【Bar風花 外伝:ソーニャ、平研造、茉莉】 黒いチューリップと初冬のプラスチック 〜途方に暮れる金髪美女と座卓の上の大戦〜
前書き
※ 本作は『Bar風花-kazahana-』および『金髪の復讐姫』と『一条山開墾記』のサイドストーリーです。
※ 此花神社の裏手、櫻庭家の居間に持ち込まれた二つのプラモデル(タイガーⅠとメッサーシュミット)。
※ 途方に暮れるソーニャさんと平父娘の模型指南、そして遠い戦場に散った青年たちの記憶のお話。
山から吹き下ろす初冬の風が木々を鳴らす、十一月の昼下がり。
櫻庭家の座卓の上に広げられた無数のプラスチックの破片と、ため息をつく美しい客。
往診帰りの町医者親子が繰り広げる模型論争から始まった指先の対話は、やがて教科書の数字には残らない、兵士たちの生きた体温と冷たい十字架へと繋がっていきます。
どうぞ、そっと縁側の向こう側、温かな座卓を覗いてみてください。
第一章:途方に暮れる美女と、座卓の上の大戦
山あいから吹き下ろす初冬の風が此花神社の木々の梢をからからと鳴らす十一月の昼下がり。
神社の裏手にひっそりと佇む櫻庭家の平屋は縁側に差し込む柔らかな陽光に包まれ外界の騒がしさから切り離されたような静けさを保っていた。
だが板張りの広いリビングには異様な熱気と途方に暮れた吐息が渦巻いていた。
「……信じられないわ。どうしてプラスチックの板にこんな無数の破片がくっついているのよ。これを全部手でちぎれと言うのかしら」
低くハスキーでかすかに甘やかな色気を孕んだ美声。
大きな無垢材の座卓の前で正座しかけて足が痺れたのか長い脚を崩して絨毯の上に投げ出しているのはソーニャだった。
透き通るような白磁の肌に波打つプラチナブロンドの長髪。
透き通るハニーアンバーの瞳は普段の冷徹な顔ではなく玩具屋の店先で途方に暮れる少女のように心細げに揺れていた。
座卓の上には模型ファンなら誰もが息を呑む二つの直方体の箱が鎮座している。
ひとつはタミヤの傑作ミリタリーミニチュアシリーズ——1/35『ドイツ重戦車 タイガーⅠ 初期生産型』。
もうひとつは航空機模型の老舗ハセガワが誇る1/48『メッサーシュミット Bf109G-6』。
箱絵はどちらも猛々しく劇画のように美しい。
しかし蓋を開けて広げられた中身はダークイエローとライトグレーのランナーにびっしりと繋がれた数百点のパーツの群れと折り畳まれた組み立て説明書だった。
「ソーニャさん、手でちぎっちゃダメですよ。部品が割れて形が崩れちゃいますから」
台所から湯気の立つほうじ茶の急須を手に現れた櫻庭天が眼鏡の奥の目を細めて苦笑した。
愛用のフリースジャケットの袖をまくり座卓の上に茶托を並べる。
その隣では透き通るような雪肌に神秘的な異色瞳——右目がワインレッド、左目がアンバーの美和が手作りの栗羊羹を小皿に載せて静かに腰を下ろした。
「ふふ、ソーニャさん。福岡の天神までお買い物に行かれたと伺いましたけれど、まさか模型店に立ち寄られるとは思わなかったですわ」
「……仕事の連絡待ちで少し街を歩いただけよ、美和」
ソーニャは唇を尖らせトランプの山を前にした勝負師のように腕を組んだ。
「通りがかったビルのショーウィンドウにこの二つが並んでいたの。……なんだか妙に懐かしくて気がついたらレジに並んでいたわ。箱の横を見たら『誰でも簡単に組み立てられます』って書いてあったはずなのに、いざ開けてみたら何ひとつ組み上がっていないじゃないの。……これ、欠陥品じゃないかしら?」
「欠陥品じゃありませんよ。プラモデルっていうのは自分で切り出して削って接着して形にするものなんですよ」
天が笑いながら言うとソーニャは「接着……?」とさらに眉をひそめ人差し指の先で箱の中のランナーをつついた。
「この丸い車輪、何十個もあるわよ。同じ部品を延々と切り出して貼るの? 正気の沙汰とは思えないわ。……誰か狙撃銃でこの箱ごと綺麗に吹き飛ばしてくれないかしら」
