【Bar風花 特別編:御堂茜】 純銅の熱量と黄金の出汁 〜浪花の看板娘は極上のすっぴんで町をひっくり返す〜
【前書き】
※ 本話は、風花町の駅前通りから一本折れた路地裏に灯る、新しい小さなお店の物語です。
※ 道具屋筋仕込みの極厚純銅板、ダイハツ・ストーリアX4、そして此花山の清冽な伏流水が織りなす下町の熱気をお届けします。
※ 『Bar風花』の止まり木へと続く、初夏の昼下がりの温かな情景としてお楽しみください。
山あいの町を潤す名水と、大阪の職人が叩き鍛えた二・五ミリの純銅板。
銀行員の夫を支える浪花の看板娘・茜が、古い長屋の土間に念願のたこ焼き店『蛸虎』の火を灯します。
愛機ストーリアX4のぐずつく機嫌を鮮やかに直す櫻庭FACTORYの手仕事と、ソースもマヨネーズもまとわずに素材の力だけで勝負する、黄金出汁の『すっぴん』。
用水路を渡る香ばしい湯気に誘われて、山林で汗を流す少女たちや、銀の巨躯を駆る秘書官の姿が重なります。
どうぞ、鉄板の爆ぜる音と路地裏を抜ける初夏の風を、そっと深呼吸するように味わってください。
第一章:土間改装と銅板の魂入れ ——楠工務店の技とガレージの白い怪物
山あいから吹き下ろす初夏の風が瓦屋根の連なる古い町並みを穏やかに通り抜けていく。
風花町駅前通りから一本折れた用水路沿い。
清冽な水が心地よい水音を立てて流れる脇に佇む木造長屋の土間には削り立ての杉の芳香と金槌の乾いた反響が満ちていた。
「ほら姉ちゃん、ここの敷居の高さ、これでいいか? 車椅子でもベビーカーでも、引っかからんとスッと入れるように五ミリだけ落としといたぞ」
手拭いを頭にきりりと巻き日に焼けた屈強な腕で差金を当てているのは町で一番の腕利きと名高い楠工務店の棟梁だ。
スナック『カサブランカ』の順子ママの夫でもあるこの男は無骨な面構えに似合わずミリ単位の狂いも見逃さない繊細な手仕事で知られている。
「おおっ、完璧や棟梁! 段差で躓いて熱々の舟皿ひっくり返したら大惨事やからな。さすが順子ママが惚れ直すだけの仕事しはるわ!」
栗色の髪を高い位置でポニーテールに結い上げワインレッドのバンダナをきつく締めた茜が白い歯を見せて豪快に笑った。
夫の拓也が今朝もピシッとした三つ揃えのスーツで皇銀行風花支店へ出勤していったあと、茜はこうして長屋の土間に陣取り新店『蛸虎』の城作りに没頭していたのだ。
その土間の真ん中、頑丈な作業台の上に鎮座しているのは大阪・道具屋筋の老舗職人が叩き鍛え上げた特注の純銅製たこ焼き板だった。
板厚は極厚の二・五ミリを誇る。
一般的な鋳鉄の鉄板とは比較にならない熱伝導率と蓄熱性を備え、表面を一瞬で焼き固めて中の旨味を余さず閉じ込める浪花のプロ中のプロだけが扱う代物だ。
「へえ……可愛い顔して、えらく物騒で骨太な道具を持ち込んできたな」
棟梁がタバコを耳に挟み感心したように銅板の金属肌を指先で弾いた。
キィンと澄んだ高い金属音が土間に響く。
「これだけの分厚い銅板に均等に火を回すとなると、家庭用のガス圧じゃ話にならんぞ。たこ焼き用の標準的なパイプバーナーでも火力が負ける。……よし、ガス屋に掛け合って高圧用の配管を引き直してやる。排気ダクトの吸い込み口も、この熱量に合わせて特注で折り曲げてやるよ」
「頼もしいわ! 持つべきものは地元の名棟梁やね!」
茜はさっそく真新しい銅板の油ならしを始めた。
バーナーのとろ火でじっくりと銅板を温め極上の純正ラードを薄く布で塗り広げていく。
熱を吸った銅が鈍い赤銅色から深みのある青紫、そして濡れたような艶やかな黒褐色へと皮膜を育てていく。
油の焼ける香ばしい煙が土間の天井の太い梁へと静かに吸い込まれていった。
「ふう、ひと息入れるか」
棟梁が汗を拭いながら長屋の奥、中庭に面した屋根付きのシャッターガレージへ視線を投げた。
開け放たれた隙間から覗く白いノーズを目にした瞬間、その足がピタリと止まった。
「……おいおい、姉ちゃん。なんだい、あの車は」
「ん? うちの相棒、ダイハツ・ストーリアX4やけど?」
