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【Bar風花】第二章 アドニス~謙虚という名の喝采~

【Bar風花】第二章 アドニス~謙虚という名の喝采~


※本編とは独立した、静かな一幕です。

※戦闘も恋愛もありません。ただ、挫折した若きミュージカル女優と、一杯のカクテル、そして「謙虚」という名の深い味わいだけ。


 ブロードウェイの主役を目指す結城凛が、雨の夜にBar風花へ飛び込んできた。


 苛立ちと焦燥をぶつける彼女に、美和が振る舞うのは1884年誕生の伝説のカクテル『アドニス』。


 シェリーとベルモットの琥珀色に溶け込む、喝采と謙虚の物語。


 カウンターの鉄刀木が静かに灯す、優しい気づきの時間をお届けします。

 雨に濡れたアスファルトが、街灯の橙色をぼんやりと反射している、風花町。

 その細い路地の突き当たりに、重厚なオーク材の扉が静かに佇んでいた。


『Bar 風花 ―kazahana―』


 扉を開けると、ひんやりとした静寂と、微かな桜の香りが立ち込めている。鉄刀木の一枚板で作られたカウンターの奥で、バーテンダーの櫻庭美和さくらば みわが、クリスタルグラスを磨いていた。


 カッ、カッ、カッ!


 その静寂を破るように、激しい足音が近づいてくる。

 扉が勢いよく開き、一人の若い女性が滑り込んできた。


 結城凛(ゆうき りん)


 彼女は、ブロードウェイの舞台を目指すミュージカルの卵だ。勝ち気な眉、鋭い視線、そして隠しきれない苛立ち。濡れたトレンチコートを脱ぎ捨て、カウンターに座るなり、彼女は吐き捨てるように言った。


 「……一番強くて、一番華やかなやつを。私が『主役(センター)』に相応しいって、世界に思い知らせてくれるような一杯を頂戴」


 美和は、磨いていたグラスを置き、ワインレッドとアンバーの異色瞳を静かに向けた。

 その視線は、凛の苛立ちの奥にある、剥き出しの焦燥を見透かしているようだった。



 

第一章 不協和音のステージ


 「オーディション、またダメだったのかい……」


 カウンターの端で、愛用のIWC・マークXXのゼンマイを巻いていた櫻庭天さくらば あまねが、穏やかな声で言った。ルポライターとしての直感か、あるいは彼自身の持つ「神話的」な洞察か。


 「……あいつら、何もわかってない!」


 凛は拳を震わせた。


 「私の声は誰よりも通る。私のダンスは誰よりも正確。なのに、審査員はなんて言ったと思う? 『君は鏡ばかり見ている。隣の人間を見ろ』って。アンサンブルからやり直せなんて、屈辱だわ。私は、喝采を浴びるために生まれてきたのに!」


 彼女の言葉は、静かなBarの空気を切り裂く不協和音だった。


 美和は何も言わず、バックバーの奥、温度管理が徹底された冷蔵庫から一本のボトルを取り出した。


 「……凛さん。華やかな喝采の物語、お一ついかがですか?」


 美和の声は、荒れた海を鎮める凪のように澄んでいた。



 

第二章 ミキシンググラスの中のブロードウェイ


 美和の所作には、一切の迷いがない。


 彼女はメジャーカップを手に取らない。

 ボトルを傾けると、透明な酒精が、重力に従ってミキシンググラスへと吸い込まれていく。


 「使用するのは、『Valdespino Fino "Inocente"(バルデスピノ フィノ・イノセンテ)』多くのフィノがステンレスタンクで発酵される中、このイノセンテは今でも伝統的なオーク樽で発酵されています。そのため、フィノ特有のシャープなキレの中に、ナッツのような香ばしさと力強いボディが宿っています。ベルモットと合わせた際にも、その個性が埋もれることがないシェリー酒です」


 「そして、『Cocchi Storico Vermouth di Torino(コッキ ストリコ ベルモット・ディ・トリノ)』スイートベルモット。『アンティカ・フォーミュラ』も素晴らしいですが、アドニスとしての一体感を重視するならコッキを推奨します。カカオやシトラス、苦味のバランスが完璧で、ワインベースとしてのフレッシュさが残っています。バルデスピノの塩気を含んだドライさと、コッキの深い甘みが重なる瞬間、カクテルに立体感が生まれます」


「そして『Regans' Orange Bitters No. 6(リーガンズ オレンジビターズ No.6)』。数あるオレンジビターズの中でも、スパイス感が強く、全体をキリッと引き締める効果があります」


 凛は、その動きを凝視した。


 ジガーを使わずに、酒の重みと空気の振動だけで完璧な分量を計る美和。

 それは、凛が追い求めている「完璧な技術」の体現だった。


 「1884年。ニューヨークのブロードウェイで、あるミュージカルが史上初の500回上演という大記録を打ち立てました。その作品の名は、《アドニス》。このカクテルは、その喝采を祝して、ウォルドルフ・アストリア・ホテルのバーで考案されたものです」


