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【Bar風花 外伝】青い聖杯を求めて⑤ 青き聖杯と一億円の夜露 〜四半世紀の封印を解かれた猛獣と母娘の聖戦〜

前書き


※ 本作は『Bar風花-kazahana-』および『一条山開墾記』シリーズのサイドストーリーです。

※ 群馬から届いた奇跡のタイムカプセル「インプレッサ22B」の再生と、平医院を揺るがす青と赤の激突。

※ 徹夜のピットに届く美和さんの温かな夜食、そしてBar風花のカウンターで語られる一億円の価値。


初冬の夜、豊田モータースのピットに響き渡る金属の唸りと、二十八年の眠りから覚める青き聖杯。

外科医のメスと元自衛官の精密な手腕が、石になった関節を解きほぐし、やがてシャシダイを揺るがす咆哮へと変わります。

吹き荒れる投機熱と一億円の小切手を前に、平家の絶対君主が下した鉄槌と、夜の止まり木に灯る母娘の温もり。

どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。

第一章:四肢解体と神の関節

 

 群馬の関口モータースから積載車で風花町へ滑り込んできたその日の深夜。

 裏通りにある『豊田モータース』の奥、シャッターを下ろした三番ピットの水銀灯の下で青い聖杯は四輪を宙に浮かせたまま静まり返っていた。

 二柱リフトで持ち上げられたインプレッサ22B——センターコンソールの真鍮プレートに刻まれたシリアルは『002/400』。

 限定四百台のトップロットであり新車から二十八年間実走わずか七十二キロという奇跡のタイムカプセルだ。

 下から見上げるフロアパンは雨天未走行の言葉通りアンダーコートの一片にすら泥汚れひとつ付いていない。

 だがツナギに着替えて防護メガネをかけた天と白衣を脱ぎ捨ててスナップオンのオーバーオールに身を包んだ茉莉の視線は金属の美しさではなくその骨格を繋ぎ止める黒い関節部へと冷徹に注がれていた。

「……天さん。覚悟はいい?」

「ええ。四半世紀の時間を巻き戻すなら骨組みだけを残してすべて剥がすしかありません」

 天が手にしたエアーラチェットが静寂を切り裂いて甲高い唸りを上げた。

 フロントロアアーム、リヤラテラルリンク、トレーリングリンク、前後スタビライザー、サブフレームマウント、デフマウントメンバー、そしてステアリングラックブッシュ。

 ボルトの一本一本を慎重に緩め固着のないネジ山をワイヤーブラシで掃き清めながらサスペンションの構成部品が次々と地上へ降ろされていく。

 コンクリートの床に並べられた22B専用の鍛造アルミ製フロントロアアーム。

 茉莉は胸ポケットから取り出したショア硬度計のニードルをロアアーム後端の巨大なゴムブッシュへと真っ直ぐ突き刺した。

「……硬度八十五。指で押しても一ミリも凹まないわ」

 茉莉はチタンフレームの眼鏡を押し上げ呆れたように息を吐き捨てた。

「新車時はせいぜい硬度六十前後のしなやかな弾性体だったはずよ。走行距離が七十二キロだろうと二十八年間ずっと同じ姿勢で22Bの車体を支え続けてきたのよ。油分が揮発して分子鎖が架橋しすぎて完全にプラスチック化してる。これ、関節軟骨が変性して完全な骨性強直を起こした膝関節と同じよ。このまま走らせたら微小ストロークの初期入力が全部サスアームをすっ飛ばしてボディを歪ませてたわね」

「ええ。骨が無事でも関節が石になっていては走る凶器です。……全数、抜きます」

 天は作業台の上に夕方のうちに工場の旋盤を借りて削り出しておいたジュラルミン製の特注治具を整然と並べた。

 22B専用アームの内径に対しコンマ〇五ミリのクリアランスで精密に削り出された円筒カラーたちだ。

 ピットの片隅に鎮座する二十トン油圧プレス機にアームを据え天がレバーをゆっくりと押し下げていく。

 キィィ……と金属が擦れ合う微かな緊張音の後、ドンッと硬質な破裂音が響いた。

 二十八年間固着していた古いブッシュがミリ単位で押し出されていく。

「抜けた……! 天さん、内壁の傷は!?」

「ゼロです。内径の真円度も完璧に保たれています」

 天はマイクロメーターでアームの内径を三点計測し手帳に数値を書き留めた。

 そしてトレイから取り出したのはこの夜のために全国のスバル特約店とSTIの地下人脈から掻き集めた新品のパーツ群だった。

 それは単なる市販の硬質ウレタンやサーキット専用のガチガチなフルピロボールではない。

 茉莉という乗り手の指先を守るための極めて理知的なハイブリッド・セットアップだった。

「……天さん。これ、普通のSTI強化ブッシュじゃないわね?」

「ええ。フロントロアアームの前側ブッシュとリヤデフマウントにはSTIグループN用の高硬度強化ゴム。ステアリングの操舵初期のゲインを立ち上げ、アクセルオン時のトラクション抜けを完全に防ぎます。ですが——」

