【Bar風花 外伝:ソーニャ、平研造、茉莉】 小さな模型箱と冬の銀翼 〜金髪の美女は北の海で護り抜いた夢を見る〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花-kazahana-』の止まり木から連なる、冬の日の柔らかなサイドストーリーです。
※ 作中に登場する模型、実機スペック、歴史的背景(ベルリン陥落および占守島の防衛戦)は実在の史実と技術考証に基づいております。
※ 語られる物語には激しい空戦の記憶が含まれますが、根底にあるのは命を護り抜いた者たちへの深い祈りです。
木枯らしが此花神社の梢を揺らす、穏やかな十一月の日曜日。
神社の裏手の櫻庭家では、鉄瓶の白い湯気と網焼きの栗大福が、静かな冬の昼下がりを温めていました。
座卓の上には、青い帯が印象的なハセガワの小さな模型箱。
カシミアセーターをまとい寛ぐ金髪の美女ソーニャが、町医者の平院長へそっと持ちかけたのは、かつて大戦の空を駆け抜けた愛機のおねだりでした。
やがて座卓に運び込まれたジュラルミンの鈍い重みとともに、八十年の時を超えて、ベルリンの焦土と千島列島・占守島の冷たい霧が居間を満たしていきます。
どうぞ、そっと障子の向こうの団欒を覗いてみてください。
湯気立つお鍋の温もりの中で、いまも生き続ける銀翼たちの魂の音が聞こえてきます。
第一章:青い箱と、甘やかなおねだり
山あいから吹き下ろす初冬の風が此花神社の木々をからからと鳴らす十一月の日曜日。
神社の裏手にひっそりと佇む櫻庭家の平屋は外界の騒がしさからすっかり隔絶された静けさを保っていた。
板張りの広いリビングには鉄瓶から微かな湯気が立ち上り千草が網でこんがりと焼き目をつけた栗大福の香ばしく甘い匂いがふわりと重なっている。
障子越しに差す冬の柔らかな日差しの中で美和が穏やかな微笑みを浮かべ静かに皆の様子を見守っている。
その座卓を挟み平内科医院の平院長は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら深々と息を呑んでいた。
対面に座っているのは透き通るような白磁の肌にプラチナブロンドの長髪を優雅に波打たせた美女——ソーニャだ。
普段なら最高級のパンツスーツを隙なく着こなす彼女が今日はカシミアのざっくりとしたオフホワイトのタートルネックセーターに身を包み長い足を崩して絨毯の上で寛いでいる。
その膝の上には模型ファンなら誰もが見覚えのある箱が大切そうに抱えられていた。
ハセガワ製1/48スケール『メッサーシュミット Bf 109 K-4 “クールフュルスト”』。
「……ねえ、先生?」
ソーニャが鈴を転がすようなハスキーで甘やかな声音で微笑みかけた。
透き通るハニーアンバーの双眸の奥にほんのりと温かな親愛の光が揺らめいている。
「先日のハルトマンのグスタフ、とても素敵だったわ。先生が丹念にヤスリをかけて、主翼と胴体の合わせ目を風が抜けるように滑らかにしてくれたの、指先で触ってすぐ分かったもの。……だからね、先生にお願いがあるのよ」
「は、はあ……ワシのような老いぼれの手すさびでよろしければ、何なりと……」
七十を目前にした歴戦の町医者である平院長だが世界最高峰の美貌と得体の知れない気品を放つソーニャに真正面から見つめられるとまるで初恋の少女の前に立たされた少年のように落ち着きを失ってしまう。
隣でお茶を啜っていた娘の平茉莉医師がチタンフレームの銀縁ボストン眼鏡の端をツッと直し呆れ顔で父親を睨んだ。
「ちょっと父さん、鼻の下が伸びているわよ。……それでソーニャさん、そのハセガワのK-4がどうかしたの?」
「これね、先生に作ってほしいのよ」
ソーニャは悪戯っぽく小首をかしげ座卓の上へコトリと箱を置いた。
「ただの説明書通りに組むんじゃなくてね。……私が昔、本当に乗っていたあの子の姿に、完璧に仕立て直してほしいの」
「……へ?」
平院長の動きがピタリと止まった。
台所から新しいお茶の急須を運んできた櫻庭天の手も息を呑んだまま中空で石のように凍りつく。
「乗って……いた……? ソーニャさんが、このK-4に、ですか……!?」
