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【Bar風花】第二章 天ちゃんと美和さんの1日〜夜〜

【Bar風花】第二章 天ちゃんと美和さんの1日〜夜〜

※本編とは独立した、完全にゆるい日常回です。

※戦闘も事件もありません。ただ、夫婦の準備から開店、賑わい、閉店後の甘い時間まで。

※カウンターの向こう側とこちら側、鉄刀木の境界線を挟んだ愛情をお届けします。

 店内に入ると、櫻庭(あまね)はまずカウンターの端で昨日の売上伝票とレジを照合する。

 ルポライターとしての緻密な計算能力を、今は美和を支える「有能なマネージャー」として発動させていた。

 数字を追う彼の横顔は、深夜の書斎で秘密のアーカイブを眺めている時とは別人のように、冷静で鋭い。

 売上の確認を終えると、彼は愛用の掃除道具を手に取った。

 鉄刀木タガヤサンの一枚板。数多の客が酔いしれ、グラスの結露が落ちるその場所を、天は慈しむように丁寧に磨き上げていく。

 彼にとって、このカウンターを清めることは、今夜美和が振るう魔法の舞台を整える、最も神聖な仕事の一つだった。


 一方、カウンター内では美和が、冷凍庫から出したばかりの巨大な氷の塊と対峙していた。

 クリスタルのように透明な氷を、牛刀一つで鮮やかに捌いていく。

 「カツン、カツン」という硬質な音。

 余分な角を削ぎ落とし、カクテルを薄めず、最も美味しく冷やすための「丸氷」や「角氷」へと変えていく。

 その手捌きには、木花咲耶姫としての峻烈な意志が宿っているようだった。

 氷を冷凍庫へ収めると、次はフルーツの仕込みだ。

 今朝、二人で摘んだばかりのオレンジやミント。それから厳選されたレモンやライム。

 美和の包丁がリズミカルに皮を剥き、果肉を切り分けるたび、店内には爽やかな柑橘の香りが霧のように広がる。

 さらに、酒のボトルのラベルをミリ単位で整え、おしぼりを一本ずつ、客の手に触れた瞬間の心地よさを想像しながら丁寧に巻き直していく。

 一つ一つの所作に、妥協は一切ない。



 

 開店までの一時。

 準備を終えた天は、入って奥にある、客からは死角となる小さなテーブル席に陣取った。

 スペースブラックのMacBook Proを開き、漆黒のJISキーボードを叩く。

 「かな入力」特有の、雨音のような高速な打鍵音。

 彼はそこで、進行中のルポの原稿を紡いでいく。

 美和が店内の最終チェックを行う気配を感じながら、彼は言葉の海に深く潜っていく。

 背中越しに感じる彼女のプロフェッショナルな熱量が、彼の筆――いや、タイピングのリズムに不思議な力強さを与えていた。



 