「ダイハツのストーリア……? 冗談だろ。ロールケージが張り巡らされて、フロントの開口部にぶ厚い前置きインタークーラーが鎮座してるじゃねえか。車高も低けりゃ、タイヤハウスの隙間も指一本入らねえぞ。ただのコンパクトカーの面構えじゃねえ」
「棟梁、やっぱり目ぇ高いわ!」
茜は嬉しそうに八重歯を覗かせ腰に手を当てて胸を張った。
「池田のダイハツが誇る発動機屋がな、全日本ラリーの過給機クラスを総ナメにするためだけに限定で世に送り出した、狂気のホモロゲーションマシンや! 排気量はたったの713ccやけど、ブーストかけたら155馬力絞り出すんやで。シビックやインテグラのインを、四駆のトラクションで鮮やかに刺すミニマムモンスターや!」
「リッター200馬力超えかい……恐ろしいじゃじゃ馬を飼ってやがるな」
棟梁は呆れたように口笛を吹いた。
だが茜はふと困ったように眉を下げた。
「せやけどな、大阪から陸送で運んできてから、どうもエンジンの機嫌が悪うてな。アイドリングで回転がわずかにハンチングするし、低速でプラグがくすぶる感じがするんよ。気圧のせいか、それとも吸気温度センサーの接触不良か……」
「車の不調ならな」
棟梁は作業着のポケットからタオルを取り出し首筋を拭きながらニヤリと笑った。
「普通なら、町外れの『豊田モータース』のオヤジのところへ行けって言うんだがな。……姉ちゃん、その前にちょっと、此花神社のすぐ横へ行ってみな」
「神社? 神主さんに拝んでもらうんか?」
「違う違う。神社のすぐ脇に佇む平屋でな、プライベートで極上のガレージ……通称『櫻庭FACTORY』を構えて、趣味で車やバイクを弄ってる『天ちゃん』っていう若い物書きがいるんだ。あいつの機械に対する見立てと腕前は、プロ顔負けどころか神業の域だ。豊田のオヤジですら、手強い旧車が入ると天ちゃんに意見を聞きに行くくらいだからな。あいつに見てもらえば、そのじゃじゃ馬も一発で機嫌を直すはずだぜ」
「へえ……神社の横の、天ちゃんねぇ」
茜はポニーテールを揺らし新緑に煙る風花山の山裾を面白そうに見上げた。
第二章:櫻庭FACTORYの邂逅 ——ストーリアX4と天の旦那
楠の棟梁に教えられた細い坂道を登ると初夏の木漏れ日を浴びる此花神社の鳥居の向こうに手入れの行き届いた平屋と離れのガレージが見えてきた。
重厚な引き戸が開け放たれたガレージの床には塵ひとつ落ちていない。
スナップオンやネプロスの美しい工具が壁一面のキャビネットに整然と収まり、奥には油圧リフトと精密な作業台が設えられている。
「……ごめんください! 楠の棟梁から聞いて伺ったんやけど、天さんいてはる!?」
茜がストーリアの運転席から声をかけると奥の作業台から一人の青年がひょっこりと顔を出した。
いつものラフな装いではなく薄手の作業用シャツの袖をまくり銀縁眼鏡をかけた温和な風貌。
手にはマイクロメーターが握られていた。
「いらっしゃい。僕が櫻庭天です。……おや、珍しい車ですね」
天は眼鏡の奥の目を細め静かに歩み寄ってきた。
ストーリアX4のボンネットのエアスクープとフロントバンパーの奥に覗くインタークーラーを一瞥した瞬間、天の穏やかな瞳の奥に研ぎ澄まされた光が灯る。
「ダイハツのストーリアX4……型式はM112Sですね。まさか風花町で、この実車にお目にかかれるとは思いませんでした」
「うわ、ひと目で当てよった……!」
茜がボンネットのキャッチを外すと天は促されるままに低く屈み込みエンジンルームを覗き込んだ。
「直列四気筒DOHC16バルブ、713ccのJC-DET型。鍛造ピストンに高剛性クランクシャフト……それにこの吸排気のパイピング、ずいぶん手が入っていますね。ECUも現車合わせでセッティングされているんじゃないですか?」
「そうやねん! 大阪の老舗ショップで組んでもらって、阪神高速の環状線でカリカリに走っとったんやけどな。こっちへ来てから、アイドリングがわずかにバラついて、プラグがカブり気味なんよ」