「あらあら、物騒なことを仰いますのねぇ」
廊下の奥から純白のエプロンを揺らして現れた千草がおっとりとした京言葉で笑いながらお盆を運んできた。
その時、平屋の玄関の引き戸がカチャリと静かな音を立てて開いた。
「ごめんください。天さん、美和さん。往診の帰りにちょっと立ち寄らせてもらいましたよ」
穏やかな老名医の声とともに冬の清々しい風をまとって入ってきたのは風花町の命を守り続ける『平内科医院』の院長・平研造と娘の茉莉副院長だった。
第二章:ハセガワの魂とタミヤの合理性 〜平父娘の模型論争〜
「いらっしゃいませ、先生、茉莉先生。ちょうどお茶が入ったところでございますわ」
美和が優雅に立ち上がり二人を居間へと招き入れた。
茉莉は上質なチャコールグレーのハーフコートを脱ぎチタンフレームの銀縁ボストン眼鏡の位置を人差し指で直しながら居間を見渡した。
「失礼するわね。……あら? 居間がなんだか野戦病院の手術室前のような空気になっているけれど……」
「おや、これは……! 素晴らしい!」
茉莉の背後から座卓を覗き込んだ平院長が白髪の眉を跳ね上げ少年のように目を輝かせた。
「ハセガワの1/48グスタフじゃないですか! いやあソーニャさん、実にお目が高い! 航空機のハセガワが誇る繊細極まりないパネルラインの凹モールド……実機の流麗な絞り込みを完璧に捉えた胴体のアウトライン……これぞ飛行機模型の真髄、モデリズムの頂点ですな!」
「ちょっと父さん、何を飛行機だけに偏った見方をしているのよ」
茉莉がやれやれと首を振りハセガワの箱を押し退けるようにして隣のタミヤの箱を引き寄せた。
「どう見てもこのタミヤの1/35タイガーⅠ初期型のほうが設計思想として圧倒的に優れているでしょう。見てごらんなさい、この寸分の狂いもない金型の抜き勾配、車体下部の一体成型の剛性感。作り手を迷わせない合理的なパーツ分割と吸い付くようにピタリと合わさる精巧なチリ……まさにインダストリアルデザインの極致、機能美の結晶よ」
「何を言うんだ茉莉。タミヤの戦車が素晴らしいのは認めるがのう、ハセガワのあの『合わせ目をわずかにペーパーで擦り合わせ、ヤスリの感触で機体と対話する』というクラフトマンシップの奥深さを解らんとは、まだまだ青いわい!」
「何が対話よ。それはただの昔の人の根性論よ。外科手術と同じで無駄な侵襲を排して正確無比にパーツが結合するタミヤのリアリズムこそ、現代の医学と工学が目指すべき至高の境地よ」
突如として始まった名医親子の熱烈な宗派論争。
天は苦笑しながらガレージへ小走りで向かい使い込まれた模型工具箱を抱えて戻ってきた。
薄刃の精密ニッパー、デザインナイフ、各種耐水ペーパー、医療用ピンセット、そして緑色のキャップが目印のタミヤセメントを座卓の中央に並べる。
「はいはい、お二人とも。論争はそのくらいにして途方に暮れているソーニャさんを助けてあげてください」
「……あ、失礼しました」
平院長が咳払いをし茉莉も眼鏡を押し上げてコホンと喉を鳴らした。
「ソーニャさん。プラモデル作りはね、外科手術とまったく同じよ」
茉莉がソーニャの右隣に膝をつき薄刃ニッパーを手渡した。
「パーツの根元ギリギリで刃を入れちゃダメ。まずはランナーのゲートを少し残して手前で切り離し、それからパーツの際でもう一度薄く切り落とすの。これを二度切りと言うのよ。最後に残ったわずかな突起はデザインナイフの刃を寝かせて皮膚の表面を薄く削ぐようにカンナがけするの」
「……こうかしら?」
パチンと乾いた切断音。
ソーニャの白く細い指先がタイガーⅠの馬蹄形をした砲塔本体を切り離す。
ニッパーを置き座卓から手渡されたデザインナイフを言われた通りに滑らせるとゲート跡は吸い付くように平滑になった。
「筋がいいわ、ソーニャさん。指先の迷いがない。……では砲塔本体に天板パーツを合わせなさい。指で押さえた隙間にこのタミヤセメントの極細筆をチョンと当てるだけでいいの」