 天はリヤのラテラルリンクを取り上げた。

「コーナーで横Gが立ち上がった際、トー変化をミリ単位で抑えたい外側ジョイントにはダストブーツ付きの最高品質ミネベア製ピロボール。しかしサブフレームと結合する内側にはあえて適度なたわみを持つ新品の純正特殊配合ゴムを残してあります」

「……二段構えの減衰ね」

 茉莉の瞳が外科医としての深い理解に輝いた。

「路面からの高周波振動や鋭いトゲのような突き上げは内側のゴムがいなし、サスペンションがストロークする瞬間のジオメトリー変化だけを外側のピロが完全に固定する。これなら……翌朝に内視鏡スコープを握る私の掌に、不快な微振動を残さない……!」

「先生の手指はこの町の命を預かる精密機械ですからね。機械の都合で人間の身体を削るようなセットアップは櫻庭FACTORYの名にかけて絶対に許されません」

 さらに天のメスは駆動系の深部へと分け入っていった。

 床に降ろされたTY754型5速マニュアルトランスミッションのアルミケースは真っ二つに割られ、メインシャフトとカウンターシャフトのギアトレインが精密機械式時計の心臓部のように露出していた。

 天は工業用内視鏡スコープを片手に拡大モニターでヘリカルギアの歯面を舐めるように点検している。

「……天さん。駆動系はどう?」

「奇跡的ですね。歯面の虫食いもベアリングレースの圧痕も一切ありません。ですが、やはり底に沈殿した二十八年前の純正ギアオイルがタール状に変質してシンクロのキーとスプリングにへばりついていました。電磁式DCCDの湿式多板クラッチも油溝が詰まりかけています。灯油と超音波洗浄機で完全に脱脂します」

 隣で白衣を腕まくりした茉莉がマイクロメーターとシクネスゲージを手に身を乗り出す。

「リヤのR180機械式LSDはどうなの!?」

「プレッシャーリングの当たり面を軽くラッピング研磨しイニシャルトルクを測定し直しました。出荷時の規定値どおりきっちり六・五キロで立ち上がります。リングギアとピニオンギアのバックラッシュはコンマ一〇ミリ……。豊田のオヤジさんに頼んで調整シムをコンマ〇二ミリ薄いものに削り直してもらいましたから歯当たりは完璧な中央です」

「……変態よ」

 茉莉は恍惚とした溜め息をついて額を押さえた。

「新品以上の公差で組まれた5速ミッションと完璧に調律された機械式デフ……。天さん、あなた消化器内科の手術室に入っても器具出しのチーフナースより手際がいいわよ」

「美和さんの主治医がシフトミスやギア鳴きで余計なストレスを感じてはいけませんからね。モチュールの最高峰コンペティションオイルを満たしてケースを閉じます」

 時計の針は午前四時を回っていた。

 組み上がったアーム類と駆動系が車体へと戻され、四輪がアライメントテスターのターニングラジアスゲージの上へと静かに着地した。

「先生。アライメントリフトへ降ろして1G締めを行います」

 リフトで宙に浮かせた無荷重の状態でボルトを本締めしてしまえば、車重がかかった瞬間にゴムブッシュが不自然にねじれた状態で固定されてしまう。

 タイヤが接地した静止状態をゼロ点にするため、天は運転席へ茉莉の体重と同じ砂袋を載せステアリングセンターを水準器で固定した。

 車体の下へ潜り込んだ天がカチリカチリと精密トルクレンチを鳴らしていく。

 ブッシュのゴムには一切の初期ねじれストレスがかからず、完全にニュートラルな状態で締め上げられた足回り。

 作業を終え下から這い出てきた天の顔は煤とグリスで汚れていたがその瞳は澄み切っていた。

 ガタッ、とピットの勝手口の引き戸が開いたのはまさにその時だった。

「……あらあら。殿方とお嬢様が夜通し泥んこ遊びですのねぇ」

 ふわりと漂ってきたのは初冬の冷気を一瞬で春に変えてしまうような甘い桜と出汁の香りだった。

 割烹着を羽織った美和が湯気の立つ二段重ねの重箱と保温ポットを抱えて立っていた。

「美和さん……! こんな時間に起きてきてくださったの!?」

「ええ。天ちゃんが『今夜は平医院の新しい守護神の命を吹き込む儀式だ』と真剣な顔で出かけていきましたから。身体の芯を冷やしてはいけませんもの。裏庭の大根と柚子を散らした温かいお味噌汁と、あまおうのイチゴを練り込んだ蒸しパンを作ってまいりましたのよ」

