第3章:「俺の子を妊娠したんだ!」あり得ない奇跡と愚かなドヤ顔
「美咲。お前に、信じられないくらい素晴らしい知らせがあるぞ」
ニヤニヤとだらしない笑みを浮かべた健太が、リビングのソファにふんぞり返りながら口を開いた。その顔には、隠しきれない優越感と傲慢さが張り付いている。
「……素晴らしい知らせ?」
夕食の片付けの手を止め、私は訝しげに夫を見つめた。
昨夜の口論から一転、不気味なほど上機嫌な彼に、嫌な予感しかしない。
「ああ。実はな……俺の子を妊娠したんだよ!」
「え……?」
健太の言葉に、私は自分の耳を疑った。
妊娠? 誰が?
私たちはここ数ヶ月、まともな夫婦生活すら送っていない。それに何より、健太は――。
「上司の麗奈さんが、俺の子供を授かってくれたんだ! だからお前とはもう終わり。離婚してくれ!」
あまりにも堂々とした不倫宣言、そして妊娠の報告。
その言葉の異常さに私の思考が停止していると、タイミングよく義母の和子が部屋に飛び込んできた。
どうやら、扉の向こうで今の話を立ち聞きしていたらしい。
「まあ! 本当なの健太!? 上司の麗奈さんが、ウチの孫を!?」
「ああ、母さん! ついに俺の優秀な遺伝子を残せるんだ!」
「でかしたわ! やっぱり健太は最高の息子ね!」
手を取り合って歓喜の声を上げる義母と夫。その狂気に満ちた光景を前に、私はようやく絞り出すように声を上げた。
「待って……妊娠って……。健太、あなたは無精子症だったはずじゃ……?」
そう、それが一番の謎だ。
健太には精子がない。クリニックで確実にそう診断されたのだ。
奇跡でも起きない限り、自然妊娠など絶対にあり得ない。
私の指摘に、健太は鼻で笑って肩をすくめた。
「だから、あの検査は誤診だったって言ってるだろ! 麗奈さんが妊娠したんだから、俺の身体が正常だって完全に証明されたわけだ。つまり――」
健太は私を小馬鹿にするように指を突きつけた。
「ごめんな美咲、俺の優秀な遺伝子はお前の体じゃ受け止めきれなかったみたいだ。慰謝料も財産分与もなしで、さっさと出ていってくれ」
「そうよそうよ! 石女の不良品は、一刻も早くこの家から出ていきなさい!」
勝ち誇る健太と、それに便乗して私をゴミのように罵倒する義母。
私は彼らの醜い顔を交互に見つめながら、絶望するどころか、スッと冷めていく自分を感じていた。
(ああ、この人たちは救いようがない)
無精子症の夫が、外の女性を妊娠させる。
それが意味することはただ一つ。麗奈という女性のお腹にいるのは、『絶対に健太の子供ではない』ということだ。
しかし、誇大妄想にとり憑かれた健太は、その残酷な真実に全く気づいていない。
それどころか、他人の子供を「自分の優秀な遺伝子」だと信じ込み、有頂天になっているのだ。
「……わかりました。離婚します」
「ふん、物分かりが良くて助かるよ。明日には麗奈さんが引っ越してくるからな」
もはや彼らにかける言葉すら見つからなかった。私は静かに離婚届にサインをし、必要最低限の荷物だけをまとめて、逃げるようにその家を後にした。
***
数時間後。
私が去ったばかりの義実家に、大きなキャリーケースを引いた麗奈が意気揚々と足を踏み入れた。
「麗奈さん、よく来てくれたね! 今日からここが君の家だよ!」
「よくいらっしゃいました、麗奈さん! ささっ、荷物はこちらへ!」
健太と和子が、まるで女王様でも迎えるかのように媚びへつらいながら出迎える。
麗奈はヒールの音を響かせてリビングを見渡すと、フッと冷たい笑みを浮かべた。
「まあ、思ったより狭くて古臭い家ね。……で? お義母さん、私の夕飯の準備はできてるの?」
その横柄な態度と予想外の言葉に、歓迎ムードだった義母の顔がピクッと引きつった――。