「ええ。一九四四年の秋から、大戦の最後の最後までね。私の手足となって東部戦線からベルリンの焦土まで駆け抜けてくれた、世界で一番愛しい相棒よ」
事も無げに言ってくすりと微笑むソーニャ。
平院長は胸元を押さえ茉莉はカルテを落としそうになったインターン時代のような顔で固まり天は急須を持ったまま声にならない悲鳴を顔面に張り付かせて絶句していた。
第二章:座卓の上の遺品と、黒猫の狂気スペック
「ちょ、ちょっと待ってくださいソーニャさん!」
平院長がハセガワ派モデラーとしての矜持と戦史マニアとしての理性を総動員して身を乗り出した。
「Bf 109 K-4といえば、メッサーシュミットが送り出した大戦中最強にして最後の量産型……109シリーズの究極進化形ですぞ!? ダイムラー・ベンツDB 605DエンジンにMW 50水メタノール噴射装置を搭載し、二千馬力を叩き出して時速七百キロを超えるモンスターマシンです! それに……女性が……乗っておられた……!?」
「ええ。でもね先生、私のあの子は、ただのK-4じゃないのよ」
ソーニャは楽しそうに目を細め細く白い指先で宙にシルエットを描き始めた。
「まず基本塗装は、冬季の特別迷彩。純白のベースの上に、東部戦線の雪雲と高空に溶け込むような、ごく薄くて不規則なグレーの斑点迷彩——モットリングが施されていたわ。ちょうど、風花町の山肌に舞う粉雪のような、冷たくて綺麗な色よ」
「ほほう……冬季モットリング迷彩……! 白にグレーの繊細なボカシ……」
平院長が早くもモデラーの血を滾らせて呟く。
しかしソーニャの口から放たれた次の言葉がそのロマンを一瞬で粉砕した。
「それからね、主武装。プロペラ軸内の30ミリMK 108機関砲と、機首の13ミリ重機関銃二挺……それに加えて、両方の主翼の下に20ミリMG 151/20機関砲を収めたガンポッドを吊るしてあったの。G型でいうR6……翼下ゴンドラ仕様ね」
「「ぶっ!!???」」
平院長と茉莉の叫びが見事な二重奏となって居間に響き渡った。
「翼下ゴンドラですって!?!? あんなものをK-4に吊るしていたんですか!?」
平院長が頭を抱えた。
「翼の下に20ミリのゴンドラを二つもぶら下げたら、ただでさえ過敏で神経質な109の翼面荷重が跳ね上がり、空気抵抗で最高速度も運動性もガタ落ちします! 急旋回すれば主翼に凄まじいねじれ応力がかかり、ちょっと操縦桿を引きすぎただけで即座に失速キリモミに入って墜落する……当時のドイツ空軍のエースたちですら、命が惜しくて誰もが嫌がった最悪の過重形態ですぞ!?」
「ええ、整備中隊長のハインリヒ曹長も、毎回泣きそうな顔で同じことを言っていたわ」
ソーニャは懐かしそうに喉を鳴らした。
「若い整備兵が『ゴンドラを外してください!』って直訴してきたから、耳元で優しく教えてあげたの。『獲物を丸ごとすり潰すには、この重みが絶対に要るのよ』って」
「す、すり潰す……!?」
天が青ざめて後ずさりする。
「Il-2シュトルモヴィクや爆撃機の編隊って、装甲が硬くてしぶといでしょう? 軸内の30ミリ薄肉榴弾一門だけじゃ、すれ違いざまのコンマ数秒で確実に解体できないことがあるのよ。でもね、30ミリ一門と20ミリ二門、さらに13ミリ二挺を一斉に叩き込めば……どんな頑丈な敵機も、一瞬で大空の肉微塵になって消し飛ぶの。反動で操縦桿が暴れ狂うけれど、そこは気合いと愛でねじ伏せればいいだけの話じゃない?」
「物理法則を気合いでねじ伏せないでくださいよぉぉぉ!!」
天の魂のツッコミに茉莉がこめかみを押さえて呻く。
「……信じられない。超重武装による運動性低下を、二千馬力の過給圧と人外のG耐性だけで補正して空戦を制していたというの……? それ、生身の人間の循環器系が耐えられる負荷じゃないわよ……」
「ふふ、ドクター。私、こう見えて頑丈なのよ」
ソーニャは楽しそうに微笑むとすっと立ち上がり玄関へと向かった。
「待ってて。……今日、天神からここへ来る前に、私の隠れ家の倉庫へ寄って車に積んできたの。天ちゃん、ちょっと運ぶのを手伝ってくれる?」
「あ、はい……」
