【Bar風花】第二章 黄行灯が紡ぐ静かな轍 〜元テストドライバーの走る問診票〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花-kazahana-』本編から連なる、静かな夜のサイドストーリーです。
※ 登場するお酒や料理、車輌の機構描写はすべて実在・実証に基づいた仕様となっております。
※ 作中の運転描写は安全が確保されたフィクションです。公道では常に安全運転を心がけてください。
深夜零時を過ぎ、風花山の山風がひやりと石畳を撫でる頃。
昼間の過酷な打設作業を終え、深紅のツナギのままカウンターへ突っ伏す臼井建材の美鈴専務。
手元に残されたバカラのタンブラーと、いすゞの年季の入った真鍮キー。
冷え切った旧街道の暗がりでは、黄色い行灯を灯した一台のホットハッチが、静かにその時を待っていました。
ハンドルを握るのは、かつて極限の路面と対話し続けた元テストドライバー。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
夜の静寂を護るプロフェッショナルたちの、滑らかな車輪の気配が聞こえてきます。
第一章:路地裏の黄行灯
深夜零時をまわった風花町は昼間の喧騒が嘘のように冷え切った静寂へ沈んでいた。
国道を外れた旧街道の奥では湿り気を帯びた石畳の路面に街灯のアンバーが鈍く滲んでいる。
突き当たりに重厚なオーク材の扉を閉ざした『Bar 風花』が隠れ家のようにひっそりと佇んでいた。
店の軒先からわずかに距離を置いた暗がりで小柄な白い車体が一台息を潜めるようにアイドリングを刻んでいる。
スズキ・アルトワークス。
直列三気筒ツインカムターボを積みビスカスカップリング式フルタイム四駆で路面を捉えるホットハッチで型式はHB21Sだ。
ルーフの中央に載る黄色い行灯には黒文字で小さく『轟代行』と抜かれていた。
ステアリングを抱え込むように座っているのは黒髪ウルフカットの若い女だ。
轟響香。
黒い革ジャンの襟を立て耳元のシルバーピアスを鈍く光らせながら不機嫌そうにスマートフォンの画面を指先ではじいている。
もっともその切れ長な目は画面に釘付けになっているわけではない。
バックミラーの奥と路地の入り口へ一定の間を置きながら油断なく視線を走らせていた。
助手席には体躯のいい初老の男が深くシートに身を沈めている。
父親であり代行の代表を務める剛三だ。
ダークトーンのハンチング帽を目深に被り仕立てのいいスイングトップの袖口からはオイルと研磨粉の匂いが微かに漂う。
膝の上には真新しい白の布手袋が置かれていた。
昼間は町の老舗『豊田モータース』の工場長として油圧リフトの下で固着したボルトと格闘している男だが夜のこの時間帯になると極上の精密機械のような静けさを全身に纏う。
「……親父、美和さんから連絡が入って、もう十五分経つよ。今夜のお客、誰だい?」
響香が苛立ちを隠さずに呟いた。
剛三は目を閉じたまま低く枯れた声で短く返す。
「美和さんが呼ぶんだ。焦るな」
「あたしが焦ってんじゃないよ。ワークスの水温が下がりきっちまうって言ってんの。……それにさ、さっき駐車場の奥に停まってたの、あのダークグレーのピアッツァだろ。ジウジアーロの初期型イルムシャー」
響香の指先が無意識に革ジャンの裾を握り締めたのを剛三は見逃さなかった。
薄く目を開ける。
「なんだ、ビビっとるのか」
「ビ、ビビってなんかないよ! ……ただ、相手が臼井の美鈴先輩だってんなら話は別でしょ。あたしら『紅蓮華』にとっちゃ、十代目の総長なんて雲の上の神様みたいなもんなんだからさ。もし先輩のピアッツァを縁石にでも擦ったら、あたし明日から風花町を歩けなくなるよ」
「車を擦るような真似は、天地がひっくり返っても起きん」
淡々とした返答に響香は唇を尖らせた。
「はいはい、元メーカーのS級テストドライバー様は自信満々で結構なこった」
だが父の腕に対する信頼は響香自身が誰よりも骨の髄まで知っている。
北海道の士別寒冷地試験場やニュルブルクリンク北コースを走り込み極限領域の車輌挙動を身体に叩き込んできた元テストドライバーだ。
剛三がステアリングを握る車に乗って恐怖や不快感を覚えた人間はこの町に一人もいない。
カラン、と。
路地の奥で風花のオーク扉が開く微かな真鍮のベルが鳴った。
剛三の手がすっと動く。
