【Bar風花 閑話】 八ツ下がりの薄氷衣 〜お屋敷を取り仕切る淑女の、気ままな散歩酒〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花-kazahana-』の幕間を描くスピンオフ短編です。
※ 晩秋の午後、風花町の静かな天婦羅屋を訪れた千草の、気ままな散歩酒のひと幕。
※ 本編をお読みでない方でも、独立したひとつの物語としてそのままお楽しみいただけます。
昼の喧騒が引き潮のように去り、夜の灯りがともる前の、ほんのわずかな隙間の時間。
江戸の昔に「八ツ下がり」と呼ばれた静かな刻限に、ひとりの女性がふらりと暖簾をくぐります。
澄んだ油の音と、晩秋の室温そのままに傾ける辛口の一杯。
そして、愛する家族の待つ家へと持ち帰る、温かな折詰の匂い。
どうぞ、そっと白木のカウンターの向こう側を覗いてみてください。
晩秋の柔らかな陽射しが土蔵の白壁に長い影を落としはじめる午後三時半。
昼の混雑は引き潮のように綺麗に去り宵の口の赤提灯が灯るにはまだ間がある。
江戸の昔なら八ツ下がりと呼んだ町がふっと深い息を抜く静かな刻限だ。
石畳の路地をひとりの女性が歩いてくる。
くるぶしがわずかに覗くアンクル丈の黒いロングドレスはロロ・ピアーナの上質なウールシルク。
その上から重ねた手織りリネンの白エプロンには塵ひとつついていない。
仔ヤギ革のレースアップブーツには玉砂利を踏んでも音を立てぬ特殊な静音底が誂えてある。
石畳の上を歩いても足音は立たずただ衣擦れの気配だけが澄んだ空気を静かに震わせていた。
耳元で揺れる大粒のムゾー産エメラルドが傾きかけた西日を吸い込み深い緑の光彩をちらちらと足元に散らしていた。
車を出すまでもない。
風花町の秋風を肌に感じ気まぐれに暖簾をくぐり心地よく喉を湿らせてまた歩いて帰る。
誰に見せつけるでもないそれが酒呑みの気ままな大人の粋というものだ。
「……あらあら。いい匂いがしておりますわねぇ」
白木格子に藍の暖簾を掲げた天婦羅屋『錦木』の前で千草はふと足を止めた。
鍋の中で油の鳴る澄んだ音がかすかに漏れ玉締め搾りの胡麻油と上質な綿実油の香ばしくも清らかな芳香が引き戸の隙間から静かに薫り立っている。
千草は口元を優しく綻ばせ指先でからりと戸を開けた。
「ごめんくださいませ」
静まり返った店内に涼やかな鈴を振るような声が澄んで響いた。
カウンターの奥で清潔な晒布で包丁を拭い清めていた老職人が使い込まれた油鍋の向こうから顔を上げ年季の入った眼を丸くした。
「おや……千草さん。こんな中途半端な刻限に、歩きかい。珍しいねえ」
「お邪魔かしらぁ? 少し表をお散歩しておりましたら、こちらの油の音に手招きされてしまいましたの。……まだ暖簾をくぐるには早すぎましたでしょうか?」
「滅相もない。昼の片付けも終わって、鍋の油もちょうどいい塩梅に馴染んだところだ。さあ、真ん中へどうぞ」
白木のカウンターは余分な油気ひとつ残さず清々しく拭き上げられている。
千草は大将の心遣いに優しく微笑み促された中央の席へ腰を下ろすと背筋を美しく伸ばした。
豊かな胸元がドレスを押し上げているがその佇まいには由緒ある屋敷の差配を執り行ってきた者に宿る凛とした品格が満ちている。
「大将、お酒をいただけますかしら。大刀洗の『三井の寿』……純米の大辛口を、常温で一合ほど。それと、お腹にたまらないところを少しつまませてくださる?」
「あいよ。まずは銀杏と、才巻の頭からいこうか」
大将が棚から取り出しカウンターへことりと置いた酒器は無色透明の薄吹きガラスだった。
その手でトクトクと徳利から盃へと注がれた酒は冷やしすぎず温めず晩秋の室温そのままだった。
千草は白く滑らかな指先で盃を持ち上げるとその薄い縁にそっと唇を寄せた。
口に含んだ清らかな酒がすっと舌の上を滑るように広がった。
米の力強い旨味が満ちたかと思うと鋭い酸が後味を潔く断ち切っていった。
「……ふぅ、美味しい。やっぱりお昼下がりの一杯は、身体の隅々まで染み渡りますわねぇ」
油鍋からパチパチと微かに爆ぜる音が立ち始めた。
職人の手首が無駄のない弧を描くと箸先から油の海へと才巻の頭が続いて松葉に刺した翡翠色の新銀杏が滑り込んだ。
