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【Bar風花 特別編:櫻庭天、美和】 銀の翼と琥珀の潮風 〜少年の日の夢を乗せて、妻と往く秋のミルクロード〜

【前書き】


※ 本作は実在の銘柄、ならびにクラシックカーの構造に基づいた写実的な描写を含みます。

※ 神話の記憶を胸の奥に秘めながら、風花の地で静かに寄り添い生きる夫婦の物語です。

※ ガレージのオイルの匂いと、秋の澄み切った風、そして夜のモルトの余韻をお届けします。


引き出しの奥、黄昏色に褪せた古雑誌の切り抜き。

屋根もドアもない小さな鉄の舟に、いつか長い黒髪の女性を乗せて秋の空を走りたい――。

少年の日の青い憧れは、二十年以上の時を経て、神社の平屋で静かに息を吹き返します。

阿蘇のススキが銀色に波打つ秋晴れの朝と、冷えた体を優しくほどく、夜のカウンターの琥珀色。

どうぞ、グラスの氷がカランと鳴る前に、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。

第一章:縁側の文机と少年の夢

 

 夕暮れの気配が風花山の山並みを濃い群青へと染め変えようとしていた。

 此花神社の深い社叢に抱かれた櫻庭の平屋は町の喧騒から切り離されたように静まり返っている。

 庭の片隅に佇む四季桜が季節外れの淡い花びらを夕風にそっと散らせていた。

 縁側の端で天は使い込まれた文机の引き出しの最奥から端が琥珀色に変色した古雑誌の切り抜きを指先で引き出した。

 三十年近く前の少年時代に古書店で手に入れた英国車専門の月刊誌だ。

 見渡すかぎり乾いたカントリーロードを往く一台の小さなオープンカーがグラビアに写っている。

 ケータハム・スーパーセブン。

 無塗装のアルミパネルと深紅のノーズ。

 その助手席で風に長く豊かな黒髪を遊ばせながら遠くを見つめる女性の横顔があった。

 少年の頃この頁を幾度指でなぞったか知れない。

 屋根もドアもない細い鋼管フレームにアルミの板を貼り付けただけの世間から見れば鉄屑同然の乗り物。

 けれど天には機能美だけを研ぎ澄ました何よりも純粋な機械に見えた。

 いつか大人になって生涯をかけて慈しむべき髪の長い女性を助手席に乗せ秋の澄み切った空の下をどこまでも走りたい。

 無骨な自衛隊の営舎で工具を握り続けていた日々もその稚気じみた青い憧憬だけは心の奥底で錆びずに息づいていた。

「……天ちゃん?」

 柔らかな衣擦れの音とともに硝子戸の向こうから澄んだ声が降ってきた。

 美和が手淹れのほうじ茶を乗せた欅の木盆を手に立っている。

 薄手の柿色の羽織を肩に掛け豊かな黒髪を背中でひとまとめにしていた。

 右が濡れたような深いワインレッドで左が透き通るアンバー。

 世にも稀な双眸が畳に正座して妙に肩を強張らせている天を不思議そうに見つめる。

「どうしたの? そんなところで小さくなって。原稿、もう書き終わったのでしょう?」

「あ……うん。美和さん、お茶、ありがとう」

 天は背筋を正し文机の上に古びた切り抜きを置いた。

 その隣へ長年フリーランスのルポ原稿と機械修理の請負で少しずつ貯め込んできた地方銀行の通帳を両手で押し戴くようにそっと添える。

「あのね、美和さん。……僕から、少し相談があるんだ」

 美和は盆を畳へ下ろすと天の正面に静かに膝を折った。

 小首を傾げ机の上の通帳と色褪せた英国車の写真を交互に見つめる。

「あら。天ちゃんが自分から改まっておねだりなんて、珍しいわね。……どれどれ? まあ……ずいぶんと小さくて、軽そうな車ね」

「ケータハム・スーパーセブン。1991年式の、1700 BDRっていうんだ。昔、名門のコスワースが手掛けたシリンダーヘッドを載せた特別な個体でね……ずっと状態のいい出物を探していたんだけど、懇意にしているエンスー系のショップで、ワンオーナーのまま大切に保管されていた車が見つかったんだ」