「……あぁ、生き返るわ……」

 ピットの作業台の端に腰掛け熱い味噌汁をすすった茉莉は胃の腑に染み渡る温もりに目を細めた。

 隣で静かにお茶を飲む天の横顔と、リフトの上で四肢の関節をすべて新調され凛として佇むソニックブルーの車体を見上げる。

「天さん。……完璧よ。この足なら暴虐なトルクを全部受け止めて風花連山のアスファルトをメスのように切り裂けるわ」

「ええ。これでようやく先生の本当の手足になりました」

 東の空がゆっくりと白み始めていた。

 四肢と駆動系を完全に再生された青い聖杯は、朝の光を浴びながら静かに目覚めの産声を待っていた。



 

第二章:真の呼吸と354馬力

 

 明けて月曜日の午前。

 数時間の仮眠からピットへ戻った茉莉の目の前には、分厚い段ボールと油紙に包まれた長大な金属の塊が横たえられていた。

 表面には色褪せたチェリーレッドのフォントで誇らしげに印字されている。

 『SUBARU TECNICA INTERNATIONAL — STi Performance Exhaust System』。

「……天さん。これ、本当に開けていいの?」

「関口モータースの親父さんが『22Bの背中を押すならこれしかない』と積載車に積み込んでくれたものです。当時の特約店向けに極秘裏に割り当てられたSTI純正オプションのオールステンレス・スポーツマフラー……完全未開封のデッドストックですよ」

 天がカッターの刃をわずかに滑らせ飴色に変色したクラフトテープを割く。

 防錆紙を解いた瞬間、水銀灯の光を浴びて現れたのは鏡のように磨き上げられたSUS304ステンレスの鈍い銀光だった。

 サイレンサーの腹には熟練の溶接工が引いた美しいウロコ状のTIG溶接ビード。

 大径テールエンドの上部には耐熱チェリーレッドで『STi』のロゴが打刻された真鍮混じりのエンブレムプレートが誇らしげにリベット留めされていた。

「……綺麗……」

「純正マフラーは防錆油を塗布して櫻庭FACTORYの倉庫で恒温保管します。そしてこの子の背中には、当時のスバル技術陣が『これこそがボクサーの真の音色だ』と確信して世に送り出したこの一本を捧げるべきです。内部の消音材も現代の安価なウールではなく当時最高峰の長繊維グラスウールが生きていますよ」

「おい茉莉、下へ入れ。フランジのガスケットを合わせるぞ」

 ツナギ姿の豊田のオヤジがピット下から野太い声を上げた。

 二柱リフトで持ち上げられた腹下へ天と茉莉が二人掛かりでステンレスの巨躯を持ち上げる。

 カランと硬質な金属音が響く。

「天さん、吊りゴムの位置……バンパーの切り欠きに対して右にコンマ五ミリ寄ってるわ」

「確認しました。豊田のオヤジさん、マフラーステーのブッシュをSTIグループNの強化硬質ゴムに差し替えます。排圧がかかった時の横揺れを完全に殺しましょう」

 天は特注のロングハンガーを噛ませテールエンドの出面をミリ単位で調整していく。

 バンパーのアーチとSTiマフラーの円周。

 その隙間は指一本が均等に滑り込む完璧な同心円を描いてピタリと静止した。

 続いて天はアルミニウム製の軽量ボンネットを大きく跳ね上げた。

 鮮やかな赤縮み塗装が施されたインテークマニホールドの横には昔ながらの黒々とした純正エアクリーナーボックスが無骨な姿のまま鎮座している。

「……天さん。普通、ここまで手を入れたらここは社外の剥き出し型……いわゆる毒キノコに換えたくなるところじゃない?」

「絶対にダメです。論外です」

 天の返答には一ミリの迷いもなかった。

「GC8後期のホットワイヤー式エアフロメーターは吸入空気の乱流に対して極めてデリケートです。剥き出し型を組めばファンネル周辺で生じる空気の渦が白金熱線を乱し、ECUへ送る電圧信号が激しくハンチングを起こします。それにエキマニが放射する七十度八十度に達する灼熱の空気を吸い込めば充填効率は落ちて点火時期のリタードが入ってしまう。純正のボックスはフェンダー内から冷気を導き吸気の脈動を整える巨大なチャンバーとして完璧に計算されているんです」

 天は真新しいパッケージからチェリーレッドの不織布フィルターを取り出した。

 『STI スポーツエアフィルター(純正交換タイプ)』。

「……解剖学と同じね」

 茉莉は笑みをこぼしフィルターを両手で受け取った。

「人間の呼吸器も外気を直接肺に叩き込んだりはしないわ。鼻腔の複雑な構造で空気の温度と湿度を整え、乱流を層流に変えてから肺胞へと届ける。この黒いボックスはまさに22Bの鼻腔そのものなのね」