天がリビングを出ていき数分後。
ドスン、と重厚な金属の鈍い衝撃音とともに座卓の脇に運ばれてきたものを見た瞬間、平父娘は息を呑みクッションから転がり落ちそうになった。
「な……な、何ですかこれはぁぁぁッッ!?」
絨毯の上に鎮座していたのは紙の図面やモノクロ写真などという生ぬるいものではなかった。
ひとつは歪みと焦げ跡が生々しく残る実機から切り出されたジュラルミン製の分厚いエンジンカウリングパネルだ。
白地に繊細なグレーの斑点迷彩が焼き付いたその金属板にはしなやかに背を反らせた一匹の黒猫のシルエットが描かれていた。
そしてその猫の瞳には燃えるような鮮やかなハニーアンバーの塗料が八十年の歳月を超えてなお妖艶な輝きを放っている。
その傍らには特製の木製架台に固定されたツァイス製Revi 16B射撃照準器が光学ガラスの奥に淡い十字レティクルを宿したまま静かに置かれていた。
そしてもうひとつはずっしりとした真鍮の塊だ。
花瓶代わりに野の小菊が一輪挿された美しく磨き上げられた円筒形の金属筒——30ミリMK 108機関砲の本物のずんぐりと太い空薬莢だった。
物資不足でスチール薬莢が主流だった大戦末期にあって初期ロットの貴重な真鍮薬莢を戦後にスイスの工房で丹念に防錆研磨した特注の逸品である。
「本物の……K-4のカウリングパネル……!? それに、ツァイス製のRevi 16B射撃照準器まであるじゃないですか……!!」
平院長が這いつくばるようにしてカウリングに額を擦り寄せ胸ポケットからルーペを取り出して金属表面のリベットや塗膜を凝視した。
「神よ……! このリベットの打ち込み、ダイムラー・ベンツ純正の焼付けプライマー、そしてこの黒猫の筆跡……! 本物だ、正真正銘、第二次大戦の空を飛んでいた実機の外板ですぞ……!!」
「カウリングの左右にこの黒猫を描いて、垂直尾翼には私の実家……カヴェーリン伯爵家の紋章を入れていたわ」
ソーニャは懐かしそうにジュラルミンの冷たい金属肌を指先で愛撫した。
「深緑と黒のシールドに純銀の双頭の鷲、三日月と三つの星、そして左右に二頭の漆黒の豹。……ベルリンの航空省のお偉方は『帝政ロシアの紋章など言語道断だ』って怒り狂っていたけれど、『文句があるならあんたが代わりに飛んで敵を落としなさい』って言って黙らせたわ」
「伯爵家の紋章を手描き……!?」
茉莉が絶句する。
「ハセガワのキットにはそんなデカール入っていませんよ!?1/48スケールの垂直尾翼なんて親指の先くらいのサイズしかないのに、双頭の鷲と豹の紋章をどうやって再現するんですか!」
「ふふ、先生なら描けるでしょう? ハセガワの繊細なパネルラインを愛する、本物の腕利きなんですもの」
ソーニャがハニーアンバーの瞳をとろりと細め猫のような悪戯っぽい光を宿した上目遣いで平院長を見つめる。
平院長はゴクリと喉を鳴らし握りしめた拳を震わせた。
「描きます……! 烏口と極細の面相筆を使って、ルーペ越しにコンマ一ミリの狂いもなく手描きで再現してみせますとも……!!」
「父さん、完全にソーニャさんの術中にハマってるわよ……!」
「ところで、ソーニャさん」
平院長が手帳とシャープペンシルを取り出しながら真剣な眼差しで尋ねた。
「垂直尾翼の方向舵に書き込むキルマークですが、何機分描けばよろしいですかな? ハルトマンが三百五十二機、バルクホルンが三百一機……あなたほどの腕前なら、五十機や百機どころではありますまい」
「あぁ、キルマークね」
ソーニャは急須から注がれたお茶を一口すすり穏やかに告げた。
「公認撃墜は、二百六十八機よ」
「に……」
平院長の手帳の上でペンの芯がパキリと音を立てて折れた。
「にひゃく……ろくじゅうはち……!?!? あのオットー・キッテルを抜いて、ドイツ空軍……いや、世界航空戦史上、歴代第四位の超弩級スーパーエースじゃないですかぁぁぁッ!!」
「それとね、地上撃破の戦車や装甲車両が百二十両以上。あと、前のグスタフに乗っていた頃、クルスクで邪魔だったソ連軍の装甲列車を一本脱線させて吹き飛ばしたのと、バルト海で友軍を砲撃していたキロフ級巡洋艦の艦橋に爆弾を直撃させたわね」