 天の口調はいつになく早口だった。

 膝の上で指先が落ち着きなく泳ぐ。

「もちろん、僕のこれまでの貯金と、今回の連載の原稿料の範囲で綺麗に納まる。皇グループの口利きや援助は一切受けていないし、これからも絶対に受けない。……でも、その……」

 美和は切り抜きの車体を細い指先でそっと撫でた。

 そして琥珀とワインレッドの双眸を悪戯っぽく細める。

「天ちゃん。このお車……雨が降ったら、びしょ濡れになってしまうんじゃないかしら?」

「うっ……そ、それは……うん。幌はあるけれど、基本的にはカッパを着て乗るものだから……。でも、雨の日は絶対に走らせない! ガレージから一歩も出さないよ。それに、もし美和さんが乗ってくれるなら、風の巻き込みを防ぐアクリル板も、足元を温めるヒーターも、僕が完璧に組むから……!」

 必死になって弁明する夫の顔を美和はじっと見つめていた。

 怒っているのではない。

 困惑しているのでもない。

 普段は一歩引いて周囲に尽くしてばかりいるこの実直な男がまるで玩具屋のショーウィンドウに張り付いた少年のように目を輝かせていることがたまらなく愛おしいのだ。

 美和は小さく笑い声を漏らすとすっと膝を進め天の両頬をひんやりとした掌でそっと包み込んだ。

「ふふ……冗談よ。天ちゃん、そんなに慌てないで」

「美和さん……」

「あなたがそこまで大切に思ってきた夢なんですもの。ダメだなんて言うはずがないじゃない。……ずっと頑張って、お仕事をしてきたのでしょう? あなたの手で手に入れて、あなたの手で大切にしてあげなさいな」

 ふわりと美和の体から微かな桜の匂いが立ち上った。

「その代わり……秋の風が一番澄んだ日に、私を助手席に乗せてくださる? 阿蘇のススキを見に連れていってね、天ちゃん」

「……! うん、約束するよ。ありがとう、美和さん」

 天は深く頭を下げた。

 眼鏡の奥の瞳が熱い光を宿して微かに潤んでいた。



 

第二章:櫻庭FACTORYの精密調律

 

