【Bar風花 特別編:御堂拓也】 琥珀に染まる丸氷と静謐なる乾杯 〜敏腕バンカーはグラスの底に生涯の戦場を見る〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花 -kazahana-』本編の幕間に位置する、独立した掌編エピソードです。
※ 前後のお話を読まれていない方でも、単体の大人の物語としてそのままお読みいただけます。
※ 今夜カウンターに満たされるお酒は、北ハイランドのシングルモルト『クライヌリッシュ十四年』です。
夜十一時を回った風花町の路地裏。
開店初日の激務を駆け抜け、泥のように眠る妻の寝息を背中に聞きながら、銀行員の御堂拓也は静かに長屋を抜け出します。
向かう先は、街灯の途切れる暗がりに仄かな灯りを宿す、古いオークの扉。
大都会の出世レースを脱ぎ捨て、この町に骨を埋めると決めた男の胸中を、透明な丸氷と琥珀色の雫が静かに解きほぐしていきます。
どうぞ、夜の静寂に耳を澄ませ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:路地裏の静寂と琥珀の雫
夜十一時を回った風花町の路地裏は昼間の喧騒が嘘のように深い静寂に沈んでいた。
用水路の石底をサラサラと洗う清冽な水音が重なり合う古い瓦屋根の隙間を心地よく渡っていく。
長屋の二階では三十キロにおよぶ粉と出汁の仕込みと銅板の前での激務を終えた茜がベッドに大の字になって安らかな寝息を立てていた。
汗の引いた額に張りつく栗色の前髪を指先でそっと払い薄手の毛布を肩口まで引き上げる。
規則正しい柔らかな息遣いを背中に聞き届け拓也は足音を忍ばせて階段を降りた。
玄関の引き戸を音もなく滑らせ夜気の中へと静かに抜け出る。
しっとりと黒く光る石畳の小路を抜けた。
街灯の橙色が途切れる路地の最奥で古風な真鍮製のランタンがオーク材の重厚な扉をアンバーの光で仄かに浮かび上がらせていた。
扉の中央には繊細な雪の結晶を刻み込んだ真鍮プレートが控えめな文字を浮かび上がらせている。
『Bar 風花 -kazahana-』。
重厚な丸ノブに手をかけ回して押し開いた。
微かに涼やかなベルの音が夜の静寂を優しく揺らして店内に吸い込まれていく。
程よく空調の効いた室内は外の時間の流れから完全に切り離されたかのように澄み切っていた。
古いピアノの最後の音が空気に溶けていくような静謐な調べが流れている。
右手には立派な鉄刀木の一枚板を磨き上げた深い赤褐色のカウンターが伸びていた。
余計なものは一切置かれていない。
ゆったりと並ぶ七脚の黒革ローチェアーと壁の奥に飾られた一枝の桜の墨絵から遠い春を思わせる儚い甘さが漂っていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥からワインレッドとアンバーの神秘的な異色瞳をふわりと和ませた美和が優雅に一礼する。
その端の席で取材用ノートの横に置いてあったグラスから視線を上げ天が眼鏡の奥を柔らかく細めた。
「拓也さん、お疲れ様です。……茜さんは、もうお休みに?」
「ええ。ベッドに入った瞬間、文字通りバタンキューでしたよ」
拓也は苦笑しながら手前の中央の席に身を沈めた。
仕立てのいい三つ揃えの背中を長年使い込まれた上質な黒革が温かく受け止める。
張り詰めていた肩の筋がすうっとほどけていくのが分かった。
「初日からのあの大繁盛、昼に外へ出たときも遠目に見えていましたよ。本当におめでとうございます」
「ありがとうございます、天さん。……茜のあの凄まじい馬力には、僕も圧倒されっぱなしでした」
美和は何も問わずカウンターと同じ高さの戸棚から繊細なカットが施されたバカラのオールドファッションド・グラスを取り出した。
アイスペールからあらかじめ端正に削り出されていた丸氷を静かにすくう。
ピックで微細な表面の角を落とすと冷水にくぐらせて霜を綺麗に洗い流した。
メジャーカップを手に取ることすらなく流れるような手首のスナップだけで透明なボトルを傾ける。
選ばれたのはハイランドの銘酒『クライヌリッシュ十四年』だった。
グラスの縁を滑り落ちた黄金の雫が丸氷を包み込み琥珀色の液体が静かに満たされていく。
バースプーンがクリスタルの内側を音もなく数度巡ると氷の冷気と円やかに溶け合い華やかな蜜の香気がふわりと解き放たれた。