 入って奥の小さなテーブル席。

 櫻庭(あまね)はスペースブラックのMacBook Proに向かい、「かな入力」による小気味よいタイピング音を響かせていた。

 ルポライターとしての思考が深海へと潜りかけていた、まさにその時。

 不意に、仄かな柑橘とミントの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

 顔を上げると、最終チェックを終えた美和が、天のテーブルのすぐ脇に立っている。

 「……天ちゃん、最終チェック終わったわよ。私、着替えてくるわね」

 言葉とは裏腹に、彼女の足は二階へと続く階段に向かっていなかった。

 美和はテーブルに両手をつき、少しだけ身を乗り出すようにして、天の顔をじっと見つめている。

 ワインレッドとアンバーの異色瞳ヘテロクロミアが、薄暗い店内の照明を反射して、とろけるような熱を帯びていた。

 天は、叩きかけていた『確定』のキーからスッと指を離し、液晶の角度を少しだけ閉じた。

 ルポライターとしての時間は、ここで強制終了だ。

 「お疲れ様、美和さん。……どうかした?」

 天がわざと少しだけとぼけた声で問うと、美和は不満げに形の良い唇を尖らせた。

 「……どうかした、じゃないわよ」

 美和は周囲に誰もいないことを(ここは自分たちの城なのだから当然だが)確認するように少しだけ視線を泳がせると、さらに天へと顔を近づけた。

 「……チャージ。……あなたがしてくれないと、私、オーナーの顔になれないじゃない」

 それは、命令でもなく、お願いでもない。

 世界でただ一人、絶対に自分を拒まない男に対する、甘えきった「おねだり」だった。

 普段、鉄刀木タガヤサンのカウンター越しに客へ見せる凛とした表情からは、絶対に想像もつかない無防備な顔。

 天は、愛おしさに胸の奥が締め付けられるのを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。

 「そうだね。……君に魔法をかけるのは、僕の最も重要な仕事だった」

 天の大きな手が、美和の華奢な背中に回り、そっと引き寄せる。

 抵抗することなく預けられたその体重と、柔らかな唇の感触。

 仕込みをしたばかりのフレッシュなフルーツの香りと、彼女自身が持つ微かな桜の匂いが混ざり合い、天の理性を激しく揺さぶる。

 「……んっ……」

 ほんの数秒。

 けれど、永遠にも似た深く甘い口づけ。

 唇が離れると、美和は熱を帯びた吐息を小さく漏らし、天の胸元に額をコツンと押し付けた。

 「……これでよし、ね」

 顔を上げた美和の表情から、先ほどまでの「甘える妻」の気配が、まるで朝靄あさもやが晴れるようにスッと消え去っていた。

 異色瞳ヘテロクロミアには、凛としたプロフェッショナルの光が宿り、口元には客を魅了する完璧で涼やかな微笑みが浮かんでいる。

 たった一つのキスを触媒にして、彼女は木花咲耶姫の現身うつしみとしての威厳と、凄腕バーテンダーとしての魂を完全にまとったのだ。

 「それじゃあ天ちゃん。……今夜も、向こうの席で私の作るお酒、ゆっくり見ていてね」

 「あ、ああ……。いってらっしゃい、オーナー」

 軽やかな、しかし隙のない足取りで、美和は二階への階段を上っていく。

 残された天は、MacBookの前にへたり込むように座り直し、大きなため息を一つ吐いた。

 (……あんな顔を見せられて、この後どうやってルポの原稿に集中しろっていうんだ……)

 唇に残る妻の甘い余韻と、これから階段を下りてくるであろう「完璧なバーテンダー」の姿。

 その振り幅の大きさに眩暈めまいを覚えながらも、天は愛用するPCの画面を再び開き、ゆっくりとキーボードに指を置くのだった。



 

 開店を告げる鐘の音こそ鳴りませんが、美和がカウンターの内側に立ったその瞬間、空気の密度が変わります。

 彼女は純白のクロスを手に、バカラのアンティークグラスを一つ一つ、執念に近い丁寧さで磨き上げます。

 クリスタルが照明を弾き、細かな虹色の輝きを鉄刀木タガヤサンのカウンターに落とす様子を、彼女の異色瞳ヘテロクロミアが静かに見守っていました。

 櫻庭(あまね)は、つい先ほどまで原稿を書いていた奥のテーブル席を立ち、迷いのない足取りでカウンターの「いつもの席」――カウンター奥左端の、彼女の仕事が最も美しく見える場所へと移動します。