「なるほど……」
天は白く細い指先でスロットルワイヤーに触れ軽くブリッピングさせた。
ブォン、と乾いた排気音が山あいに木霊する。
わずかに燻る排ガスの匂い。
「風花町は大阪の臨海部と比べて標高が二百メートルほど高く、初夏のこの時期は風花山からの吹き下ろしで湿度が下がります。気圧と吸入空気密度の変化で、高回転重視に尖らせたECUの燃料マップが、低回転域でわずかにリッチに振れてしまっているんでしょうね」
「……あんた、ほんまにただの物書きか!? 音と匂いだけでそこまで見抜くん!?」
茜が顎を外さんばかりに驚愕するのを他所に、天はガレージの奥からテスターとプラグレンチを収めたスチールケースを持ってきた。
「スロットルポジションセンサーの基準電圧をコンマ零五ボルトだけ補正して、サブコンで低回転域の噴射量をわずかに絞り、点火時期を二度ほど進角させましょう。それと、プラグの番手を一番手落として、自己清浄温度を確保してあげれば完璧です」
天の手捌きには一切の淀みがなかった。
センサーのボルトを緩めテスターの数値を睨みながら指先のミリ単位の感覚で位置を合わせる。
プラグレンチを回す手応え、ガスケットが潰れるトルクの感触。
その無駄のない洗練された所作はまるで外科医の執刀を見ているかのようだった。
「さあ、キーを捻ってみてください」
茜が運転席に飛び乗りイグニッションを回した。
キュルル……フォォォォン……。
それまでの不機嫌なバラつきが嘘のように消え去っていた。
アイドリングの針は八百五十回転でピタリと張り付き、直4ターボはまるで精密時計の振り子のように重厚で均一なハミングを奏でていた。
アクセルに爪先を乗せると右足の親指の筋肉の動きに寸分の遅れもなくタコメーターの針が跳ね上がった。
「……嘘やろ。うちのストーリア、新車の時より吹け上がりが軽いわ……!」
茜はステアリングを握ったまま絶句し、それから勢いよく飛び降りて天の両手を握りしめた。
「天の旦那! あんた神様か!? 神戸のワークスメカニックより腕ええやんか!」
「あはは、機械が素直に答えてくれただけですよ」
天は照れくさそうに眼鏡を直して微笑んだ。
「礼と言っちゃなんやけど、明日、駅前の用水路沿いでうちのたこ焼き屋『蛸虎』がオープンするんよ! 天の旦那、奥さんと一緒に一番に食べに来てぇな!」
「ええ、喜んで伺いますよ。楽しみにしていますね」
ちょうどそこへ母屋の縁側から冷たいお茶を運んできた美和が姿を現した。
雪のような白い肌に右目がワインレッド、左目がアンバーの神秘的な瞳。
「天ちゃん、お客様?」
「うん。今度、駅前でたこ焼き屋さんを開く御堂茜さんだよ」
「まあ、素敵ですわね。風花町に新しい灯りがともるのですね」
美和の凛とした、けれど慈愛に満ちた佇まいに茜は目を丸くしながらも持ち前の人懐っこさで頭を下げた。
風花町の水と土に引き合わされるように人々の縁が滑らかに結ばれていった。
第三章:此花の水脈と黄金出汁 ——看板メニュー『すっぴん』の完成
楠工務店の手によって美しく磨き上げられた長屋の土間に夕暮れの涼風が吹き込んできた。
白木のカウンターは手触りも滑らかで純銅板の焼き台は鈍い油膜の光を湛えて出撃を待っている。
茜は前掛けを締め直し厨房の作業台に向き合った。
「さあ……ここからがウチの本当の勝負や」
寸胴鍋に張られたのは長屋の古い井戸から汲み上げた風花町の伏流水。
そこへ大阪から取り寄せた北海道産の一等利尻昆布と一本釣り鰹の厚削り節を投入する。
水に昆布を浸した瞬間、茜の息が止まった。
「……なんやこれ」
火を入れる前だというのに水が青白く澄み渡り、昆布の表面から透明な旨味のヴェールが目に見えるような速さで水の中へと溶け出していく。
風花山を何十年もかけて潜り抜けてきたこの町の水は硬度とミネラルのバランスが神業のように整った極めて分子の細かい軟水だった。
余計な雑味が一切ないため素材の細胞の奥底にある旨味を優しく抱きしめるように引き出してしまうのだ。
