第2章:歪んだ正義。俺は親孝行な被害者だ
「はぁ、今日も疲れたな。美咲、お茶淹れてくれ」
実家から帰宅するなり、俺はソファにどっかりと腰を下ろした。ネクタイを緩めながらため息をつく。
キッチンに立つ妻の美咲は、母さんからの小言を聞かされたせいか、お通夜のように暗い顔をしていた。
まったく、疲れて帰ってきた夫を労わる笑顔くらい見せられないのか。
俺だって、あの息の詰まる夕食の被害者なのだ。
そもそも、あのヤブ医者の誤診がすべての元凶である。
『無精子症』。
何度思い返しても腹立たしい。冗談じゃない。一流大学を出て、誰もが知る大企業で順風満帆な出世コースを歩んでいる俺が、種無しなわけがないのだ。俺の経歴は完璧で、身体も健康そのもの。そんな致命的な欠陥があるはずがない。
絶対にあの検査は間違っていた。どこかの誰かの検体と取り違えたに決まっている。
それなのに、美咲はいつまでもあの誤った検査結果を引きずっている。
「ねえ、健太……。お願い、もう限界よ。お義母さんに、本当のこと……あなたの検査結果のことを話して」
温かいお茶をテーブルに置いた美咲が、すがるような目で俺を見下ろしてきた。
その被害者ぶった顔を見た瞬間、俺の中でカチンと何かが弾けた。
「本当のこと? まだそんな馬鹿なことを言ってるのか!」
ドンッ!と力任せにテーブルを叩くと、美咲がビクッと肩を揺らした。
「だからあれは誤診だって言ってるだろ! 大体な、母さんを悲しませて平気なのか? たった一人の息子の俺に『欠陥がある』なんて知ったら、母さんがどれだけショックを受けるか分からないお前じゃないだろう!」
そうだ。俺は親思いの優しい息子なのだ。
親を絶望させるような嘘の診断結果など、口が裂けても言えるわけがない。
「俺が正常で、お前に問題があるってことにしておけば丸く収まるんだ。親を安心させるために泥をかぶるくらい、妻の務めだろうが。親不孝者め!」
俺の完璧で思いやりのある理論に、美咲は顔を青ざめさせ、唇を震わせた。
「でも、お義母さんの言葉はあんまりよ……。私、もう耐えられない。それに、あなたさっきスマホに……」
「うるさい!」
俺は美咲の言葉を強引に遮り、立ち上がって彼女を威圧するように見下した。
「お前、俺のプライドを傷つけて楽しいのか!? 専業主婦で養ってもらってるくせに、恩知らずな女だな!」
そうだ、美咲は俺の稼ぎで飯を食っているのだ。
俺という優秀な夫に養われている分際で、俺の完璧な経歴に傷をつけようとするなんて絶対に許されない。
俺の正論に打ちのめされたのか、美咲はついにポロポロと涙をこぼして黙り込んだ。反省しているのだろう。まったく、手のかかる妻だ。
泣き崩れる美咲を見下しながら、俺は内心で鼻で笑った。
俺には今、こんな暗くて面倒な妻の相手よりも、もっと重要なことがあるのだ。
頭に思い浮かぶのは、職場の優秀な上司であり、俺の秘密の恋人でもある『麗奈』の美しい顔だった。実家での夕食中、彼女から『昨日は最高だったわ♡ 明日も早く会いたいな』と愛らしいメッセージが届いていたのを思い出す。
麗奈は俺の真の価値を理解してくれている。美咲のような石女とは違い、彼女との未来こそがエリートである俺に相応しい。
――そして翌日の夜。
麗奈との密会を済ませて帰宅した俺は、自分の人生が完全に勝者のルートに乗ったことを確信していた。笑いが止まらないとはこのことだ。
リビングでは、美咲が相変わらず暗い顔で夕飯の準備をしている。
俺はそんな哀れな妻の元へゆっくりと歩み寄り、勝ち誇ったような最高の笑みを浮かべて言い放った。
「美咲。お前に、信じられないくらい素晴らしい知らせがあるぞ」




