【Bar風花 特別編:御堂拓也・茜、有馬支店長】 奥座敷のせせらぎと至高の三杯 〜気負う老支店長は路地裏の静寂の中で温かなバトンを渡す〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花 -kazahana-』本編の幕間に位置する、独立した掌編エピソードです。
※ 前後のお話を読まれていない方でも、単体の大人の物語としてそのままお楽しみいただけます。
※ 今夜カウンターに満たされるのは、摘みたてハーブのモクテル、琥珀のマッカラン、そして老練なバンカーを労う『オールド・パル』です。
山裾に佇む老舗料亭『清風荘』の奥座敷。
三十年にわたり風花町の経済を守り抜いてきた老支店長・有馬が、気骨ある新任課長夫婦を伴い、夜の路地裏へと歩みを進めます。
案内されたのは、町で最も尊く、最も静謐な止まり木。
緊張に身を固くする老紳士と、屈託のない笑顔で扉を押す若き夫婦。
三つのグラスが満たされ、互いの誠実さが溶け合ったとき、男たちの間で静かに温かなバトンが手渡されます。
どうぞ、夜の静寂に耳を澄ませ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:奥座敷のせせらぎ
風花連山の深い緑を縫って流れ落ちる清流が初夏の夕暮れに心地よい水音を響かせていた。
町の喧騒から緩やかに隔絶された山裾に佇む老舗料亭『清風荘』。
手入れの行き届いた苔庭を抜け飛び石を伝った先に配された離れ座敷にはこの地で切り出された銘木を用いた数寄屋造りの贅が嫌味のない静謐さとなって清々しく満ちていた。
庭に面した濡れ縁の向こうでは青笹が夕風を孕んで擦れ合っていた。
時折竹の筧から落ちる水が澄んだ音を立てていた。
座敷の床前でふわりと相好を崩したのは皇銀行風花支店長の有馬兼嗣だった。
今年で六十一歳になる。
短く刈り込んだ銀髪に仕立てのいい上質な濃紺の紬を涼やかに着こなしていた。
温厚な笑みを浮かべてはいるが縁なし眼鏡の奥に宿る眼光は数十年におよんで皇グループの極秘資金と特区経済を統括してきた重鎮バンカーならではの底知れぬ深みをたたえていた。
「いやあ、御堂くん、茜さん。今宵はよく来てくれたね」
「支店長、お招きいただき本当に恐縮です。本来であれば着任した僕のほうからご挨拶の席を設けるべきところを……」
チャコールグレーの端正なスーツに身を包んだ拓也が折り目正しく頭を下げた。
その隣には普段のワインレッドのバンダナと黒前掛けを解き落ち着いた藍色のサマーワンピースを纏った茜が座っている。
ハーフアップにまとめられた栗色の髪が涼しげな目元と健康的な肌の白さをひときわ引き立てていた。
手首にうっすらと残るリストバンドの日焼け跡が日々銅板の前で奮闘している職人であることを物語っていた。
「ほんまにご馳走になります、支店長さん! こんな立派な料亭、大阪におった頃でも結婚前の顔合わせくらいでしか入ったことありませんわ」
「ははは、茜さん、そう堅苦しく考えんでおくれ。君たちのような若く気骨のある夫婦がこの町へ来てくれたことが私にとっては心底嬉しいのだよ。さあ、まずは喉を潤そう」
仲居の手によって運ばれてきたのは清冽な伏流水で冷やされた地元の純米吟醸だった。
初夏の息吹をそのまま皿に写し取ったような会席の膳が美しく並べられる。
竹筒を模した器に盛られた朝採れの若鮎は炭火の香ばしさとほろ苦い内臓の旨味が絶妙だった。
衣を極限まで薄く纏わせた山菜の天ぷらは噛むたびに初夏の野趣が爽やかに鼻腔を抜けていった。
地場産の極上黒豚をとろけるまで煮含めた角煮は脂の甘みが驚くほど澄んでいた。
「……美味いですね。素材の輪郭が驚くほど鮮明です。過剰な味付けが一切ないのに滋味の深さが舌の上にずっと留まっている」
「そうだろう。この土地の水がすべての命の根底にあるからね」
有馬は満足げに頷き箸を置いて拓也をじっと見据えた。
「御堂くん。君が着任早々に手がけてくれた一条山林業再生ファンドの追加融資稟議……実に見事だったよ。本部の審査部が担保価値に乏しいと突き返してきた難件を、君は間伐材の十年間におよぶ市場流動性と現場の安全投資による歩留まり向上を緻密な数字で証明してぐうの音も出ない形で通してしまった。本部の専務も舌を巻いていたよ」