 黒革のローチェアーが、彼の身体を深く、優しく受け止めました。


 天は鞄から、使い込まれたブライヤー製のパイプを取り出しました。

 丁寧にタバコ葉を詰め、マッチを擦る。シュッという小さな音と共に、甘く重厚な香りが店内の微かな桜の香りと混ざり合っていきます。

 「……ふぅ。……いい香りだ。この店の空気に、ようやく馴染んできたよ」

 青白い煙が、ランプの光を透かしてゆっくりと天井へ昇っていく。

 パイプを燻らせる天の姿は、ルポライターとしての鋭敏な感性と、愛する妻を静かに見守る守護者の包容力が同居した、独特の気品を纏っていました。


 美和はグラスを磨く手を止め、天の前にスッとコースターを置きました。

 そこには、先ほど階段の下でキスをねだった「甘える妻」の影はどこにもありません。

 「……お待たせいたしました。今夜の一杯目は、何になさいますか?」

 凛とした、けれど天だけに届く心地よい響きの声。

 「……そうだね。……少し背筋を伸ばしたい気分だ。君の『ギムレット』をくれるかな」

 美和は無言で頷くと、流れるような所作でボトルを手に取りました。

 シェイカーの中で氷が踊る「シャカシャカ」という硬質な音。それは、天にとって世界で最も信頼できるリズムです。

 ショートグラスに注がれた、乳白色に煙る液体。

 美和が差し出した一杯は、鋭い酸味の中に、庭で採れたライムの瑞々しさと、彼女の峻烈なプライドが凝縮されていました。

 「……美味しい。……これだよ、美和さん。この一杯で、ようやく僕も『Bar風花』の住人になれる気がするんだ」


 パイプの煙を一口吐き出し、天はカクテルを口に含みます。

 カウンターの上では、磨き上げられたクリスタルが静かに整然と並び、バックバーのボトルたちが琥珀色の光を放っている。

 客が訪れるまでの、束の間の静寂。

 美和は再び、静かにグラスを磨き始めます。

 天はパイプを傍らに、次の一文を頭の中で組み立てながら、愛する妻が司るこの完璧な世界を、五感のすべてで味わい尽くすのでした。

 風花町の夜は、今、ゆっくりと深まっていきます。



 

