【Bar風花 外伝】青い聖杯を求めて④ 初冬の榛名湖と帰路の蒼穹 〜六連星の聖地巡礼、女医は真鍮のキーを抱いて日常へ帰還する〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花 -kazahana-』本編から連なる、群馬遠征の後日譚にして聖地巡礼の一幕です。
※ 航空機工学から模型ホビー、温泉医学まで多岐にわたりますが、予備知識なしでそのままお楽しみいただけます。
※ 伊香保の湯けむりと水沢の純白のうどん、そして茜色に染まる帰路の静寂と共にお届けします。
赤褐色に濁る名湯に身を浸し、手にした真鍮の鍵の重みに心を震わせた夜が明けて。
三人を乗せた蒼きミニバンは、榛名の山並みを越え、日本のモビリティの心臓部たる太田の街へと滑り込みます。
中島飛行機から連綿と受け継がれてきた、命を運ぶための「鉄の祈り」。
けれど、旅の終着点であるスバルの本丸で待ち受けていたのは、現役技術者たちを戦慄させる元自衛官の静かな愛の狂気でした。
お土産の最中と懐に忍ばせた極秘の小箱を抱きしめて、三人は夕暮れの蒼穹の下、温かな日常へと針路を取ります。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:黄金の湯と真鍮の鍵
伊香保の夜は、初冬の澄んだ冷気とともに音もなく更けていった。
関口モータースの親父さんが手配してくれた老舗旅館は、石段街の喧騒から少し離れた山懐にひっそりと佇んでいる。
敷地奥にある厚い鉄骨造りのガレージでは、埃を払われて濡れたような光沢を取り戻した青い二台――インプレッサ22BとエクシーガGTが、並んで静かに羽根を休めていた。
宿の離れにある総檜造りの湯船には、伊香保独特の「黄金の湯」が滔々と注ぎ込まれている。
湧出直後は無色透明の湯が、豊富な鉄分によって空気に触れ、鮮やかな赤褐色へと濁る。肌にまとわりつくように柔らかく、湯底からは大地の熱気が絶え間なく立ち上っていた。
湯上がりの広間。
藍色の浴衣に袖を通した美和が、火照った頬に両手を添え、ふうと心地よさそうに息を吐いた。濡れた黒髪の先から立ち上る微かな湯気とともに、百合に似た甘やかな神気がふわりと漂う。
「……極楽ですわね。体の芯まで、まるで春の日差しが染み通っていくようです」
「硫酸塩・炭酸水素塩・塩化物泉。豊富な鉄分とカルシウムを含んだ、教科書通りの温活の名湯ね。末梢の毛細血管が綺麗に拡張して、美和さんの指先の血色がとてもいいわ。……天さん、美和さんの体温、平熱から何度上がってる?」
冷たい麦茶のグラスを片手にプロの目で観察する茉莉へ、部屋の隅に座る天が保温ポットから木製の湯呑みへ白湯を注ぎながら応えた。すでに浴衣の帯をぴっちりと結び直し、湯上がりとは思えないほど隙のない姿勢である。
「入浴前が三十六度四分、現在が三十六度八分です。発汗による脱水を防ぐため、カリウムとマグネシウムを補給できる温泉水を取り寄せてあります」
「……あなた、旅先までマイ温湿度計とバイタル測定キットを持ち歩くの、本当にやめなさいよ。ルポライターっていうより、完全に野戦病院の当直衛生兵じゃない」
「妻の体調管理は、兵站の最優先事項ですから」
平然と言ってのける天の横で、美和がくすくすと喉を鳴らす。
「ふふ、でも天ちゃんのおかげで、冷え症だった私の足先もぽかぽかですわ。……それより茉莉先生、さっきからその手元のものが気になって仕方がありませんの」
