【Bar風花 特別編:御堂拓也、茜】 浪花の白き彗星、風花へ翔ぶ 〜御堂拓也の栄転と茜の決意〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花』の舞台となる風花町へ、新たな住人が加わる前日譚です。
※ 大阪・難波のメガバンクから、聖域の最前線へと赴いた若きバンカーと、その妻の物語。
※ 派閥の思惑をよそに、浪速の誇りと純白のラリーカーを携えて新天地へと翔び立ちます。
水無月の風が、御堂筋の青葉を揺らして吹き抜けていきます。
巨大な数字が秒刻みで交錯する大都会の片隅で、静かに下されたひとつの辞令。
周囲の哀惜と嘲笑を置き去りに、夫婦は愛機に火を入れ、夜の阪神高速を駆け抜けていきました。
たどり着いたのは、清らかな伏流水が巡る、山あいの美しい町。
守るべき誇りと、銅板の熱気、そして黄金色の出汁の匂い――。
どうぞ、グラスの氷がゆっくりと溶けるのを待つように、静かにページをめくってみてください。
第一章:難波支店のざわめきと窓際の辞令
初夏の強い陽射しが御堂筋の整然とした銀杏並木に濃い影を落としていた。
午後三時のシャッターが下りたばかりの皇銀行難波支店。
融資部のフロアにはキーボードを叩く無数の乾いた音と数十台の端末が吐き出す熱気が淀んでいた。
商都・大阪ミナミの経済を牽引するメガバンクの最前線では秒単位で億の資金が動く。
行員たちの張り詰めた視線が絶え間なくディスプレイの数字を追っていた。
その喧騒のなかで融資統括課長の御堂拓也は紙の束を一枚ずつ指先でめくっていた。
仕立ての良いチャコールグレーの三つ揃えスーツに銀縁のチタンフレーム眼鏡。
三十一歳という異例の若さで難波の融資統括を任された男の指先は決して書類の端を乱さない。
拓也が見つめていたのは東大阪にある小さな精密金属加工工場の追加融資稟議書だった。
財務諸表の表面だけをなぞれば三期連続の赤字。
本部の自動審査システムなら即座に否決の判定を下す難件である。
しかし拓也が自ら作業着を着て現場へ通い詰め集めたヒアリングシートの余白には万年筆の細い文字がびっしりと書き込まれていた。
——旋盤の周囲に切粉が一切落ちておらず油溜まりの清掃が徹底されている。
——二代目の若い社長は先代が遺した古い熱処理炉の耐火煉瓦を自ら積み直し炉内の温度偏差をわずか数度以内に抑え込んでいる。
——作業着の袖口は煤けているが従業員の挨拶に一切の濁りがない。
この工場には数字には表れない技術の骨格が生きている。
「課長、本部のリスク統括部から突っ返されたらどうするんですか。担保余力もゼロですよ」
隣の席で額の汗を拭う部下の声に拓也は眼鏡のブリッジを人差し指でそっと押し上げ柔らかく目元を緩めた。
「大丈夫ですよ、高島くん。熱処理炉の治具を自社製に切り替えたことで、来期の外注加工費は三割削減できる試算です。その裏付けとなる試作品の強度試験データも、僕が昨夜のうちに添付しておきました。銀行員はね、数字を見る前に職人の手のタコと機械の油の匂いを見なきゃいけません。この融資は通します」
淀みのない静かな声。
だがその奥には岩をも穿つような揺るぎない確信があった。
部下は息を呑み深々と頭を下げた。
その時フロアの奥で支店長室の扉が開き総務課長が初夏の定期異動の辞令一覧を掲示板へと貼り出した。
ざわざわと行員たちが集まる。
次の瞬間まるで冷水を浴びせられたかのようにフロア全体の空気が凍りついた。
『融資統括課長 御堂拓也 風花支店 融資統括課長を命ず』
「……か、風花……?」
「どこだそれ……? 九州の田舎の出張所レベルの支店じゃないか……」
囁きは一瞬で毒を含んだざわめきへと変わった。