 「こんばんはー! 美和さん、今日もすっごく綺麗!」

カラン、と微かな音を立てて扉を開けたのは、風花町の常連であり、この店に明るい春の風を運び込む山﨑響子(きょうこ)だった。

 彼女の溌溂とした声に続くように、以前スーパーで出会った工務店の城島や、地元の顔なじみたちが数人、連れ立って店へと入ってくる。

 「いらっしゃいませ、響子さん。城島様も、皆様お揃いで」

 カウンターの内側で、美和は完璧な所作で一礼した。

 その右目のワインレッドと左目のアンバーが、ランプの光を受けて柔らかく微笑みの形に細められる。

 先ほどまで天と二人きりで過ごしていた「静寂の聖域」は、一瞬にして「極上の大人の社交場」へと姿を変えた。

 響子はカウンターの中央、天の座る席から二つほど空けたスツールに腰掛けると、隣でパイプを燻らせている天に向かって悪戯っぽく笑いかけた。

 「天さん、今日も定位置ですね! 相変わらず、美和さんの特等席を独り占めして。ほんと、ご馳走様です!」

 「こんばんは、響子ちゃん。……特等席を譲るつもりはないけれど、今日の美和さんのカクテルは、君たちにも等しく最高の魔法をかけてくれるはずだよ」

 天は、スペースブラックのMacBook Proの画面から視線を上げ、パイプの紫煙を細く吐き出しながら穏やかに微笑んだ。


 「もう、響子ちゃんったら。天ちゃんをからかわないで」

 美和が、少しだけ困ったような、けれど嬉しそうな声音でたしなめる。

 「それで、今夜のオーダーはいかがなさいますか?」

 「えっとね、今日は少しさっぱりして、でも甘いのがいいな。フルーツを使ったやつ!」

 「畏まりました。……城島様たちは、いつもの『タリスカー10年』のハイボールでよろしいですか?」

 「おう、頼むバイ! 美和さんの作るハイボールは、炭酸の弾け方が全然違うけんね」

 オーダーを受けるや否や、美和の空気が切り替わる。

 彼女は手早く、今朝天と一緒に裏庭で収穫したばかりのオレンジを手に取った。

 ペティナイフが鮮やかに果皮を剥き、フレッシュな果汁が絞り出される。

 そこにロンドン・ドライ・ジンの名酒『タンカレー・ナンバーテン』と、微かなホワイトキュラソーを加える。

 「シャカシャカシャカッ!」

 店内に、氷と液体が激しく、そして滑らかにぶつかり合う音が響き渡る。

 響子も城島も、そして天でさえも、美和がシェイカーを振るその美しい姿から目を離すことができない。

 それはまさに、神話の女神が現代で舞う、琥珀色の神楽かぐらだった。


 「お待たせいたしました。『朝採れオレンジのオレンジブロッサム』です。それから、城島様たちのハイボールを」

 バカラのアンティークグラスに注がれたカクテルは、淡いオレンジ色に色付き、仕上げに飾られたミントの葉が鮮やかな緑のコントラストを描いている。

 「わぁ……! すっごくいい香り。いただきます!」

 響子が一口飲むと、その顔がぱぁっと明るく輝いた。

 「美味しい! オレンジの甘さの後から、キリッとしたお酒の味がして……なんだか、大人の階段を登っちゃった気分!」

 「それは良かったわ。今朝、一番良い実をを天ちゃんが摘んでくれたのよ」

 美和が、グラスを磨きながらふふっと笑う。

 「ちょっと美和さん! さらっと惚気のろけを入れないでくださいよー! もう、このお店はお酒より二人の当てられっぷりの方が酔いそう!」

 響子のツッコミに、城島たちがドッと湧き上がる。

 「違いない! 天さん、こげな旨い果物ば毎日食わせてもらっとるなら、そりゃあ奥さんに頭が上がらんはずバイ!」

 「……ええ。一生、頭を上げるつもりはありませんよ」

 天がカウンターの端で、照れることもなく真顔で即答するものだから、店内はさらに大きな笑い声に包まれた。


 賑やかな笑い声と、グラスが触れ合う澄んだ音。

 美和は次々と入るオーダーを、乱れることのない完璧な所作で捌き続けていく。

 その額に微かに滲む汗すらも、彼女の美しさを際立たせる装飾のようだった。

 天はパイプを灰皿に置き、MacBookのJISキーボードに再び指を乗せる。

 『Bar風花』という非日常の空間で、こうして町の人々が肩の力を抜き、美味い酒と他愛のない会話で笑い合う。  

 その中心には、いつだって愛する妻がいる。

 ルポライターである彼にとって、この「賑やかで温かい日常」こそが、どんな特ダネよりも記録すべき、世界で一番尊い真実だった。

 (……美和さん。君は本当に、この町に咲く一番美しい花だ)

 「サリ、サリ……」と、天のタイピング音が、賑やかな店内のノイズに静かに溶け込んでいく。

 風花町の夜は、極上のカクテルと温かな人々の笑顔に包まれながら、ゆっくりと深まっていくのだった。



 

 「美和さん、すまんね! こっちに『ギムレット』のおかわりば!」

 「私も、さっきの美味しかったからもう一杯!」

 「畏まりました。少々お待ちくださいね」

 美和の所作に一切の乱れはない。

 しかし、カウンターの左端――特等席に座る櫻庭(あまね)の目には、シンクの横に少しずつ溜まっていくリーデルやバカラの空きグラスがはっきりと見えていた。

 (……代わってやりたい)

 天は、膝の上で無意識に拳を強く握りしめた。

 普段、家では率先して料理を作り、彼女を休ませることに至上の喜びを感じている男だ。

 愛する妻がひたすらにシェイカーを振り、合間を縫って冷たい水でグラスを洗い、再び酒を作る。

 その疲労を少しでも引き受けたくて、今すぐにでもエプロンを着け、あのカウンターの内側へ入りたいという衝動が全身を駆け巡っていた。

 しかし、天は決してその一線を越えない。

 漆黒のMacBook Proの横に置いたパイプを強く握り直し、ただジッと、押し寄せる「手伝いたい」という欲求を腹の底へと飲み込んだ。

 この分厚い鉄刀木タガヤサンの一枚板は、ただのテーブルではない。

 客のいる「現世うつしよ」と、美和が魔法をかける「聖域」とを隔てる、絶対的な境界線なのだ。

 もしここで、夫である天がカウンターの中に入り、洗い物をし始めてしまえばどうなるか。

 それは常連客たちにとって微笑ましい光景かもしれないが、『Bar風花』という非日常の魔法を打ち砕き、美和を「孤高のバーテンダー」から「ただの忙しい妻」へと引き摺り下ろす行為に他ならない。

 彼女の誇りを、プロとしての威厳を、誰よりも愛し、誰よりも尊敬しているからこそ。

 天は「何もしない」という、彼にとって最も苦しい選択を歯を食いしばって貫いていた。


 「シャカシャカシャカッ!」

 鋭いシェイキングの後、美和がカクテルをグラスに注ぎ切る。

 響子たちの前に美しい液体を差し出し、一息ついたその一瞬。

 美和は、シンクに溜まったグラスへ手を伸ばしながら、視線だけをスッと右端の特等席へ向けた。

 ワインレッドとアンバーの異色瞳ヘテロクロミアが、痛いほどの我慢を強いている夫の瞳と、真っ直ぐに交差する。

 神の直感を持つ彼女に、天の胸の内など痛いほど伝わっていた。

 今にもエプロンを奪い取りに来そうなほどの過保護な愛情と、自分の「バーテンダーとしてのプライド」を絶対に汚すまいと耐え忍ぶ、強靭な敬意。

 (……馬鹿ね、天ちゃん。そんなに思い詰めた顔をしないで)