美和の視線の先――座卓の上、芳ばしい湯気を立てる上州牛の陶板焼きのすぐ脇に、重厚な真鍮のキーホルダーが鎮座していた。六連星が誇らしげに刻まれた、22Bの純正マスターキーである。
茉莉はグラスを置き、壊れ物を扱うようにそっと指先でキーの輪郭をなぞった。
「……嘘みたい。本当に、私のものになったのよね。あの子の車検証の所有者欄に、私の名前が印刷されるのよね」
「ええ。手付金も陸送の契約も、すべて先ほど関口さんのところで完了しました。週明けには、風花町の平医院へ届きますよ」
「……どうしよう、天さん。明日の朝起きたら、全部夢だったりしないかしら。私、本当は当直室の硬いベッドの上で、タミヤのカタログ抱きしめて寝言言ってるだけなんじゃないの?」
「だとしたら、今ここで焼けている上州牛の匂いも、群馬の銘酒『水芭蕉』の純米大吟醸の味も、すべて先生の脳が見せている幻覚ということになりますね」
天が冷酒の徳利を傾け、茉莉の猪口へ澄んだ酒を満たす。
瑞々しい果実香とキレのある地酒を一口含んだ茉莉は、蕩けるような表情で天井を仰いだ。
「幻覚上等よ……! こんなに幸福な夜があるなら、明日から一年分、当直を全部代わったって惜しくないわ……!」
「あらあら、茉莉先生たら。そんなに当直ばかりなさったら、風花町に帰った時にお母様に怒られてしまいますわよ」
美和が楽しそうに目を細め、上州牛の一片を上品に口へと運ぶ。
硫黄と鉄の匂い、甘辛いタレの香ばしい匂い、そして遠くから届く榛名の山鳴りが、三人の夜を静かに包み込んでいった。
第二章:榛名越えと水澤の麺肌
翌朝。上州の空は、雲一つない初冬の青空に恵まれていた。
22Bは旅館の頑丈なガレージにそのまま預かってもらい、午後に関口モータースが手配した積載車が引き取りに来る手はずになっている。
本日の観光の足は、櫻庭家の蒼き守護者――エクシーガGTだ。
「さあ、出発しましょうか。まずは榛名山を越えます」
天が運転席でスターターボタンを押すと、冷間始動のボクサーエンジンが乾いた重低音を一瞬だけ轟かせ、すぐに整然とした静粛なアイドリングへと落ち着いた。
宿を出たエクシーガは、湯煙の立ち上る温泉街を抜け、榛名山へと続くワインディングロード――上毛三山パノラマ街道へと駆け上がっていく。
連続する急勾配のヘアピンカーブ。
背の高いミニバンであれば車体が大きく傾き、同乗者が青ざめるようなタイトコーナーである。
だが、このエクシーガの挙動は異次元だった。
「……っ、何これ」
茉莉が思わずドアグリップを握りしめ、すぐに脱力した。
体が左右に振られない。
オーリンズの『黄金の足』が路面の内側の段差をしなやかに踏み潰し、外側のサスペンションが粘り強く踏ん張る。ロール角は最小限に抑えられ、まるで地面に敷かれた見えないレールの上を滑っているかのように、水平を保ったままコーナーをクリアしていく。
「すごいわね……。四輪の接地感が、シートの座面を通じて背骨にダイレクトに伝わってくる。でも、胃が浮くような嫌な横Gは綺麗に消去されてる……」
「フロントのSTIアンダースポイラーと、リアの特注ルーフスポイラーが効いているんです」
天はステアリングをミリ単位で滑らかに操作しながら、前方を鋭く見据えて解説する。
「下からの突き上げはオーリンズのDFVがいなし、上からの空気の流れは整流板が整える。機械が仕事をしていれば、人間の身体に無駄な負担を強いることはありません」
つづら折りの坂を登り切ると、突如として視界が開けた。
