【Bar風花】第二章 ルビーと翡翠の女子会 〜音成峠の姐さんたちは極上の惚気に胃を焼かれる〜
【前書き】
※本エピソードには、旧車(Z400GP、KH400)および機械加工のディテール描写が含まれます。
※作中に登場する『ブールヴァルディエ』『ギムレット』は実在するクラシックカクテルです。
※天ちゃんが留守の隙を狙った、大人の女性三人による秘密のカウンター女子会のお話です。
冷え込む夜の路地裏、重厚なオーク材の扉を押し開けたのは、町の夜と昼をそれぞれ背負う二人の幼馴染でした。
目的は、店主の留守を突いた「櫻庭天の初期ロット」にまつわる黒歴史の暴露。
けれど、鉄刀木のカウンターの向こうで静かに微笑む妻の愛は、二人の想像を遥かに超えて、深くて甘いものでした。
どうぞ、冷たい夜気を払い、静謐なグラスの向こう側をそっと覗いてみてください。
第一章:夜の止まり木と静寂の二杯
重厚なオーク材の扉が真鍮の蝶番を滑らかに軋ませて開いた。
路地の冷たい夜気を払い暖かな光のこぼれる店内へと足を踏み入れたのは二人連れの女性だった。
ひとりは仕立ての良いシルクのブラウスにダークグレーのタイトスカートを合わせた大人の色香と研ぎ澄まされた威風を漂わせる女性——『スナック カサブランカ』のママ楠順子。
もうひとりは普段のツナギを脱ぎ捨て上質な黒のライダースジャケットに細身のデニムを履きこなした気風のいいショートウルフカットの女性——陣内薫。
「……こんばんは、美和ちゃん。お邪魔するわね」
「こんばんは。……ふぅ、いつ来てもここは空気がピンと張ってて、背筋が伸びるねぇ」
二人はカウンターのみの店内に並ぶ七脚の黒革ローチェアーへ音もなく腰を下ろした。
使い込まれた上質な革が冷えた身体を温かく吸い込むように受け止める。
カウンターの奥で薄暗い間接照明に照らされた鉄刀木の一枚板の向こうから純白のバーコートを凛と纏った櫻庭美和が静かに一礼した。
右目の深いワインレッドと左目の透き通るアンバー。
神秘的なオッドアイが二人を迎えて優しく細められた。
「いらっしゃいませ、順子さん、薫さん。今夜はお二人でお揃いなんて、珍しいですわね。どうぞ、ごゆっくりなさってくださいませ」
カウンターの上には水の張られた大きなブランデーグラスに一本のバースプーン、そして柑橘が美しく盛られた小籠があるのみ。
余計なものは一切置かれていない。
背後の戸棚に整然と並ぶバカラやリーデルのクリスタルが磨き上げられた表面に淡い虹色の光を宿していた。
「今日はね、カサブランカを留美子に任せてきたのよ。たまにはあたしたちも、美味しいお酒を静かに味わいたいじゃない?」
順子が紫煙を我慢するように細い指先を弄びながら微笑むと薫もカラッと笑ってカウンターに肘を置いた。
「そうそう。ガソリンとオイルの匂いから離れて、美和ちゃんの綺麗な手並みを拝みに来たのさ。……ところで、あの男は?」
美和はふふっと口元を緩め氷を削るピックを手にした。
「天ちゃんなら、豊田モータースの親父さんに頼まれていた旋盤加工のパーツを届けに、サンバーでお出かけしていますの。もうしばらくしたら戻ると思いますけれど……」
その言葉を聞いた瞬間、順子と薫の目が獲物を見つけた悪童のように悪戯っぽく光った。
「留守かい? そりゃあちょうどいい」
「美和ちゃん、今夜はね、あいつがいないうちに『三人だけの女子会』をしに来たのさ。……まずは、喉を潤す一杯をお願いできるかい?」
「かしこまりました」