 二週間後。

 豊田モータースの積載車が神社の細い参道を唸りを上げて登ってきた。

 荷台から慎重に降ろされた細身の鋼管フレームを見た瞬間作業着姿の豊田のオヤジが咥え煙草を落としそうになりながら鼻を鳴らした。

「おいおい……天。お前、平屋の奥にフェラーリとGT-Rを仕舞い込んでるだけでも大概だってのに、またとんでもねえ化け物を引っ張ってきたな」

「オヤジさん、運んでくれてありがとうございます。……ずっと、探していたんです」

 眼前に佇むセブンは無塗装のアルミニウムを手叩きで仕上げた銀色のサイドパネルを持っていた。

 余計な塗料を纏わぬ金属の地肌は秋の柔らかな陽光を受けて鈍く冴えた光を返す。

 ノーズコーンからボンネットの中央を貫くセンターストライプや前後のサイクルフェンダーには深く沈んだ紅色が差されていた。

 鮮やかすぎるフェラーリの赤ではない。

 熟した富有柿の皮を思わせる色合い。

 美和の右目の虹彩に沈む落ち着いたワインレッドに極限まで調色されたカーディナル・バーガンディだ。

 その日から平屋併設の櫻庭FACTORYのシャッターは夜更けまで開け放たれた。

 天の作業は常軌を逸した精密さだった。

 エンジンブロックから降ろされたコスワースBDRユニット。

 フォードの鋳鉄ケントブロックに載るアルミ製DOHC十六バルブヘッドのタペットクリアランスをシックネスゲージを用いてコンマ零一ミリの狂いもなく揃えていく。

 吸気系は名機ウェーバー四十五パイ・DCOEツインキャブレター。

 真鍮製のジェット類を超音波洗浄槽で洗い清めフロート油面をゲージで計測する。

 四連のアルミ削り出しファンネルには自衛隊時代の航空整備の知見を活かし異物吸入を防ぐ極薄の真鍮メッシュを自作して被せた。

 キャブレターの同調は目視などでは済ませない。

 四連バキュームテスターの負圧計を繋ぎアイドリングの鼓動に耳を澄ませながら同調スクリューを指先のトルクだけでミリ単位以下で追い込んでいく。

「シュコォ……コポコポコポ……」

 ガソリンの甘やかな匂いとともに乾いた規則正しい吸気音がガレージを満たす。

 助手席の工作にはさらに心血が注がれた。

 風の巻き込みが長い黒髪を痛めぬよう航空機用の高透明ポリカーボネート板を切り出し天自らヒートガンで曲面を成形した特製の大型ウィンドディフレクター。

 寒冷地での冷え込みを嫌いラジエーターのバイパス配管から小型の温水ヒーターコアを助手席の足元バルクヘッド奥へ完全にビルドインした。

 振動で緩む恐れのある足回りやブレーキキャリパーの締結ボルトには航空宇宙規格のステンレスワイヤーを通しツイスターで寸分の乱れもなく二重ツイストを編み込んでいく。

「……天さん。これ、完全にレーシングガレージの仕事っスよ」

 一条山の現場帰りに立ち寄った黒木葵が工具箱を抱えたまま呆然と呟いた。

「この配線の束ね方とワイヤリング……うちのサンバーの整備を教えてもらった時も思いましたけど、天さんの手、人間技じゃないっス」

「ありがとう、葵ちゃん。でもね、美和さんを乗せる車だから。ボルト一本の緩みも、キャブの息継ぎも、絶対に許されないんだよ」

 天はオイルで汚れたウエスで額の汗を拭い照れくさそうに笑った。

 その噂は瞬く間に風花町の車好きたちの耳へ届いた。

 最初に飛び込んできたのは神崎歯科の歯科衛生士にして現代ケータハムの過給機モンスター620Rを駆る早坂睦月だった。

「天さんッ! BDRコスワースって本当ですか!? あ、本当だ……! ベルトドライブのタペットカバーに『COSWORTH』の結晶塗装の刻印! ウェーバーのこの荒々しい吸気口……! 私のスーパーチャージャーとドグミッションの機械音とは全然違う、内燃機関の原点の匂いがします……! 今度、私のセブンと並べて風花山スカイラインを登らせてください!」

 続いて往診帰りの愛車であるてんとう虫こと愛らしいスバル360を滑り込ませてきた平医院の平研造院長が白衣を翻して駆け寄ってきた。

「天くん! 見せてくれ、あのBDRを! おお……これか! ワシが若かりし頃、自動車雑誌のグラビアを眺めながら涎を垂らしておった伝説のツインカムじゃ! おい志乃、ちょっとカメラを持ってこい! タペットカバーと一緒にワシの写真を撮れ!」

「院長、午後からの外来が詰まっています。はしたない真似はおやめなさい」

 助手席から降りてきた事務長の志乃が冷徹にカルテの角で院長の脇腹を小突く。

 しかしその志乃の双眸もまた研ぎ澄まされたセブンの足回りを検分するように見つめていた。

「……アーム類のブッシュ、全数打ち替えてアライメントを出し直してあるわね。天ちゃん、悪くない仕上がりよ。これなら風花山の荒れた舗装でも足がよく追従するわ」

「ありがとうございます、志乃さん」

 町の人々の熱狂を浴びながら銀と紅のセブンはガレージ奥の二段式油圧リフトの上段へと静かに格納された。

 運行規定は天ちゃんルール。

 降水確率零パーセント。

 完全ドライ路面。

 春と秋の気候の澄み切った時期限定。

 風花町の神域にまたひとつ滅多に姿を現さない生きた至宝が加わった瞬間だった。



 