榛名山のカルデラ湖――榛名湖である。
鏡のように澄み切った青い水面に、端正な円錐形をした『榛名富士』がくっきりと逆さに映り込んでいた。湖畔の駐車場に車を停めると、三人は冷涼な外気の中へ出た。
「……綺麗……」
美和がトレンチコートの襟元に手を添え、ふうと白い息を吐きながら湖面を見つめた。
風が渡るたび、水面に細かな銀の波が立ち、湖畔の木々が擦れ合う音が響く。
「神話の山ですわね、ここも。古い神様が山を形作って遊ばれた名残のような……澄んだ気配がいたします」
「ええ。榛名神社は、火と土の神を祀る古い霊場ですからね」
天が愛用のライカのファインダーを覗き、湖畔に立つ美和の横顔を静かにシャッターに収める。逆光に透ける美和の髪が、朝の光を浴びて淡い金色に輝いていた。
榛名山を伊香保側へと下り、向かったのは水澤観世音の門前に広がるうどん街道だった。
立ち並ぶ白壁の老舗の中から、天が選んだのは創業数百年を誇る名店である。
ざるの上に、艶やかに光る純白の麺が、まるで折り畳まれた反物のように美しく盛られている。
その脇には、赤ちゃんの頭ほどもある巨大な上州産舞茸の天ぷらが二山、カラリと揚がって湯気を立てていた。
「まあ……! なんて綺麗なうどんでしょう」
美和が箸で一本手繰り、まずは何もつけずに口へと運ぶ。
ちゅるり、と涼やかな音を立てて唇を滑り落ちた麺を噛み締めた瞬間、美和の異色瞳が驚きに見開かれた。
「……すごい弾力ですわ。つるつるとしているのに、噛むと押し返すような力強いコシがあって……小麦の甘い香りが、鼻から抜けていきます」
「水沢の水は、榛名山麓の水澤観音の霊水と同じ水脈ですからね。ミネラル分が絶妙で、小麦のグルテンを引き締めるんです」
天が胡麻ダレに薬味の生姜とネギを落としながら解説する。
茉莉も一口啜り、その食感に目を見張った。
「表面の粗さが皆無よ。タミヤの金型で成型したテフロンパーツみたいに滑らかなのに、中心部に完璧なダンパーが仕込まれてるような粘り腰……。このコシは熟成の温度管理が完璧に計算されてるわ」
「茉莉先生、うどんをプラスチック製品に例えるのはおやめなさい」
天が苦笑しながら、揚げたての舞茸の天ぷらを美和の取り皿へ乗せる。
サクッ、と小気味の良い音が座敷に響き、美和の顔が幸せそうにほころんだ。
第三章:群馬製作所と星雲の遺伝子
水沢うどんで腹を満たし、初冬の柔らかな日差しを浴びながら、エクシーガGTは一路、太田の市街地へと向かっていた。
車窓の外には、群馬の乾いたからっ風に揺れる木々と、どこまでも平坦に広がる関東平野の青空。
だが、太田市内へ近づくにつれ、並走するトラックの荷台に積まれたプレス鋼板や、すれ違う営業車のバンパーに輝く『六連星』のエンブレムが、この街が日本のモビリティ産業の巨大な心臓部であることを無言で物語っていた。
「……天さん。さっき電話で話してた相手って、誰なの?」
後部座席でスパルコの背もたれに深く身を預けていた茉莉が、身を乗り出すように尋ねた。
天はバックミラー越しに茉莉を一瞥し、ハンドルをわずかに切る。
「関口モータースの親父さんが気を利かせてくれましてね。『せっかく九州から22Bを迎えに来たんだ。太田の土を踏んだんなら、親玉の顔も拝んでいけ』と、本社の旧知の人間へ一本連絡を入れてくれたんです。……SUBARUの群馬製作所、ビジターセンターの見学ラインへ立ち寄ります」
「……は!?」
茉莉のチタンフレームの眼鏡が、ツルリと鼻先へズレ落ちた。