美和の所作は寸分の狂いもない居合いのように滑らかだった。
メジャーカップを使うことなく指先の感覚だけで三本のボトルから直接ミキシンググラスへと琥珀と真紅の液体を注ぎ分ける。
氷の壁に沿ってバースプーンが滑る澄んだ残響ののち冷凍庫から取り出されたバカラのオールドファッションドグラスへ角の取れた丸氷が滑り込み艶やかなルビー色の液体が静かに注ぎ落とされた。
順子の前にはワイルドターキー12年をベースにした深いビターカクテル『ブールヴァルディエ』。
続いてタンカレー・ナンバーテンと搾りたてのフレッシュライム、極少の自家製シロップが銀のスリーピースシェイカーへ満たされる。
リズミカルで鋭いシェイクの音が静寂を心地よく切り裂き重厚なロックグラスに沈められた大ぶりの純氷の上へと白く煙る冷気が勢いよく滑り込んだ。
薫の前には微細な氷の粒子が淡い翡翠色のグラデーションを描く極上の『ギムレット・オン・ザ・ロック』。
「どうぞ。今宵の風花町の夜に」
「……いただきます」
順子がグラスを傾けカンパリの苦味とバーボンの濃厚な甘みを舌の上で転がしてふぅと吐息を漏らす。
「相変わらず、完璧な腕前ね。雑味がひとつもない。うちの店で出してるハイボールが恥ずかしくなっちゃうわ」
「本当だねぇ」
薫もグラスを傾けキリッとした柑橘の香りとジンの鮮烈なキレに喉を鳴らした。
「うちのピットのハイオクよりよっぽど純度が高いよ。身体の芯まで染み渡るね」
第二章:幼馴染の取扱説明書
美和は氷を入れたグラスに自家製のソーダを注ぎ自らの喉を湿らせると悪戯っぽくオッドアイを揺らめかせた。
「それで……お二人が天ちゃんのいない隙を狙っていらしたということは、何か悪巧みかしら?」
「悪巧みだなんて人聞きの悪い」
順子がグラスの縁を指先でなぞりながら艶然と微笑んだ。
「ランドセルを背負っていた頃からあいつのツラを見てきた幼馴染としてね、美和ちゃんに『櫻庭天の取り扱い説明書』の初期ロットのデータを教えてあげようと思ってさ」
「あら……天ちゃんの、子供の頃のお話?」
美和の瞳がパッと春の桜のように輝いた。
普段は凛としたプロフェッショナルとしてカウンターに立つ美和だが天ちゃんという単語が出た瞬間に恋する少女の素顔が隠しきれずに零れ落ちる。
身を乗り出すようにして白く細い指先を組んだ。
「ぜひ、お聞きしたいですわ。天ちゃん、ご自分の昔のお話って、照れくさがってあまり詳しく話してくださらなくて……」
「そりゃそうさ、恥ずかしくて言えるわけがないよ!」
薫が身を乗り出して快活に白い歯を見せて笑った。
「あいつ、小学生の頃から図工と理科の実験だけは異様な執念を燃やしててさ。小四の時なんか、近所の壊れた井戸ポンプを勝手に全バラして、一人で革パッキンを切り出して直しちゃったんだから。おかげで近所のお年寄りからは拝まれてたけど、学校じゃ『授業中にボール盤の構造図を描いてた』って職員室に正座させられてたんだよ」
「まあ……! ふふ、昔から機械に触れるのが本当に大好きだったのね。今とちっとも変わっていらっしゃらないわ」
美和は愛おしそうに目を細めた。
「変わらないどころの騒ぎじゃないわよ」
順子がクスクスと肩を揺らす。
「小五の冬、学校の裏の池が凍った時よ。『氷の厚みと曲げ強度による耐荷重限界を計測する』とか小難しいことブツブツ言いながら氷の上に乗っかって、案の定バリッと割れて腰まで泥水に浸かったの。職員室のストーブの前で、鼻水垂らしながら『計算上はあと五ミリ厚ければ耐えられたはずだ』って言い張って、アタシと薫に散々笑い者にされたんだから」