 フィルターの枠を純正ボックスの溝へ収めスチール製クリップをパチンと留める。

 吸気は冷気を整流するSTI純正交換エアフィルター。

 心臓は熟練工が手作業で組み上げたEJ22改。

 関節は全数打ち換えられたSTIグループN強化ゴムとミネベア製ピロボール。

 骨格はエナペタルの手によってフリクションを極限まで削ぎ落とされしなやかに再調律された特注STIビルシュタイン。

 そして排気を司るのは大気を澄んだ重低音で震わせるSTI当時物オールステンレスマフラー。

「さあ、いよいよ数字を見るぞ。シャシダイに載せろ!」

 豊田のオヤジの号令で22Bがコンクリートの土間に埋め込まれたローラー式シャシダイナモメーターの上へと据え付けられた。

 極太のラッシングベルトが車体を四方から抑え込み波トタンの屋根がビリビリと震え出す。

 締め切った工場内に高圧縮で焼かれたハイオクガソリンの甘い刺激臭と熱を帯びた金属のエキゾーストノートが立ち込めた。

 ギチギチとベルトが軋み巨大なスチールローラーの回転数が跳ね上がっていく。

 運転席の窓から身を乗り出しコンソールに据えたテスターの液晶を凝視していた豊田のオヤジが炸裂する排気音を突き破るような怒声を張り上げた。

「おい天! ローラー直回しの生値だぞ! とんでもねえ数字を叩き出しやがった……!」

「オヤジさん、補正なしでどれだけ出ていますか」

「車輪の生値で354馬力だッ! 350の大台を涼しい顔して突き抜けやがったぞ!!」

 オヤジは油にまみれた太い指でモニターのピークホールド値を激しく叩いた。

「当時の自主規制280馬力なんて最初から眼中にねえ作りだ! EJ22改の手組み鍛造ピストンの重量差はゼロ、クランクの動バランスも神業の領域だぞ。四駆の駆動ロスを差し引いたタイヤの接地端でこれだ……エンジンのフライホイール単体で回しゃ、400馬力を軽く超える領域だぞこれ!」

 その数値を耳にした瞬間。

 ピットの脇で突っ立っていた茉莉の膝からふっと力が抜けた。

 ガクンと折れかけた膝を踏ん張り胸ポケットから滑り落ちかけたルーペを咄嗟に押さえる。

「さんびゃく……ごじゅう、よん……? 自主規制の280どころか、タイヤの生値で350オーバー……!? シリアル一桁とはいえ、当時のSTI実験部がWRCワークスマシンのリストリクターを外してそのまま市販車に積んだようなものじゃないのよ……ッ!!」

「落ち着いてください、茉莉先生。心拍数が毎分百三十を超えています」

 天が差し出した冷たいミネラルウォーターを奪い取るように受け取ると茉莉は一気に呷った。

「落ち着いていられるわけないでしょう! 私の22Bよ!? 私の相棒が母さんのランエボⅥトミ・マキネン・エディションを直線でちぎり捨てられるだけの圧倒的なエビデンスを叩き出しちゃったのよ!」

 スロットルが緩められ唸りを上げていたローラーが滑らかに減速する。

 ピット内は低く整然とした水平対向特有のアイドリングで満たされた。

 降りてきたオヤジはツナギの袖で額の油汗を拭い愛おしそうに青いブリスターフェンダーを撫でた。

「群馬の関口から電話があった時、最初は親父の道楽に付き合わされた娘の気まぐれかと思ったがね。……とんでもねえ。この心臓は四半世紀もの間、本物の乗り手が迎えに来る瞬間をガレージの奥で息を潜めて待ってたんだ」

「関口の親父さんも『あいつが泣くから投機屋には絶対に売らない』と仰っていました」

 天が言葉を添えるとオヤジは感慨深げに息を吐いた。

「職人が魂を削って叩き出した鉄はな、転がすだけのブローカーに渡れば冷たい札束に成り下がるが血の通った乗り手が火を入れりゃこうして猛獣の牙を取り戻す。……おい茉莉、この足のセットアップといい駆動系のバックラッシュといい完璧だ。この暴虐な354馬力を余すところなく路面へ伝えるだけの骨格ができてんなら、うちの旧式シャシダイも冥利に尽きるってもんだ」

「大叔父さん、本当にありがとう。レーザーテスターでアライメントの最終チェックをお願いできるかしら」

「おう、任せときな。夕方までに狂いのない一本の矢に仕上げてやるよ」



 

第三章:風花連山の夕風と真紅の迎撃

 

