【Bar風花】第二章 山猫のグラスと冬の処方箋 〜鬼事務長は真夜中に母の顔を覗かせる〜
前書き
※ 本作は『Bar風花』および『一条山開墾記』のサイドストーリーです。
※ 平内科医院の絶対君主・平志乃事務長が、静まり返った真夜中に『Bar風花』の扉を開けます。
※ クライヌリッシュ14年の琥珀色、母としての深い慈愛、そして若き夫婦の秘めやかな夜のお話。
山から吹き下ろす初冬の冷気と、張り詰めた夜のしじま。
院内の見回りと月締めの書類仕事を終えた平医院の事務長が、コートの襟を立てて訪れたのは、路地の奥にぽつんと明かりを灯す止まり木でした。
山猫のウイスキーが静かにほどいていく、冷徹な事務長の奥に隠された母の情愛。
そして、大人の女性同士だからこそ交わされる、少しだけ熱を帯びた「極上の処方箋」。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:真夜中の訪問者と山猫のグラス
風花町の夜が午前二時を回る頃。
細い路地の奥から、規則正しいヒールの足音が静かに近づいてきた。
街灯の橙色が、初冬の夜露に濡れた古いレンガ壁を仄かに照らし出している。山から吹き下ろす冷涼な夜気が、張り詰めた空気をどこまでも澄みわたらせていた。
重厚なオーク材の扉が軋むこともなく押し開かれ、頭上の小さな真鍮ベルが、チリンと慎ましやかな余韻を響かせる。
「こんばんは、美和さん。こんな夜更けに、少しだけお邪魔してもいいかしら」
「いらっしゃいませ、志乃さん。どうぞ、奥の温かいお席へ」
純白のバーコートを隙なく纏った美和が、静かな湖面のような一礼で迎えた。
入ってきたのは平内科医院の事務長、平志乃。
院内の夜間見回りと月締めの書類整理をすべて終え、冷え込む夜道を息を白く染めながら歩いてきたのだ。
美和はカウンターの角から音もなく歩み出ると、志乃の肩から上質なウールコートを優しく預かり、壁際の木製ハンガーへと掛けた。
本革張りの黒いローチェアーに志乃が深く腰を下ろすと、昼間の事務服とともに纏っていた鋭い空気は静かにほどけ、コートの下から現れたチャコールグレーのタートルネックが、柔らかな大人の輪郭を描き出す。
美和が鉄刀木のカウンターの内側へと滑らかに戻ると、志乃は細い指先を組んで、ふうと吐息を零した。
「今夜は強いのを、ストレートでいただこうかしら。歩いてくる間に少し身体も冷えたし……頭の中にこびりついた数字を、綺麗に溶かしてしまいたいの」
「畏まりました。では、北ハイランドのクライヌリッシュ十四年をお出しいたしますね」
美和は戸棚から、優美なふくらみに繊細なカットが施されたアンティークグラスを取り出した。
バックバーから山猫の描かれたボトルを手にとると、メジャーカップなど介さず、滑らかな手首の傾きだけで琥珀色の一筋を淀みなく注ぎ落とす。
黄金の雫を静かに湛えたグラスを、美和は磨き抜かれた鉄刀木の木肌を滑るように志乃の正面へと差し出した。間髪を入れず、薄張りのクリスタルに満たした常温のチェイサーを、麻のコースターの上へとそっと添える。
蜜のような甘やかさと、野に咲く黄色い小花、そして奥底に潜む力強い潮風の気配が、ふわりと立ち上る。
志乃がグラスを掌でそっと包み込み、体温でひらいた芳香を確かめるように唇を湿らせた。
「……いいお酒ね。甘美なのに、喉の奥でしっかりと山猫が爪を立てるような芯の強さがあるわ」
「志乃さんの凛とした佇まいに、とてもよくお似合いでございますわ」
美和が穏やかに微笑むと、志乃の切れ長な瞳に柔らかな光が灯った。
第二章:群馬の土産話と白衣の娘
グラスのウイスキーをゆっくりと口に含み、心地よいアルコールの温もりで喉を温めた志乃が、ふと思い出したように顔を上げた。
「美和さん、群馬への長旅、お疲れ様でしたね。あの子に無理やり連れ出されて、大変だったでしょう」
「いいえ、とても楽しかったですわ。天ちゃんの運転するお車はまったく揺れませんでしたし、伊香保の温泉も水沢のおうどんも、本当に素晴らしくて」
美和が愛おしそうに二色の瞳をふわりと和らげると、志乃はグラスを軽く傾けながら、小さく苦笑を漏らした。
「あの子ったら、欲しいものを見つけると周りが見えなくなる質だから。天さんと美和さんが一緒に行ってくださらなければ、興奮のあまり途中で血管を切って倒れていたかもしれないわ。……ちゃんと、あの子はお礼を言っていたかしら」
