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【Bar風花】第二章 ヴァージン・パープル・ヘイズ〜紫煙の記憶、果実の楔(くさび)〜

【Bar風花 閑話】ヴァージン・パープル・ヘイズ


※本編とは独立した、穏やかな家族の一幕です。

※戦闘も恋愛もありません。ただ、庭で摘んだベリーと、十六歳の息子と、一杯のノンアルコールカクテルだけ。


 春の陽光の下で父・天、妻・美和、そして久しぶりに訪れた息子・海里が一緒に摘んだブラックベリー、ラズベリー、苺。

 夜のBar風花で、美和がその「思い出」を紫色の霧に閉じ込めて振る舞うノンアルコールカクテル『ヴァージン・パープル・ヘイズ』。


 「幸せなひととき」という名の、甘酸っぱい楔。


 カウンターの向こうで微笑む美和と、初めて見つけた居場所の味を、どうぞ。

 風花町の春は、陽光がハーブや果実の香りを物理的な重みへと変える季節だ。


 櫻庭家の裏手に広がる庭園。

 そこには、四季を問わず、この土地の精霊に守られているかのように豊かな恵みが実を結ぶ聖域がある。


「——見て、海里くん。このブラックベリー、お月様みたいに丸くてピカピカだよ」


 櫻庭美和(みわ)が少し大きなエプロンの裾を揺らしながら、楽しそうに声を上げた。

 その指先には、濃い紫色の果実が宝石のように乗っている。


 櫻庭(あまね)は、その隣でカメラを構え、ファインダー越しに二人を見つめていた。


 隣に立つのは、天の息子、海里。十六歳。


 別れた元妻と暮らす彼が、久しぶりにこの家を訪ねてきた。

 高校一年生という多感な時期特有の、どこか居心地が悪そうな、けれど好奇心を隠しきれない少年らしい横顔。


 海里から見れば、父が新しく選んだ妻・美和は、およそ「母親」という記号からは程遠い存在だった。


 外見は二十代。

 透き通るような肌と、穏やかで瑞々しい仕草。

 自分とは恐らくひと回りほどしか離れていない彼女は、母というよりは、どこか浮世離れした「親戚の綺麗なお姉さん」といった風情だ。


 「……本当だ。こっちのラズベリーも、すごく赤い」


 海里は戸惑いながらも、美和に促されるまま、苺やクランベリーを籠に収めていく。


 美和は陽に焼けるのを気にする様子もなく、「あ、こっちはまだ酸っぱいかな?」「こっちは合格!」とはしゃぎながら、収穫を楽しんでいる。


 その無邪気で優しい笑顔に、海里の緊張は少しずつ、初夏の陽光に溶ける氷のように解けていった。




 夜の帳が下り、風花町の路地の奥に『Bar風花-kazahana-』の真鍮のプレートが鈍く光り始める。


 「……ここが美和さんのお店なの?」


 海里は、昼間ののどかな自宅とは違う、重厚なオーク材の扉を前に足を止めた。


 天は何も言わず、ただ息子の背中を軽く押す。


 扉を開けた瞬間、海里は息を呑んだ。


 外界の湿り気を一切遮断した、完璧な静寂。


 鉄刀木タガヤサンの一枚板カウンターが、磨き上げられた黒い鏡のように、店内の柔らかなアンバー色の光を反射している。

 耳障りにならないボリュームのジャズが、霧のように空間に溶けていた。


 そして、海里を最も驚かせたのは、カウンターの向こう側に立つ「彼女」だった。


 昼間、庭で苺のヘタを取って笑っていた、あのふんわりした「お姉さん」はどこにもいない。


 そこに立っていたのは、白いジャケットを隙なく着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばした、一人の峻烈なバーテンダーだった。