膝から持ち上げた白手袋へ左右の指先を淀みなく滑り込ませた。
シワひとつなく張り詰めた白い布地がステアリングを操る職人の手へと変貌する。
「行くぞ、響香」
「……了解」
カチリ、とアルトワークスのヘッドライトが灯り夜の湿ったレンガ壁を青白く照らし出した。
第二章:一枚板の境界線
重厚な扉を押し開けると冷涼な夜風を遮るように程よく暖められた柔らかな空気が剛三を包み込んだ。
微かに漂う桜の残り香。
磨き上げられた鉄刀木の一枚板が控えめな間接照明を吸い込んで赤黒く艶めいている。
「こんばんは、剛三さん。急にお呼び立てしてごめんなさいね」
カウンターの中からオーナーバーテンダーの櫻庭美和が柔らかく会釈した。
ワインレッドとアンバーの異色瞳が静かな光を湛えて剛三を迎える。
カウンターの奥では原稿用紙を脇に寄せたルポライターの櫻庭天が眼鏡の奥を和ませて軽く頭を下げた。
「いえ、美和さん。呼んでいただければ、いつでも伺います」
剛三はハンチング帽の鍔に軽く指を当て低く澄んだ声で応えた。
その視線がカウンターの端の黒革ローチェアーへと静かに落ちる。
臼井美鈴がグラスを前にして突っ伏すように身を沈めていた。
袖をまくり上げた深紅のツナギ。
昼間の荒々しい現場の気迫はすっかり抜け落ち解かれた長いド金髪が鉄刀木の木肌の上にふわりと波打っている。
手元には澄んだ氷が溶け残るバカラのタンブラーとチェイサーの薄吹きグラス、そして綺麗に空になった青磁の小鉢があった。
「……んぁ? ……剛三さん、来たのかい……」
美鈴が気だるげに顔を上げた。
心地よいアルコールに身を委ねたどこか幼さの残る瞳が剛三を見上げる。
「ええ、美鈴専務。お迎えに上がりました」
「専務って呼ぶなって言ってるだろ……。昼間、一条山で四立米半打設してさ、そのあと葵のガンマの被ったプラグ直して……もう指一本動かねぇよ。ピアッツァのキー、カウンターの上……」
美和がトレイの上の真鍮キーホルダーを白手袋の手元へそっと差し出した。
いすゞの旧ロゴが刻まれた年季の入った鍵だ。
「濃いめの白州ハイボールと、豚の角煮を召し上がったわ。喉が渇いてらしたから、最初は少しペースが早かったけれど、チェイサーもしっかり飲んでいただいたから、悪酔いはしていらっしゃらないはずよ」
的確な申し送りに剛三は深く頷いた。
「承知しました。胃にも頭にも響かんよう、前後の揺れを殺してお送りします」
「ふふ、いつも助かるわ。剛三さんの運転なら、美鈴ちゃんも車の中でぐっすり眠れるものね」
「……あたしは子供じゃないんだからさぁ……」
美鈴は文句を言いながらも美和が肩にかけてくれた上質なウールのストールを羽織りふらりと立ち上がった。
剛三は決して体を抱き留めたりはしない。
彼女が自力で歩行できるバランスを見極め倒れそうになった瞬間だけ支えられる絶妙な距離感を保ちながら静かにドアを開けてエスコートした。
外に出た瞬間、冷たい秋の夜風が美鈴の金髪を揺らす。
路地で待機していたアルトワークスの助手席ドアが開き革ジャン姿の響香が飛び出してきた。
「お、お疲れ様です、美鈴先輩!!」
角度九十度の完璧な直立不動だ。
美鈴は眠たげな目で響香をチラリと見るとふっと口元を緩めた。
「なんだい響香、アンタも来てたのかい。……相変わらず、いい吸気音させてるじゃないか、そのワークス」
「は、はいっ! 親父がピストンクリアランスまで取り直して組んだエンジンですから! ……あ、先輩、お足元気をつけてください!」
普段は後輩たちから恐れられる『紅蓮華』の元筆頭幹部がまるで大型犬のように慌てふためいてピアッツァの助手席ドアを開ける。
美鈴はシートに滑り込むと深く背もたれに身を預けて目を閉じた。
「……剛三さん、頼んだよ」
「はい。ご自宅まで、揺らしません」
剛三は白手袋の指先で運転席ドアを静かに引き寄せた。
カチャリ、と重厚なラッチが噛み合う音が深夜の路地に小さく響く。
第三章:走る問診票
サテライトスイッチに囲まれた初代ピアッツァのコクピット。
剛三はクラッチペダルを踏み込みキーを捻った。
クシュシュシュ……ブルルンッ。
いすゞ自社製の2リッター直列4気筒SOHCターボエンジンだ。
余計な振動もなく規則正しいアイドリングが立ち上がり暗がりの中に淡いグリーンのデジタル蛍光表示管が未来的な光を浮かび上がらせる。