「勿論でございます。『お二人のおかげで長年の夢が叶った』と、何度も深々とお礼を仰ってくださいましたわ。道中も私の身体をずっと気遣ってくださり、本当に頼もしい主治医の先生でいらっしゃいましたわ」
「頼もしい、ねぇ……」
志乃はグラスをカウンターへ静かに置き、美和の顔をじっと見つめた。
その眼差しは、病院の経営を司る冷徹な事務長のものではない。幾多の修羅場をくぐり抜け、不器用な娘を育て上げてきた母親の、深く温かな光を帯びていた。
「あの子は消化器内科医としては一流よ。でもね、人間の身体っていうのはカルテの検査数値だけで動いているわけじゃないの。特に女の身体は、心の奥の温度や、誰かに抱きしめられた時のぬくもりで、血の巡りもホルモンのバランスも劇的に変わるものなのよ」
「志乃さん……?」
美和が小首をかしげると、志乃はカウンター越しに少しだけ身を乗り出し、悪戯っぽく声を潜めた。
「茉莉のやつ、漢方の薬膳茶を出して得意気になっていたでしょう。でもね、一番肝心なことには気が回らないのよ。……美和さん、夜の夫婦生活の方は、ちゃんと満たされている?」
第三章:毎晩の体温と極上の処方箋
手元で静かにリネンを滑らせていた美和の指先がふっと止まり、透き通るような白磁の肌が一瞬で林檎のように赤く染まった。
「えっ……! あ、あの、志乃さん、それは……」
磨いていたグラスとリネンを慌ててカウンター内の清潔なリネントレイへと置き、美和は両手で真っ赤になった頬を覆ってうつむいてしまう。
指先まで熱を帯びて激しく動揺する美和を見て、志乃は母のような優しい笑みを浮かべ、穏やかに言葉を重ねた。
「恥ずかしがることはないわ。天さんは自衛官上がりで真面目すぎるし、美和さんも奥ゆかしいから、お互いに遠慮して溜め込んでいないか心配だったのよ。夫婦が肌を重ねて愛し合うことはね、どんな高価な漢方薬よりも血行を良くする、自然が授けてくれた最高の処方箋なの」
「あ、あの……志乃さん」
美和の指の隙間から、困惑と羞恥に震える蚊の鳴くような声がこぼれ落ちる。
「……その、天ちゃんとは……毎晩、とても仲睦まじく……寄り添っておりますの」
「……え?」
今度は志乃が、切れ長な目を丸くした。
「毎晩?」
「は、はい……。天ちゃんは、夜も……優しく肌を重ねてくださって……私が少しでも寒そうにしていたり、不安そうにしていると、朝まで片時も離さずに抱きしめてくださいますの。……とても大切に、愛してくださっています……」
指の隙間から覗く美和の双眸――ワインレッドとアンバーの光を湛えたその瞳は、羞恥に潤みながらも、溢れんばかりの幸福な熱を宿していた。
志乃は一瞬虚を突かれたように目を見張り、それから堪えきれずに、ふふっと肩を揺らして笑った。
「まあ! 天さんったら、昼間はあんなに澄ました顔をしているのに、夜はそんなに情熱的なのね。見かけによらないわ、本当に隅に置けないじゃない」
「もう、志乃さん……! 恥ずかしすぎますわ……!」
美和がカウンターに顔を伏せて身を小さく縮めると、志乃は嬉しそうに目を細めた。
カウンター越しにそっと手を伸ばし、天板の上に伏せられた美和の細い手を、包み込むように優しく撫でる。
「いいことよ、美和さん。それだけ愛されていれば、どんな冷え症だって逃げ出していくわ。天さんという人は、本当に美和さんの心と身体のすべてを預かる覚悟を持っているのね。……安心したわ」
「志乃さん……ありがとうございます。実の母のようにそう言っていただけると、本当に心強いですわ……」
美和が恐る恐る顔を上げ、涙の滲んだ目元を綻ばせてはにかんだ。
第四章:六連星の手綱と母の背中
ようやく熱を帯びた頬を落ち着かせた美和が、ふうと細く息を吐いて姿勢を正した。
「それにしても……茉莉先生、志乃さんにお車の購入が知られたら、口座を凍結されて最新の内視鏡システムに化けてしまうと、ずっと怯えていらっしゃいましたのよ」
「あはははっ!」
志乃は小さく膝を叩き、喉を鳴らして快活な笑い声を響かせた。
「使うわけないじゃない、あの子の貯金なんて! 誰の働きのおかげで平医院のキャッシュフローが潤っていると思ってるのよ」
「まあ……そうでしたの?」
「当然よ。あの子が大学病院時代からどれだけ過酷な当直を耐え抜いて、夜中に脂汗を流しながら緊急内視鏡を握り続けてあの通帳を作ったか、母親の私が一番よく知っているわ。娘が血反吐を吐いて稼いだ大切なお金を、いくら親だからって巻き上げるような真似、死んでもするもんですか」
志乃は手の中で空になったグラスの縁を指先でそっとなぞり、満足そうに遠くへ視線を遊ばせた。