 すべての点検を終え豊田モータースのピットを後にしたのは風花連山の稜線が赤銅色に染まり始めた頃だった。

 陸運支局で正式なナンバーを取得した22Bは夕闇の迫る上り坂を滑らかに駆け上がっていく。

 運転席の窓をわずかに下げると初冬の冷気が火照った茉莉の頬を引き締めた。

 吊り下げ式のアクセルペダルに添えた右足の親指へほんの少しだけ体重を乗せる。

 その瞬間、タービンが本格的な正圧に入る手前のわずか二千回転から手組み鍛造ピストンが絞り出す極太のトルクが車体を矢のように前へと押し出した。

 シートバックが背骨を押し込み夕暮れの景色が後方へと吸い込まれていく。

「……354馬力……!」

 茉莉は専用のチェリーレッドステッチが施されたステアリングを握りしめ歓喜に打ち震えた。

 圧倒的なパワーを秘めていながらステアリングの応答性はどこまでも従順で精緻だった。

 切り始めのコンマ一ミリからノーズが吸い付くようにインを差し、オーバーホールされたセンターデフが四輪のトラクションを路面へと隙間なく噛み合わせていく。

 熟練の外科医が指先のミリ以下の感触だけで病変部を剥離していく極限まで研ぎ澄まされたチタンメスの手応えそのものだった。

「母さん、今度こそ覚悟してなさいよね……!」

 急勾配のヘアピンを水平姿勢のまま軽やかにクリアし22Bは風花町の外れにある平内科医院の敷地へと滑り込んだ。

 私用ガレージの前に車を止めイグニッションキーを左へ捻る。

 静寂の中、熱せられたエキゾーストパイプがチッチッパキリと微かな音を立てて冷えていった。

 助手席のスパルコシートの上には太田の『御菓子司 伊勢屋』で買い求めたスバル360最中の包みと関口モータースの親父から託された『東京マルイ ザ・サムライ用ハイスピードカウンターギヤ』の小さな箱が並んでいる。

 事務長である母・志乃の防諜網を突破し家庭内の平和を守り抜くための極秘兵站物資。

「この修羅場さえ乗り切れば明日の夜はBar風花へ行って天さんに極上のスコッチを奢らなきゃね……」

 茉莉がドアハンドルに手をかけたまさにその瞬間だった。

 チタンアルミ合金タービンが空気を鋭く圧縮する過給音と等長エキゾーストの乾いた咆哮が敷地内に木霊した。

 医院の正門を抜け真紅のラリーストライプを纏った三菱ランサーエボリューションⅥが容赦のない正確無比なブレーキングとともに滑り込んできた。

 エボⅥはミリ単位の正確さで22Bの真横へとノーズを滑り込ませピタリと停止した。

 ドアが開き、仕立てのいい紺のスーツを纏った平内科医院の事務長にして平家の絶対君主——平志乃が降り立つ。

 胸元には三菱ラリーアートのピンバッジ。

 志乃は無言のまま眼鏡の奥の瞳をスッと細めた。

 視線が22Bのブリスターフェンダー、そしてゴールドのBBS鍛造ホイールへと向けられる。

「……茉莉。その青い車はいったい何かしら」

 周囲の空気が瞬時に絶対零度へと凍りついた。

 だが今の茉莉は一歩も引かなかった。

 背後にはシャシダイ実測354馬力を証明した奇跡の個体が控えている。

「事務長。我が家のモータースポーツ史に新しい一ページが加わったのよ」

「新しいページ?」

 志乃が一歩前へ踏み出す。

「私の記憶が確かなら我が家のガレージにはすでにお父さんのアルシオーネSVXとスバル360、あなたのR1Sが並んでいるはずよ。これ以上スバル車を増やすことはトミ・マキネンが築き上げた四連覇の金字塔に対する反逆だとあれほど釘を刺したはずだけれど?」

「反逆じゃないわ、敬意よ!」

 茉莉は愛車のボンネットを手のひらで誇らしげに叩いた。

「世界ラリー選手権でマキネンの真紅のランエボと死闘を繰り広げた至高のライバル! わずか四百台だけ手作業で叩き出された伝説のインプレッサ22Bよ! 大叔父さんのところのシャシダイで測定したら車輪の生値で354馬力出たわ! あなたのトミ・マキネン・エディションと対等に渡り合える正真正銘の青い聖杯よ!」

「……354馬力ね」

 志乃の眉がピクリと動いた。

「ずいぶんと景気のいい数字ね。それで副院長、その怪物を引き取るために定期預金からいくら吹き飛んだのかしら。海外オークションの相場なら三千万から四千万は下らないはずよ。内視鏡室の更新資金を丸ごと呑み込んだのかしら?」