「ちょ、ちょっと待って! スバルの工場見学って、一般予約は数ヶ月先まで埋まってるはずじゃ……!」
「親父さんの弟弟子筋にあたる方が、広報および車両実験部門のOBでしてね。自動車専門誌の取材枠という名目で、技術者向けの特別ルートを案内していただけることになりました。……スバリストとして、この聖地の息吹に触れておくのは無駄ではないでしょう」
「天さん……あなた、本当にただのルポライターなの? コネクションが防衛省か公安警察のそれじゃないのよ……」
茉莉が呆然と胸を押さえる横で、助手席の美和が嬉しそうに目を細めた。
「まあ、ものづくりの工場ですのね。天ちゃんが大切にしているお車が、どんなところで生まれたのか……私もぜひ拝見してみたいですわ」
案内されたのは、広大な敷地を誇る群馬製作所本工場の一角、歴史的な名車や航空宇宙部門の遺産を保存・展示する『スバルビジターセンター』だった。
関係者専用の駐車場へエクシーガを滑り込ませると、エントランスから作業用ツナギの上にウインドブレーカーを羽織った初老の男性が歩み出てきた。
「ようこそ、遠路はるばる。関口の親父さんから話は聞いてるよ。九州の風花町から、あの大馬鹿野郎の22Bを引き取りに来てくれたっていう、奇特な先生だな?」
気さくな笑顔で迎えてくれたのは、元車両実験部のベテラン技術者、新井だった。
「初めまして、平茉莉です。……本当に、急な押しかけをお許しいただきありがとうございます」
茉莉が医師としての居住まいを正して一礼すると、新井は豪快に笑った。
「いいってことよ。22Bを海外の投機屋じゃなく、現役の町医者が乗り継いでくれるって聞いて、うちのOB連中も胸を撫で下ろしてるんだ。……さあ、埃っぽい歴史の部屋だが、ゆっくり見ていってくれ」
重厚なガラス扉をくぐり、展示ホールへと足を踏み入れた瞬間、茉莉は息を呑んだ。
高い吹き抜けのホールの中央。
光を浴びて静かに翼を広げていたのは、中島飛行機が開発した名エンジンたちのカットモデルだった。
『栄』空冷複列十四気筒、『誉』二千馬力級発動機。
極限まで肉抜きされたアルミ合金のシリンダーヘッド、狂気じみた精度で刻まれた冷却フィン。空気を切り裂くためだけに削り出された機能美の塊。
「……綺麗……」
茉莉は吸い寄せられるように展示台へ歩み寄った。
「パテ埋めや誤魔化しが一切ない……。戦時中の過酷な資材不足の中で、これだけの摺動面を平滑に仕上げるなんて……。父がハセガワの1/48『隼』のリベットを一個ずつルーペで打っていた理由が、今になって分かった気がするわ……」
「お嬢さん、いい目の付け所だ」
新井が目を細め、誇らしげに語る。
「スバルの航空機部門の人間は、今でもボルト一本の締め付けトルクに命を預けてる。その思想が、戦後の四輪車……あの『てんとう虫』へと注ぎ込まれたんだ」
新井が指差した先には、丸みを帯びた愛らしい白い車体が鎮座していた。
一九五八年製、初期型スバル360。
「……あの子だわ」
茉莉はしゃがみ込み、ボディの継ぎ目を丹念に見つめた。
「父が今でも大切に乗っている、うちのスバル360……。卵の殻と同じフルモノコック構造。鉄板の厚みはわずかコンマ数ミリなのに、リブを立てて強度を出してる。……これ、人間の頭蓋骨の構造とまったく同じよ。薄くて軽い骨が、外圧を分散して脳を守るように、乗員を守るために設計されてる……」
「医学的な視点から360を褒めてくれた客は、あんたが初めてだよ」
新井が感服したように声を立てて笑った。