居間にいた全員が顎をガクガクと震わせたまま完全に石化した。
天にいたってはもはや声も出ず魂が口から半分抜けかけたような顔で宙を見つめている。
「せ、戦車百二十両……装甲列車に巡洋艦……!? そ、それ、急降下爆撃機のルーデル大佐がやる仕事ですよ!? なんで戦闘機一機でそんな大戦争を一人で片付けてるんですか!?」
天の絶叫にソーニャはフッと切なげに口角を下げ遠い窓の外の冬空を見つめた。
「……スコアを自慢したくて落としていたわけじゃないのよ、天ちゃん」
その声音から先ほどまでの茶目っ気がすうっと消え失せた。
居間の空気が氷点下の高空のように澄み渡っていく。
「一九四五年四月……ベルリンはね、街全体が真っ赤な火の海だったわ。逃げ場を失った何万人もの避難民……着の身着のままで荷車を引く老人や、赤ん坊を抱いた母親たちが、泥濘の道を西へ西へと歩いていた。その後ろから、ソ連軍の戦車部隊とIl-2の襲撃機隊が、復讐の炎を燃やして迫っていたのよ」
それまで静かに二人の対話を慈しむように見つめていた美和がそっとソーニャの傍らへ歩み寄りその白く冷たい手に自分の温かな手を重ねた。
「あの人たちをエルベ川の向こう……米軍の占領地域へ逃がすための時間を、一分でも一秒でも稼ぎたかったの。滑走路すら瓦礫に埋まったベルリンの市街地道路から、最後の一滴の燃料で何度もスクランブル発進してね。ソ連軍の進撃ルートのど真ん中に単機で突っ込んでは、30ミリと20ミリの弾幕を叩きつけて敵部隊を足止めしたわ。……私が空で暴れれば暴れるほど、地上で逃げる子供たちの命が助かる。それだけだったのよ」
平父娘は言葉を失って息を呑んだ。
「ハインリヒたち整備班も、徹夜で弾薬を装填して泣きながら送り出してくれたわ。『少佐、生きて帰ってください!』ってね。撃墜マークが二百を超えた頃には、垂直尾翼にマークを描く場所がなくなっちゃってね。白い方向舵全体に、黒いバーの先端にハニーアンバーの小さな星をあしらったマークを、ぎっしり描き込んでもらったの。……遠目から見ると、ラダー全体がグレーの網目模様に見えるくらいにね」
「網目の……ラダー……」
平院長の手が微かに震えた。
敵にとっては死神の宣告であり地上の避難民にとっては地獄の業火の中から舞い降りた絶対の守護天使の翼だ。
「最後はね、敵の返り血と硝煙の煤で、白とグレーの綺麗な迷彩なんて見えないくらい真っ黒になっちゃったわ。でも……あの子は最後まで私を裏切らずに飛んでくれた。……ベルリンが落ちる直前、エルベ川を飛び越えて、米軍基地の滑走路に滑り込んだあの朝までね」
第三章:スイスの古城と、眠る二機の怪物
ソーニャはそう言って愛おしそうにハセガワの箱に手を置いた。
そして何でもない雑談のようにふわりと途方もない爆弾を落とした。
「ねえ、先生。この模型が綺麗に完成したらね……今度、スイスの私の城へご招待するわ。この子も、疾風も居るわよ」
ぴたりと座卓の時が止まった。
平院長が喉の奥からヒュッと奇妙な音を漏らす。
「……スイスの……城……? それに……『この子も居る』って……まさか、模型の話ではなく……?」
「実機よ」
ソーニャは小首をかしげ澄んだハニーアンバーの瞳をいたずらっぽく細めた。
「ベルリンを脱出したあと、米軍の手で一度は解体調査されかけたの。でもOSSの少佐に『私を欲しいなら、あの子もセットよ』って取引してね。ペーパークリップ作戦のどさくさに紛れて、私の私物として丸ごとスイスの別邸——アルプスの麓にある古城の私設飛行場のハンガーへ運ばせたのよ。ダイムラー・ベンツのDB 605Dエンジンも、30ミリ機関砲も当時のままよ」
「じ、実機……!! ベルリンを戦い抜いた、あの白地にグレーのK-4が……現存している……!?」
平院長の収縮期血圧が二百を突破しそうな勢いで跳ね上がる。
だが真の衝撃はその後に続いた一言だった。
「待ってくださいソーニャさん」
天が湯呑みを両手で握りしめたまま引きつった笑いを浮かべて震えていた。
「……今、サラッと『疾風』って言いませんでした……? 疾風って、あの中島飛行機が作った……旧日本陸軍の四式戦闘機のことですか……!?」