京都大学経済学部を首席で卒業し難波の激戦区で最年少課長として数々の大型案件を手がけてきた俊英。
将来の取締役候補と目されていた男に対する辞令が地方の無名支店へと飛ばされる形式ばかりの同役職による実質的な格下げ異動だったのだ。
「派閥争いに巻き込まれたんだ……。常務派の覚えがめでたすぎたせいで、専務派に足をすくわれたらしい」
「頭取派の粛清だろ。現場主義だかなんだか知らんが、本部の意向に逆らってばかりいたからだ」
「御堂もここまでだな。あの山奥に一度飛ばされたら、二度と本店中枢には戻れんよ」
同僚たちの哀惜とライバル行員たちの隠しきれない嘲笑が背中に突き刺さる。
だが当の拓也は眉ひとつ動かさなかった。
デスクの上の書類を角まで端正に揃えて静かに立ち上がると動揺する部下の肩にそっと手を置きざわめくフロアへ向けて淡く微笑んでみせた。
「引き継ぎは完璧に行います。最後までよろしくお願いします」
その穏やかな表情には落胆の翳りなど微塵もなかった。
拓也の革鞄の底には今朝の始業前大阪本店で頭取から直々に手渡された朱肉の匂いも生々しい親展封筒が深く沈められていた。
第二章:頭取室の密命
時間を遡ること三日前。
堂島川の川面を朝日が黄金色に染める早朝、拓也は大阪本店最上階の頭取室に一人呼び出されていた。
毛足の深い深紅のペルシャ絨毯が敷き詰められた静謐な空間。
外界の喧騒を完全に遮断した重厚な防音扉の向こうで頭取の対面に座っていたのは見慣れぬ仕立てのスーツを着た銀髪の老紳士だった。
胸元には皇グループの最高幹部のみに許された白金の社章が小さく光っている。
「御堂くん」
頭取が静かに口を開いた。
その瞳には人事権を握る者の冷徹さではなく極めて重い信託を預ける者の真摯な光が宿っていた。
「君に、風花支店へ行ってもらう」
「……風花、でございますか」
拓也は表情を変えずに復唱した。
頭取は深く頷き机の上に分厚い革張りのバインダーを滑らせた。
「表向きの人事録では地方創生関連のローテーション異動、あるいは派閥抗争の結果としての左遷に見えるよう手配してある。周囲の同僚も、君が窓際に追いやられたと噂するだろう。だが、真実はまったく逆だ」
銀髪の老紳士がバインダーのページをめくった。
そこに現れたのは九州福岡県の南部に位置する風花町の詳細な航空写真。
本店役員の大半すら閲覧を許されない極秘の資金フロー図だった。
「風花町は皇グループ総帥である皇会長の直系の孫・櫻庭美和様がお暮しになるグループ全体の最重要特区だ。現地には会長直属の天野里美首席秘書官が率いる風花町支所が置かれている。一条山の広大な森林再生や、旧帝室や欧州の歴史的機関が関与する莫大な超長期ファンド、そして皇家の聖域を支える経済基盤が集約されている」
拓也の眼鏡の奥で理知的な光がスッと研ぎ澄まされた。
示された数字の桁は難波支店で動く年間融資額の総計を遥かに凌駕していた。
「風花支店は外見こそ地方の小さな石造り支店に過ぎん。だがその実態は、グループ中枢の極秘資金と一条山開発の決裁を一手に引き受ける、我が国の金融の急所なのだ。万が一にも計算の狂いや情報漏洩があれば、皇グループ全体の屋台骨が揺らぐ」
頭取が身を乗り出し拓也の目を真正面から見据えた。
「なぜ君なのか。京大仕込みの緻密な財務分析力と、何より難波の町工場で培った、泥にまみれた人間の嘘を見抜く眼があるからだ。机上の利回りに目が眩む愚か者には、風花町の水と土を預かることはできん。御堂くん、これは左遷ではない。我が皇銀行の将来の役員、そして頭取の椅子へと続く、最も過酷で最も誇り高い登竜門だ。受けてくれるか」
室内に張り詰めた沈黙が落ちた。
巨大な重圧が目に見える重力となって拓也の肩にのしかかる。
だが胸の奥底で燃え上がったのは恐怖ではなくバンカーとしての純粋な血の昂ぶりだった。
