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【Bar風花】第二章 フレンチ75〜泡立つ喝采〜

【Bar風花】第二章 フレンチ75〜泡立つ喝采〜


※本編とは独立した、静かな祝賀の一幕です。

※戦闘も恋愛もありません。ただ、アンサンブル合格の報告に来た凛と、一杯の泡立つカクテル、そして「喝采」の本当の意味だけ。


前回『アドニス』で謙虚さを学んだ結城凛が、再びBar風花へ。

合格の喜びを携えて訪れた彼女に、美和が振る舞うのは1915年パリ生まれの祝祭のカクテル『フレンチ75』。


シャンパンの無数の泡が奏でる、華やかで優しい喝采の物語。


カウンターの鉄刀木に映る、黄金色の新しい幕開けをお届けします。

 冬の星座が、風花町の夜空に冴えざえと浮かんでいた。澄み渡った空気は頰を刺すように冷たく、しかし凛の足取りは軽やかだった。石畳を叩く音が、小さなタップダンスのようにリズムを刻む。以前の焦燥に満ちた重い歩みとは、もう違う。


 『Bar 風花 ―kazahana―』の重厚なオーク材の扉の前に立ち、結城凛ゆうき りんは一度、深く息を吸った。扉を押し開けると、店内はいつもの静けさに包まれ、どこか懐かしい桜の香りがふわりと漂ってきた。


 「……こんばんは、美和さん。天さん」


 鉄刀木のカウンターの奥で、櫻庭美和が顔を上げた。ワインレッドとアンバーの異色瞳が、穏やかに凛を捉える。


 「お帰りなさい、凛さん。随分と、晴れやかなお顔をしていらっしゃいますね」


 美和の声が、静かな波紋のように店内に広がった。


 「ええ。……今日は報告に来たの。オーディション、合格したわ」


 凛はカウンターのスツールに腰を下ろしながら、弾むような声で続けた。


 「アンサンブルの枠。でもね、不思議なの。自分の名前が呼ばれた瞬間、真っ先に浮かんだのは、この場所で飲んだあのアドニスの味だったわ」


 天が、自らのことのように目を細めて頷いた。


 「それはおめでとう、凛さん。自分を鏡に映すのではなく、舞台という世界そのものを見ている目だ」


 「ええ。私が『一部』になることで、舞台が完成するんだって、ようやく分かったから」


 美和は、磨き上げたばかりのクリスタルグラスをそっとカウンターに置いた。指先の動きが、まるで大切な宝物を扱うように優しい。


 「素晴らしいですね、凛さん。……今夜は、あなたの新しい幕開けに相応しい、特別な『祝祭の序曲』を奏でましょう」


 美和の所作が、再び凛の目を奪った。


 バックバーから滑らかに取り出されたのは、タンカレー No.TEN。続いて、深いセラーから恭しく運ばれてきたのは、ポル・ロジェのシャンパンだった。


 「お作りするのは、『フレンチ75』。一九一五年、第一次世界大戦下のパリで生まれたカクテルです。その名は、当時フランス軍が誇った傑作野砲『七十五ミリ砲』に由来します」


 美和は冷やし込まれたシェイカーにジンを注ぎ、手搾りのレモンジュースとシュガーシロップを加えた。氷を入れ、鋭く、けれど優雅にシェイクする。銀色のシェイカーが、店内の柔らかな照明を反射しながら軽やかに鳴った。


 「七十五ミリ砲の破壊力を持つと言われるほど、ベースは力強い。しかし、そこにシャンパンを加えることで、このカクテルは至高の祝祭へと姿を変えるのです」


 仕上げに、シャンパンのコルクが抜かれた。「シュポン」という控えめな音が、まるで劇場の幕が上がる合図のように店内に響き渡った。


 美和はフルートグラスに液体を注ぎ、その上から冷えたシャンパンを満たした。グラスの底から、無数の真珠のような泡が、一斉に天へと昇っていく。

 

 「お待たせいたしました。カクテル、フレンチ75。……凛さん、あなたの新しいステージに、乾杯を」


 凛は、黄金色に輝くグラスを手に取った。一口含むと、ジンの力強いボタニカルの香りがレモンの酸味と弾け、それをシャンパンの芳醇な泡が優しく包み込んだ。


 「……美味しい。なんて華やかなの」


 声が、自然と漏れた。


 「それは、シャンパンという『アンサンブル』が加わったからですね」


 美和が、静かに語りかける。


 「シャンパンは、それ単体でも完成された王者の酒です。けれど、こうして強い酒や酸味と手を取り合うことで、さらに複雑で、奥行きのある世界を作り出します。このグラスの中にある無数の泡……一つひとつは小さくても、重なり合うことで絶え間ない輝きを生みます。……それは、あなたがこれから舞台の上で浴びる、無数の喝采そのものに見えませんか?」


 凛は、吸い込まれるようにグラスの中の気泡を見つめた。泡は次から次へと生まれ、踊るように上昇していく。まるで自分のこれからを映しているようだった。


 ピアノのBGMが、凛の未来を祝うセレナーデのように流れていた。カウンターの端で、天が自分の腕時計に目をやった。彼の手首で刻まれる一分一秒は、かつての凛の焦燥とは違い、今は確かな足跡を積み重ねるための静かな伴奏のようだった。


 「凛さん。良い音楽には、休符や伴奏が必要だ。今の君のフレンチ75がこれほど美味しいのは、君の中に確かな『和音』が生まれたからだね」


 凛は小さく微笑んだ。


 「私、今度の舞台が楽しみで仕方ないの。最高の『ピース』になってみせるわ」


 凛が店を出る頃、夜の風はまだ冷たさを残しながらも、どこか春の予感を含んでいた。


 「凛さん。舞台という聖域は、あなたが愛した分だけ、あなたを愛してくれます。……いってらっしゃいませ。あなたの喝采を聞ける日を、楽しみにしておりますね」


 美和の言葉に見送られ、凛は路地へと踏み出した。扉が静かに閉まり、再びBar風花に深い静寂が戻る。


 「……いい夜になったね、美和さん」


 「ええ。彼女が自分の力で掴んだ、本物の『光』ですから」


 美和は、凛が使ったフルートグラスを手に取った。グラスの底には、まだ一粒の泡が、まるで次に上がる幕を待ちわびるように、静かに残っていた。


 磨き上げられた鉄刀木のカウンターの上。


 そこには、凛の決意という名の芳醇な余韻と、微かな桜の香りだけが、いつまでも温かく漂っていた。

あとがき


 『フレンチ75〜泡立つ喝采〜』をお読みいただきありがとうございます。


 アンサンブル合格の凛が、一杯の泡立つカクテルを通じて「一人ではない喝采」の喜びを知る――


 前回の『アドニス』から続く、彼女の静かな成長を描きました。


 シャンパンの泡のように、小さくても重なり合うことで輝く舞台。


 そんな温かい余韻が、少しでも心に残れば嬉しいです。


 またいつか、別のグラスで。


天照(Bar風花)

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