「ええ、そうよ。大東亜決戦機と呼ばれたあの子よ」
大東亜決戦機——その重みある言葉の響きに平院長がハッと息を呑む。
「な、なんでスイスの古城に日本の大戦末期の傑作戦闘機が鎮座してるんですかぁぁぁッッ!!??」
天は膝をガクガクと震わせ魂の絶叫を木霊させた。
茉莉もまた医師としての冷静沈着な仮面を完全にかなぐり捨て眉間を指先で押さえて呻いた。
「疾風……! 米軍の戦後テストで大戦中最優秀の日本戦闘機と絶賛され、高オクタン価ガソリンを使った飛行試験で時速六百八十キロ以上を叩き出したという、あの伝説の機体……! 終戦時に生き残った機体のほとんどは解体され、フィリピンの残存機から復元されて日本に里帰りした唯一の機体も、今は静態保存……つまり飛べないはずよ! なぜあなたの城に居るの!?」
平院長もまた息を詰めてソーニャを見つめた。
なぜ欧州戦線のエースであったはずのソーニャが地球の反対側で作られた日本の四式戦闘機にそこまで並々ならぬ執着を持ち莫大な私財を投じて古城で動態保存までしているのか。
「……ふふ。鋭いところを突いてくるわね、ドクター」
ソーニャはハニーアンバーの双眸を細めカシミアセーターの袖を少し手繰り寄せた。
その白く滑らかな指先が座卓の木肌を静かになぞる。
「あの子はね……私にとって、ただの美しい飛行機じゃないのよ。……一九四五年、八月十八日未明。終戦の玉音放送が流れてから三日後……千島列島の最北端、濃霧に閉ざされた占守島で、私と一緒に地獄の海を切り裂いてくれた……血を分けた戦友なのよ」
「……っ!? 占守島……!?」
平院長がハッと息を呑んだ。
「終戦直後、千島列島に突如として侵攻してきたソ連赤軍と、武装解除の最中に立ち上がった日本軍守備隊が激突した……あの北の防衛戦ですかな……!?」
「ええ、そうよ、先生」
ソーニャの声が低く静かに居間に染み渡っていく。
その声音の奥から冷たい北の海の潮騒とオホーツク海の濃霧の匂いが立ち上ってくるようだった。
第四章:アッツ島の闇と、占守島に舞った黒猫
「ベルリンが陥落したあと、私はOSSの特務大尉として極秘裏に動いていたわ。……けれど、あの日……アリューシャン列島最西端のアッツ島米軍基地の暗号室で、私は欧州からの極秘電文を受け取ったの」
ソーニャの瞳に絶対零度の冷徹な光が宿った。
「五月八日に米軍へ降伏した私の後輩……エーリヒ・ハルトマン以下、第五十二戦闘航空団の将兵と随行していた婦女子たち全員が……ヤルタ協定の密約に基づき、丸腰のままソ連の内務人民委員部へ引き渡され、シベリアの強制収容所へ送られたという知らせだったわ」
居間の空気が一瞬で凍りついた。
「騎士道を泥で汚し、武器を置いた者を敵の拷問部屋へ売り払う……反吐が出るような裏取引よ。私は深夜、アッツ島の基地司令官であるハリソン中将の寝室に音もなく忍び込んでね。フルオートのモーゼルM712シュネルフォイアーを眉間にめり込ませて、全権を委譲させたわ。将来発足する中央情報機関すら干渉できない完全不可侵の特務枠……後に00セクションと呼ばれる超法規的権限書に、震える手でサインさせたのよ」
「ち、中将の眉間にモーゼル……!?」
天が青ざめるのを他所にソーニャは語り続けた。
「そして同じ頃、モスクワからの極秘暗号を傍受したの。『ポツダム宣言受諾後の混乱に乗じ、占守島を電撃制圧せよ。そのまま南下し、北海道北部・留萌と釧路を結ぶライン以北を占領せよ』……。終戦のドサクサに紛れた、卑劣な火事場泥棒よ」
ソーニャは拳を握りしめた。
「アッツ島のハンガーには、フィリピンのルソン島で米軍が無傷で鹵獲し、技術研究用に極秘輸送されていた極上コンディションの四式戦闘機『疾風』が眠っていたわ。米軍の整備班によって精密にバランス取りされ、シール材も総取り替えされた機体……何より、燃料タンクには最高純度を誇る米軍規格の『100/130オクタン高品位航空ガソリン』が満たされていたのよ」
「100/130オクタン……!」
平院長が息を呑む。