「いえ。現場の一条結社長や山で泥にまみれてチェンソーを握る若い方々の目の光を見れば、貸し倒れのリスクなど微塵もないことは明白でしたから」
拓也は眼鏡の位置を人差し指で直しながら穏やかに微笑んだ。
「銀行員は数字を見る前に、人の目を見て、現場に流れる汗や油の匂いを知らなければなりません。彼らの熱量を支えるための揺るぎない足場を固めるのが、僕の役目ですから」
「……その言葉が聞きたかったのだよ」
有馬の瞳に深い安堵と敬意の光が差した。
「そして茜さん。『蛸虎』の大繁盛、支店の中でも毎日話題になっておるよ。うちの若い行員たちが昼休みに買いに走ってはあの出汁の美味さに腰を抜かしている。私も先日差し入れでいただいたが……驚いたね。あれはもはや屋台の粉もんの域を遥かに超えた極上の出汁料理だ」
「おおきに、支店長さん!」
茜は嬉しそうに目を細め身を乗り出した。
「ウチの腕やないんです。あの長屋の井戸から汲み上げる清らかな伏流水が、昆布と鰹の旨味を信じられへんくらい素直に引き出してくれるんですわ。大阪の実家でおんなじことやっても絶対にあんな澄んだ味にはならへん。この町の水と土がウチにあのお出汁を引かせてくれとるんです」
気取らないけれど料理の本質を掴み切った茜の言葉に有馬は何度も深く頷いた。
「素晴らしい。土地の恵みに感謝し驕らず目の前の客に全力を尽くす。……御堂くん、君は本当に得難い伴侶を得たね」
「はい。僕の誇りです」
照れもせずに即答する拓也の横顔に茜は耳を赤くして笑った。
第二章:支店長の誘い
宴が終わり座敷を出たのは午後九時を回った頃だった。
料亭の門前へ出ると夜の帳が降りた山裾をひんやりとした涼風が心地よく撫でていった。
満ち足りた酔い心地のなか有馬がふと足を止め背筋をすっと正した。
その顔つきは先ほどまでの温和な笑みを脱ぎ捨てていた。
皇グループの重責を背負い続けてきた老練なバンカーの厳粛な色を帯びている。
「御堂くん、茜さん。もし今夜まだ少しだけお時間が許すなら……もう一軒、お連れしたい場所があるんだが」
「もう一軒、ですか?」
拓也が静かに問い返した。
有馬は街灯の薄明かりの中でゆっくりと頷いた。
「風花町に生きこの町の経済と未来を預かる者として、君たち夫婦にどうしても知っておいてほしい特別な止まり木がある。……この町の誇りであり、最も静かで最も尊い場所だ。私自身、一年に数度身を清めるような思いで扉を押す場所なのだが……今の君たちならきっと温かく迎えてくださるはずだ」
有馬の声には並々ならぬ敬意と緊張が滲んでいた。
拓也の脳裏に数日前の夜に訪れたあの路地裏の光景がふと浮かび上がりまさかという思いが胸をよぎった。
隣の茜と視線を合わせると茜も何かに気づいたように目を瞬かせていた。
だが有馬のあまりに真剣な面持ちを見て二人は小さく口元を引き締めた。
「支店長がお連れくださる場所なら喜んでご一緒させていただきます」
「ありがとう。……では、行こうか」
待たせてあった料亭の手配ハイヤーに乗り込んだ。
車は夜の風花町のメインストリートを滑るように下っていった。
第三章:路地裏の真鍮プレート
駅前通りから一本折れ用水路沿いの石畳の路地を抜けた先。
街灯の橙色の光がわずかに届くだけの暗がりにぽつんと暖かな明かりが灯っていた。
車を降りた有馬はハイヤーの運転手に目礼して見送った。
紬の襟元を正し羽織の紐を指先で静かに整えた。
その所作はまるで格式高い謁見室に入る直前の外交官のようだった。
「御堂くん、茜さん。いいかい」
有馬が声を潜め重厚なオーク材の扉の前で静かに足を止めた。
「ここのオーナーバーテンダーは皇グループにとってもこの風花町にとっても極めて特別な御方だ。……失礼があってはならない。大声を出したり無闇に詮索するような野暮な真似は厳に慎んでくれ給えよ」
「はい、心得ております」
拓也は神妙な顔つきで頷いた。
その後ろで茜が口元を両手で押さえ肩を震わせて笑いを堪えていた。
扉の中央に埋め込まれた真鍮のプレートには繊細な雪の結晶の彫刻とともに見慣れた文字が刻まれていた。
『Bar 風花 -kazahana-』。