「あはは! あったねぇ順ちゃん! あたしが『バーカ!』って頭叩いたら、あいつ本気で涙目になって『薫、暴力は非論理的だぞ』とか言ってさ!」
二人の楽しげな昔話に美和は両手を頬に当てトロンと蕩けるような笑みを浮かべた。
「まあ、まあ……! 涙目の天ちゃん……見てみたかったですわ……。きっと、今でもたまに困った時に見せる、あの眉尻を下げたお顔だったのでしょうねぇ。……可愛らしい……」
「…………」
順子と薫がピタリと笑いを止めた。
顔を見合わせ同時に引き攣った笑いを浮かべる。
「……ちょっと薫。アタシたち、あいつの恥ずかしい黒歴史を暴露して、美和ちゃんに『まったく、天ちゃんったら昔から情けないんだから』って呆れてもらう作戦だったわよね?」
「ああ、そのはずだったんだがね……。なんだいこの空気は。完全に惚気の燃料を投下しただけじゃないかい」
順子は頭を抱えてカクテルを口に含み薫は天井を仰いだ。
第三章:特注ノブと愛の過剰供給
美和は二人の様子に気づかずカウンター越しにそっと宝物を慈しむような声で語り始めた。
「天ちゃんはね、今でも本当に優しいんですのよ。この前も、私のディーノのシフトノブが少し冷たいって呟いただけなのに、次の日には手のひらの体温を奪わないようにって、比熱を計算してブラックデルリンから中空断熱構造の特注ノブを夜通し削り出してくださって……。朝、ガレージからお車を出してくださる時は、いつも『美和さん、今日も最高に綺麗だよ』って、照れもせずに私の目を見て微笑んでくださるの……」
美和の白い頬が綺麗な桜色に染まっていく。
「あのアバルトをお預けした時もそうですわ。『少しだけ靴の履き心地を変えておきました』なんて……。ふふ、私、天ちゃんのお隣にいると、胸の奥がずっとあたたかくて……世界で一番、幸せな女性だと実感しますの」
「…………」
「…………」
静まり返る店内。
鉄刀木のカウンターの上でグラスの丸氷がツンと音を立てて小さく割れた。
「……美和ちゃん……」
薫が震える手でギムレットのグラスを握りしめた。
「……おかわり、頼んでいいかい。アルコール度数五十度以上のやつで、この胸焼けを洗い流してくれ……」
「アタシもよ……」
順子がシルクの胸元をかきむしり額を押さえた。
「美和ちゃん、あんたね……。あの泣き虫のポンコツ男子を、そこまで完璧な白馬の王子様に仕立て上げられるのは、世界中探してもあんただけよ……。愛の過剰供給で、こっちの胃壁がボロボロになりそうだわ……」
「あら? 私、何か変なことを申し上げましたかしら?」
美和は不思議そうに小首を傾げ至極純粋無垢なオッドアイをパチクリと瞬かせた。
その破壊力たるや音成峠でアクセル全開にした二人のZ400GPとKH400が放つ鼓膜を引き裂く爆音を合わせても敵わないほどだった。
「ご馳走様だよ、まったく……!」
薫が観念したように笑い出し空になったグラスをトンと置いた。
「でもさ、美和ちゃん。あいつが命がけでアンタを守ろうとする理由は、よく分かったよ。あんな不器用な男の全部を、そんなに真っ直ぐ愛してくれる人が隣にいるんだ。……幼馴染として、これ以上の安心はないね」
「そうね」
順子も穏やかな大人の女性の顔に戻って微笑んだ。
「泥だらけで走り回っていた子供の頃からずっと見てきたけれど、今のあいつの顔が、一番いい顔をしてるわ。……美和ちゃん、これからもあの大きな子供のこと、よろしく頼むわね」