「ええ。劣悪な燃料と粗悪なプラグに泣かされ続けたハ45エンジンが、真の二千馬力を解放できる唯一の血潮よ。私は米軍の整備班長に特務令状を叩きつけ、一晩で特別改修を命じたわ。米軍の星マークを削ぎ落とし、日本陸軍の暗緑色と鮮烈な日の丸を塗り直させ、カウリングには琥珀色の目の黒猫、尾翼にはカヴェーリン伯爵家の紋章を描かせた。腹下には米軍の百五十ガロン大型増槽。そして主翼下には、欧州で接収されていたドイツ製『20ミリMG 151/20ガンポッド』を二基、突貫でボルト止めさせたわ。……合計、20ミリ四門、12.7ミリ二挺。装填する弾薬は通常弾を排除し、すべて装甲を穿ち内部を焼き尽くすAPI弾と薄殻榴弾よ」
「な、なんて凶悪な重武装……!」
茉莉が絶句する。
「午前四時、雨のアッツ島を飛び立ったわ。片道千キロを超える濃霧の北太平洋、単機洋上飛行よ。……二時間半あまりの飛行の末、占守島の雲海を突き抜けた瞬間、眼下に広がっていたのは、竹田浜へ押し寄せるソ連赤色太平洋艦隊の上陸船団と、四嶺山で血煙を上げる戦車第十一連隊——士魂部隊の姿だったわ」
ソーニャの声がまるで戦場録音テープのように生々しく響く。
「玉音放送から三日。武器を置き復員を夢見ていた兵士たちが……港から出航しようとしている樺太からの避難民や女子通信隊員たちを乗せた船を逃がすため、死を覚悟して民族の防波堤になろうとしていたわ。連隊長の池田末男大佐は白シャツの腕をまくり、日の丸の鉢巻きを締めてチハ改の砲塔に立ち、日章旗と軍刀を掲げていた。擱座炎上する戦車の上で、若き戦車長が『神州正氣の歌』を喉が裂けるほど絶唱しながら、拳銃と小銃で敵陣へ突撃していたのよ」
平院長の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「そこへ私が、雲の切れ目から突っ込んだのよ。まず急降下から操縦桿を引き絞る猛烈なピッチアップとともに、残存ガソリンの入った百五十ガロンの増槽を、トス・ボミングで放り投げたわ。強烈な遠心力で放物線を描いて飛翔した巨大な鉄の塊が、敵の指揮揚陸艇の艦橋を叩き潰すように直撃粉砕したのよ。重石を脱ぎ捨てて覚醒した疾風は、時速六百八十キロで海面スレスレ……高度十メートルを疾走したの。海面効果で水煙を巻き上げながら、すし詰めのLCI揚陸艇群へ肉薄したわ」
ソーニャの指先が見えない発射ボタンを弾くように動く。
「タタンッ! ズダンッ! 指切りバーストよ。一射につき、わずか二、三発。API弾とマイン・ゲショスを、敵舟艇の喫水線の燃料庫と甲板に積み上げられた弾薬箱へピンポイントで叩き込んだわ。……ドカァァン! 船体が内部から膨れ上がって破裂し、五十メートルの火柱がオホーツク海に次々と立ち昇った。東部戦線で私に散々すり潰されたソ連軍の将校たちが、双眼鏡で私の黒猫と紋章を見た瞬間、『チェルナヤ・コシカだ! ババ・ヤガが来たぞ!』って悲鳴を上げてパニックを起こしたわ」
「……たった一機で、上陸船団を壊滅させたのか……」
天が震える声で呟いた。
「過半数の揚陸艇を海の藻屑に変えてやったわ。地上では死線を切り開かれた士魂部隊が怒濤の反撃を叩き込み、敵の橋頭堡を粉砕した。……超低空で駆け抜ける私のキャノピー越しにね、砲塔に立つ池田大佐と、確かに魂の視線が交錯したのよ。大佐は澄み切った目で私を仰ぎ、掲げた軍刀を振って力強く応えてくれたわ」
ソーニャは静かに目を伏せ胸元を押さえた。
「この竹田浜沖での船団壊滅と士魂部隊の奮戦によって、ソ連軍の進撃スケジュールは完全に崩壊したのよ。この足止めの間に、ワシントンでトルーマン大統領がソ連の北海道分割占領要求を断固拒絶する口上書を突きつけたわ。……占守島で大出血を強いられたソ連軍は、もはや北海道へ侵攻する余力を失い、計画を永久に断念せざるを得なくなった。……もしあの日、占守島が数時間で蹂躙されていたら、北海道の北半分はソ連領になり、日本はドイツや朝鮮半島と同じように分断国家になっていたはずよ」
「……そして、避難民の船は……」
茉莉が掠れた声で問う。