 美和は、客たちには決して見えない角度で、ほんの僅かに、春の陽だまりのような柔らかい微笑みを夫に向けた。

 『わかっているわ。……そこで見ていてくれて、ありがとう』

 言葉を発することなく、異色瞳ヘテロクロミアがそう告げていた。

 「手伝ってくれないこと」への不満など微塵もない。

 むしろ、自分のテリトリーと誇りを完璧に理解し、この狂おしいほどの忙しさを「一人で捌き切る美しさ」を信じて、ただ黙って見守ってくれている夫が、どうしようもなく愛おしかった。


 「……ふぅ」

 美和からの視線を受け取った天は、肩の力を抜き、深く、長く息を吐き出した。

 妻からの「承認」が、彼の張り詰めていた衝動を優しく解きほぐしていく。

 天は再びパイプに火を点け、紫煙を燻らせた。

 カウンターの中の絶対的な支配者と、その最も忠実で、最も過保護な観測者。

 客たちが陽気にグラスを傾けるその空間で、櫻庭夫婦だけが、鉄刀木の境界線を挟んで、誰にも触れられない極上の信頼関係を結んでいた。

 「お待たせいたしました、城島様。……天ちゃん、そちらの灰皿、新しいものと交換するわね」

 美和が涼やかな声で、天の前に新しい灰皿を滑らせる。

 その指先が、ほんのコンマ数秒だけ、天の指に触れた。

 ひんやりとしたグラスを洗った後の、冷たくて、けれど確かな妻の体温。

 「……ありがとう、オーナー」

 天は穏やかに微笑み返し、再び漆黒のキーボードへと指を戻した。

 風花町の賑やかな夜は、そんな二人の秘められた愛情と誇りの上に、今日も美しく咲き誇っている。



 