言われた通りにすると透明な溶剤がパーツの継ぎ目へスーッと吸い込まれプラスチックが溶け合って瞬時に一体化した。
「……すごいわね。接着剤を塗ってから貼るんじゃないのね。合わせてから、流す……合理的だわ」
「でしょう? これがタミヤの合理性よ」
茉莉が得意げに胸を張ると左隣の平院長がすかさず割り込んできた。
「さあ次はハセガワのメッサーシュミットですぞ、ソーニャさん! 飛行機は主翼と胴体のフィッティングが命じゃ。パーツを合わせたら光に透かしてわずかな隙間を見る。コンマ一ミリの狂いがあれば耐水ペーパーの六百番で優しく撫でて調整するんです。飛行機はね、風を孕む生き物なんですから指先で風の流れを感じるように削るんですよ」
「……風を感じる、ね」
ソーニャの口元にふっと柔らかい笑みが浮かんだ。
冷徹な情報将校の仮面が剥がれ落ち少女のような純粋な集中力がそのハニーアンバーの双眸に満ちていく。
タミヤの重厚な装甲板が組み上がりハセガワの繊細な翼が削り出される。
座卓の上で無機質なプラスチックの破片が確かな質量と輪郭を持って息づき始めていた。
第三章:ヴィレル・ボカージュの林檎と、静かなる戦車長
作業が進むにつれ座卓の上にはタイガーⅠのどっしりとした砲塔と八十八ミリ主砲が組み上がってきた。
平院長が急須から注がれたほうじ茶をすすりながら愛おしそうにその砲塔を眺める。
「ええ……やはりタイガーⅠの初期型は風格が違う。第二次大戦の東部戦線からノルマンディーに至るまで連合軍の戦車兵をタイガー恐怖症に陥れた鋼鉄の怪物じゃ。……特に第百一SS重戦車大隊第二中隊長のミヒャエル・ヴィットマンが単身で英軍第七機甲師団の先鋒部隊を壊滅させたヴィレル・ボカージュの戦いは戦車戦史における伝説中の伝説ですな」
平院長が戦史通としての知識を熱っぽく語ったその時だった。
「……ヴィットマン。ミヒャエルね」
ソーニャの口からふっと零れ落ちたその呼び名はあまりにも親密だった。
まるで昨日の朝まで隣の席でコーヒーを飲んでいた同僚の名を呼ぶかのように自然だった。
茉莉の手がピタリと止まりチタンフレームの奥で切れ長の瞳が丸くなる。
「……え? ソーニャさん、今……」
「あいつはね、写真やプロパガンダで語られるような冷酷無比な撃破王でも狂信的な戦争屋でもなかったわよ」
ソーニャはデザインナイフを座卓の上に置き湯呑みから立ち上る湯気を遠い目で見つめた。
その声音には何十年もの時間の深淵を越えてきた者だけが醸し出す独特の重みと哀切が宿っていた。
「一九四四年の六月……ノルマンディーの朝だったかしら。ヴィレル・ボカージュの街道沿いには青い林檎の果樹園がどこまでも広がっていてね。朝露に濡れた草の匂いがマイバッハ・エンジンの甘く重い合成ガソリンと焼けたオイルの排気煙に混ざってひどく噎せ返るような初夏だったわ」
平院長と茉莉は息を呑んで動けなくなった。
天は何も言わずただ静かにお茶を口に含み湯呑みの向こうからソーニャを穏やかに見守っている。
美和もまた慈愛に満ちた異色瞳を静かに細めていた。
「ミヒャエルはね、バイエルンの質朴な農家の生まれだったの。出撃の前夜、このタイガーの車長ハッチの縁に腰をかけてね。油で真っ黒になった指先で乾いた黒パンをナイフで小さく削って私に分けてくれたわ。『ソーニャ、この戦争が終わったら故郷へ帰ってまた牛を飼い、麦を植えたいんだ』って……。照れくさそうに笑うと八重歯が覗いて、どこにでもいる素朴な若者そのものだった」
「あ、あのヴィットマンが……素朴な若者……?」
「あんな分厚い装甲に身を包んで何十台もの敵を鉄くずに変えながら……あいつの魂はずっと故郷の土の匂いの中にあったのよ。……あの運命の朝、単身で街道へ突撃していく彼の背中を見送ったけれど、ハッチを閉める直前、あいつは私に向かって片手を挙げてひどく寂しそうに笑ったわ。『美味い林檎酒が飲みたいよ』って言い残してね」