「どうぞ、御堂様。今夜の長旅の終着点に」
「いただきます」
拓也はグラスを両手で包むように持ち上げ口元へ運んだ。
蜜のような芳醇な甘みと奥底に潜むかすかな潮の気配が広がる。
名水で仕込まれた丸氷の清らかな冷たさと溶け合い日中の激務と緊張で固くなっていた胃の腑を驚くほど優しく解きほぐしていった。
「……素晴らしいですね。こんなに角のない、優しいクライヌリッシュは初めてです」
「ふふ、お疲れの胃を驚かせないよう、氷の表面を水で優しく整え、冷たさを柔らかく馴染ませておりますわ」
美和が穏やかに微笑みカウンターを柔らかなクロスでひと拭きした。
第二章:難波の記憶と千枚通し
拓也は琥珀色の水面を見つめ胸の底から長い息を吐き出した。
「……天さん。僕ね、今日、銅板の前で目にも留まらぬ速さで千枚通しを操っている茜の後ろ姿を見ていて、少し泣きそうになっていたんです」
「茜さんの後ろ姿を、ですか?」
天が手元のグラスを静かに置き耳を傾ける。
「ええ。大阪の難波支店で融資課長をしていた頃、僕は毎晩のように終電まで決算書と睨み合っていました。あの街のメガバンクの競争は苛烈を極めていてね。数字を積み上げ、貸倒れを防ぎ、ライバルを蹴落とすことばかりを考えていた。……そんな時、資金繰りの相談に来たのが、茜と彼女のお父さんでした」
拓也の脳裏に当時の熱気が鮮明に蘇る。
「ミナミの料理屋や商店街の店主たちが頭を下げて融資を乞うなかで、彼女だけは違ったんです。僕のデスクの前に仁王立ちして、『あんた、帳簿の数字ばっかり見んと、うちの親父の焼くたこ焼きをいっぺん食いに来ぃ! 食うて不味かったら、一円も貸さんでええ!』って、僕を睨みつけてきた」
「あはは……茜さんらしいですね」
天が嬉しそうに目を細めた。
「翌日、本当に食べに行ったんです。通天閣の路地裏の、小さなお店へ。……一口食べて、言葉を失いました。あの雑踏の中で、その店の一舟だけが、信じられないほど真面目で、出汁に一切の手抜きがなかった。職人の意地と命がそのまま詰まっていたんです。僕が夜を徹して事業計画の策定を二人三脚で練り上げ、数字には表れない出汁の価値と職人の息遣いを融資稟議書に魂を込めて落とし込み、本部の審査部と徹底的に掛け合って融資を通しました。それが、僕たち夫婦の始まりでした」
拓也はグラスを傾け重みのある丸氷をコロンと静かに揺らした。
第三章:命の資金と生涯の戦場
「だから、今回の異動が決まった時……周囲が『御堂は派閥争いに敗れて左遷された』と陰口を叩き合っていた時も、茜だけは本気で怒ってくれたんです。『誰が左遷や! うちの旦那の融資の腕は日本一や!』って。……あの一言で、僕の心の中にあった迷いが、綺麗さっぱり消し飛んだ」
眼鏡のブリッジを指先で押し上げる拓也の瞳に揺らぐことのない強い光が宿る。
「僕がこの風花町で預かることになった金庫の鍵は、難波支店で動かしていたどんな大企業の融資案件よりも重く、神聖なものです。一条山の森林を再生するための何億もの資材投資、この町の清らかな水と土を守るためのファンド……。机上のペーパーマネーを転がすだけのバンカーには、決して触れてはならない命の資金です」
拓也はカウンターを指先で軽く叩いた。
「銀行員は、数字を見る前に、人の目を見て、流れる汗や油の匂いを知らなければならない。……この町で泥にまみれて木を伐る葵さんたち、鉄を叩く職人さんたち、そして、この町の水に感謝して熱々のたこ焼きを焼く茜……彼女たちの流す本物の汗を守るために、僕の持てる知識と命のすべてを使いたいんです。本部の役員連中が何を囁こうと、僕はもう大阪や東京の出世レースに戻る気なんて、最初からこれっぽっちもありません」
迷いのない鉄の決意だった。
「天さん。僕は、この町に骨を埋めます。この美しい風花町を、僕の銀行員人生の最後の戦場にするつもりです」
その言葉を天は真っ直ぐな眼差しで受け止めていた。
やがて深く力強く頷く。
「……拓也さん。僕も、同じですよ」
天は手元のグラスにそっと触れ遠い記憶をなぞるように目を細めた。
「僕もね、昔は組織の中で生きていたんです。自衛隊に身を置いて国防の現場を経験し、退職した後は都内の出版社に就職してがむしゃらに記事を追いました。事件やスクープ、都会の喧騒……誰かの思惑や都合でめまぐるしく消費されていく言葉の渦に揉まれる中で、ふと、自分が本当に残したいものは何だろうと立ち止まることがあったんです」