拓也は立ち上がり完璧な角度で頭を垂れた。
「……身命を賭して、お引き受けいたします」
第三章:通天閣の下の夫婦会議とストーリアの爆音
夜の帳が下りた大阪市浪速区。
通天閣の極彩色ネオンが路地の水たまりにギラギラと反射する新世界の片隅。
暖簾を下げたばかりの小さな鉄板焼き屋の換気扇がカラカラと音を立てて回っていた。
カウンターの向こうでは栗色の長い髪を高い位置でポニーテールに束ねた女が鉄板に水を打っていた。
ヘラで焦げ付きを軽快に削ぎ落としていく。
ワインレッドのバンダナに黒い前掛けエプロン姿の彼女は拓也の妻・茜だった。
腕まくりした七分袖のシャツからのぞくしなやかな腕には火傷防止のリストバンドが巻かれている。
切れ長の涼しげな目元と八重歯を覗かせる快活な口元。
仕事上がりの爽やかな熱気が立ち込めていた。
「拓也、お帰り! 今日も遅かったなぁ。ビール冷えてるで、先に一杯やり!」
勢いよく差し出されたグラスに琥珀色の液体が泡を立てて注がれる。
拓也は丸椅子に腰を下ろしネクタイを緩めながら冷えたグラスを一気に干した。
「……ふう。茜、今日ね、辞令が出たんだ」
「辞令? あぁ、定例のやつか。どうやった? 本部の審査部に戻るんか?」
茜は鉄板を布巾で拭き上げながら何気なく問いかけた。
「ううん。……九州の山奥だよ。福岡県の、風花町っていうところの支店。周りからはね……完全に左遷されたって噂されてる」
ピタリと茜の手が止まった。
布巾を鉄板の上に叩きつけるように置く。
茜はカウンターを大股で乗り越えんばかりの勢いで拓也の前へ仁王立ちになり細い人差し指で夫の胸板を小突いた。
「アホか! 誰が左遷やねん!」
下町に響き渡る浪花仕込みの啖呵。
「誰がどう言おうと、うちの旦那の融資の腕は日本一や! 決算書の数字の裏にある町工場のオッチャンの汗や涙を、誰よりも見てきたあんたを山奥に飛ばすような銀行なら、こっちから辞表叩きつけたったらええねん! ウチがたこ焼き焼いて、あんたの一生面倒見たるわ!」
本気で目を吊り上げ肩で息をする茜。
その怒りと情の深さに拓也の胸がじんわりと温かくなった。
「ありがとう、茜。……でもね、実はそうじゃないんだ」
拓也は声を潜め守秘義務の境界線を慎重に守りながら頭取室での密命のあらましを妻に打ち明けた。
皇グループの最重要特区であること。
巨大な歴史的プロジェクトの命運を握る決裁を任されたこと。
そしてこれが自分にとって生涯最大の挑戦であること。
話を聞き終えた茜は丸く見開いていた目をパチパチと瞬かせた。
次の瞬間腹を抱えてケラケラと豪快に笑い出す。
「なんやのそれ! めちゃくちゃ格好ええ超・栄転やないの! 左遷左遷言うてコソコソ笑うとる奴らの顔、写真に撮って額に入れて飾りたいわ!」
茜は拓也の肩をバシッと叩いた。
「ええやんか、風花町! 山の中で空気が綺麗で、信号が少なくて道が空いとるんやろ? ……なぁ拓也、ウチのストーリアX4、思いっきり走らせられるんちゃう?」
「あはは……やっぱりそこに行くんだね」
拓也が降参したように苦笑した。
深夜一時。
店舗裏の屋根付きガレージで重厚なシャッターが押し上げられた。
街灯の淡いオレンジ色の光を浴びて闇の中に佇んでいたのは一台の異様なオーラを放つコンパクトカーだった。
一九九八年式ダイハツ・ストーリアX4。
全日本ラリーの過給機クラスを制覇するためだけに池田のダイハツが誇る発動機屋の意地と狂気を注ぎ込んで限定生産したホモロゲーションマシン。
純白の競技ベース塗装にガンメタのストライプが精悍に走る。
運転席に滑り込んだ茜はバンダナをきつく締め直しイグニッションキーを捻った。
キュルルル……ズバァァァンッ!