「ふふん、甘いわね事務長! 関口モータースの親父さんはね、筋金入りの本物の職人だったのよ! 生涯をかけて乗り継ぐ私の覚悟を認めてくださって当時の新車定価五百万円ポッキリ、しかも陸送費込みで譲ってくださったわ! つまり浮いた予算を考えれば実質タダみたいなものよ!」

「……実質タダ?」

 志乃の目がすうっと細まり周囲の気温がさらに二度下がった。

「あ、いえ……実質タダは言葉の綾として……! ほら母さん、これを見てちょうだい!」

 茉莉は慌てて助手席から二つの包みを抱え出し志乃の前へと差し出した。

「お父さんには太田の伊勢屋さんのスバル360最中! そして母さんにはこれよ! 関口モータースの倉庫の奥から発掘された一九八六年製デッドストック未開封! 『東京マルイ 1/10 ザ・サムライ用 オプション・ハイスピードカウンターギヤ』よ!!」

 沈黙が落ちた。

 志乃の視線が色褪せたブリスターパックの中にあるギヤセットへと吸い寄せられた。

「……な」

 志乃の唇からかすかな掠れ声が漏れた。

「な……何でこんなものが関口さんのところに……」

「息子さんが昔少しだけRCをやってたらしいのよ! これを平サーキット仕様のサムライに組み込めば裏ストレートの伸びが劇的に変わるわ! トップスピードが時速五キロは上乗せできるはずよ!」

 志乃の手が吸い寄せられるように伸びた。

 指先がパッケージに触れた瞬間、冷徹な事務長の仮面が音を立てて崩れ去った。

 眼鏡の奥の瞳が宝箱を見つけた少女のように輝いている。

「……信じられない。センターワンウェイとの噛み合わせが難しい初期型の純正オプション……。今やオークションでも現存が確認できない幻のギヤ比だわ……」

「でしょう!? 母さんのために天さんが命がけで確保してくれたのよ!」

 志乃はギヤのパッケージを胸元へ抱き寄せると小さく咳払いを一つして無理やり威厳を取り繕うように視線を22Bへと戻した。

「……まあ、いいでしょう。関口モータースへの敬意、そしてこの極めて合理的な手土産に免じてガレージの一番奥にスペースを空けてあげるわ」

「やった……!」

「ただし副院長。今夜は医院の二階でこのギヤボックスの分解清掃とバックラッシュの精密調整に付き合ってもらうわよ。それから明日の午前の外来と胃カメラ十二件、一分の遅れも許しませんからね」

「えっ!? 胃カメラ十二件の前に夜通しRCのメンテ!? そんなのブラック企業よ母さん!!」

 夕暮れの風花町に茉莉の悲鳴と志乃の笑い声が響き渡っていった。



 

第四章:大黒の怪電波と絶対君主の迎撃

 

 だが事態は平家のガレージの中だけで収まりはしなかった。

 その噂は首都高・大黒パーキングエリアの片隅から、あるいは群馬と三鷹の技術者たちの深夜の酒席から山火事のような速度で自動車業界のアンダーグラウンドを駆け巡っていたのだ。

「おい、聞いたか? 九州の福岡……風花町とかいう山奥でとんでもねえ化け物が眠りから覚めたらしいぞ」

「シリアルナンバーは『002』。新車から28年間実走72キロで暗闇に完全封印されてたワンオーナーの個体だ」

「足回りはブッシュ全数打ち換え、駆動系はミッションもデフも全バラシでバックラッシュゼロ調整、吸排気はSTI当時物で完璧に調律されてて地元のシャシダイでタイヤ生値354馬力を叩き出したって話だ」

「オーナーは地元の内科医院の若い女医で夜な夜な白衣を脱ぎ捨てては風花連山の峠を全開で切り裂いてるらしい……。しかも隣のガレージには母親が駆る真紅のランエボⅥトミ・マキネンが睨みを利かせてるんだとよ」

 最初はエンスー特有の都市伝説だと誰もが笑い飛ばしていた。

 だが発信源を辿っていくと群馬製作所の車両実験部OB、太田の老舗和菓子屋、そしてスバルの重鎮メカニックたちの名が次々と浮かび上がってくる。

 海外の有名コレクターズオークション『BaT(ブリング・ア・トレーラー)』やモナコのブローカー筋にまで日本円で一億円を積んでも門前払いされたという情報が駆け巡った。

 結果として風花町の平内科医院には招かれざるハイエナたちが嗅ぎ回るように姿を現し始めることとなった。

 

