあ、私みたいなバリキャリはストレスも多いから、よくあることなのよね」
あっけらかんと言い放ち、麗奈は再びワインを口に運んだ。
その瞬間、和子の中で張り詰めていた糸がブチッと音を立てて切れた。
孫という唯一の希望のために、この横暴な女の奴隷扱いを耐え忍んできたのだ。
それが全て勘違いだったと?
「ふ、ふざけるな……! ふざけるんじゃないわよ!!」
鬼のような形相になった和子が、テーブルをバンッと叩いて立ち上がった。
健太が慌てて止めようとするが、怒りで我を忘れた和子の口からは、言ってはいけない最悪の暴言が飛び出した。
「この役立たず! 散々私をこき使っておいて、妊娠してないですって!? あんたも結局、あの美咲と同じ『石女』じゃないの!!」
静まり返るリビング。
ワイングラスを置いた麗奈の目が、スッと爬虫類のように細められた――。