極弱火でじっくりと温度を上げ六十度を維持しながら一時間。
そこから静かに火を強めて沸騰の直前で昆布を引き抜き一気に火力を上げて鰹の厚削りを惜しみなく放り込む。
立ち上る湯気は単なる魚の匂いではなく果実を思わせる清涼感と大地のような重厚な薫香が重なり合って長屋全体を包み込んでいった。
ネルの濾し布を通した出汁は夕陽を浴びて神々しいまでの黄金色に輝いていた。
お玉ですくい息を吹きかけて口に含む。
「…………っ!」
茜の全身を電撃のような戦慄が駆け抜けた。
舌の上に広がるのは圧倒的なグルタミン酸とイノシン酸の相乗効果。
塩角など微塵もないのに喉を通ったあとに力強い余韻だけが長く深く残り続ける。
「勝てる……! 実家の味を完全に超えとる! これは粉を繋ぐための出汁やない。『出汁を味わうために、粉で薄い皮を作っとる』レベルや……!」
茜は猛然と動き出した。
少量の小麦粉にまず少量の出汁を合わせてダマなく滑らかに練り上げ、そこへ限界ギリギリまで黄金出汁を注ぎ込んで丁寧に伸ばしていく。
具材には玄界灘から直送させた新鮮な真蛸のぶつ切りと地元の八百屋で仕入れた朝採れの九条ネギ、そして紅生姜と天かす。
カチリ、とバーナーに火が入る。
油を引いた純銅板からパチパチと心地よい予熱の音が響いた。
出汁で溶いた生地を豪快に流し込むとジュワァァッ! と白い蒸気が立ち上り出汁の香りが爆発する。
茜の両手に握られた二本の千枚通しが神速のリズムを刻み始めた。
カチャカチャ、カチャカチャッ!
外側が一瞬で固まる銅板の特性を見極め半熟のトロトロの内側を包み込むように目にも留まらぬ速さで生地を真球へと丸めていく。
焼き上がったたこ焼きはソースもマヨネーズもまとっていない。
きつね色に輝く極薄の皮が内部の熱気と蒸気でフルフルと呼吸するように震えていた。
看板メニュー『すっぴん』の真の完成だった。
「ただいま、茜。……うわ、昨日よりもさらに出汁の香りが澄み渡っているね」
玄関の引き戸が開き支店での二日目の激務を終えた拓也が帰ってきた。
「拓也! お帰り! ちょうどええところへ帰ってきたわ! 鞄置いて、早よ口開けぇ!」
茜は熱々の舟皿をカウンターへ突き出した。
「ほれ! 天の旦那にストーリア直してもろて、棟梁にガス管引いてもろて魂入れた、うちの真の完成版『すっぴん』や! 火傷せんようにハフハフして食べや!」
拓也は竹串で一粒を持ち上げフーフーと息を吹きかけながら口へと運んだ。
サクッ、と極薄の皮が微かな音を立てて弾けた瞬間。
「……ッ!?」
拓也の眼鏡の奥の目が昨日以上の驚きに見開かれた。
昨夜の試作を遥かに凌駕する純度で溢れ出してきたのは液体と固体の狭間にある究極の熱い黄金出汁だった。
噛みしめるほどに蛸の力強い弾力と磯の滋味が弾け口の中全体がまるで極上の吸い物で満たされたような多幸感に包まれる。
「……熱い、熱いけど……茜、これ……! 昨日の試作とまるで次元が違うよ。完全に飲む極上茶碗蒸しだ。……素材と出汁の純度だけで、完全に極まっている……! 明日のオープン、風花町の人たち間違いなく腰を抜かすよ」
「せやろ!」
茜は誇らしげに白い歯をこぼし冷えたビールの栓を勢いよく抜いた。
「明日はこの町を、ウチの出汁でひっくり返したるわ!」
第四章:『蛸虎』開店と、一条山農林の突撃
翌日の正午。
長屋の軒先に虎が誇らしげにタコをくわえている意匠の濃紺の暖簾が掲げられた。
『浪花たこ焼き 蛸虎』。
開店の口火とともに純銅板から立ち上ったのは暴力的なまでに食欲をそそる熱せられた純銅板の上で黄金出汁の生地がジュワリと焼ける香ばしい芳香だった。
匂いは用水路のせせらぎに乗り駅前通りへと風に乗って広がっていく。
しかし静けさを愛する山あいの町並みだ。
最初は近所のお年寄りや主婦たちが「大阪のたこ焼き?」「おやつかねぇ」と用水路の対岸から遠巻きに様子を窺っているだけだった。
その静寂を耳を劈くような二つの爆音が激しく粉砕した。
ブルルルルルンッ! キキィィィッ!