乾いた爆音とともに直列四気筒713ccターボエンジン『JC-DET』が火を噴いた。
競技用ハイカムが刻む不整脈のような重低音と開放型エアクリーナーが吸い込む野太い吸気脈動がアイドリングで荒々しく響き渡る。
車重わずか八百四十キロの軽量ボディが小刻みに震えた。
「拓也、四点式シートベルトしっかり締めや! 阪神高速の走り納めやで!」
「はいはい、安全運転で頼むよ」
助手席の拓也が苦笑いしながらアシストグリップを握る。
クラッチを繋いだ瞬間、機械式LSDを組み込んだフルタイム4WDが四輪でアスファルトを鷲掴みにした。
ストーリアは弾丸のように深夜の御堂筋へと飛び出していく。
湊町ランプから漆黒の阪神高速1号環状線へ合流する。
高架道路の継ぎ目をD-SPORTの車高調としなやかなスプリングがいなしていく。
先行するシビックをはじめとするVTEC勢が高回転特有の甲高い咆哮を響かせて前方を塞いだ。
茜の操るストーリアは極小排気量ながらブーストアップによって一・五キロの過給圧から絞り出された百五十五馬力のパワーを武器に突き進む。
クロスミッションを神速の手捌きで叩き込んでいく。
スコッ、スコッ、と吸い込まれるシフトワーク。
東船場ジャンクションのタイトな直角複合コーナー。
茜は前輪にわずかな荷重を残しながら鋭くノーズをインへと滑り込ませた。
クリッピングポイントを捉えるやいなやアクセルを踏み抜く。
スキール音ひとつ立てず強大な四輪のトラクションが車体を路面に押し付けた。
外側へ膨らみかけたその先頭車両の内側を文字通り針の穴を通すような軌道で鮮やかに抜き去る。
「どやっ!」
ミラーの彼方へと消えていくテールランプを見つめ茜は八重歯を覗かせて笑った。
その横顔には大阪の街を去ることへの未練など微塵もなかった。
愛する夫が挑む戦場へ自らの相棒とともに飛び込んでいく覚悟の閃光だけが夜の闇を切り裂いていた。
第四章:新天地・風花町と運命の長屋
梅雨の晴れ間が広がった六月の上旬。
陸送トラックから降ろされた純白のストーリアX4とともに御堂夫婦は福岡県風花町の地に降り立った。
駅前通りから車を走らせること数分。
風花連山の濃い緑が間近に迫る。
窓を開けると初夏の風に乗って青葉の爽やかな香りと澄みきった土の匂いが車内を満たした。
「……うわぁ」
茜が思わずアクセルを緩めた。
車道のすぐ脇を流れる用水路。
底に敷き詰められた小石や揺れる水草がまるでガラス越しのように鮮明に見える。
「見てみぃ拓也! 水が透き通っとる! 道頓堀のヘドロとは大違いや……!」
「こらこら、道頓堀に謝りなさい」
拓也が笑いながら指差した先に天野里美率いる風花町支所があらかじめ手配してくれていた新居があった。
用水路沿いに佇む古い木造長屋。
太く黒光りする梁が屋根を支え白壁と格子窓が宿場町の面影を色濃く残している。
そして何より夫婦を驚かせたのは母屋の横に併設された頑丈な金属折板屋根と重厚なシャッターを備えた立派なガレージだった。
「……まるで、茜の車が来ることを見越していたかのような間取りだね」
「ほんまや! 工具箱もスペアタイヤも全部入るやんか! 天野さん言う秘書官のお嬢ちゃん、仕事早すぎやろ!」
茜は車をガレージに収めると勢いよく長屋の土間へと踏み込んだ。
土間の隅にある古い井戸の手押しレバーを力強く上下させると冷涼な地下水がドッと勢いよく吐き出された。
両手ですくい口に含んだ茜の動きが唐突に止まる。
「……茜?」
「…………」
茜は無言のままもう一口喉を鳴らして水を飲み干した。
パッと顔を輝かせて拓也を振り返る。
その瞳にはかつて実家の厨房で鉄板を前にしていた時と同じ職人の熱い火が灯っていた。
「拓也。ウチ、ここで店やるわ」
「えっ? 店って……」
「たこ焼き屋や! この水、すごいわ。引っかかりが一切ない極上の軟水や。これで昆布と鰹を引いたら、雑味の出ぇへん、どこまでも澄んだ黄金出汁が取れる! 実家の味をそのまま持ってきてもあかん、この水に合わせたら、大阪のどんな名店も裸足で逃げ出す『本物の出汁たこ焼き』が焼けるで!」