その横で、美和は展示された歴代のレガシィや、WRCを駆け抜けたインプレッサの前に静かに佇んでいた。
泥と傷の跡を誇らしげに残した青いラリーカー。美和はアンバーとワインレッドの瞳を細め、そっとガラス越しに車体に寄り添うように微笑む。
「人の祈りが、ここには満ちていますわね」
「え?」
新井が振り返る。美和は夜の桜のような穏やかな声で、静かに言葉を紡いだ。
「速く走るためだけではなく……どんな荒れた道でも、どんな吹雪の夜でも、乗っている人を無事に家へ帰すための祈り。鍛冶師が刀を打つ時と同じ、無垢でひたむきな魂が、この鉄の隅々にまで宿っていますわ」
新井は一瞬、美和の放つ得も言われぬ神聖な気品に圧倒されたように言葉を失い、それから深く、深く頷いた。
「……ああ。奥さんの言う通りだ。うちの車は、格好をつけるための道具じゃない。『命を運ぶための技術』なんだよ」
歴代の情熱を肌で感じ、胸を熱くした茉莉は、展示室を出る頃には完全にスバルへの敬意を極限まで高めていた。
「来てよかった……本当に来てよかったわ、天さん。私、22Bだけじゃなくて、今乗ってるレヴォーグも、往診のR1Sも、今まで以上に愛せる気がする……」
「それは重畳です。では、新井さんにお礼を申し上げて、スバリストにとってのもう一つの聖地へ向かいましょうか」
第四章:群馬製作所駐車場、包囲網
三人が満足感に包まれながら、初冬のからっ風が吹き抜ける関係者用駐車場へと戻ってきた時だった。
「……ん?」
天が眉をひそめ、足を止めた。
駐車場の一角。
天が停めていたはずのエクシーガGTの周囲に、異様な人だかりができていたのだ。
青い作業着を着たスバルの現役社員たち。胸元のIDカードには「車両研究実験部」「シャシー設計部」「STIモータースポーツ」といった、スバルの屋台骨を支える開発中枢の肩書がズラリと並んでいる。
総勢十数人の技術者たちが、地面に這いつくばったり、タイヤハウスの隙間に顔を突っ込んだり、フロントグリルを舐めるように覗き込んだりしながら、騒然とした声で議論を交わしていた。
「おい、ちょっと待て! このアンダーフロアのブレースバー、純正の品番じゃねえぞ!」
「なんだこの溶接ビードの細かさは……!? 航空宇宙部門のTIG溶接か!?」
「バネ下見ろ! CE28N plusの特注マットゴールドに、ゴールドブレンボの4ポットがミリ単位のクリアランスで収まってる……! しかもダンパー、これオーリンズの特注DFVだろ!? 減衰ダイヤルのクリック感が明らかに一般品と違うぞ!」
「おい、中を見てみろ! ドアガラス越しに見えるシート……嘘だろ!?」
集団のざわめきが、悲鳴に近いものへと変わっていく。
「あ、あの……皆様?」
茉莉がおずおずと声をかけると、技術者たちが一斉にバッと振り返った。その目は全員、血走った狂気と興奮に染まっている。
「あんたたちか、このエクシーガのオーナーは!?」
先頭にいた三十代半ばのシャシー設計担当者が、鼻息を荒くして詰め寄ってきた。
「なんなんだこの車は! 外装はソニックブルーにSTIのエアロを上品に組んだ『大人のスリーパーワゴン』だと思って近づいたら……中身が完全に狂ってるぞ!!」
「狂っているとは、人聞きが悪いですね」
天が静かに前に出て、いつもの無表情で眼鏡を直した。
「家族を安全に、かつ快適に運ぶための、極めて論理的な実用改修ですが」
「実用改修なわけあるかァッ!!」
別の実験部員が頭を抱えて叫んだ。