静寂が居間を深く包み込んだ。
接着剤の刺激臭がいつの間にか遠い異国の泥と硝煙、そして青い林檎の香りへと塗り替えられていくような錯覚。
平院長は震える指先で膝を擦り喉を鳴らした。
「歴史の本には……撃破数と戦術の鮮やかさしか書かれておりません……」
「そうね。けれど、あの冷たい鋼鉄の中にいたのは誰よりも人間臭くて、恐怖に震えながらそれでも仲間を守るために必死で引き金を引いていた、ただの不器用な青年たちだったのよ」
第四章:黒いチューリップと、赤い収容所の破壊神
言葉を失った平父娘を前にソーニャはフッと哀愁を帯びた笑みを浮かべた。
「さあ、次は平先生の番よ」
視線をハセガワのメッサーシュミットへと戻す。
角張ったエアフィルターと流麗なカウリング。
機首のパーツを指先でなぞる。
「……Bf109G-6」
茉莉が掠れた声で呟いた。
「機首に描かれた黒いチューリップのパーソナルマーク……。史上最多、三百五十二機という前人未到の撃墜記録を残した空中戦のエース……エーリヒ・ハルトマンの乗機よ」
「エーリヒ坊やね」
ソーニャはクスリと懐かしそうに目を細めた。
「坊や……? あの黒い悪魔と呼ばれ敵軍から最も恐れられた世界最高の撃墜王を……?」
平院長の声が上擦る。
「だって本当にあいつは坊やだったもの。私が初めて会った時なんてまだ二十歳そこそこでね。ブロンドの髪をボサボサにして基地の片隅でいつも甘いビスケットを齧っていたわ」
「ハルトマンが……お菓子を……」
「あいつの愛機には機首に黒いチューリップが描かれていたでしょう? あれね、最初は整備兵たちが面白がって勝手に塗ったのよ。本人はひどく恥ずかしがってね。『目立ちすぎて真っ先に狙われるから頼むから消してくれ』って半泣きで頼んでいたくらいなんだから」
ソーニャの手がハセガワの細身の胴体パーツを慎重に貼り合わせる。
平院長が息を殺して見守る中、主翼と胴体が吸い付くような精度で組み合わさっていく。
「エーリヒはね、撃墜数なんて最初からどうでもよかったのよ。あいつが毎日出撃の合間に何十通も書いていた手紙の内容を知ってる? 故郷に残してきた恋人……ウルスラへのラブレターよ。『今日も生きて帰れたよ、ウーシュ。君の笑顔を思い浮かべながら雲を抜けていたよ』ってね。あいつの信条はただひとつだった。『編隊の部下を誰一人として戦死させずに必ず生きて母基地へ連れ帰ること』。撃墜王の栄光なんて、あいつにとってはウルスラの元へ生きて帰るためのただの副産物に過ぎなかったわ」
ソーニャはふと思い出したように悪戯っぽく口元を緩めた。
「そうそう、あいつが生涯最高の栄誉……ダイヤモンド章を授与されるために総統大本営に呼び出された時のことよ。一九四四年の夏、ヒトラー暗殺未遂事件の直後だったから総統警護隊の親衛隊将校たちも神経を尖らせていてね。『総統に拝謁する前に身につけている軍用拳銃を預けろ』と要求してきたの。そうしたら、あいつ何て言ったと思う?」
「……な、何と言ったのですか?」
平院長が身を乗り出す。
「『前線で命を張って戦っている軍人を信用できないような総統なら勲章なんかいらない。今すぐ拳銃を抱えて前線へ帰る』って啖呵を切ったのよ。結局あいつの頑固さに総統府側が折れてね。腰に拳銃をぶら下げたまま謁見室へ入って総統から直接ダイヤモンド章を受け取ったの。あいつはね、国家元首の前だろうが誰の前だろうが自分の筋を曲げない生意気で骨太な坊やだったわ」
平父娘が息を呑む中、茉莉は医師としての知識から歴史の記憶を手繰り寄せた。
「でも……ハルトマンは終戦直後、米軍からソ連軍へと引き渡され東側の過酷な強制収容所に送られたのよ。十年間もの長きにわたりウラルや炭鉱での過酷な強制労働に耐え……西ドイツのアデナウアー首相の歴史的なモスクワ訪問と外交交渉によって奇跡の生還を果たしたと……」