剛三の足先がペダルの遊びとスプリングの反力をミリ単位の深さで探り当てていた。
(踏力はやや重め。プレッシャープレートのスプリングはまだ生きているが……ミートポイントが奥に寄りすぎているな。レリーズフォークのピボット部にわずかな摩耗があるか)
右足がアクセルペダルをほんの数ミリ、髪の毛一本分煽る。
回転数が千二百回転へピタリと固定された瞬間、左足の親指の付け根が吸い付くようにクラッチを半クラッチへと導いた。
スウッ……。
車体がまるで氷の上を滑り出すかのように前進を始める。
ノッキングもなければ背中がシートに押し付けられる発進ショックも一切ない。
助手席の美鈴の頭は一ミリも揺れていなかった。
路地から広い旧街道へ出る。
背後からは等間隔の距離を保ったまま黄色い行灯を灯したアルトワークスがピタリと追従してくる。
客車のバックミラーの死角に入らず他車が割り込めない絶妙な三十メートルの車間だ。
ワークスのヘッドライトがピアッツァのルームミラーを直射しないようわずかに左へキープレフトを保っている。
「……剛三さん」
助手席から眠気の混じった声が漏れた。
「はい」
「アンタの運転はさ……本当に、嫌な揺れがひとつもないね。……新幹線のグリーン車に乗ってるみたいだ」
「車が教えてくれる通りに動かしているだけです。このピアッツァは、フロントミッド寄りの重量配分が美しい。無理にノーズをねじ込まなくても、フロントタイヤに荷重が素直に乗ってくれます」
剛三はステアリングをわずかに切り込み緩やかなS字コーナーを抜けていく。
ペダルを踏む右足の加減速は水滴を置いたグラスをダッシュボードに載せていても一滴もこぼれないほど滑らかだった。
遠心力が急激にかからないよう車体が自然に旋回を終えるラインをミリ単位でトレースしていく。
だが剛三の眉間がわずかに寄った。
右前輪がアスファルトの微細な継ぎ目を越えた瞬間、ステアリングの革越しに伝わってきた微小な振動を掌のセンサーが見逃さなかった。
「美鈴専務」
「ん……なにさ……」
「右のタイロッドエンド、ガタが出始めていますね。それと、フロントスタビライザーのブッシュが痩せて、右コーナーのロール初期にわずかな逃げがあります」
美鈴が薄く目を開けた。
「……は? そんなの、あたし毎日乗ってて気付かなかったよ」
「時速四十キロからの微小舵角で、タイヤの応答にコンマ零五秒の遅れがあります。直進状態からの切り始め、ほんのわずかにステアリングの芯が抜ける感覚があったはずです。……明日の夕方、豊田モータースへ回せるかい。リフトを空けておく」
美鈴は呆れたように小さく吹き出した。
「出たよ、走る問診票。……酒呑んで寝かせてくれるんじゃないのかい」
「寝ている間にお客の命を預かるのが代行です。車の健康状態を見抜くのも、整備士としての私の仕事ですから」
「……わかったよ。明日、現場が終わったら持っていく。部品の手配、頼むよ」
「承知しました」
バイパスへ合流する直線。
剛三はシフトノブをサードからフォース、そしてトップへと吸い込ませるように滑り込ませた。
過給圧が立ち上がる手前の最もトルクが滑らかな回転域だけを使いピアッツァは夜の闇を滑空していく。
助手席からはやがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。
第四章:夜を切り裂く迎撃
風花バイパスの緩やかな登坂車線。
深夜の一時を回ったこの時間、大型トラックの姿もまばらになりアスファルトは冷たい静寂に包まれていた。
ピアッツァの後方を守るアルトワークスの運転席で響香はバックミラーに目を光らせていた。
等間隔を保ちながら追走するワークスの心臓部は剛三の手によって燃焼室容積からピストン重量まで完璧にバランス取りされたK6Aツインカムターボだ。
低速からでも淀みなくブーストが立ち上がりタコメーターの針が意のままに跳ね上がる。
(……親父、相変わらず変態的なブレーキングだな。ブレーキランプの点灯と減速の立ち上がりが完全に一致してる。パッドがローターに触れる瞬間のショックがゼロだ)
父の職人技に舌を巻きながらも響香は車間維持に全神経を集中させていた。
美鈴のピアッツァは風花町にとっても『紅蓮華』にとっても不可侵の聖域だ。
その背後をガードするチェイサーの役目は何人たりとも邪魔させない。
その時だった。
フォォォォォンッ……!