扉の庇に吊るされた真鍮製のランタンが本物の蝋燭のような柔らかな揺らぎをガラスに落としていた。
チリンと微かに涼やかなベルが鳴り有馬が恭しく扉を押し開けた。
一歩足を踏み入れた瞬間、外の世界の喧騒がふつりと遮断された。
程よく空調の効いた澄みきった空気。
耳を澄ませば古いピアノの残響とレコードの針が落とす微かなノイズが空間の静寂に薄く溶けていた。
入って右手には樹齢数百年の鉄刀木の一枚板を磨き上げた深い赤褐色の見事なカウンターが横たわっていた。
その背後ほぼ同じ高さに設えられたバックバーにはリーデルやバカラのクリスタルグラスが整然と並び柔らかな間接照明を受けて虹色の光を放っていた。
木肌の上には余計なものは一切置かれていなかった。
バーマットの上にバースプーンが入った大きなブランデーグラスと柑橘の小籠があるだけだった。
黒革張りのローチェアーがゆったりとした間隔で七脚。
店内全体を満たしているのは壁の一角に掛けられた水墨画の桜から漂うような遠い春を思わせる微かな甘い残り香だった。
カウンターの奥には純白のバーコートを凛と纏い雪のような白皙の肌に神秘的な異色瞳を湛えた女性が静かに立っていた。
右目が深いワインレッド左目が透き通るアンバー。
そしてカウンターのいちばん端の席にはアイロンの利いたリネンシャツの腕をまくり取材ノートから顔を上げた櫻庭天の姿があった。
「いらっしゃいませ」
美和が鈴の音のように澄んだ声で静かに一礼した。
有馬はカウンターの前まで進み出ると背筋を伸ばし最上級の敬意を込めて深々と頭を垂れた。
「美和様、夜分に突然の不躾をお許しください。本日は此度難波から着任いたしました融資課長の御堂とその妻をお連れいたしました。大変優秀で骨のある男でございまして、風花町の経済をお預かりする者としてぜひ一度美和様にご挨拶をと思い——」
「天の旦那! 美和さん! こんばんはー!」
有馬が淀みなく厳かに口上を述べ終えようとしたまさにその時だった。
有馬の背後から茜がひょっこりと顔を出し満面の笑みで手を振った。
「…………えっ?」
有馬の口上がピタリと止まりその身体が棒のように硬直した。
カウンターの端から天が眼鏡の奥の目を丸くしそれからすぐに破顔して立ち上がった。
「あ、茜さん、拓也さん! いらっしゃい。……あれ? 有馬支店長とご一緒だったんですか?」
「まあ、拓也さん、茜さん。今夜はお二人お揃いで。……料亭のあとにお立ち寄りくださったのですね」
「そうなんですよ美和さん!」
茜が何食わぬ顔でカウンターへ近づき鉄刀木の天板に愛おしそうに触れる。
「支店長さんが特別な店へ連れてったる言うからどこか思たら、風花さんやないですか! 天の旦那、昼間ぶりですね!」
「あはは、茜さん、昼間はごちそうさまでした。差し入れのネギ塩ごま油、美和さんと一緒に美味しくいただきましたよ」
「せやろ! 冷めても旨いように出汁の配合を少しだけ濃いめにしておいたんよ!」
有馬は完全に石化していた。
眼鏡が鼻先までずり落ちそうになり口を金魚のように開閉させていた。
冷や汗を吹き出しながら立ち尽くす支店長を見かねて拓也が隣に進み出た。
眼鏡のブリッジを押し上げながら穏やかに微笑む。
「支店長、ご紹介が遅れました。天さんは僕の愛車の調整から妻のストーリアX4のエンジン不調を神業で救ってくださった大恩人でして……。それに僕の妻への惚気話を嫌な顔ひとつせずに聞いてくださる、僕のかけがえのない無二の親友なんです」
「し……親友だと……!? む、無二の、友……!?」
有馬の喉から老紳士らしからぬ裏返った息が漏れた。
店内に美和の鈴のような笑い声と天の照れくさそうな苦笑が響き渡った。
第四章:鉄刀木のカウンターと至高の三杯
「さあ、有馬様、御堂様、茜様。どうぞお掛けになってくださいな」
美和が優しく促し有馬は夢遊病者のような足取りで中央の黒革ローチェアーに腰を下ろした。
拓也と茜がその両脇に座る。
上質な革が体温を吸い込み驚くほど自然に身体を包み込んでいった。
「……御堂くん、君という男は……底が知れんな」
ハンカチで額の汗を拭いながら呟く有馬に拓也は楽しそうに目を細めた。
美和は何も言わずまずは茜のためにすっきりとしたロンググラスを用意した。