土煙を巻き上げながら店の前に急停車したのは泥と木の粉にまみれた一台の軽トラック——一条山農林の現場を支える二人乗り『モモタロウサンバー』。
そしてその直後からドロロロロ……ドッドッドッ! と大気をビリビリと震わせる乾いた単気筒の重爆音を轟かせ追走してきた一台のオフロードバイクが滑り込んできた。
ホンダ・XR400R。
ハイコンプピストンを組み込みビッグシングル特有の咆哮を響かせる筋金入りのケツ持ち仕様だ。
サンバーの助手席のドアが勢いよく開き林業用の作業ヘルメットをシートへ放り出した少女が転がり出てくる。
「茜姉ぇぇぇーーーッッ!! 山にヤバい匂いが漂ってきて、腹減って死にそうッス!!」
赤城遥花が頭に木屑をつけたままカウンターへダイブするようにへばりついた。
「遥花、慌てるんじゃないっす! ……すいません茜さん、うちも腹と背中がくっつきそうっす! ネギ塩ごま油、三舟頼むっす!」
運転席から飛び出した黒木葵が作業着の袖で額の汗を拭いながら叫ぶ。
その背後でXR400Rのサイドスタンドをジャングルブーツで小気味よく蹴り出しキルスイッチを切ったのは白石まひろだった。
ヘルメットを脱ぎ首に巻いたオリーブドラブのミリタリータオルで首筋の汗をぬぐいながら低くハスキーな声で笑う。
「……おいおい、葵も遥花もがっつきすぎだよ。みっともないったらありゃしないねぇ。……茜姉ぇ、あたしゃまず、看板に出てるその『すっぴん』ってやつを八個もらおうかね」
「はいよ! 待ってました! 一条山の現場部隊、今日もよう働いてきたな! 特大のタコ入れたるから、しっかり腹に収めていきや!」
茜の職人スイッチが完全に火を吹いた。
カチャカチャカチャカチャッ!
両手の千枚通しが目にも留まらぬ速さで舞う。
銅板の四十八個の穴の中で生地が生き物のように回転し瞬く間にまん丸の黄金の玉へと仕上がっていく。
手際よく舟皿へ盛り付けると朝採れの万能ネギを山のようにドサッと覆い被せ小鍋で熱した純正ごま油と粗塩をジュワァァァッ! と豪快に回しかけた。
「へいお待ち! ネギ塩ごま油、火傷せんように気ぃつけや!」
「いただきまーーっす!!」
遥花が一口で放り込み次の瞬間両手で頬を押さえて天井を仰いだ。
「あふッ! あふあふ……んんんんーーーッッ!! なんスかこれぇぇぇッ!? 外がサックサクなのに、中からマグマみたいに出汁が溢れてくるッス! ネギとごま油のパンチがヤバすぎッス!!」
「……う、美味いっす……!」
葵も熱々のたこ焼きをハフハフと噛みしめ全身を震わせた。
「チェーンソー振り回して抜けた塩分とエネルギーが、一瞬で全身に染み渡るっす! こんなの、おやつじゃないっすよ! 完全な現場の燃料っす!」
まひろも熱々の大玉を竹串で放り込みハフハフと息を抜きながら目を細めた。
「……ほう、こいつはたまげたねぇ。粉の皮は紙一重で、中から極上の黄金出汁がドッと押し寄せてきやがる。油っこさがカケラもなくて、山の作業でカラカラになった五臓六腑に真っ直ぐ染み渡るってわけだ。茜姉ぇ、これはただの粉もんじゃないよ、完全に極上の椀物だねぇ!」
「せやろ! オマケで二個余計に入れといたるわ! ぎょうさん食べて、午後の仕事も怪我せんように気張りや!」
三人娘の豪快な食べっぷりと絶叫は用水路沿いにいた町民たちを釘付けにした。
「おい、あんなに美味いのかい……?」
「ちょっと、私にも一舟焼いてちょうだい!」
「すっぴんと、ネギ塩を二つずつ!」
堰を切ったようにカウンター前へ人が押し寄せてきた。
茜はポニーテールを揺らし千枚通しを滑らせながら一人ひとりに笑顔で声を掛け続けた。