天はふわりと視線を上げカウンターの向こうでグラスを磨く美和を穏やかに見つめた。
「数年前に生まれ故郷であるこの風花町へ戻ってきて、美和さんと出会いました。彼女と結婚することを決めた時、僕は出版社を辞めて、独立してフリーのルポライターとして生きていく覚悟を決めたんです。誰の顔色を窺うでもなく、この土地で真摯に生きる人々の姿や、誇り高い魂の鼓動だけを、自分の言葉で真っ直ぐに届けるために。……だから拓也さんの『この町に骨を埋める』という言葉、胸の奥に痛いほど響きますよ。拓也さんがここへ来てくれて、本当に心強い。僕にとっても、拓也さんはかけがえのない友人であり、心強い同志ですから」
「天さん……」
かつて組織の荒波をくぐり抜け魂の安住の地としてこの風花町を選び取った男たち。
交わし合う視線の中に言葉以上の深い共鳴と信頼が満ちていく。
第四章:静謐なる乾杯と夏の大三角
その様子を温かな眼差しで見守っていた美和がふわりと薄い唇を緩めた。
「守るべき人の笑顔を胸に宿した殿方は、何よりも強く、尊いものでございますね」
美和は優雅な所作で天の手元からそっとグラスを引き寄せる。
スコッチを静かに注ぎ入れ拓也の前へクリスタルの水差しからチェイサーを滑らせた。
「御堂様。茜様が今日、純銅板の前で咲かせていらっしゃった笑顔は、この町にとって何よりの宝物でございます。……どうぞ、この風花町を、ご自身の故郷として愛してやってくださいませね」
「……はい。身に余るお言葉です、美和さん」
拓也は姿勢を正しグラスを持ち上げた。
グラスとグラスを打ち合わせる無粋な音は立てない。
天と拓也は琥珀色に透き通るクリスタルを薄暗い照明の光へとスッと掲げた。
美和はカウンターの奥で胸の前に両手をそっと重ね慈しむように深く一礼を捧げる。
音のない静謐な乾杯。
喉を通るクライヌリッシュの芳醇な余韻が広がる。
店に入るまでに夜風で冷えていた身体の芯をじんわりとした温かな熱で満たしていった。
それから三十分ほどたわいのない車の話や茜の豪快なエピソードに笑い合い拓也は席を立った。
重厚なオーク材の扉を開けると初夏の夜気が火照った頬を心地よく撫でていく。
見上げれば風花山の上に瞬く満天の星々。
稜線の向こうから天頂へと立ち上る淡い天の川の中に夏の大三角を形作る織姫星――ベガが新しくこの町に根を下ろした夫婦の未来を祝うかのように青白く澄んだ光を放っていた。
拓也はポケットに手を入れ愛する妻が眠る長屋へ向けて迷いのない足取りで夜の路地を歩き始めた。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
今回は、大阪から風花町へと移り住んできた新婚夫婦、御堂拓也と茜の「始まりの夜」を描いたエピソードをお届けしました。
メガバンクの過酷な競争と派閥争いの中で心をすり減らしていた拓也が、通天閣の路地裏で茜の焼く真面目な出汁の味に出会い、そして彼女の「うちの旦那の腕は日本一や!」という啖呵に救われて迷いを断ち切る――。
机上の数字を転がすことではなく、現場で泥や油にまみれて生きる人々の流す本物の汗を守るために、この町を生涯の戦場に選んだ拓也の覚悟は、同じく組織の激流を離れて風花町へ辿り着いた天ちゃんにとっても、痛いほど胸に響くものだったはずです。
多くを語らずとも、男たちがグラスを掲げるだけで通じ合える静かな時間。
それを優しく見守る美和さんの気品と、お疲れの胃を驚かせないよう水で角を整えた『クライヌリッシュ十四年』の蜜のような甘みが、冷えた夜道を歩いてきた拓也の心を芯から温めてくれたのではないかと思います。
一日の終わりに、ほっと肩の力を抜いて味わっていただけるような温もりや、男たちの静かな矜持が、皆様の胸の奥にもじんわりと届いていたなら何よりの喜びです。
もし今夜の一杯が少しでも心に残りましたら、画面下部よりブックマークへのご登録や、ポイント評価(☆☆☆☆☆から★★★★★での応援)、温かなご感想などをいただけますと、これからの執筆の何よりの励みになります。
また夜が深まりましたら、いつでも『Bar風花』の止まり木へお立ち寄りください。
心よりお待ちしております。
天照(Bar風花)