摘みたての野生ミントを掌で軽く叩いて香りを解き放ち絞りたての瑞々しいカボス果汁と風花連山の清らかな天然水を合わせると微炭酸のソーダを満たした。
バースプーンを一度だけ滑らかに滑らせた。
最初に茜の前へ置かれたのは淡い若草色に透き通る爽やかな一杯だった。
「茜様にはこちらを。『風花カボスと野生ミントのモクテル』でございます」
「わあ、綺麗……! ノンアルコールやね?」
「ええ。昼間の銅板の熱気と料亭の贅沢なお食事の後でございますから。湧き出る清らかな天然水と摘みたてのハーブでお身体の巡りを整えて差し上げたくて」
茜がストローから一口含むと弾けるような柑橘の酸味と清涼感が口いっぱいに広がった。
思わずふはぁっと息を漏らす。
「染み渡るわぁ……! 会席の油も一瞬で消し飛んで頭の芯までスーッとする! 美和さん、やっぱり魔法使いやわ!」
続いて美和はカウンター下の戸棚から繊細なカットが施されたバカラのオールドファッションドグラスを取り出した。
アイスペールからあらかじめ端正に削り出されていた丸氷を静かにすくいピックで微細な表面の角を落とすと冷水にくぐらせて霜を綺麗に洗い流した。
美和はメジャーカップを一切手に取らない。
棚から迷いなく選び取った重厚なボトル――深い赤褐色を湛えた『ザ・マッカラン十八年』を手首の滑らかなスナップだけで静かに傾けた。
注がれる琥珀の雫は寸分の乱れもなく丸氷を伝ってグラスの底へと吸い込まれていく。
水晶のように澄んだ丸氷の周りで重厚なシングルモルトが静かに揺らめいていた。
バースプーンがクリスタルの内側を音もなく巡った。
「御堂様には、こちらを。今宵は重責を担うバンカーの鎧を少しだけ脱いで、ゆっくりと心を解き放ってくださいませ」
「ありがとうございます、美和さん」
拓也は両手でグラスを持ち上げ静かに口元へ運んだ。
シェリー樽由来のドライフルーツのような芳醇な薫香が丸氷の冷気とともに喉を滑り落ちていった。
過密な稟議書の山と戦い続けていた脳の緊張が温かな波のようにほぐれていくのが分かった。
そして最後に美和はミキシンググラスに氷と酒を満たし音もなくバースプーンを滑らせた。
未だに背筋を硬直させている有馬の前へショートステムの美しいカクテルグラスが静かに滑り込んできた。
ルビー色に深く艶めくビターな液体。
「有馬様には、こちらを。『オールド・パル』でございます」
「オールド・パル……古き友、かね」
「はい。ライウイスキーの骨太な力強さに、カンパリの苦味とドライ・ベルモットの端正な香りをステアいたしました。……有馬様。長年にわたりこの風花町と支店の平穏を誰よりも誠実に守り抜いてくださったこと、お祖母様も、そして私も、心より感謝申し上げておりますわ」
美和のワインレッドとアンバーの瞳が至高の敬意を湛えて有馬を見つめていた。
有馬は震える指先でグラスを取りゆっくりと口に含んだ。
ライウイスキーの鮮烈なアタックの奥からハーブのほろ苦さとキリリとしたドライな余韻が染み出してきた。
何十年もの間誰にも弱音を吐かず巨大な皇グループの影の要衝を守り続けてきた老バンカーの胸の奥をその気品ある苦味が優しく撫で上げていくようだった。
「……素晴らしい味だ」
有馬の目頭に熱いものが滲んだ。
「美和様……もったいないお言葉です。私などは、ただこの町の美しさに報いようとしてきただけに過ぎません」
第五章:受け継がれる誇りと風花の夜風
拓也のグラスの中で重みのある丸氷がコロンと小さく音を立てた。
静寂のなかに温かな気配だけが満ちていた。
有馬は深く息を吐き隣に座る拓也の肩へぽんと手を置いた。
「御堂くん……参ったよ。君がすでに美和様や天様とこれほど深い絆を結んでいたとはね。私の出る幕など最初からどこにもなかったわけだ」
「いいえ、支店長」
拓也は首を横に振り真摯な眼差しで上司を見つめた。
「清風荘でお聞かせいただいた、支店長が三十年かけて築いてこられた地元の農家や職人さんたちとの信頼の歴史……あれがあったからこそ僕も自分の進むべき道に確信を持つことができました。天さんや美和さんに出会えたことも、支店長が命がけで守り抜いてこられたこの風花町という揺るぎない土壌があってこそです」