「はいよ! おおきに! 中の出汁がめっちゃ熱いから、慌てんとハフハフ言うて食べてな!」
路地裏の静けさは消え去り、そこには活気と笑顔の渦が巻き起こっていた。
第五章:リキッド・シルバーの爆買いと、名物店への昇華
陽が傾き用水路の水面が茜色に染まる頃になっても客足は途絶えるどころか行列を伸ばしていた。
そこへ山の手の街道から重厚な並列六気筒のシルキーシックスサウンドが響いてきた。
ヒュオォォン……と低く澄んだハミングで空気を震わせ夕陽を浴びて鈍い銀光を放つ巨大なツアラーバイク——BMW K1600GTLが、寸分のブレもなく路肩へと滑らかに制動をかけて止まった。
スタンドを立ててヘルメットを脱いだのは皇グループ会長首席秘書官・天野里美だった。
黒のライディングスーツに身を包んだその威風堂々たる姿に、並んでいた町民たちがサッと道を空けて息を呑んだ。
「……あ、天野秘書官だ……」
「支所の責任者様が、直々にたこ焼き屋へ……?」
周囲の緊張をよそに茜は千枚通しをくるりと回し快活に破顔して声をかけた。
「里美ちゃん! いらっしゃい! 今日も眉間にシワ寄せてどないしたん? 銀行と支所の書類仕事で頭パンクしそうなんか?」
グループの絶対的権力者を「ちゃん」付けで気安く呼ぶ茜に町民たちの背筋が凍りつく。
しかし里美はふっと冷徹な仮面を崩し少女のように唇を緩めた。
「……茜さん。風花町支所の執務室まで、恐ろしく芳醇な出汁の香りが届いてまいりましたのよ。部下たちもソワソワして仕事になりませんの」
「あはは! そら悪かったな! ほれ、ちょうど焼き上がったとこや。一番出汁がガツンと効いた『すっぴん』、焼きたて熱々を食べて元気出し!」
差し出された舟皿から里美は添えられた竹串で優雅に一粒をつまみ、フッと息を吹きかけてからそっと口に含んだ。
サクッ。
次の瞬間、秘書官の切れ長の瞳がパチリと見開かれた。
「…………っ」
極薄の皮から弾け飛んだ黄金出汁が日頃の過密な激務で張り詰めていた神経を驚くべき優しさで解きほぐしていく。
「……素晴らしいですわ、茜さん」
里美の頬にほんのりと赤みが差した。
「この出汁の澄み方、昆布の引き出し方……京都の一流割烹の椀物に匹敵いたします。……茜さん、このすっぴんを、会長と美和様へのお土産に、追加で三舟包んでいただけますかしら」
「まいどあり! 冷めても出汁の旨味は逃げへんけど、オーブントースターで二分温め直したら外側のサクッと感が戻るからな!」
手際よく経木を包む茜の手元を見つめ里美は満足そうに微笑みリキッド・シルバーのパニアケースへと大切に収めた。
「また参りますわ、茜さん」
「いつでもおいで! 愚痴ならなんぼでも聞いたるからな!」
ヘルメットを被りスモークシールドを下ろした里美はシルキーシックスの快音を路地に響かせ滑らかに街道へと走り去っていった。
その背中を見送りながら行列の町民たちはさらに熱気を帯びていった。
第六章:路地裏の灯りと、男たちの夜
夜八時。
仕込んだ二十キロの生地と大鍋いっぱいの茹で蛸がすべて底をつき、茜は軒先に『完売御礼』の札を掲げた。
暖簾を下げ余熱の残る純銅板を油布で丁寧に拭き上げていると引き戸がガラリと開いた。
「茜ちゃん、大繁盛だったな! いい店構えになったじゃねえか!」
入ってきたのは仕事を終えた楠工務店の棟梁とその腕に寄り添うスナック『カサブランカ』の順子ママだった。
「順子ママ! 棟梁! 上がって上がって! ビール冷えとるよ!」
「ふふ、お邪魔するわね。町中が蛸虎さんの出汁の匂いで大騒ぎだったわよ」
順子ママが艶やかに微笑みカウンターへ腰を下ろす。