 氷を詰めたミキシンググラスの中で、バースプーンが踊る。


 キュル、キュル、キュル……


 正確に刻まれるステアの音は、メトロノームのように凛の昂ぶった心拍を整えていく。


 美和は事前に冷やしておいたカクテルグラスに、琥珀色の液体を注いだ。

 仕上げにオレンジピールを絞る。

 シュッと弾ける精油の香りが、ブロードウェイの夕暮れのような彩りを添えた。



 

第三章 琥珀色の『謙虚』


 「お待たせいたしました。カクテル『アドニス』です」


 凛は、差し出されたグラスを乱暴に手に取り、一口啜った。


 ガツンとしたアルコールの強さを予想していた彼女を待っていたのは、驚くほどまろやかで、深い奥行きのある味わいだった。

 シェリーの辛口な余韻とベルモットの甘みが、オレンジの苦味と完璧に調和している。


 「……美味しい。でも、意外だわ。500回の喝采を祝う酒なら、もっと……シャンパンみたいに弾けるものだと思ってた」


 美和は、カウンターの上のバースプーンを拭きながら、静かに微笑んだ。


 「アドニスは、ギリシャ神話に登場する美少年。その美しさゆえに女神たちに愛され、同時にその美しさゆえに命を落とす悲劇の主人公でもあります。……凛さん、このカクテルの言葉をご存知ですか?」


 凛は顔を上げた。


 「……『謙虚』それが、この一杯に込められた意味です」


 凛の動きが止まった。


 「謙虚……? 成功を祝う酒に、そんな言葉が?」


 「ええ」


 美和の異色瞳が、凛を優しく射抜く。


 「どれほど優れた主役であっても、舞台は一人では成立しません。照明、音楽、舞台装置、そして隣で踊るアンサンブル。それら全ての存在を認め、己をその一部として『調和』させる。500回の夜を繋いだのは、主役の傲慢さではなく、舞台という世界に対する演者たちの深い『謙虚さ』だったと言われています」


 凛はグラスを握る手に、思わず力を込めた。


 謙虚……その響きが、琥珀色の底にゆっくりと沈んでいく。



 

第四章 道具と、時の重み


 「……僕のこの時計もね」


 天が、左手のマークXXを差し出した。


 「これも、元々はパイロットのための道具だ。空の上では、自分を誇示するプライドは何の役にも立たない。ただ、機械を信じ、風を読み、正確に時を刻む。その『謙虚な作業』の積み重ねだけが、目的地へ運んでくれるんだ」


 凛は、自分の手元にある琥珀色の液体を見つめた。


 自分が鏡の中の自分しか見ていなかったこと。

 審査員が言った「隣の人間を見ろ」という言葉の真意。


 アモンティリャードの複雑な旨味が、彼女の凝り固まった自尊心を、ゆっくりと解かしていく。


 「……アンサンブルから、やり直せ。……そうね。私は、舞台の一部にすらなれていなかったのかもしれない」


 凛の瞳から、尖った色が消えた。

 代わりに、静かな、けれど今まで以上に力強い「光」が宿った。


 彼女は残りのアドニスを一気に飲み干すと、背筋を伸ばして立ち上がった。



 

終章 雨上がりのステップ


 「……ごちそうさま。美和さん、天さん」


 凛は財布から代金を取り出し、カウンターに置いた。

 その動作は、店に入ってきた時とは別人のように落ち着いていた。


 「次のオーディションは、アンサンブル枠で受けてみるわ。私がセンターになるために必要なのは、鏡じゃない。舞台に流れる『空気』を味方にすることだって、ようやくわかったから」


 美和は満足げに頷き、扉を開けて彼女を送り出した。


 「凛さん。舞台という聖域は、あなたが愛した分だけ、あなたを愛してくれます。……いってらっしゃいませ」


 雨は上がっていた。


 濡れたアスファルトを蹴って歩き出す凛の足音は、もはや焦燥の響きではない。


 それは、新しいリズムを刻む、確かなステップだった。


 Barのカウンター。

 空になったグラスの横には、オレンジピールの瑞々しい香りと、微かな桜の余韻だけが残っていた。


 天が時計を確認し、呟く。


 「……いい時間だね、美和さん」


 「ええ。彼女の次のステージには、きっと本当の喝采が待っていますわ」


 美和は再びグラスを手に取った。


 鉄刀木のカウンターに映る琥珀色の影は、ブロードウェイの夕暮れよりも、ずっと優しく輝いていた。

あとがき


 『アドニス ~謙虚という名の喝采~』をお読みいただきありがとうございます。


 主役の輝きだけを追い求めた凛が、一杯のカクテルを通じて「舞台は一人では成立しない」という真実に気づく――そんな、Bar風花らしい静かで温かい夜を書きました。


 華やかな喝采の裏側に、いつも謙虚という名の優しい味わいがある。


 それが少しでも心に残れば嬉しいです。


 またいつか、別のグラスで。


天照(Bar風花)

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