「ええ。女性や子供たちを乗せた船団は、朝日に輝く南の海へ、誰一人傷つくことなく無事に出航していったわ。……弾薬を撃ち尽くして幌筵島・柏原飛行場の滑走路へ滑り込んだ時、泥とオイルにまみれた疾風を取り囲んで、日本の整備兵や守備隊の生き残りたちが涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、直立不動で敬礼してくれたわ。『日本の空を護ってくれて、ありがとうございました!』ってね」
ソーニャの澄みきったハニーアンバーの瞳から一筋の透明な雫が頬を伝った。
「あの子……疾風の主翼には、ソ連軍の対空砲火で開いた無数の弾痕が刻まれていたわ。でも一度も愚図ることなく、私を手足として、あの濃霧の海から生きて連れ帰ってくれた。……だから戦後、スクラップにされそうになったあの子を、スイスの秘密口座から当時の大金を叩きつけて買い取ったのよ。元中島飛行機の職人たちをアルプスの城へ招いて、最高純度の燃料と精密ベアリングで完璧に蘇らせたわ。……あの子はね、私の命を救い、この国の未来を護り抜いた……世界で一番誇り高い、私の宝物なのよ」
第五章:模型に宿る至誠と、アルプスへの誓い
魂を揺さぶる熱い語りに誰もが時を忘れ気がつけば縁側の陽光はとっぷりと暮れていた。
障子の外は群青色の冷たい夜気へと移ろっている。
「ソーニャさん……」
平院長が座布団から滑り落ち絨毯の上に両膝と両手を突いて深々と頭を垂れた。
「知らなかった……。そんな奇跡が、あの北の果ての島で起きておったとは……。町医者としてただ平穏に生きてきたワシですが……日本人として、風花町の住人として、心から……心から感謝申し上げますぞ……!」
「父さん……」
茉莉もまた父の隣に正座し静かに深く頭を下げた。
外科医としての矜持もタミヤ派の合理性もすべてを超越した至誠の祈りだ。
「頭を上げて、先生、茉莉ちゃん」
ソーニャは優しく微笑み二人の手を取って引き上げた。
「私はね、お礼を言ってほしくて話したんじゃないの。……ただ、知っていてほしかったのよ。かつてあの空で、どれほど美しくて強い命が燃えていたかをね」
美和がそっと千草に目配せをした。
千草は静かに一礼すると台所から湯気の立つ大きなお鍋を運んできた。
部屋いっぱいに広がったのは香ばしく焼かれた極太の白葱と天が仕留めた冬鴨の芳醇な脂が出汁と溶け合う特製鴨南蛮鍋の豊かな香りだ。
「あらあら、みなさま♪ 模型の熱い作戦会議と歴史の旅で、すっかりお腹がお空きになりましてよ」
千草がお椀を配りながら優雅に微笑む。
「今夜はわたくし特製の鴨南蛮のお鍋をご用意いたしましたのよ♪ どうぞ熱いうちにたくさん召し上がって、身体の芯まで温まってくださいませね」
「わあ……! 美味しそうね、千草!」
ソーニャがハニーアンバーの瞳を輝かせ先ほどまでの空の怪獣の顔から一変して食いしん坊な美女の顔に戻る。
割り箸をパチンと割った。
「ソーニャ」
美和が穏やかな微笑みとともに温かいほうじ茶を湯呑みへ注ぎ足した。
「春が来て暖かくなったら、みんなでスイスのあなたのお城へお邪魔させていただきましょうね。アルプスの山並みを飛ぶメッサーシュミットと疾風の音……きっと、とても清々しいでしょうね」
「あらあら、本当に素敵ですわねぇ♪」
千草もおっとりと目を細める。
「ではスイスへ持参いたしますお弁当は、日本の心を込めました極上のお稲荷さんと、一条山の桜の塩漬けを使いました桜餅にいたしましょうか。誉エンジンの前でいただく桜餅……きっと格別の味わいですわねぇ♪」
「あはは……千草さん、どこまでもブレないなぁ!」
天が涙を拭いながらようやくいつもの穏やかな笑顔を取り戻した。
「よしッ!」
平院長が顔を上げて力強く膝を打った。
老眼の奥の瞳には若き日のような熱い炎が宿っている。
「決まりましたぞ! まずはこのハセガワの1/48『メッサーシュミット Bf 109 K-4』……白地にグレーの冬季迷彩、カウリングの黒猫、そして二百六十八機のキルマークが刻まれた網目のラダーを、ワシの老眼鏡と面相筆のすべてを賭けて、魂を込めて現出させてみせますわい!」
「父さん、私も最初から最後まで手伝うわ」
茉莉が力強く頷きチタンフレームの眼鏡をキリリと直した。