そこへ長屋の勝手口からスーツの上着を肩に掛けた拓也が、疲れ果てた、けれど心底誇らしげな笑顔で土間へ入ってきた。
「茜、お疲れ様。……すごい行列だったね。支店の窓からも見えていたよ」
「拓也! お帰り! 完売や、完売! タコも粉も全部スッカラカンや!」
「あはは、僕の妻ながら、本当に恐ろしい体力だよ」
拓也が眼鏡を外して目元を揉んでいると夜風を通すために少し開けてあった戸口から穏やかな声が響いた。
「こんばんは。お邪魔してもいいですか?」
作業着から清潔なシャツに着替えた櫻庭天が紙袋を手にひょっこりと顔を出した。
「天の旦那! いらっしゃい! 昼間はストーリアを生き返らせてくれて、ほんまにありがとうな!」
「いえいえ。美和さんから、お祝いにと一条山で採れた極上のスダチを預かってきたんです」
天が差し出したスダチの鮮烈な香りに茜の目が輝いた。
「うわっ、ええ香り! よし、残しておいた最後の一舟、天の旦那に特別仕立てで作ったるわ! 温かいお出汁にスダチをギュッと絞って、たこ焼きをさっとくぐらせて食べる『出汁浸し』や!」
カウンターに並んだ男たちと女たち。
冷えたビールが注がれ湯気の立つ黄金出汁の香りが長屋の土間を満たす。
「天さん、聞いてくださいよ」
拓也がビールを干しすっかり気心の知れた天へ向けて嬉しそうに愚痴をこぼし始めた。
「うちの茜、初日でタコだけでも八キロ近く使い切ったんですよ。僕が銀行で動かしている融資の金額より、茜の腕の筋肉のほうがずっと逞しいんじゃないかって、胃が痛くなりましたよ」
「あはは、拓也さん。でも、茜さんの笑顔とこのたこ焼きは、風花町のみんなにとって最高の活力になりますよ。現に僕も、この出汁を一口いただいただけで、今日の疲れが全部吹き飛びましたから」
「天さん、あんたほんまええ人やわ! 拓也、あんたも天の旦那見習って、もっとウチを褒めちぎりぃ!」
茜が豪快に笑いカウンターにどっと温かな爆笑が弾けた。
ふと視線を向けるとガレージの暗がりの中で純白のストーリアX4が静かに佇んでいた。
都会の喧騒と阪神高速の夜を駆け抜けてきた白い彗星はいま、清らかな水と温かな人々に抱かれ確かな安らぎを得ていた。
守るべき夫がいて、腕を振るうべき鉄板があり、笑い合える仲間がいる。
風花町の路地裏に灯った小さな虎の看板は香ばしい出汁の湯気とともに、この町の確固たる名物として優しく力強く未来へと息づき始めていた。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
今回は、大阪から風花町へとやってきた御堂夫妻、とりわけ妻の茜ちゃんの眩しいほどの生命力と、この土地の豊かな水脈が交差するお話をお届けしました。
『Bar風花』の静謐で落ち着いた夜のカウンターはもちろんですが、その日常を支えているのは、路地裏の土間から立ち上る湯気や、額に汗して働く人たちがハフハフと頬張る温かな一口なのだと感じています。
純銅板が吸い込む熱量、ストーリアX4の硬質な吸気音、そして天ちゃんの職人肌な手仕事。
どれも派手さはありませんが、誰かのために手を動かす人たちの体温を、少しでも身近に感じていただけたなら書き手としてこれ以上の喜びはありません。
もし少しでもお腹が空いたり、風花町の初夏の風や出汁の香りに心が和らぎましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)、ご感想などをそっと残していただけますと、次のお話を紡ぐ大きな励みになります。
また次の夜、温かな灯りの下でお会いできますように。
天照(Bar風花)