「あぁ、表の歴史教科書にはそう書いてあるわね」
ソーニャは事も無げに言ってデザインナイフの刃先をカチリと納めた。
そのハニーアンバーの双眸の奥にかつて極北の吹雪を溶かした絶対零度の冷徹な光が仄かに揺らめく。
「外交交渉なんてね、アデナウアーがモスクワへ乗り込む前に私が裏でソ連の内務人民委員部の首根っこを締め上げて逃げ道を塞いだから成立した茶番よ」
「……え?」
平院長と茉莉の声が完全に重なって静止した。
「終戦後、あいつが赤軍に引き渡されてシベリアや炭鉱の収容所に放り込まれたって聞いた時、私、本当に頭に血が上ってね。あいつは転向を迫るソ連の脅迫に一切屈せず不当な労働を拒否して独房に叩き込まれていたわ。……だから私、東側の収容所を片っ端から物理的に潰して回ったのよ」
「は……? つ、潰……!?」
「収容所をよ。ウラルからカフカスまで、あいつが移送された先の収容所を夜陰に乗じて襲撃してね。サーチライトの鉄塔をへし折り重機関銃座を吹き飛ばし、外壁の鉄条網ごと警備連隊の兵舎を更地にしてやったわ。いくら頑丈なコンクリート要塞を作ろうが私の前じゃただの積み木遊びよ」
「け、警備連隊を更地……!? そ、ソ連軍の収容所を、たった一人で……!?」
平院長が座布団から転げ落ちそうになり茉莉はかけていた眼鏡をポロリと絨毯の上に落とした。
天が苦笑しながらお茶をすすっている。
「あはは……ソーニャさん、そのへんにしておかないと先生たちの心臓が止まっちゃいますよ」
「最後はクレムリンの連中も青ざめてね。『ハルトマンという男の周りで原因不明の壊滅事故が頻発して収容所がいくつあっても足りん、一刻も早く西側へ叩き出せ』って大恐慌になったのよ。そこでアデナウアーに花を持たせてやって正規の外交釈放って形にしてやったの」
ソーニャはフッと満足そうに口角を上げた。
「雪原の収容所の瓦礫から私が直接ジープに引っ張り上げて乗せた時、あいつの体は炭鉱の煤で真っ黒だったわ。でもね、凍傷の手で私の腕を掴んで泣きながら笑ったのよ。『ソーニャ……ウーシュのところへ帰れるんだな』って。笑った時のあの無邪気な瞳だけはロシアの空を飛んでいた少年の日のままだったわ」
平父娘はもはや言葉を失い喉からヒュウと掠れた息を漏らすのが精一杯だった。
歴史の影に埋もれた真実のスケールが脳の処理速度を完全に突破していた。
第五章:冷たい銀の十字架 〜金庫から出された真実〜
「……ソーニャさん」
沈黙を破ったのはようやく絨毯の上から眼鏡を拾い上げた茉莉だった。
震える指先で眼鏡をかけ直し息を整えながら恐る恐る問いかける。
「あなたは……本当にあの方たちと同じ時代を……あの戦場を駆け抜けて生きていたの?」
常識で考えれば第二次世界大戦が終わって八十年以上が経過している。
目の前に座るソーニャの肌には皺ひとつなく三十代前後の圧倒的な美貌と瑞々しい生命力を湛えている。
現代の医学や生物学の法則を根底から覆すあり得ない事実。
だが彼女の口から語られたヴィットマンの林檎の匂いもハルトマンの拳銃の意地も、そしてソ連の収容所を更地にした冷徹な覇気も、どんな書物にも書かれていない生の真実だった。
「信じるか信じないかはあなたたちの自由よ、ドクター」
ソーニャは穏やかに微笑みスッと立ち上がった。
「待ってて。……今日この町へ来る前に私の隠れ家の金庫から少しばかり懐かしいものを持ってきたの」
ソーニャが廊下へ消えすぐにひとつの小さなアタッシュケースを抱えて戻ってきた。
重厚な黒革で包まれ真鍮のダイヤルロックが鈍い光を放っている。
カチカチと暗証番号が合わされ蓋が静かに開けられた。
中に入っていたのは濃紺のベルベットが敷き詰められた二つの古びた小箱だった。
「……これは……」
平院長の喉がヒュッと鳴った。
ソーニャの白磁のような指先がその蓋を静かに開く。
そこに横たわっていたのは——。
黒染めされた鉄の芯を純銀のフレームで縁取った十字の勲章。