第三章:銀波の阿蘇ミルクロード

 

 十月最後の土曜日。

 夜明け前の風花町は放射冷却によって鋭利なほどに冷え込んでいた。

 午前五時に天は平屋の縁側から空を見上げた。

 雲ひとつない漆黒の天蓋に満天の星が凍てついたように瞬いている。

 湿度計は四十パーセント。

 路面は完全に乾ききり風花川の川面からは朝霧が白く立ち上っていた。

 絶好の秋晴れだ。

 ガレージの明かりが灯る。

 二段式油圧リフトの操作盤にキーを差し込み上昇スイッチを一瞬だけ入れた。

 わずかにリフトが唸りを上げて数ミリ浮きカチッと安全ラッチの爪が解かれる澄んだ金属音が響く。

 続けて下降レバーを引けば上段のパレットが自重で静かに滑り降りてきた。

 地上へ完全に接地したのを見届け薄く被せられていた特注の防塵カバーを取り払う。

 磨き抜かれた無塗装アルミの肌が蛍光灯の下で青白い刃物のように煌めいた。

 母屋の引き戸が静かに開き美和が姿を現した。

 上質なアイボリーのカシミアセーターに深いグリーンのシルクスカーフを首元に巻いている。

 豊かな黒髪は背中の中央まで滑らかに下ろされていた。

 足元には細身のペダルボックスでも干渉しないトッズの柔らかなドライビングシューズ。

「おはよう、天ちゃん。……本当に、素晴らしいお空ね」

「おはよう、美和さん。うん、最高の秋晴れだよ。……寒くないかい?」

「ええ、平気よ。あなたが温かいお車にしてくれたのでしょう?」

 美和はふふっと微笑み低く構えた助手席のドアすらない開口部へ優雅に足を滑り込ませた。

 タイトな本革のバケットシートが美和の身体をしっかりと包み込む。

 二人の肩が触れ合うほどの狭小な空間。

 天は運転席へ滑り込むとまずダッシュボード中央のキルスイッチを入れ電磁燃料ポンプのトグルを跳ね上げた。

「チチチチチ……」

 燃料タンクからキャブレターへハイオクガソリンが送られる微小な脈動音。

 メーター類の指針を確認してから四点式のシートベルトを左右均等に寸分の緩みもなく丁寧に締め上げた。

 アクセルペダルを二度深く床まで煽り加速ポンプからマニホールドへ生のガソリンを送り込む。

 右手の親指でダッシュボードのスターターボタンを押し込んだ。

「キュキュキュッ――ズドォンッ!」

 爆発的な初爆とともに右サイドシル直下に剥き出しとなった等長ステンレスマフラーから乾いた咆哮が叩き出された。

「コポコポコポコポ……」

 ツインカム特有の硬質で規則正しいアイドリングの鼓動。

 排気ガスに含まれる未燃焼ガソリンの甘い匂いが冷たい朝のガレージに薄く漂う。

 水温五十度と油温六十度。

 針が適正値へ立ち上がるのを待ち天は左足で重いクラッチペダルを踏み込んだ。

 手首のスナップだけでローギアへ吸い込まれるシフトレバー。

「美和さん、行こうか」

「ええ、お願いね」

 クラッチが繋がれた瞬間セブンは車重五百四十キロの軽やかさを解き放ち神社の玉砂利を静かに踏みしめて滑り出した。

 鳥居をくぐり風花町の旧街道へ出る。

 早朝の通りには人影もない。

 町外れへ向かうバイパスへ出ると天はアクセルを少しだけ深く踏み込んだ。

「クォォォォン……!」

 回転計の針が三千回転を超えた瞬間ウェーバーのファンネルから立ち上る吸気がグオォッと乾いた金属的な咆哮へと変貌する。