「実用で誰がミニバンの二列目と三列目を全席SPARCOのセミバケにするんだよ! しかも二列目をキャプテンにしてウォークスルーを通し、あえての六人乗りに再構築してる! 三列目のフロアパンなんて、うちの設計陣がコストと重量の兼ね合いで泣く泣く妥協した『リアの微小なヨレ』を、ワンオフの極太サブフレームでピンポイントに潰してあるじゃないか! 剛性計算、誰がやったんだこれ!?」
「僕がCADで応力解析を行い、地元の豊田モータースの旋盤と溶接機をお借りして施工しました」
天が淡々と答えると、技術者たちが一斉に「ヒッ……!」と息を呑んだ。
「CADで応力解析……!? 一個人が自宅でやるレベルの作業じゃないぞ……!」
「フロントスポイラーの下面を見ろ! 擦り傷防止のスキッドプレートがジュラルミンで貼ってあるが、気流の巻き込みを防ぐディフューザー形状に削り出し加工されてる……!」
「吸排気も完璧だ、ガナドールの消音容量を殺さずに、等長エキマニの等長誤差をコンマ一ミリ以下に揃えてやがる……! アイドリングは静寂そのものなのに、踏み込んだ瞬間に過給圧がリニアに立ち上がるセッティングだ!」
実験部の連中が、もはや呆れ果てて天を化け物を見るような目で見つめている。
案内役の新井が額に手を当て、深く、長いため息をついた。
「……櫻庭さんよ。あんた、ルポライターってのは世を忍ぶ仮の姿で、どっかのワークスチームのチーフメカニックか何かかい? うちの現役連中が、寄ってたかって手前どもの車を前に白旗上げてどうすんだよ」
「いえ、ただの物書きですよ」
天は至極真面目な顔で、助手席のドアノブに手をかけた。
「妻は体が冷えやすく、路面からの不快な突き上げや横Gによる車酔いは、健康管理上、断固として排除しなければなりません。同乗者の頸椎と腰椎を等しく保護し、いかなる天候、いかなる路面状況であっても、ミリ単位の狂いもなくブレーキを効かせて停止する。……スバルの基本理念である『0次安全』を、一人の夫として極限まで突き詰めた結果に過ぎません」
沈黙が、駐車場を支配した。
スバルの開発陣十数人が、天の言葉を聞いてポカンと口を開けている。
「妻の健康管理のために、ミニバンをGT3マシン並みに補強した」という、あまりにも純粋で、あまりにも重度な愛の狂気。
「……すげえや」
設計のチーフが、魂を抜かれたように呟いた。
「うちのトップ役員を連れてきて、この車に乗せるべきだ。『これが、ユーザーが命懸けで求めてる真のスバル車だ』ってな……」
「呆れてるんじゃないわよ、技術者が全員納得しちゃってるじゃないの!!」
耐えかねた茉莉が、天の腕を掴んで激しく揺さぶった。
「天さん!! あなた、スバルの本丸で何やってるのよ!? 現役の開発陣が白昼堂々、駐車場で集団土下座しそうな空気になってるじゃない! 恥ずかしいから早く車出しなさい!」
「ふふ、あはははっ!」
美和がトレンチコートの裾を揺らし、とうとう堪えきれずに鈴を転がすような声で笑い転げた。
「まあまあ、皆様。天ちゃんの手仕事をそんなに熱心に褒めてくださって、ありがとうございます。でもこの人、こう見えてとても照れ屋ですのよ」
美和が上品に会釈をして助手席のスパルコシートへ滑り込むと、開発陣の男たちはその神々しいまでの美しさに息を呑み、モーセの十戒のようにサッと左右へ道をあけた。
「……失礼します。新井さん、素晴らしい展示をありがとうございました」
天が運転席へ乗り込み、静かにプッシュスタートボタンを押す。
キュル、ドォン……!