上部には柏の葉と交差する二本の剣が精緻に彫り込まれ、その白銀の輝きは八十年の歳月を経てもなお濁ることのない冷たい炎を宿していた。
そしてもうひとつの箱には純銀ではなく純プラチナで打たれた柏の葉と剣の表面に無数の小さな本物のダイヤモンドがぎっしりと散りばめられた息を呑むほど神聖な光を放つ十字章。
「柏葉剣付騎士鉄十字章……!」
平院長が膝を震わせながら座卓へにじり寄った。
「そ、そしてこっちは……全軍でわずか二十七名しか授与されていない最高位の栄誉……ダイヤモンド柏葉剣付騎士鉄十字章……!!」
「ええ。前者はミヒャエルが、後者はエーリヒが……それぞれの戦いの果てに私に預けていったものよ」
ソーニャはダイヤモンドの散りばめられた勲章をそっと持ち上げた。
黒・白・赤のシルクリボンは端がわずかに擦り切れ、裏面には極小の文字で打刻された純銀の品位刻印と柏葉の裏に潜む受章番号が刻まれている。
ずっしりとした本物の金属の重み。
博物館のガラスケースの奥に鎮座するような歴史の遺物が今、風花町の民家の座卓の上で静かに呼吸をしていた。
「あいつらはね、これを誇るために戦ったんじゃないのよ」
ソーニャの声が冬の午後の光の中に溶けていく。
「国家の都合や戦争の狂気の中で、それでも自分が信じる仲間や愛する者を守るために命を削った代償として押し付けられた重すぎる鉄の塊。……『自分たちの死後、もし平和な時代が来たら戦争の悲惨さと命の尊さを知る者に預けてほしい』って……そう言って私の手のひらに握らせて逝ったわ」
平院長は胸元で手を握りしめ溢れ出そうになる涙を堪えるように目を閉じた。
茉莉もまたその冷たい銀の十字架を見つめ深く深く頭を垂れた。
医師として日頃から命と向き合い続けている二人だからこそ、その小さな勲章に込められた数万の兵士たちの血と涙、そして生への祈りの重みが痛いほど理解できたのだ。
「……ソーニャさん」
平院長が震える声で口を開いた。
「見せていただき……いえ、彼らの魂の声を聴かせていただき心から感謝しますぞ。……町医者としてただ目の前の患者を救うことだけに追われておったワシですが……今日、貴女からいただいたお話はワシの余生の何よりの道標になりますわい」
「ふふ、大袈裟よ、先生」
ソーニャはふわりと微笑み勲章をそっと小箱の中へと戻した。
「さあ、湿っぽい話はおしまい。美和、天、先生たちも……お茶をもう一杯いただけるかしら? この二つを完成させなきゃ彼らに手抜きだって笑われちゃうものね」
第六章:形となった記憶と、温かな夕餉
西の山並みに夕陽が沈み始め障子窓が柔らかな茜色に染まる頃。
座卓の上にはすべてのパーツが組み合わされ凛々しい素組みの姿を現した二つの模型が並んでいた。
低く構えタミヤの精密な設計によって重厚に大地に根を張るタイガーⅠ。
すらりと伸びた主翼を広げハセガワの繊細なパネルラインを夕陽に煌めかせるメッサーシュミットBf109。
流し込み接着剤が完全に乾燥したあと茉莉の指示通りに耐水ペーパーを丹念に当てたおかげで左右のパーツの貼り合わせ目は段差ひとつなく指先で撫でても境目が分からないほど滑らかな曲面に仕上がっていた。
まだ塗装は施されていない成形色のままのプラスチックの地肌。
けれど平父娘の手ほどきを受けソーニャが一本一本のゲートを丁寧に削り丹念に貼り合わせたそのシルエットには工場で量産された製品にはない温かな命の輪郭が宿っていた。
「……できたわ」
ソーニャが満足そうに息を吐き両手をぽんと叩いた。
その指先には白く乾いたプラスチックの削り粉と微かなセメントの匂いが残っている。
「お見事でした、ソーニャさん。初めてとは思えないほど合わせ目も綺麗に整っていますよ」
茉莉が微笑みピンセットを道具箱へ片付けながら言った。