茜は土間の広さを足で測りながら両手を腰に当てて胸を張った。
「あんたが銀行で国の行く末を左右するような大金と戦うんなら、ウチは町の片隅で最高に美味いたこ焼き焼いて、腹空かせた人間を笑顔にしたる! あんたがいつ帰ってきても、美味い飯と酒で迎えたるからな!」
淀みのない太陽のような決意。
拓也は眼鏡を外し目元を緩めて微笑んだ。
「敵わないな、茜には。……よし、思いっきりやってごらん。僕が一番の常連客になるよ」
第五章:風花支店の金庫とすれ違うリキッド・シルバー
翌週の月曜日。
濃紺のピンストライプスーツに身を包んだ拓也は駅前通りに面した皇銀行風花支店の重厚な石段を上がっていた。
外観は大正ロマンを思わせるクラシカルな石造り建築だ。
だが通用口の指紋認証と虹彩スキャンを通過して一歩足を踏み入れた瞬間、拓也は皮膚をピリピリと刺すような緊張感を覚えた。
地下金庫へと続く防盗扉はスイスのプライベートバンク同等の耐火防盗装甲。
張り巡らされた専用通信回線は皇グループ独自の暗号化プロトコルで厳重に保護されている。
重厚な支店長室に足を踏み入れるとデスクの前に集まっていた選りすぐりのベテラン役席たちが整然と迎えた。
「融資統括課長の御堂です。本日より着任いたしました」
拓也が折り目正しく礼を述べるとデスクの奥で銀髪を短く刈り込んだ支店長・有馬兼嗣が縁なし眼鏡の奥から値踏みするように、だが温かな眼光を向けて立ち上がった。
「待っていたよ、御堂くん。……早速で心苦しいが、君の確かな眼を借りたい案件がある」
有馬が静かに差し出したのは一条山開発に関わる数千万円単位の最新林業重機の導入決裁書だった。
さらに皇家直属の環境保全ファンドに関する極秘稟議書が重なる。
文字通り桁の違う世界だった。
だが書類に目を通す拓也の視線は難波の町工場を見ていた時と寸分違わず静かで澄み渡っていた。
減価償却のカーブと木材の国際市況。
そして何より危険なチェンソー作業を安全な防護キャビン内でのオペレーションへと置き換える現場作業員たちの絶対的な安全性。
万年筆を走らせ澱みなく修正指示を書き加えていく拓也の手元を見て有馬の口元に深い安堵と敬意を帯びた笑みが浮かんだ。
「……噂通りの切れ者ですな、御堂課長」
「いえ。現場が命を懸けている事業に、僕たち金融屋も命を懸けて応える。それだけのことです」
眼鏡の奥の瞳が静かに笑った。
ここが自分の戦場だ。
守るべき町と信じるべき妻のいる至高の場所だった。
午後六時。
初日の激務を終えて支店の通用口を出た拓也はネクタイを緩めながら夕暮れの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
山あいから吹き下ろす夕風が心地よく熱を奪っていく。
その時だった。
ヒュオォォン……と低く澄んだ並列六気筒のシルキーなハミングが静まり返った路地の向こうから響いてきた。
現れたのは威風堂々たる巨大なツアラーバイク。
夕陽を浴びて青白い光を放つリキッド・シルバーのBMW K1600GTLだった。
寸分のブレもない完璧なリーンウィズで路地の角を曲がってきたライダーは黒いレザースーツに身を包んだ凛とした体躯の女性だった。
巨体が拓也の真横で微速まで滑らかに速度を落とした一瞬。
レザーグローブの指先によってスモークシールドがスッと押し上げられ切れ長で冷徹な眼差しが拓也の視線と真っ向から交錯した。
会長首席秘書官——天野里美。
言葉は交わされなかった。
だが互いの瞳の奥にある覚悟を二人は瞬時に悟りわずかに顎を引いて無言の敬礼を交わした。
皇家の聖域を水面下で支える同志としての確かな交感だった。
シルキーシックスの快音を残しリキッド・シルバーの巨体が夕闇の街道へと消えていく。
「……なるほど。あの方が、天野秘書官か」
拓也は小さく呟き口元を緩めた。
この町には本物のプロフェッショナルしかいない。
第六章:路地裏の灯りとすっぴんの味