 フロントタイヤが跳ね上げる路面の砂粒がサイクルフェンダーの裏側をパチパチと叩く。

 路面の継ぎ目やアスファルトの荒れや空気の温度がステアリングのナルディクラシックを通じて掌へ雪崩れ込んできた。

 助手席の美和を見る。

 天が心血を注いで成形したアクリルディフレクターが前方からの強烈な走行風を美しく左右へ受け流していた。

 美和の長い黒髪は乱れることなくそよ風を孕むように優雅に波打っているだけだ。

 美和は目を細め横を流れる風花川の土手に視線を投げていた。

 堤防には朝露に濡れたススキの銀色の穂が朝日に照らされて果てしなく煌めいている。

「……綺麗ね、天ちゃん」

 風切り音の合間を縫って美和の鈴を転がすような声が届く。

「まるで、光の海の上を滑っているみたい」

「足元、寒くないかい?」

「ええ、とっても温かいわ。あなたの優しさが、ずっと足元から伝わってくるみたい」

 美和が手袋を外した白く滑らかな手をアルミ剥き出しのセンタートンネルへ伸ばす。

 二人の太ももが触れ合うほどの狭い隙間で天がシフトノブを握る手の上にそっと重ねた。

 じんわりとした体温が伝わってくる。

 天は目頭が熱くなるのを覚えながら三速から四速へ寸分のショックも与えずにシフトアップした。

 日田を抜け小国街道へ入る頃には空は完全に明けていた。

 吸い込まれそうなほどに高い秋の青空。

 風花山の山並みを背にセブンは阿蘇外輪山を目指して高度を上げていく。

 ミルクロードへ入った瞬間視界が一気に開けた。

 見渡す限りの緑と黄金色の草原。

 秋風にうねる無数のススキの海原が朝の斜光を浴びて銀色に波打っている。

 遠くには朝靄をまとった阿蘇五岳の涅槃像が神話の巨人のように静かに横たわっていた。

 冷涼で乾いた空気を吸い込んだコスワースBDRは年間で最も鋭い調律の冴えを見せていた。

 タイトな上り勾配のコーナー。

 天はブレーキペダルをじわりと踏み込み右足の踵でアクセルを軽く煽る。

「フォンッ!」

 完璧なヒール&トゥ。

 乾いたブリッピングとともに二速へ落ちクリッピングポイントを舐めるようにトレースする。

 ロールという概念を感じさせないほど水平を保ったまま四輪が大地を掴んで旋回していく。

 車体のアルミパネルには流れるススキの銀波と外輪山の燃えるような紅葉が鏡のように滑らかに映り込んでいた。

 展望パーキングの端にセブンを滑り込ませイグニッションキーを捻る。

「パチ……パチ……」

 エンジンが止まり熱を帯びたエキゾーストパイプが冷たい外気の中で微かな収縮音を刻む。

 やがてそれも静まりあたりを包むのは渡る風のざわめきと草むらで鳴く秋の虫の声だけになった。

 天はハーネスを外し助手席の背後に固定していたサーモスの保温ボトルを取り出した。

 小さな陶器のカップに熱いほうじ茶を注いで美和に手渡す。

「お疲れさま、美和さん。温まって」

「ありがとう、天ちゃん」

 美和は両手でカップを包み立ち上る湯気にふっと目を細めながら遠くの阿蘇五岳を静かに見つめた。

 風に遊ばれた黒髪を手櫛でそっと整え隣の天を振り返る。

「ねぇ、天ちゃん」

「うん?」

「さっきから、ずっと嬉しそうなお顔をしているわね。少年のように誇らしげで、少年のように照れくさそうなお顔」