「ええ、有馬支店長。拓也さんは本当に頼もしい男ですよ。昼間は銀行で現場の熱意を守るために戦い、夜は奥さんのたこ焼きに骨抜きにされてデレデレになっている……。この町に骨を埋める覚悟を持った最高のバンカーです」
「天さん、デレデレは余計ですよ」
「何言うてんの拓也! 事実やないの! 支店長さん、聞いてくださいよ、この人ウチのストーリアの助手席に乗る時だけはいっつも頼むから法定速度で走ってくれ言うて青ざめとるんですわ!」
「あはは! そりゃあ茜さんの運転なら誰だって命の危険を感じますよ」
「ははは! なるほど、完璧な御堂課長にも弱点があったか! これはいい話を聞いた!」
天が吹き出し美和も上品に口元を手で隠して微笑んだ。
有馬も先ほどまでの緊張が嘘のように腹の底から声を上げて笑った。
磨き上げられた鉄刀木のカウンターの上でグラスの光が柔らかく交錯した。
権力も立場も関係ない。
ただ互いの誠実さを認め合いこの土地を愛する者たちだけが共有できる至高の時間がそこにあった。
夜十一時半。
静かにベルを鳴らして有馬と拓也と茜の三人は初夏の夜風が吹き抜ける路地へと出た。
扉の庇の下で見送りに立った美和と天に有馬は深々と頭を下げ拓也と茜は親しみを込めて頭を下げた。
迎えのハイヤーのドアが開いた。
乗り込む直前有馬は足を止め振り返って拓也の右手を両手で力強く握りしめた。
「御堂くん。風花支店の未来を……この町の明日を君に託せることを、私は心から誇りに思うよ」
「はい。命を懸けてお守りいたします」
二人の男の視線が結ばれ言葉以上の契りが交わされた。
ハイヤーの赤いテールランプが夜の闇へと消えていくのを見届け拓也と茜は並んで歩き始めた。
用水路沿いの石畳の道。
サラサラと流れる清冽な水音が心地よく二人の足音に重なった。
「拓也」
茜がふいに拓也のスーツの腕にぎゅっと抱きついてきた。
「ん? どうしたの、茜」
「ええ上司やな。……ほんまに、ええ町やな」
「……ああ。本当にそうだね」
拓也は眼鏡の奥の目を柔らかく細めた。
腕に絡む妻の温かな手を大きな掌でそっと包み直した。
ふと見上げた夜空には連山の稜線の上に満天の星々が静かに瞬いていた。
その清らかな星明かりは新しくこの町に深く根を下ろした夫婦の行く手をどこまでも温かく照らし出していた。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
今回は、風花支店に着任した御堂拓也と茜、そして長年にわたり町を支え続けてきた支店長・有馬兼嗣の「バトンタッチの夜」をお届けしました。
大都会の出世レースから降り、現場の流す本物の汗を守るためにこの町へやってきた拓也。
料亭の座敷でその覚悟を確かめた有馬支店長が、若き後継者への最上の敬意として選んだ場所が、あの『Bar風花』でした。
身を清めるような面持ちで厳かに口上を述べようとした矢先、茜ちゃんが背後からひょっこり顔を出して「天の旦那! 美和さん!」と手を振る――。
張り詰めていた空気が一瞬でほどけていくあの瞬間は、書いていて思わず口元が緩んでしまいました。
完璧に見えるエリート課長の拓也が、茜ちゃんの駆るストーリアの助手席で青ざめているという微笑ましい弱点も、この夫婦らしくてどこか愛おしく感じます。
そして、何十年もの間、誰にも弱音を吐かずに重責を背負い続けてきた有馬さんへ、美和さんが静かに差し出した『オールド・パル(古き友)』。
ライウイスキーの骨太さとカンパリの気品ある苦味が、孤独に戦い抜いてきた老バンカーの心を優しく包み込み、目頭を熱くさせる場面は、このエピソードでどうしても描きたかった大切な時間でした。
肩書きや利害ではなく、ただ目の前の現場と人を愛する者同士だからこそ通じ合える、大人の静かな絆。
一日の終わりに、皆様の心にもじんわりとした温もりが届いていれば何よりの喜びです。
もし今夜の物語や三つのグラスが少しでも心に残りましたら、画面下部よりブックマークへのご登録や、ポイント評価(☆☆☆☆☆から★★★★★での応援)、温かなご感想などをいただけますと、これからの執筆の大きな励みになります。
また夜が深まりましたら、いつでも『Bar風花』の止まり木へお立ち寄りください。
心よりお待ちしております。
天照(Bar風花)