後方の暗がりから下品な排気音を響かせながら急接近してくる二連のヘッドライトが視界に飛び込んできた。
車高を限界まで落としマフラーの消音器を抜いた型落ちのセダンだ。
猛烈な速度差で車列に突っ込んでくる。
「……チッ、空気を読めないバカが来たね」
このまま突っ込まれれば剛三の完璧なライン取りが乱される。
何より美鈴の眠りを覚ますような急ブレーキを親父に踏ませるわけにはいかない。
響香は車間を僅かに十メートル詰めた。
ステアリングをミリ単位で右へ振り車体の半分を追い越し車線へと滑り込ませる。
黄色い行灯が夜のアスファルトを威嚇するように照らし出した。
「そこから先は、通行止めだよ」
接近してくるセダンがハイビームをパッシングしてきた。
煽り散らすように車間を詰めてくる。
響香の口元に冷酷な笑みが浮かんだ。
カチッ、と左足がクラッチを蹴りシフトを4速から3速へ叩き落とす。
シュバァァァンッ!
トラストのブローオフバルブが大気を切り裂いた。
K6Aターボが過給圧を一気にピークへと押し上げる。
四輪が冷えたアスファルトを鷲掴みにした。
暴力的なトラクションでワークスの車体が弾丸のように前進する。
直後に迫るバイパスの高速複合コーナー。
セダンがブレーキングを遅らせてインを刺そうとした。
その瞬間、響香は踏み込んでいたアクセルをスッと抜き微小な制動でフロントに鋭く荷重を乗せた。
剛三仕込みの研ぎ澄まされたライン取りでワークスをコーナーへねじ込んでいく。
外へ流れようとするリヤを前輪の強烈なトラクションが瞬時に前方へ引き戻した。
タイヤの鳴き声を最小限に抑え込みながらワークスは吸い付くようにクリッピングポイントを通過する。
「……腕が足りないんだよ、三下!」
バックミラーの中でセダンが激しいノーズダイブとともにバランスを崩した。
スキール音を撒き散らしながら後方へと脱落していく。
響香は即座にアクセルを抜きピアッツァの後方三十メートルの定位置へと滑り込ませた。
前方を走るピアッツァのハザードランプが二回だけ点滅した。
(親父……見てやがったな)
響香は照れくさそうに鼻を鳴らし革ジャンの襟元をキュッと正した。
第五章:夜の終着点
臼井建材の事務所兼自宅は町の郊外、竹林に囲まれた広い敷地の中にあった。
大型ミキサー車が整然と並ぶ駐車場の奥、美鈴の専用ガレージの前へとピアッツァが滑り込む。
剛三はエアコンを切り電装系をすべて落としてから静かにキーを左へ回した。
ファンが微かに惰性で回る音を残しピアッツァが完全な眠りにつく。
隣のシートで美鈴が大きな欠伸をして目を覚ました。
「……着いたのかい」
「はい。お疲れ様でした、美鈴専務」
美鈴は重たい体を引きずるようにして車外へ出ると澄んだ夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。
背後にはアイドリングの排気音を潜めたアルトワークスが待機している。
運転席から降りてきた響香がピシリと頭を下げた。
「美鈴先輩、お送りいたしました!」
「……響香。途中で後ろのセダンを撒いた時のライン、悪くなかったよ。でも、突っ込みでほんの少しリヤの荷重が抜けてたね。もっとフロントタイヤを信用しな」
寝ぼけ眼のまま放たれた鋭い指摘に響香の背筋がピンと凍りつく。
「は、はいっ! 精進します!!」
「ふふ……親父の血をしっかり継いでるよ、アンタは」
美鈴はツナギのポケットから代行料金の紙幣を取り出し剛三の手のひらへ乗せた。
剛三は白手袋を脱ぎ両手でそれを受け取る。
「ちょうど頂戴いたします。明日の夕方、豊田モータースでお待ちしております」
「ああ。頼むよ、工場長」