 扉の鍵が閉まった音を合図にするように、天は特等席から立ち上がった。

 スペースブラックのMacBook Proを閉じ、パイプの灰を素早く片付けると、彼は迷うことなくカウンターの端を回り込む。

 営業中は決して越えることのなかった、鉄刀木タガヤサンの境界線。

 その内側――美和の絶対的な聖域へと、天は静かに、けれど確かな独占欲を持って足を踏み入れた。

 「……お疲れ様、美和さん。本当に、今日も完璧だったよ」

 天は無造作にシャツの袖を捲り上げながら、シンクの前に立つ美和の隣へと滑り込む。

 美和は、手にしたリーデルのワイングラスを洗う手を止め、ふっと肩の力を抜いた。

 凛と張り詰めていた背筋が、愛する夫の体温をすぐ横に感じたことで、柔らかくたわむ。

 「お疲れ様、天ちゃん。……ふふっ。営業中、ずっとこっちを見てソワソワしていたわね。大きなワンちゃんが『待て』をさせられているみたいで、少し可哀想だったわ」

 美和の異色瞳ヘテロクロミアが、からかうように細められる。

 「オーナー」としての涼やかな声から、少しだけ甘く掠れた「妻」の声への完全な切り替わりだった。


 「笑い事じゃないよ。君があんなに忙しそうにシェイカーを振っているのに、僕がただ座って見ているだけだなんて……。どんな拷問かと思った」

 天は苦笑しながら、美和の手からスポンジを優しく奪い取った。

 「さあ、代わるよ。美和さんは少し休んでて」

 「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかしら」

 美和は抵抗することなく、シンクの前を天に譲った。

 天の大きな手が、バカラやリーデルといった繊細なアンティークグラスを、驚くほど手際よく、そして丁寧に洗い流していく。

 D850やLeicaといった精密機械を扱うルポライターの指先は、極薄のクリスタルを扱うのにも長けていた。

 水流がグラスに当たり、心地よい高音が店内に響く。

 美和は、隣で自分の仕事を引き継いでくれる夫の横顔を、静かに見つめていた。

 営業中は決して手を出さず、自分のプライドを完璧に守り抜いてくれた。

 そして、札が『CLOSED』になった瞬間に、誰よりも早く労うために境界線を越えてきてくれる。

 この男の、不器用なほどに真っ直ぐで重い愛情が、冷たい水を使う美和の指先を芯から温めていくようだった。


 「……天ちゃん」

 「ん?」

 美和は、グラスをすすぐ天の背中に、そっと自身の額を押し当てた。

 洗い物をする夫の背中にすっぽりと隠れるようにして、静かに目を閉じる。

 「……背中、凄く張り詰めてたのよ。君の視線が熱すぎて」

 「それはごめん。……でも、カウンターに立つ君があまりにも綺麗だったから、どうしても目が離せなかったんだ」

 水音に混じる、甘い吐息のような会話。

 天は最後の一つのグラスを濯ぎ終えると、タオルで手を拭き、背中に張り付いている愛おしい重みを振り返って抱きしめた。

 「終わったよ。……さあ、戸締まりをして、上に上がろう」

 天が優しく美和の髪を撫でる。

 その言葉の奥には、先ほどスーパーの冷凍ケースで「シェア」を約束した、ラムレーズンとチョコミントのアイスクリームの存在、そして、それ以上に甘く長い櫻庭夫婦の夜の時間が待っている。

 「ええ。……早く、天ちゃんの淹れたコーヒーと、アイスが食べたいわ」

 美和は天の胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。

 磨き上げられたグラスたちが静かに棚に並び、『Bar風花』は再び深い眠りにつく。

 漆黒の夜の闇の中、二人の影は重なり合うようにして、甘い匂いの待つ二階へと上がっていくのだった。



 

 「……よし。美和さん、今夜は僕が一杯、君のために作るよ。プロの君には敵わないけれど……僕の『最高の一杯』を受け取ってほしい」

 天は、美和の聖域であるカウンターの内側に立ち、慎重にボトルを手に取った。

 彼が選んだのは、イタリアの至宝『カンパリ』と、甘美な『ベルモット』、そしてソーダ。

 真っ赤な液体を氷と共にステアする音は、美和のそれより少しだけ重く、けれど彼女へのひたむきな愛情がそのままリズムとなって響いている。

 「お待たせいたしました。……今夜のオーナーへの一杯は、『アメリカーノ』です」

 「……あら、天ちゃん。ステアの所作、随分と上達したわね。……いただきます♪」

 美和は、夫が自分のために用意した真っ赤なグラスを、愛おしそうに両手で包み込んだ。

 一口含めば、ほろ苦いハーブの香りと甘みが、一日の疲れを優しく解きほぐしていく。

 彼女は異色瞳ヘテロクロミアを細め、カウンター越しに見上げる夫に、世界で一番甘い微笑みを向けた。


 「……美味しい。天ちゃんの優しさが、ちゃんと味に出ているわ」

 「そう言ってもらえると、ルポの賞を貰うより光栄だよ。……さあ、アイスも食べよう。溶けないうちにね」

 天はカウンターを回り込み、美和のすぐ隣のスツールに腰を下ろした。

 二人の間には、先ほどスーパーで買ったばかりの、少しだけ溶け始めた『ラムレーズン』と『チョコミント』のカップが並んでいる。

 天は一本のスプーンを手に取ると、まずは芳醇な香りのラムレーズンを掬い上げた。

 「はい、美和さん。あーんして」

 「……もう、天ちゃん。……本当に、バカップルね、私たち」

 美和は呆れたように言いながらも、頬を林檎のように真っ赤に染めて、素直に口を開けた。

 口の中で広がるラム酒の深いコクと、冷たいクリームの甘み。

 次に彼女はスプーンを奪い取り、清涼感溢れるチョコミントをたっぷり掬って、天の口へと運んだ。

 「……ん! やっぱりこれだ。ミントの爽やかさと、チョコのパリパリ感。……美和さんと半分ずつ食べると、どうしてこんなに美味しいんだろうね」


 チョコミントの爽やかさと、ラムレーズンの重厚な甘さ。

 そして、天が作ったカクテルのほろ苦い余韻。

 いくつもの複雑な味が、深夜の『Bar風花』の空気の中で、一つの完璧な幸せへと溶け合っていく。

 「ねえ、天ちゃん。……明日の朝も、一緒に庭のハーブを摘みましょうね」

 美和は、アイスの甘さに蕩けた顔で、天の肩にそっと頭を預けた。

 天は彼女の細い肩を抱き寄せ、残ったアイスをゆっくりと片付けながら、静かに頷く。

 「もちろん。……それから、明日の朝食は僕が作るよ。君はもう少し、ダブルサイズの布団の中でまどろんでいていいから」

 カウンターの上には、二つの空になったカップと、二人の指先が絡まり合う静かな光景。

 風花町の夜は更け、神話の女神と孤独なルポライターは、ただの「アイスをシェアする幸せなバカップル」として、世界で一番甘い深夜のひとときを、心ゆくまで味わい尽くすのでした。