 翌日、火曜日の午後。

 外来診療の受付時間が終了し静まり返った平医院の待合室に場違いなイタリア製高級スーツを着た男が二人、値踏みするような視線で立っていた。

 手には分厚いアタッシュケース。

「失礼。こちらの副院長先生……平茉莉先生はいらっしゃいますかな?」

 男が脂ぎった笑みを浮かべ受付のトレイに名刺を滑らせる。

「先生がお持ちの青いスバル車について極めて有益なご提案がありましてね。海外の超大物ビリオネアが是が非でもコレクションに加えたいと仰っている。即金で八千万円……いや、先生のご決断次第では一本の小切手をこの場で切る用意があります」

 奥のカルテ棚から書類をめくる乾いた音がピタリと止まった。

 すっと姿を現したのはネイビーの事務スーツに身を包んだ平志乃だった。

 胸元の三菱ラリーアートのピンバッジが冷たく光る。

 志乃は名刺を一瞥もせず無言のままカウンターへ歩み寄った。

「……どちらの業者さんかしら」

「おや、事務長さんですか。話が早い。一億円ですよ? 個人医院の内視鏡室の更新はおろか最新のMRI棟が丸ごと一棟建つ金額です。あの車をこんな田舎の納屋で転がしておくのは国際的な文化遺産の損失というもの——」

「お引き取りください」

 志乃の声は低く絶対零度だった。

「は……?」

「ここは地域の患者さんが命を預けにくる診療所です。投機屋のマネーゲームの取引所ではありません。それに——」

 志乃は腕を組み冷徹な山猫のような眼差しで男たちを射抜いた。

「うちの娘が大学病院時代から血反吐を吐いて貯めた金で群馬の老職人と魂を交わして手に入れた大切な相棒よ。それを右から左へ転がして札束に変えるような浅ましい真似、平家の人間が一ミリでもすると思っているのかしら?」

「し、しかし一億ですよ!? 鉄屑同然の旧車にそれだけの値がつくこと自体が奇跡なんですよ!?」

「鉄屑?」

 空気が凍りついた。

 志乃の眉がわずかに跳ね上がる。

「あの手組みEJ22改の超高精度な燃焼とエナペタルの極上ビルシュタインの足回りを鉄屑呼ばわりするような節穴にあの子のキーを触らせるわけがないでしょう」

 志乃は受付の内線受話器を静かに持ち上げた。

「あと三十秒でこの敷地から退去なさい。さもないと当院が契約している皇グループの警備特務班に通報します。警察庁警備局や自衛隊警務科、特殊作戦群の出身者で固められたプロフェッショナルよ。不法侵入と威力業務妨害の現行犯で即座に身柄を押さえられ所轄署へ突き出されたくなければ後悔しないうちに消えなさい」

「ひっ……!?」

 男たちは志乃が放つ尋常ならざる気迫と医院の車回しに音もなく滑り込んできた黒塗りの警戒車両の気配に顔を引きつらせ脱兎のごとく逃げ出していった。

 静寂を取り戻した待合室の奥から白衣を着た茉莉がおっかなびっくり顔を覗かせた。

「……母さん、すごかったわね。一億円を前にして眉毛ひとつ動かさないなんて」

「当たり前でしょう」

 志乃は冷ややかに眼鏡の位置を直しカルテ棚へと背を向けた。

「あんな俗物にあの青い聖杯を渡したら、今夜音成峠であなたをちぎり捨てる楽しみが消えてしまうじゃないの」

「……結局そこかい!!」



 

第五章:Bar風花の止まり木と、一億円の価値

 

 その夜。『Bar 風花』の店内には程よく空調の効いた澄んだ空気と柔らかな安堵の吐息が満ちていた。

 薄暗い空間に灯る暖かな間接照明が鉄刀木の一枚板カウンターを艶やかに浮かび上がらせている。

 端の席に腰掛けた茉莉は美和がステアした極上のマティーニを前に頭を抱えて突っ伏していた。

「……一億……。私の22Bに一億円の値がついたの……?」

「ええ。昼間お母様が撃退したブローカーは本当にその額を用意していたようですよ」

 隣で静かにスコッチグラスを傾けていた天が眼鏡を直しながら苦笑する。

「海外のオークションサイトでもスレッドが完全に炎上しています。『日本の風花町に神の公差を持つシリアル002が生息している』と。豊田モータースのシャシダイの数値までなぜかリークされていましてね」

「誰よ情報を漏らしたの!? 大叔父さんね!? あの酔っ払いオヤジ、また近所のスナックで自慢げに喋ったんだわ!」

 茉莉が足をバタつかせて喚く横でカウンターの中から美和がくすくすと鈴を転がすように笑った。

「ふふ、茉莉先生、いいではありませんか。それだけ先生の愛車が世界中の人々を魅了する本物だということですもの」

「美和さん……! でも一億よ!? 一億あったら平医院の屋根にドクターヘリのヘリポートが作れちゃうのよ!?」

「何を取り乱しているのよ、みっともない」

 カランと真鍮のドアベルを鳴らして入ってきたのは仕事を終えた志乃だった。

 コートを預けカウンターの席に腰を下ろした志乃は、美和が淀みなく差し出したクライヌリッシュのグラスを手に取ると隣で突っ伏している茉莉の頭を軽く小突いた。

「一億で車を売ってヘリポートを作ったところで肝心の副院長の魂が抜け殻になったら何の意味もないでしょうが」

「母さん……」

「あの22Bが夕暮れのガレージの横でカチリと音を立てて冷えていく姿。そしてあなたが目を輝かせて夜通しギヤ比や足回りの話をしている顔。……あれはね、一億円積まれたって買えない我が家の財産なのよ」