余計な油を吸わせぬよう静かな対流ののちに引き上げられ懐紙の上に並べられた揚げたては黄金色の衣を薄氷のように纏っていた。
「才巻の頭と、祖父江の新銀杏だ。塩でどうぞ」
千草は箸を取りまず海老の頭をつまむと懐紙の端に盛られた焼き塩をちょんとまとわせた。
歯を立てるとサクッと乾いた衣の奥から香ばしい殻の風味と濃厚な味噌のコクが弾けた。
すぐさま酒を含むと油の余韻が綺麗に洗い流され舌の上には海老の甘みと清酒のキレだけが静かに残った。
「まあ……なんて見事な揚がり具合。お塩でいただくと、甘みが際立ちますわね」
「天婦羅で酒を呑むってのはね、江戸の昔から気の短い職人や遊び人の贅沢でね。屋台の立ち食いじゃ、串に刺した穴子や芝海老をツユにドボンと浸けて、酒を一合あおって五分で立ち去るのが粋ってもんだった。千草さんのように、こうして歩いてふらりと立ち寄り、油の音を聴きながら盃を傾けてもらえると、揚げ手としても肩の力が抜けてありがたいよ」
大将が嬉しそうに目元を緩めまな板の上の鱚に隠し包丁を入れた。
「ふふ、江戸の昔のお話、わたくしも大好きですのよ。天婦羅蕎麦の蕎麦を抜いて、種と出汁だけで呑む『天抜き』なんて、考えた方は本当に罪深い道楽者ですわねぇ」
ゆったりとした京都風の声音で相槌を打ちながらも千草の盃が進むペースには淀みがなかった。
青すだちを添えた熱々の鱚が供されると果汁を二、三滴搾り淡白な白身のほろほろとした繊維を慈しむように口へ運んだ。
続く肉厚の原木椎茸は何もつけずにそのまま笠の裏に閉じ込められた熱い露をこぼさぬよう一口で受け止め至福の息をそっと漏らした。
悠然にして端正。
どれほど酒を含んでも頬にほんのり桜色が差すばかりで言葉遣いも視線も一点の乱れすら見せなかった。
人の身ならざる悠久の時をどこかに宿しながらもいまは一人の粋な大人の女性として町の一角に静かに溶け込んでいた。
「……大将。才巻を二本と、穴子を一本、それとお野菜をいくつか……お持ち帰りの折をこしらえていただいてもよろしくて?」
「はいよ。お屋敷へのお土産かい?」
「ええ。天さんと美和様が、夕方のお茶でひと息つく頃合いですもの。夜のお店を開ける前の腹ごしらえにもなるように、少し甘辛い丼ツユをさっとくぐらせて詰めてくださると嬉しいですわ」
時計の針が四時を回ろうとしていた。
障子窓の向こうの光が柔らかな琥珀色から薄茜色へと静かに移ろい始めていた。
千草は徳利の最後の一滴まで盃に注ぎ静かに飲み干すと懐から取り出した折り目ひとつない一万円札を二枚滑らかな手付きでカウンターの端へ滑らせた。
「お釣りは取っておいてくださいな。大将の美味しい油の音に、お礼ですもの」
「おいおい、千草さん、いつもそうやって過分に弾まれちゃ困るよ」
「いいえ、わたくしの我儘で半端なお時間にお鍋に火を入れさせてしまいましたもの。ごちそうさまでした。本当に美味しかったわ」
藍の暖簾をくぐって外へ出ると冷え込んできた夕暮れの風がほんのり温まった頬を心地よく撫でた。
千草は経木の包みの温もりをそっと胸元に抱き静かに歩き出す。
用水路の向こうからはそろそろ『蛸虎』が赤提灯を灯し極厚鉄板に火を入れる準備を始める頃だろう。
そして夜が訪れれば細い路地の奥で美和と天が立つ『Bar 風花』の重厚なオークの扉が静かに開かれる。
自分の足で歩むからこそ届く夕餉の支度の匂いや子供たちの笑い声に遠くの神社の梢が鳴らす葉音。
千草は心地よい酔いを足元に感じながら愛する家族の待つ家へ向かって暮れゆく町をゆっくりと進んでいった。
【あとがき】
最後までお付き合いいただき、心より御礼申し上げます。
今回は、櫻庭の屋敷を凛と差配する千草さんの、贅沢で気ままな寄り道を描いてみました。
江戸前の天ぷらを肴に、室温の『三井の寿』を静かに喉へと滑らせる昼下がり。
誰に見せるでもなく、ただ自分の足で歩き、旬の味を慈しみ、愛する美和様と天さんのために温かな折を誂えて家路につく――そんな「成熟した大人の粋」と、千草さんが内に秘める温かな情愛を感じていただけたら幸いです。
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夜の『Bar風花』の扉が静かに開くまで、晩秋の柔らかな余韻をどうぞごゆっくりお楽しみください。
天照(Bar風花)