石畳の路地を抜け用水路沿いの我が家へと近づいた拓也の鼻腔をえもいわれぬ芳醇な香りがくすぐった。
利尻昆布の奥深い旨味と厚削り鰹節の力強い薫香。
そこへ熱せられた純銅板の上で出汁の利いた生地がジュワリと焼ける香ばしい湯気が重なり合っている。
長屋の土間の格子戸の脇にはまだ真新しい白木に墨黒で力強く描かれた看板が立てかけられていた。
虎が誇らしげにタコをくわえている意匠。
——『浪花たこ焼き 蛸虎』。
「拓也! お帰り!」
ガラリと戸を開けると黒光りする極厚鉄板の脇に据えられた銅板の焼き台の前に立つ茜が満開の笑顔で迎えてくれた。
両手に持った千枚通しを目にも留まらぬ速さで操っている。
ポニーテールを揺らしワインレッドのバンダナの額にキラリと汗を光らせていた。
「初仕事、どないやった? お偉いさんの相手して胃ぃキリキリ痛んでへんか?」
「大丈夫だよ。とてもやり甲斐のある、素晴らしい仕事だった」
拓也は鞄を置きカウンターの丸椅子に腰を下ろしてふうと息を吐いた。
「ほれ! ちょうどええタイミングや! 試作第一号、うちの看板メニュー『すっぴん』やで!」
舟形の経木に載せられて差し出されたのはソースもマヨネーズも一切かかっていないきつね色の大粒たこ焼きだった。
二・五ミリ厚の純銅板で一気に焼き固められた極薄の皮が中の熱気でフルフルと震えている。
「熱いから気ぃつけて食べや!」
拓也は竹串で持ち上げハフハフと息を吹きかけながら口へと運んだ。
サクッ、と極薄の皮が微かな音を立てて弾けた瞬間。
口の中いっぱいに清冽な湧水によって極限まで引き出された黄金出汁が上質な茶碗蒸しのようにとろりと溢れ出した。
出汁の圧倒的な旨味。
噛みしめるほどに広がる大粒のタコの力強い弾力と磯の滋味。
ソースの甘辛さや薬味の助けを一切借りずとも素材の魂だけで舌の上を満たしていく奇跡のような味覚だった。
「……美味しい」
拓也の目頭にじんわりと熱いものが滲んだ。
「美味しいよ、茜。……大阪の実家の味より、ずっと澄んでいて、ずっと力強い」
「せやろ!」
茜は嬉しそうに八重歯を覗かせ胸を張った。
「この町の水と、うちの腕前が合体したら無敵や! 明日から本格的に看板出すで! 近所の山で木ぃ伐っとる子らも、お腹空かせて来るかもしれんしな!」
「ふふ、いいね。きっと大人気になるよ」
拓也は冷えたビールを喉へ流し込み土間の奥のガレージを眺めた。
シャッターの隙間から初夏の月光を浴びて静かに佇むストーリアX4の純白のノーズが見える。
都会の喧騒と派閥抗争の渦を抜け出しバンカーとしての真価を問うべく辿り着いた風花町という美しい聖域。
守るべき町があり愛する妻が焼き上げる熱々のたこ焼きがある。
バンカーとしての誇りと職人としての情熱を乗せた夫婦の新しい物語が香ばしい出汁の湯気とともにいま力強く幕を開けようとしていた。
【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、風花町に新風を吹き込む御堂夫婦の旅立ちを描かせていただきました。
冷徹なほど緻密な数字の奥にある「人の営み」を見つめる拓也と、気風の良さと直感で物事の本質を掴み取る茜。
大都会の権謀術数を軽やかに笑い飛ばし、自分たちの足でしっかりと大地に立つふたりの姿は、書いていてとても頼もしく、心地よいものでした。
名機ストーリアX4が山あいの街道を駆け抜け、長屋の土間に銅板の焼ける香ばしい匂いが立ち上る――。
風花町の清らかな水と出会った茜の「すっぴん」が、これから町の人々とどのように交わっていくのか、温かく見守っていただければ幸いです。
もし少しでもふたりの門出を心地よく感じていただけましたら、ブックマークへのご登録や、下部の評価(★★★★★)、ご感想などをそっと残していただけますと、日々の執筆の大きな励みになります。
夜も深まってまいりました。
また次の夜、この止まり木でお会いできるのを心待ちにしております。
天照(Bar風花)