 志乃は琥珀の酒を喉へと流し込み満足そうに目を細めた。

「それにね……夕方にあの車の後ろをエボⅥで走ってみたけれど。あの特注ビルシュタインと当時物マフラー、本当にいい仕事をしてるわ。ロールの戻りが恐ろしく早いのに路面の凹凸をしなやかに舐めていく。……あれなら私のランエボの好敵手として申し分ないわ」

「……母さん」

 茉莉の眼鏡の奥がじんわりと熱く潤んだ。

「ふふん、当たり前じゃない! 私の相棒なんだから! 明日の早朝、もう一度音成峠で勝負よ! 今度はヘアピンの立ち上がりでちぎって見せるんだから!」

「言ってくれるじゃない。返り討ちにして明日の胃カメラを十四件に増やしてあげるわ」

「ひいぃっ、勘弁して!」

 カウンターに響き渡る母娘の快活な笑い声。

 ひとしきり笑い合ったあと茉莉がふと真面目な顔に戻りグラスのオリーブを見つめた。

「……でも母さん。本当にあのハイエナたち、もう来ないかしら。一億円なんて話が広まったら留守の間に盗難に遭うんじゃないかって……少し怖いわ」

 その呟きに志乃は冷徹かつ頼もしい笑みを浮かべて頷いた。

「心配いらないわ。明日、天野秘書官と話をつけてあなたの22Bと私のエボⅥ、それにお父さんのSVXは皇グループ風花支所の地下セキュリティガレージへ移管保管させる段取りを組んだわ。あそこの免震・空調シェルターならいかなる泥棒猫も手出しはできないわよ」

「えっ、支所のガレージに!? ……それなら安心だけど手元にないのはちょっと寂しいわね」

「週末には面会に行かせてあげるわよ。それに医院の前の駐車スペースも広くなって患者さんも車を停めやすくなるわ。日常の往診の足には手頃なマシンを用意しなさいな」

「手頃なマシンって……私のR1Sもスーパーチャージャー付きの4WDだから十分速いんだけどね」

 天がそっと美和と視線を合わせ穏やかに微笑み合う。

 店の外、路地の暗がりでは風花連山の澄みわたる夜風を浴びながら青き聖杯と真紅の猛獣が互いの存在を認め合うように静かに並んで翼を休めていた。

あとがき


今夜も『Bar風花』の止まり木へお立ち寄りいただき、本当にありがとうございます。

今回は、群馬の関口モータースから風花町へとやってきたインプレッサ22Bの「再生」と、平医院の母娘を巡る少し騒がしく、そして温かな夜のお話をお届けいたしました。

実走わずか七十二キロ、二十八年間大切に保管されてきた奇跡のタイムカプセル。

新車の輝きを保ちながらも、動かさずにいた歳月によって「関節」が石のように固まってしまう——その現実を、天ちゃんの工学知性と茉莉先生の解剖学的な視線でミリ単位で解きほぐしていく作業は、車好きとしても、ひとつの物語としても胸が熱くなる時間でした。

そして何より、シャシダイで叩き出された「車輪生値354馬力」という生きた証。

大黒PAの噂や、一億円の札束をちらつかせる海外ブローカーを前に、眉毛ひとつ動かさずに一刀両断した志乃さんの気迫には、書いている私自身も背筋が伸びる思いでした。

娘が血反吐を吐いて稼いだ金で買った車を、右から左へ流して札束に変えるような真似は死んでもさせない。

車を愛する者にとって、そして娘を想う母親にとって、数字の多寡など関係のない「絶対に譲れない魂」があるのだと、感じていただけたなら幸いです。

物語の締めくくりは、いつもの『Bar風花』。

美和さんが届けてくれた夜食の温もりや、カウンターで交わされるマティーニとクライヌリッシュ。

そして、風花支所の地下セキュリティガレージへと静かに収まっていく名車たちの姿に、風花町の夜の平穏を感じていただければこれ以上の喜びはありません。


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風花連山から吹き下ろす夜風が冷たくなる季節、どうぞ温かくしてお過ごしください。

また次の止まり木でお会いいたしましょう。

天照(Bar風花)

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