 「いらっしゃいませ。……ようこそ、Bar風花へ」


 美和の声は、昼間のそれよりも低く、心地よい緊張感を伴って響く。


 その異色瞳ヘテロクロミアは、ランプの光を受けて神秘的に輝き、まるで海里の心の奥底にある小さな不安までをも見通しているかのようだった。


 「……美和……さん?」


 海里はおそるおそる、黒革のローチェアーに身を沈めた。


 目の前に立つ美和からは、不可侵の聖域を守るプロフェッショナルとしての、圧倒的な気迫が漂っている。

 あまりのギャップに、海里は言葉を失い、ただ圧倒されていた。




 「海里くん。……今夜は、あなたのために今日私たちが庭で収穫した『思い出』を形にするわね」


 美和の指先が動き出す。


 彼女はバカラの重厚なグラスを取り出し、その中に昼間海里と一緒に摘んだ果実を並べた。


 ラズベリーを2個、ブラックベリーを2個、苺を2個。


 美和は木製のペストルを手に取ると、果実の「魂」を解き放つように、ゆっくりと、丁寧に押し潰していく。


 グ、グ……という湿った音が、静謐な店内に響く。

 苺の赤、ラズベリーの鮮紅、ブラックベリーの濃紫。

 三色の果汁が混ざり合い、グラスの底で深い、夜の色へと変わっていく。


 次に、彼女は細かなクラッシュドアイスをグラスの縁まで満たした。


 そして、二つの酒精なき「血気」を注ぎ込む。


 クランベリージュースを80ml、ライチジュースを80ml。


 美和はバースプーンを差し込み、静かに、しかし力強くステアを始めた。


 氷と果汁が触れ合い、不規則に回転するたびに、グラスの中では鮮やかな「紫の霧」が立ち昇っていく。

 ライチの白濁した甘みと、ベリーたちの濃密な色彩が混ざり合う、一瞬の芸術。


 「……はい。ノンアルコール・カクテル、『ヴァージン・パープル・ヘイズ』です」


 最後に、大粒のブラックベリーを添えて。


 美和は、一切の迷いのない所作で、海里の前にそのグラスを差し出した。




 海里は、宝石のように輝くその紫色の液体を見つめた。


 「……パープル・ヘイズ」


 「ええ。このカクテルの言葉はね、『幸せなひととき』。……今日、三人で庭にいたあの温かな時間を、この中に閉じ込めたわ。飲んでみて、海里くん」


 海里は一口、その液体を吸い込んだ。


 「——っ……!」


 喉を駆け抜けたのは、酒精ではない。


 圧倒的な「命」の輝きだった。


 クランベリーの鋭い酸味を、ライチのオリエンタルな甘みが包み込み、そして奥歯で潰したベリーたちのフレッシュな粒が、次々と脳裏に「庭の風景」を呼び覚ましていく。


 「……すごい。……美味しい、なんて言葉じゃ足りない。……あ、これ、昼間に僕が摘んだ苺の味がする」


 海里の瞳に、不意に熱いものが込み上げた。


 目の前に立つ、ピシッとした、けれど誰よりも情熱的なバーテンダー。


 彼女のこの峻烈な美しさは、自分に最高の「幸せなひととき」を届けるための、本気の現れなのだ。


 「海里」


 隣で静かに見守っていた天が、優しく語りかけた。


 「美和さんはね、君との時間をただの『思い出』で終わらせたくなかったんだ。君がこれから歩んでいく道で、いつか立ち止まった時、この味を思い出して自分はこんなに大切にされていたんだと確信できるような……そんな『くさび』を、君の心に打ち込みたかったんだよ」


 海里は、紫色の霧の中に浮かぶ氷の結晶を見つめ、何度も頷いた。


 目の前の美和は、再びバーテンダーとしての凛とした微笑みを湛えている。

 だが、その瞳の奥には、昼間の庭で見せた、あの「お姉さん」としての優しさが、消えることなく確かに灯っていた。




 最後の一口を飲み干すと、グラスの底にはベリーの欠片と、澄んだ氷だけが残った。


 海里の胸の中にあった、わだかまりのようなものは、もうどこにもなかった。


 「……ごちそうさまでした。……あの、美和さん……また、庭のベリー、採りに来てもいいですか?」


 美和は、カウンターを拭く手を止め、一瞬だけ「バーテンダー」の仮面を脱いだ。


 そこには、昼間の庭にいた、あの穏やかな女性の顔があった。


 「ええ。もちろんよ。……次は、ブルーベリーも食べ頃になっているわ。……おかえりなさい、海里くん」


 その一言に、海里は初めて「自分の居場所」を見つけた気がした。


 外は、風花町の夜がさらに深まっていく。


 『Bar 風花』の琥珀色の時間は、父と子、そして新しい家族の絆を、ベリーの甘酸っぱい余韻と共に、いつまでも優しく包み込んでいた。


 天は、満足げに笑う息子の横顔をカメラに収める代わりに、心のシャッターを静かに切った。


 そこには、永遠の美しさを湛えた妻と、成長していく息子が描く、かけがえのない「幸せなひととき」が刻まれていた。

あとがき


 『ヴァージン・パープル・ヘイズ』をお読みいただきありがとうございます。


 庭で笑い合った昼の時間と、夜のバーカウンターで静かに交わされる想い。

 美和が息子に贈ったのは、ただの飲み物ではなく「いつか立ち止まったときに思い出せる、確かな幸せ」でした。


 十六歳の心にそっと残る、紫色の余韻を感じていただけたら嬉しいです。


 またいつか、別のグラスで。


 天照(Bar風花)

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