「でもね、あそこまで脅して釘を刺しておかないと、あの二人は際限がないのよ」
「研造先生と、茉莉先生ですか?」
「そうよ。うちのバカ二人を野放しにしてみなさい。平医院の敷地を丸ごと舗装し直してスバルのテストコースにしちゃうわよ。お父さんは往診そっちのけでスバル360ヤングSSのキャブ掃除を始めるし、茉莉は給料のすべてをSTIのダンボールに変えてしまう。誰かが冷徹な悪役になって手綱を握ってなきゃ、家が傾くわ」
志乃は肩をすくめ、呆れたような、けれどこの上なく誇らしげな微笑みを浮かべた。
「あのスバルとランエボの小競り合いも、タミヤとハセガワの模型論争もね、あれが我が家のコミュニケーションなのよ。大声を張り上げて喧嘩している間は、二人とも余計なストレスを溜めないし、大きな病気もしない。男も女も、夢中になれるオモチャや鉄の塊があるうちは幸せなのよ」
「ふふ。茉莉先生にとっても研造先生にとっても、本当に素敵なお母様ですわね」
美和が心からの敬意を込めて目を細めると、志乃は照れ隠しにふっと視線をそらし、手元を整えた。
「さあ、そろそろ歩いて帰らないとね。夜風に当たって、心地よく眠れそうだわ」
志乃はバッグからスマートな革財布を取り出し、紙幣をカウンターのキャッシュトレイへ滑らかに置いた。
「お釣りはいらないわ。今夜の極上のお代よ」
「恐れ入ります。温かいお心遣い、ありがたく頂戴いたしますね」
美和はトレイに手を添えて静かに一礼すると、カウンターを出て、ハンガーから取ったウールコートをそっと広げ、志乃の背後へと滑らかに掲げた。
差し伸べられた袖へと滑るように腕を通し、襟元をすっきりと正すと、志乃は満足そうに微笑んだ。
「美和さん、今夜は話し相手になってくれてありがとう。とても美味しかったわ」
「お粗末様でございました。いつでも、羽を休めにいらしてくださいね」
美和は扉の脇へそっと寄り添い、重厚なオーク材の扉を静かに押し開けた。
冷涼な夜気が足元へ滑り込む中、敷居を跨ごうとした志乃がふと足を止め、振り返って山猫のような妖艶な笑みを浮かべた。
「天さんにも伝えておいて。茉莉の車のこと、裏で色々と動いてくれて感謝してるってね。……支所のガレージに預けさせたとはいえ、あの子のことだから隙を見てあの青い車で往診に繰り出しかねないわ。もしその気なら、マフラーの音が保安基準に適合しているからと安心せずに、せめて患者さんの安眠を邪魔しない音量まで落とすように、ってね」
「ふふ……はい。しっかりと申し伝えておきますわ」
真鍮のドアベルがチリンと澄んだ音を立て、夜の冷気の中へ志乃の凛とした後ろ姿が溶けていく。
遠ざかる足音が静寂へと吸い込まれ、風花町に深い静けさが戻ってきた。
静かに扉を閉め、鍵を掛けた美和は、カウンターの内側へと戻って鉄刀木の一枚板を慈しむように撫でた。
空になったグラスの底には、微かにクライヌリッシュの甘い蜜の余韻が残り、家族を底知れぬ愛で包み込む母の温もりが、店内に灯る優しい橙色の光となって静かに息づいていた。
あとがき
今夜も『Bar風花』の止まり木へお立ち寄りいただき、誠にありがとうございます。
今回は、平内科医院の最高権力者にして、スリーダイヤの女帝・平志乃さんの真夜中の独白をお届けいたしました。
普段は研造先生や茉莉先生、そしてスタッフたちを容赦のない正論と鉄壁の手綱で締め上げている志乃さんですが、その鋭い眼差しの裏には、過酷な医療現場で身を削る娘への誇りと、どこまでも深い母の愛が息づいています。
娘が血反吐を吐いて稼いだお金を巻き上げる親なんていない——そんな彼女の潔い横顔に、母親としてのひとつの到達点を感じていただけたなら幸いです。
そして、志乃さんの直球すぎる問いかけに、林檎のように真っ赤になりながら「毎晩」を明かしてくれた美和さんのいじらしさ。
昼間は澄ました顔をしている天ちゃんの、夜の情熱と深い覚悟にも、志乃さんならずとも思わず頬が緩んでしまいます。
大人の女性二人が、一杯のモルトを挟んで心を通わせる静かな夜の温もりが、皆さまの胸にじんわりと届けば嬉しく思います。
もし今夜のお話を少しでも気に入っていただけましたら、画面下のブックマークへの追加や、評価(★★★★★やポイント)、温かいご感想などをいただけますと、これからの執筆の大きな励みになります。
冬の足音が近づく季節、どうぞ温かな一杯をお手元に。
また次の夜の止まり木でお会いいたしましょう。
天照(Bar風花)