極限までバランス取りされた水平対向四気筒ターボが、地響きのような、しかし一切の雑味を含まない純粋なハミングを太田の空へ響かせた。
カチリとシフトを入れ、エクシーガが滑るように駐車場を離れていく。
見送るスバルの技術者たちは、全員が直立不動のまま、テールゲートに貼られた『櫻庭FACTORY 金ステッカーNo.04』が遠ざかるのを、畏怖の眼差しで見送り続けていた。
第五章:御菓子司 伊勢屋と極秘の兵站
「……もう、天さんって人は……」
二列目のシートに倒れ込んだ茉莉が、額を押さえて呻く。
「群馬に来てまで伝説を残さないでちょうだい……。でも、悔しいけど誇らしかったわ。スバルの連中をあそこまで黙らせる車、世界中探したってあなたにしか作れないもの」
「美和さんを守るための車ですから」
天は何でもないことのようにバックミラーの角度を直し、エクシーガを古い宿場町の面影を残す通りへと滑り込ませた。
目指す店の前に車を停める。
暖簾に染め抜かれた屋号は、『御菓子司 伊勢屋』。
「……天さん、ここって」
「太田に来て、ここへ寄らないスバリストはいません」
天が誇らしげに車を降り、店の引き戸を開けた。
店内に入った瞬間、茉莉はまたしても息を呑んだ。
ガラスのショーケースの中に、整然と並んでいたのは――茶褐色の、見慣れたシルエットの最中だった。
「……スバル360最中……!?」
「ええ。初代スバル360の図面を元に、木型から忠実に起こされた伝統の最中です。中にはぎっしりと粒あんと求肥が入っています。それから、あちらの『六連星サブレ』も外せません」
茉莉はショーケースに顔を擦り付けんばかりに見つめ、それからハッと我に返って青ざめた。
「……待って。お父さんにはこのスバル360最中を一箱買っていけば、泣いて喜ぶわ。間違いなく仏壇に供えた後、虫眼鏡でディテールを眺めながら食べるはずよ。……でも、問題は母よ」
茉莉が頭を抱え、店先でうずくまりそうになる。
「母に22Bのことがバレたら、冗談抜きで『平医院の経理監査』が入るのよ!? 『あんた、五百万もあれば、最新の自動血球計数装置と経鼻内視鏡が何台導入できたと思ってるの?』って、あの冷たい目で射殺されるわ! 最中くらいで誤魔化せるタマじゃないのよ、うちの事務長は……!」
美和が困ったように眉を八の字にする。
「まあ……お母様、確かにとてもしっかりされた方ですものね」
その時、天がトレンチコートの内ポケットから、油紙に包まれた小さな細長い小箱を、すっと茉莉の目の前に差し出した。
「……え? 何よこれ」
「関口モータースの親父さんから、帰り際に預かってきたんです。『事務長が怖いなら、これを持っていけ』と」
茉莉が恐る恐る油紙を解く。
中から出てきたのは、色褪せたブリスターパックに入った、真鍮と特殊樹脂でできた極小のギヤセットだった。
ラベルには、かすれたフォントでこう印刷されていた。
『東京マルイ 1/10 4WD ザ・サムライ用 オプション・ハイスピードカウンターギヤ(一九八六年製・未開封デッドストック)』
「………………ッ!!」
茉莉の口から、今度こそ完全に言葉が消失した。
目を見開き、震える手でそのパッケージを天からひったくるように受け取る。
「な……ななな……何でこんなものが関口モータースの倉庫に転がってるのよォォッ!?」
「関口さんの息子さんが、昔少しだけRCにハマっていた時期があったそうでしてね。工場の棚の奥で眠っていたそうです。……これで、平サーキットにおける事務長のサムライは、コーナーの立ち上がり加速がさらにコンマ二秒縮まりますよ」
茉莉はパッケージを胸に抱きしめ、天を拝むように見上げた。
「天さん……あなた、本当に神の子ね……! これさえあれば、母はコルトの鍵を回すのも忘れて、夜中にルーペ片手にギヤボックスをバラし始めるわ! 私の22Bの納車なんて、目にも入らなくなるはずよ……!」