 天は耳まで赤くして手元のカップを見つめた。

「……ばれてたかい」

「ふふ、当たり前でしょう? あなたのことは、何だって分かりますよ」

 美和はカップを傾け小さく一口含むとふわりと慈しむような笑みを浮かべた。

「あの雑誌の切り抜きの夢……叶ったかしら?」

 天はハッとして顔を上げた。

「知っていたの……?」

「文机の引き出し、お掃除するときに何度も見かけていたもの。……ずっと昔から、このお車に、髪の長い人を乗せて秋の道を走りたかったのでしょう?」

 美和はスカーフの端を風に揺らしながら長い黒髪を指先で掬い上げた。

「私のこの髪……あなたの夢を叶えるために、神様が長く伸ばしてくださっていたのかもしれないわね」

 その言葉に天の胸の奥底で何かが弾けた。

「違うよ、美和さん」

 天は思わず美和の細い肩を抱き寄せそうになり慌ててグローブを嵌めた両手で彼女の手を包み込んだ。

「僕のくだらない憧れなんて、美和さんが隣にいてくれなきゃ、ただの鉄くずの自己満足だった。……美和さんが僕の奥さんになってくれて、僕の隣でこうして笑ってくれたから……僕の夢は、何万倍も、奇跡みたいに美しいものになったんだよ」

 美和の瞳が驚いたように見開かれやがて甘やかな愛おしさに蕩けるように細められた。

「まあ……ふふっ。天ちゃんったら、たまにそんな風に、真っ直ぐに口説くのだからずるいわね」

 美和は天の肩にカシミアの柔らかな重みをそっと預けてきた。

「ありがとう、天ちゃん。世界で一番贅沢な助手席だったわ。……帰り道は、もう少しだけ遠回りしてくださる?」

「もちろん。美和さんが風に飽きるまで、どこまでも走るよ」

 二人の背後で銀と深紅のセブンが阿蘇の秋光を浴びて誇らしげに佇んでいた。



 

第四章:琥珀の宿り木

 

 その日の夜九時。

 細い路地の奥で古いレンガ壁に吊るされた真鍮のランタンが暖かなアンバーの光を投げかけていた。

 重厚なオーク材の扉を開けるとそこには外の冷気とは隔絶された澄みきった静寂が横たわっている。

 程よく空調の効いた店内には古いレコードの針が落ちる微かなノイズとピアノの最後の余韻だけが空気の中に溶けていた。

 入って右手に何十年もの年月が刻んだ深い赤褐色の鉄刀木の一枚板カウンター。

 その向こうに美和が立っていた。

 昼間の柔らかなカシミアセーターから一変している。

 折り目正しい純白のシャツに黒のタイと黒のエプロンを身に纏ったBar風花のオーナーバーテンダーの凛とした姿だ。

 カウンターの端には早坂小春と睦月が並んで座っていた。

「美和さん、今朝のセブン、本当に素敵でした〜!」

 小春がジン・トニックのグラスを傾けながら嬉しそうに目を細める。

「私、バイパスですれ違ったんです! ススキの土手沿いを、銀色の矢みたいに滑らかに走っていって……美和さんのスカーフが風に揺れて、まるで古いフランス映画のワンシーンみたいでしたよ〜♪」

「そうなんですよ!」

 睦月が興奮気味に身を乗り出す。

「天さんのシフトチェンジ、後ろから見ていて惚れ惚れしました! BDRのあの気難しいクラッチを、美和さんの頭を一度も揺らさずに繋ぐなんて……! 私の620Rの荒々しさとは真逆の、究極のジェントル・ドライビングでした!」