 

 「カチャリ」と鍵が回り、完全に『Bar風花』の一日が幕を閉じた。

 店の裏手に停められた真紅のアバルトを一瞥し、櫻庭(あまね)はWOTANCRAFTのカメラバッグのストラップを肩に掛け直す。

 「ごめんね、美和さん。僕がカクテルなんて作って飲ませてしまったから、車を置いて帰ることになっちゃった」

 「ふふ、いいのよ。たまにはこうして、天ちゃんと二人で夜風に当たりながら帰るのも悪くないわ。……それに」

 美和は、ヒールではなく歩きやすい靴に履き替えた足で天の隣に並ぶと、ごく自然な動作で彼の手を取り、その大きな掌に自分の指を絡ませた。

 「車の中だと、こうして手を繋いだまま歩けないじゃない?」

 天が作った『アメリカーノ』のアルコールと、ラムレーズンの芳醇な余韻。

 それが美和の体温をほんの少しだけ上げ、頬を桜色に染めている。

 天は、繋いだ手から伝わってくる妻の甘い熱に、どうしようもない愛おしさを覚えて、その細い指をきゅっと握り返した。

 「……そうだね。20分間、君を独り占めできるなら、歩くのも悪くない」


 風花町の夜の街並みは静かで、二人の足音だけが規則正しいリズムを刻んでいく。

 町中に張り巡らされた水路から聞こえる、サラサラという心地よい水音。

 そして、街灯の橙色の光に照らし出されて、ハラハラと舞い散る夜桜の花びら。

 「……綺麗な夜ね。少し前までは冷え込んでいたのに、すっかり春だわ」

 美和が、空を仰ぐようにして歩調を緩めた。

 天は彼女の歩幅に合わせ、少しだけ身を寄せる。

 「君が木花咲耶姫だからかな。美和さんが歩く道には、いつも見事な花が咲く気がするよ」

 「もう。ルポライターのくせに、どうして私に対してだけ、そんなにポエティックな台詞がスラスラ出てくるのかしら」

 呆れたように言いながらも、美和は天の腕にすり寄るようにして体重を預けた。

 チョコミントの清涼な香りが、春の夜風に溶けていく。

 Barのカウンターでは「完璧なオーナーと、それを見守る客」という一線を引いていた二人が、今はただの「少しお酒の入った、甘えん坊の妻と過保護な夫」に戻っている。


 「天ちゃん」

 「ん?」

 「……なんだか、少し酔っちゃったみたい。あなたが作ったカクテル、愛情が重すぎてアルコール度数より効くのかしら」

 「そりゃあ、世界で一番愛している人に向けてステアしたからね。……歩くの、辛い? おぶって帰ろうか」

 天が真剣な顔で屈み込もうとするのを、美和は慌てて引き止めて笑い声を上げた。

 「だめよ、こんなところで。誰かに見られたら、明日スーパーで城島さんたちに何を言われるか分かったものじゃないわ」

 「誰も見ていないさ。……この世界には今、僕と美和さんしかいないから」

 じゃれ合いながら、笑い合いながら歩く20分間。

 それは、途方もない寿命を持つ神々としての時間感覚からすれば、瞬きにも満たないほど短い。

 しかし、この「人間の夫婦」として寄り添い、体温を分け合いながら歩く他愛のない時間こそが、彼らにとっての永遠だった。

 やがて、夜の静寂に包まれた神社の鳥居が見えてくる。

 その裏手に佇む、四季を問わず桜と柑橘が香る平屋。

 「着いたね、美和さん。僕たちの家に」

 「ええ。……ただいま、天ちゃん」

 玄関の鍵を開け、二人は世界で一番安全で、甘い匂いのする自分たちの城へと足を踏み入れる。

 風花町の夜風が最後に二人の背中を優しく押し、扉が閉まる。

あとがき


『天ちゃんと美和さんの1日 夜』をお読みいただきありがとうございます。


カウンターの聖域を守りながら、ただ黙って見守る夫と、完璧に魔法を振るう妻。

営業中は一線を引いて、閉店後は甘えん坊になる二人。

そんな何気ない一日を、ありのままに書いてみました。


Bar風花の夜は、今日も静かに、でも確かに、愛情で満ちています。


またいつか、別のグラスで。


天照(Bar風花)

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