「ふふっ、あはははっ!」
美和が店先で、とうとう我慢しきれずに声を立てて笑い転げた。
「まあまあ! お母様のお弱みまで完璧に把握していらっしゃるなんて、天ちゃんの情報網は本当に恐ろしいですわね!」
「いえ……地域医療の平和と、茉莉先生の家庭内安全保障を守るための、必要最小限の自衛的措置です」
天が澄ました顔で店員に「スバル360最中を五箱、それと六連星サブレを三箱ください」と注文する横で、茉莉は安堵のあまり、ショーケースの角に額を押し当ててへたり込んでいた。
第六章:帰路の蒼穹
夕暮れ時。
太田藪塚インターチェンジから北関東道へと合流したエクシーガGTは、茜色に染まる関東平野を背にして、西へと針路を取った。
助手席の美和は、心地よい疲労感に身を任せ、静かな寝息を立て始めている。
天は美和が寒くないよう、エアコンの助手席側の設定温度を一度上げ、車内のBGMを微かなジャズのピアノトリオへと絞った。
二列目のシートで、茉莉は膝の上に置いたバッグの口を少しだけ開け、中を覗き込んだ。
そこには、伊勢屋のスバル最中と、マルイのデッドストックギヤ、そして――あの真鍮の22Bのキーが、寄り添うように収まっている。
「……ねえ、天さん」
静まり返った車内に、茉莉の小さな、穏やかな声が落ちる。
「何ですか、茉莉先生」
「……ありがとう。私、本当に幸せよ。無理言って付き合わせちゃったけど、美和さんも楽しんでくれたみたいだし……何より、あなたと美和さんがいてくれたから、あの車を連れて帰ることができたんだと思う」
天はバックミラー越しに、後部座席の茉莉を見た。
普段の強気で論理的な副院長の鎧を脱ぎ捨てた、一人の車好きとしての、飾らない素直な笑顔があった。
「礼には及びませんよ。……僕も、美和さんと久しぶりに遠出ができて、美味しいものを食べられて、最高の休日になりましたから」
天はアクセルペダルをわずかに踏み増した。
ガナドールのマフラーが、遠くで低く、力強いハミングを奏でる。
路面からの入力を完璧にいなすオーリンズの脚と、全席スパルコの極上のホールド感に守られながら、青き守護者は一路、大切な日常が待つ風花町へと、夜の高速道路を滑るように駆け抜けていった。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
前話の熱狂的な納車劇から一転、今回は旅の心地よい疲れを癒やす伊香保の夜と、スバリストにとっての絶対的聖地・群馬製作所を巡るエピソードをお届けいたしました。
上州牛と銘酒に酔いしれながら「明日起きたら当直室のベッドなんじゃないかしら」と震える茉莉先生の愛らしさ。
榛名のワインディングを水平姿勢のまま駆け抜け、うどんのコシを「タミヤの成型パーツ」と評する独特の感性。
そして何より、スバルの開発中枢である実験部や設計陣が総出で取り囲み、平伏してしまった天ちゃんのエクシーガGT――「妻の冷えと腰痛を防ぐための0次安全」という純粋すぎる狂気には、書いている側も思わず笑ってしまいました。
どれほど卓越した技術や歴史があろうと、櫻庭家にとっての車とは、どこまでも「隣にいる大切な人を無事に家へ送り届けるための祈り」に他なりません。
母・志乃事務長への対抗兵器(マルイのサムライ用デッドストックギヤ)を無事に確保し、安堵の息を漏らす茉莉先生を乗せて西へ走る帰路の静けさに、旅の終わり特有の優しい余韻を感じていただけたなら幸いです。
もし今回の道中記を少しでも楽しんでいただけましたら、下部の【ブックマーク追加】や、作品への【いいね・評価(★★★★★)】、率直なご感想などをそっと残していただけますと、次回への大きな力になります。
日ごとに寒さの増す季節、皆さまもどうか温かなお湯に浸かり、心安らぐ時間をお過ごしください。
天照(Bar風花)