美鈴が通用口へ消え玄関の明かりが灯るまで剛三はその場を動かなかった。
家の中に人の気配が落ち着いたのを確認してようやくワークスの助手席へと歩み寄る。
「親父、乗って」
「ああ」
剛三が乗り込むとワークスは静かにバックし臼井建材の門を後にした。
再びバイパスへ戻る道中、車内には暖房の微かな風の音だけが流れていた。
「……親父」
「なんだ」
「美鈴先輩、寝てたはずなのに、あたしの突っ込み見てたよ。あの人、背中に目でもついてんのかね」
「テストドライバーと同じだ。身体全体がセンサーになっとる。……だが響香、美鈴専務の言う通りだぞ。お前のラインは綺麗だが、ブレーキの抜き際がコンマ一秒早い。荷重が前輪に乗り切る前にアクセルを踏んで前を逃がしとるから、リヤの接地がフッと抜けるんだ」
「……うっ。親父まで……」
響香が悔しそうにステアリングを握り直すのを見て剛三の口元がわずかに緩んだ。
「まあ、合格点だ。客の車を守るという気迫は、後ろに乗っていて伝わってきた」
「……当たり前でしょ。あたしは轟代行のチェイサーだよ。親父の走りを汚すような真似はさせないよ」
剛三は何も言わずダッシュボードの端に置かれた無線機に手を伸ばした。
スイッチを入れ静かにチャンネルを合わせる。
「——こちら轟代行。一台完了。現在、旧街道へ復帰中」
スピーカーの向こうからチチッというノイズとともに凛とした美和の声が返ってきた。
『剛三さん、お疲れ様でした。無事に送り届けてくださってありがとう。……次のお客様がいらっしゃいます。準備はよろしいかしら?』
「はい。いつでも伺えます。車種は?」
『豊田モータースの常連様よ。……真っ赤なアルファロメオ・ジュリア・スプリント。クラッチが少し癖のあるお車です』
剛三の瞳に職人の静かな炎が宿った。
「承知しました。五分で向かいます」
通信を切り剛三がハンチング帽の鍔をクッと引き下げる。
「響香、『Bar 風花』へ戻るぞ。次の車はジュリアだ」
「了解! あの段付きのキャブ車だね。独特なオフセットの吊り下げペダルと気難しいシンクロ……親父のダブルクラッチとウェーバーの鳴かせ方、後ろの特等席でしっかり盗ませてもらうよ!」
黄色い行灯を夜風に揺らしながらアルトワークスは再び夜の帳へと滑り出していった。
静寂が支配する風花町の底でプロフェッショナルたちの滑らかな轍が今夜も狂いなく夜の平穏を護り続けていた。
【あとがき】
今宵も『Bar 風花』へお立ち寄りいただき、本当にありがとうございます。
今回は、昼間は『豊田モータース』で油にまみれ、夜になると「決して客を揺らさない」完璧な代行ドライバーへと姿を変える轟剛三と、その背中を必死に追う娘・響香のお話でした。
昼間に一条山で生コンを打ち、後輩のバイクを直し、へとへとになって美和さんのハイボールと角煮に身を委ねる美鈴先輩。
普段は威風堂々たる元総長が、信頼できる職人の手の中でだけ子供のように無防備な寝息を立てる——そんな大人の夜の安らぎを描きたくて筆を執りました。
ジウジアーロが引いたピアッツァの美しいウェッジシェイプと、四駆のワークスが夜のバイパスを切り裂く過給圧の響き。
風花町の闇の底には、表舞台には出ない職人たちの見えない誇りが、今夜も途切れることなく息づいています。
もしこの夜のロードノベルを少しでも心地よく感じていただけましたら、画面下のブックマーク登録や、評価(★★★★★)、温かなご感想を寄せていただけますと、作者としてこれ以上の励みはございません。
次のお客を待つジュリアの段付きキャブの気配を路地裏に残しつつ。
また次の夜、この静かな止まり木でお会いできますように。
天照(Bar風花)