「タミヤ派の私だけど、このハセガワの機体には最大限のリスペクトを払うわ。顕微鏡手術用の極細ピンセットで微細パーツを狂いなく組み、コンマ二ミリのエアブラシで風花町の粉雪のようなモットリングを吹いてあげる。……そして、このK-4が完成したら、次はハセガワの1/48『四式戦闘機 疾風』よ! 竹田浜の海を切り裂いた、あの日の暗緑色の雄姿を……平医院の総力戦で創り上げましょう!」
「おぉ、茉莉……! 疾風も作ってくれるのか!」
「当たり前でしょう! 陸軍ハ四五……誉エンジンの集合排気管の焼け色、クリアカラーの多重吹きとウェザリングマスターで完璧に焼き付けてあげるわ!」
互いの領分を熟知した名医父娘が大手術に臨む執刀チームのように力強い視線を交わし合う。
その光景を見てソーニャは心底嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう、先生、茉莉ちゃん! 完成したら私のお城の暖炉の上に二機並べて飾るわ。そして地下のハンガーへ行って、本物の二機のコクピットに先生たちを座らせてあげる。……計器盤の匂いも、オイルの残り香も、ぜんぶ肌で確かめてほしいのよ」
「ソーニャさん……! 生きててよかった……生きてて本当によかった……!」
平院長が再び感涙に咽び茉莉が厳しくも温かい檄を飛ばす。
「父さん、興奮して血圧上げないで! スイスに行くために明日から毎朝五千歩ウォーキングよ!」
居間にどっと温かな笑い声が弾けた。
座卓の端にはハセガワの模型の箱と本物のジュラルミン製カウリングパネルが静かに並んでいた。
カウリングに描かれた黒猫の琥珀色の瞳が部屋の柔らかな照明を浴びている。
まるで八十年前の戦友たちの魂とともに優しく微笑んでいるかのようだった。
「ねえ、天ちゃん」
「はい、ソーニャさん」
「スイスへ行く時はね、葵ちゃんとまひろちゃん、遥花ちゃんも連れていきましょうね。……あの子たち、私のお城の滑走路を見たら、きっとバイクで爆走したくて大騒ぎするわよ」
「あはは……! 間違いなく『テンゲキーーッ!!』って叫んで、ガンマやCBRで滑走路を全開走行しますね、あの三人!」
ソーニャは熱々の鴨肉をふうふうと冷まして口に運ぶと蕩けるような笑顔をこぼした。
「……美味いっす。……あ、また葵ちゃんの口調が出ちゃったわ」
照れくさそうに笑う金髪の美女の周りに再び心地よい爆笑が広がる。
障子窓の外では冬の澄みきった夜空に満天の星が瞬いていた。
まるで極北の海や遠い異国の空で散っていった戦友たちが温かな光となって地上を見守っているかのようだ。
アルプスの古城で眠る銀翼と風花町の座卓に置かれた小さな模型の箱。
時代と国境を越えた絆の物語は湯気立つお鍋の温もりとともにどこまでも優しく未来へと紡がれていくのだった。
【あとがき】
今宵も『Bar 風花』の静かな部屋へお立ち寄りいただき、心より御礼申し上げます。
今回はカウンターを少し離れ、此花神社の裏手にある櫻庭家の居間を舞台に、ソーニャさんの知られざる過去と、平院長・茉莉ちゃん親子との温かな魂の交歓を描かせていただきました。
普段は圧倒的な美貌と知性で周囲を煙に巻くソーニャさんですが、その胸の奥には、ベルリンの市街地で避難民の盾となったBf 109 K-4と、終戦直後の占守島で祖国の同胞を護るために命を賭して飛んだ四式戦闘機「疾風」への、言葉に尽くせぬ深い祈りと敬意が眠っています。
ハセガワの青い箱、面相筆を握り直す老医師の震える手、そして千草さんが腕を振るった湯気立つ鴨南蛮鍋。
模型という小さなプラスチックの枠組みを越えて、時代と国境を越えた絆が、風花町の素朴で温かな食卓へと還っていく——そんな血の通った物語をお届けできていれば幸いです。
もし、この冬の日の小さなお話が皆さまの胸に少しでも温かな灯をともすことができましたら、画面下のブックマーク登録や、評価の星(★★★★★)、率直なご感想などをそっと残していただけますと、日々の執筆の大きな力となります。
春が訪れ、アルプスの古城の滑走路にバイクの爆音と桜餅の香りが響き渡る日を夢見つつ。
また次の夜、この静かな止まり木でお会いいたしましょう。
天照(Bar風花)