「今度は私の医院の休診日にエアブラシと塗装ブースを持ってきますね。タイガーにはタミヤカラーのダークイエローを、メッサーシュミットにはハセガワの指定通り空軍制式のRLMグレー迷彩色を吹いてあげましょう」
「おや、茉莉。ハセガワの指定色を認める気になったのかい?」
平院長が悪戯っぽく笑うと茉莉は少し照れたようにそっぽを向いた。
「……模型の美しさにメーカーの垣根なんてないってことよ。今日、ソーニャさんに教えてもらったわ」
「ふふ、素敵なお医者様でいらっしゃいますわね」
美和が楽しそうに微笑みながら居間の座卓の上に大きなお盆を広げた。
台所から漂ってきたのは千草が腕を振るった出汁の効いた熱々のぼたん鍋の香りだった。
一条山の豊かな山林で天が仕留め丁寧に下処理された極上の猪肉と冬の根菜がたっぷりと煮込まれている。
「みなさま、模型作りの集中ですっかりお腹が空きましたでしょう?」
千草がお椀を配りながら優雅に一礼する。
「今夜はわたくし特製の身体を芯から温める味噌仕立てのぼたん鍋でございます。どうぞ熱いうちに召し上がってくださいませ」
「わあ……! 美味しそうね、千草!」
ソーニャがハニーアンバーの瞳を輝かせ食いしん坊な美女の顔に戻って割り箸を割った。
「ほら、先生も茉莉さんも遠慮しないで食べてください。プラモ作りも手術も腹が減っては戦はできませんからね」
天が笑いながら平院長の湯呑みへ温かいお茶を注ぎ足す。
縁側の外では冬の夜風が静かに吹き抜け空には一番星が銀色の光を放ち始めていた。
かつて戦場を駆け抜け鉄の嵐の中で散っていった無骨な戦車長と空を愛した少年撃墜王。
彼らが命がけで夢見た平和で当たり前の温かな日常が今、日本の片隅の小さな平屋のリビングに確かに満ちていた。
「いただきますっす……あ、違うわね」
一条山の山林で重機を乗り回す作業着少女の口調が移りかけたのかソーニャが照れくさそうに笑い湯気立つお椀を口へ運ぶ。
その横顔を、座卓の隅に並んだ小さな戦車と戦闘機が夕闇の中で静かにどこまでも誇らしげに見守っていた。
あとがき
今夜も『Bar風花』の物語へお立ち寄りいただき、心より感謝申し上げます。
今回は、Barの止まり木から少し場所を移し、此花神社の裏手に佇む櫻庭家のリビングを舞台にした、工作と記憶の物語をお届けいたしました。
天神の模型店で衝動買いした二つの箱を前に、正座を崩して「欠陥品じゃないかしら」と唇を尖らせるソーニャさん。
そんな彼女を助けるべく、平医院の研造先生と茉莉先生が繰り広げる「タミヤの合理主義 vs ハセガワの職人魂」の宗派論争は、書いている私自身も思わず笑ってしまうほど賑やかで温かな時間でした。
ですが、指先でパーツを合わせ、削り、形にしていくうちに蘇る、八十年前の記憶。
戦車兵として恐れられたヴィットマンが故郷の牛や麦を想い、リンゴ酒を恋しがっていたこと。
世界最高の撃墜王と呼ばれたハルトマンが、ただ故郷の恋人の元へ生きて帰るためだけに空を飛んでいたこと。
彼らが仲間を守るために命を削った代償として押し付けられた、重すぎる冷たい銀とプラチナの十字架。
戦史の数字やプロパガンダの裏側にあった、ただの不器用で心優しい青年たちの「生の息遣い」を、医師である平父娘とともに静かに受け止めていただけたなら幸いです。
物語の締めくくりは、千草特製の熱々なぼたん鍋。
激動の時代を駆け抜けた魂たちが何よりも夢見た「当たり前で温かな日常」が、今この風花町の座卓に確かにあることを、夕闇に輝く一番星とともに感じていただければ嬉しく思います。
(葵ちゃんの「〜っす」が移りかけて照れ笑いするソーニャさんも、どこか愛らしいですね)
もし今回のお話を少しでも気に入っていただけましたら、画面下のブックマークへの追加や、評価(★★★★★や応援ポイント)、温かいご感想などをいただけますと、執筆の大きな励みになります。
冷え込む季節、どうぞ温かなお茶や一杯をお手元に。
また次の物語でお会いいたしましょう。
天照(Bar風花)