 美和はふわりと頬を桜色に染めて小さく微笑んだ。

「ふふ、ありがとう。あんなに大切に運転されたら、助手席で眠ってしまいそうだったわ」

 そこへ控えめな真鍮の鈴の音とともに店の扉が静かに開いた。

 ツイードのジャケットを羽織り眼鏡を直しながら入ってきた天の姿を認めた瞬間小春と睦月が楽しげに声を揃えた。

「あ、噂のドライバーさんだ!」

 天は居心地悪そうに頭をかきながらカウンター奥の何時もの止まり木である黒い本革張りのローチェアーへ腰を下ろした。

「こんばんは、皆さん」

 美和がカウンター越しに天と視線を交わす。

 一瞬だけ店主としての凛とした仮面がほどけ縁側で天に微笑みかけた時のあの甘く柔らかな妻の表情が零れ落ちた。

 美和はバックバーから一角を占めるスコットランドの銘酒であるスプリングバンク10年のボトルを静かに手に取った。

 メジャーカップは使わない。

 グラスの縁にボトルの口を添わせることなく手首の角度だけで美しく磨かれたリーデルのテイスティンググラスへ琥珀色の原酒を正確にシングル分注ぎ入れる。

 ボウルが最も膨らむ完璧な高さだ。

 続いてカウンターの下から取り出した常温のギネス・エクストラスタウトを小ぶりのチューリップグラスへ静かに滑り込ませ最後にふわりと濃密な泡の層を立てて満たすとチェイサーとして添えた。

 青カビの美しい大理石模様が入った英国産スティルトンチーズを銀のナイフでホロリと一口大に崩して小皿に盛り小さなフォークを添えて天の前へ音もなく滑らせる。

「お疲れさま、天ちゃん」

「ありがとう、美和さん」

 天はまずスプリングバンクのグラスに鼻先を近づけた。

 立ち上るのはキャンベルタウン特有の微かな潮気とピート香。

 そして奥に潜むドライフルーツのような甘やかな芳香だ。

 口に含めばアルコール度数の厚みとともに複雑な麦芽のコクが舌の上にじんわりと広がる。

 追うように常温のギネスを含む。

 冷やさないことで引き出された焙煎麦芽の香ばしさと滑らかなクリーミーさがウイスキーの刺激を優しく包み込んでいく。

 仕上げにフォークでスティルトンをひとかけら口に運ぶ。

 ねっとりとした濃厚な乳の旨味と青カビの鋭利な塩気が口内で溶け合い再びスプリングバンクを呼び寄せた。

 イギリスの伝統をそのまま凝縮したような完璧な調和に天の口元が自然と緩む。

 カウンターの端では小春と睦月が顔を見合わせ邪魔をしないよういたずらっぽく微笑みながら小声でグラスを傾けている。

「今夜は風が冷たいけれど、星がとても澄んでいるわ。……あの子もガレージのリフトの上で、誇らしげに眠っているかしらね」

「うん。オイルの滴下一滴もなく、完璧に休んでいるよ。……また、走ろうね」

「ええ、喜んで」

 二人が見つめ合い誰にも邪魔されない呼吸で小さく微笑み合う。

 カウンターの奥で整然と並ぶクリスタルのグラスたちが柔らかな間接照明を吸い込んで星屑のような虹色の輝きを放っている。

 どこからか漂う微かな桜の余韻と古いレコードの針が奏でる静かな残響のなか風花町の夜が優しく静かに更けていった。

【あとがき】


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

今回は、普段は一歩引いて美和さんを支えることだけに徹している天ちゃんの、少しだけわがままで、少年のような一途な夢のお話でした。

男にとって「いつか乗りたかった車」というのは、どれだけ歳を重ねても心の奥底で錆びずに残っているものなのかもしれません。

そしてそれを「ダメだなんて言うはずがないじゃない」と笑って受け止め、世界で一番贅沢な助手席にしてくれる美和さんの懐の深さ。

夫婦というものの温かさを、少しでも感じていただけたなら幸いです。

夜のBar風花で美和さんが天ちゃんのために用意した、スプリングバンク10年と常温のギネス、そしてスティルトンチーズ。

イギリスの荒野を駆け抜けてきたセブンの余韻を、そのままグラスに閉じ込めたようなこの組み合わせは、個人的にも大好きな夜の過ごし方です。


もし「二人のドライブに胸が温かくなった」「この車に乗ってみたい」「今夜は一杯飲みたくなった」と感じていただけましたら、画面下の評価(★★★★★)やブックマーク、あるいは感想などを一言でも残していただけると、執筆の大きな励みになります。


風花町の夜は、まだまだ静かに続いていきます。

また次の夜も、このカウンターでお待ちしております。

天照(Bar風花)

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