美和は嬉しそうに目を細め深く優雅にお辞儀をした。
「はい。命に代えましても、大切にいたしますわ」
第四章:大根を抱えた帰還者
その時だった。
ガラガラッと裏口の勝手口の引き戸が慌ただしく開いた。
「美和さーん! ただいま戻りました! 豊田モータースの親父さんから、今朝採れたばかりの新鮮な大根ももらってきまし……」
軍手をポケットに突っ込み紙袋を抱えた天が暖簾をくぐって店内に足を踏み入れた。
そしてカウンターに並ぶ三人の姿を視界に捉えた瞬間、天の足が凍りついたようにピタリと止まった。
カウンターの中には頬を上気させて愛おしそうに自分を見つめる妻の美和。
黒革のローチェアーの上ではニヤニヤと凶悪な笑みを浮かべてグラスを揺らす元レディース総長の順子と元副総長の薫。
「…………」
天の背筋を一筋の冷たい汗が音もなく伝い落ちた。
「……あ、あれ? 順子……に、薫……? なんで二人がここに……」
「おかえり、天ちゃん。ずいぶんと遅かったじゃないの」
順子がタバコを指で挟む仕草をしながら妖艶に片眉を吊り上げた。
「よぉ、池の耐荷重限界の計算係。美和ちゃんから、あんたの『極上の履き心地』の話、たっぷりと聞かせてもらったよ」
薫も口角をワイルドに吊り上げカウンターを指先でトントンと叩く。
「ひっ……!?」
天の顔が一瞬で真っ青になり紙袋を抱えたまま半歩後退りした。
「美和さん!? 二人にな、何を話したんですか……!?」
「ふふ、天ちゃん。子供の頃の天ちゃんのお話も、私だけに見せてくださる天ちゃんのお話も……ぜんぶ、とっても美味しくいただきましたわ」
美和はふわりと両手を胸の前で合わせ天使のように微笑んだ。
「美味しくいただいたって何ぃぃぃーーッッ!?」
絶叫して頭を抱える天に、かつて音成峠を震わせた『紅蓮華』の二代目と三代目の頭を張った元レディースのツートップが腹を抱えて豪快な大爆笑を浴びせかけた。
磨き上げられた鉄刀木のカウンターと淡い桜の香りに包まれた静謐なBar。
今夜ばかりは風花町の夜の支配者たちによる最高に賑やかで温かな笑い声がいつまでもグラスの縁を優しく震わせていた。
【あとがき】
お読みいただき、本当にありがとうございました。
今回は、かつて音成峠を震わせた『紅蓮華』の歴代トップであり、天ちゃんの少年時代を知り尽くした順子ママと薫さんによる、夜の『Bar風花』急襲劇をお届けしました。
男の子の子供の頃のちょっと情けない失敗や理系特有の奇行は、昔馴染みからすれば格好のからかいの種ですが、深く愛している奥様にとっては、どこをどう切り取っても愛おしい「宝物」でしかないのですよね。
良かれと思って暴露しに来たはずの二人が、美和さんの澄みきった惚気爆撃を浴びて胃を押さえ、最後は何も知らずに立派な泥つき大根を抱えて戻ってきた天ちゃんが絶叫する……書きながら、私自身も思わず吹き出してしまいました。
静けさの中に、こうした気の置けない仲間たちの笑い声が溶け込む夜もまた、このBarの大切な一面です。
少しでもくすりと笑っていただけたり、風花町の夜の温もりが胸に届きましたら幸いです。
作品を気に入っていただけましたら、下部の【ブックマーク】へのご登録や、☆☆☆☆☆からの【評価】、また率直な【ご感想】をいただけますと、日々の執筆の大きな励みになります。
また次の夜、静かに磨かれたカウンターでお待ちしております。
天照(Bar風花)




