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【Bar風花 外伝】青い聖杯を求めて③ ソニックブルーの残響と真鍮の鍵 〜全財産を握りしめた娘は、上州の黄昏に熱き産声を聴く〜

【前書き】


※ 本作は『Bar風花 -kazahana-』本編から連なる、真夜中の出撃と長距離遠征の物語です。

※ 自動車工学の専門用語やクラフトマンシップの描写を含みますが、予備知識がなくてもそのままお読みいただけます。

※ 桜のリキュールが香る深夜のバーから、茜色に染まる上州の街道まで、一気に駆け抜ける旅路をお届けします。


夜の帳が降りた止まり木へ、息せき切って駆け込んできた白衣の女医。

届いたばかりの短い電文を胸に、彼女が見つめていたのは、四半世紀のあいだ眠り続けていた「青い聖杯」の幻影でした。

西の町から東の山懐へ、千キロの夜道を滑るように切り裂いていく青いファミリーカー。

からっ風が吹き荒れる北関東の片隅で待っていたのは、投機の札束を跳ね除け、ただひたすらに鉄の命を守り抜いてきた老職人の誇りでした。

どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。

第一章:真夜中の電信と出撃要請

 

 夜の底に沈んだ『Bar風花』の店内には、微かに桜の葉を漬け込んだリキュールの甘い残り香が漂っていた。

 客を送り出し、片付けを終えた美和が、鉄刀木の一枚板のカウンターを柔らかいリネンで丁寧に拭き上げている。その横で、常連用の黒革のローチェアーに深く身を沈めた天が、愛用の古いMacBookのキーボードを静かに叩いていた。

 カラン、と氷が溶けるような澄んだ鈴の音が響く。

 路地に面した重厚なオークの扉が勢いよく開き、肩で息をした白衣姿の女性が滑り込んできた。平内科医院の副院長、平茉莉である。

「天さん……っ! まだ起きてるわね!?」

 眼鏡の奥のアーモンドアイを血走らせ、息を切らしながらカウンターへ突進してくる。白衣の下のシャツのボタンを一つ掛け違えているのを見て、美和がくすりと喉を鳴らした。

「まあ、茉莉先生。夜間の回診、お疲れ様でした。何か召し上がりますか? 温かいカモミールでも」

「美和さん、ありがとう、でもお茶は後! それどころじゃないのよ! 天さん、さっきのショートメッセージ、どういうこと!? 『群馬の個人特約店で、シャッターの奥に眠る青い個体を確認』って……あれ、本当に、あの車なの!?」

 天はキーボードから指を離し、眼鏡を中指で押し上げた。元自衛官らしい無駄のない仕草でラップトップの画面をくるりと茉莉の方へ向ける。

「群馬の古い整備工場を巡るルポの取材先で、偶然耳に挟んだんです。富士重工のお膝元、太田の隣町で半世紀続いた個人経営のスバルショップが、今月いっぱいで暖簾を下ろす。そこのショールームの奥、埃をかぶったビニールシートの下に……新車時から一度もナンバーを切られていない、ワンオーナーのインプレッサ22B-STi Versionがある、と」

「……っ!」

 茉莉の喉から、声にならないヒッという引き攣りが漏れた。胸元を両手で押さえ、白目を剥きそうになるのを必死で堪えている。

「に……22B……。1998年、WRC三連覇を記念して、たった四百台だけ手作業で叩き出された、あのワイドボディの怪物……。本物なの? ただのVer.Vのレプリカとかじゃなくて……?」

「親父さんの証言と車台番号の控えを照合しました。間違いなく、正規の『GC8E2SD』です。オドメーターが刻む数字は、わずか七十二キロ。新車デリバリー時の移動と定期的な点検アイドリングのみで、実質的に公道を走っていない『完全未走行の新車状態』です。生涯スバリストだった先代が病床で亡くなり、跡を継いだ息子さんが今月で店を閉めるにあたって、スクラップ同然にブローカーに買い叩かれるくらいなら、親父の魂がわかる本物の乗り手に引き継ぎたいと悩んでいるそうです」

「行くわ」

 茉莉の返答は、心電図の警告音よりも早かった。

「明日は木曜、平医院の休診日。金曜の外来は父に土下座して代わってもらう。土日はもともと当番じゃない。……天さん、お願い。今から私を群馬へ連れて行って。新幹線じゃダメなの、もし手付金を打って仮ナンバーで引き取る話になったら、誰が陸送の段取りを組むのよ。あなたの鑑識眼と、櫻庭FACTORYの兵站能力が必要なの!」

 両手を合わせ、額がカウンターの木肌にめり込む勢いで頭を下げるエリート内科医。その形相は、大学病院の手術室で執刀の合図を待つ外科医よりも真剣だった。

 天は苦笑し、困ったように視線を隣の妻へと流す。

 美和は、アンバーとワインレッドの瞳を柔らかく細め、胸の前で小さく手を叩いた。

「まあ、群馬ですの? 水沢うどんがおいしいと、昔どなたかに伺ったことがありますわ。伊香保の温泉も近いですし……天ちゃん、私もご一緒してよろしいかしら? 久しぶりの長距離の遠出ですもの、ちょっとしたピクニックになりそうですわね」

「美和さんまで……。いや、ピクニックの距離じゃありませんよ、群馬は。ここ風花町から千キロ以上あります」

「あら、天ちゃんの運転なら、世界の果てまで行ったってちっとも疲れませんもの」

 悪戯っぽく微笑む愛妻の言葉に、天は完敗したように吐息を漏らし、静かにMacBookを閉じた。

「……わかりました。明日の朝四時、神社の隣にある櫻庭家のガレージで落ち合いましょう。荷物は最小限にしてください。……本気で走りますよ」



 

第二章:スウェーデンの油圧工学と鉄の祈り

 

 午前四時。風花町の街並みは、風花連山から吹き下ろす冷たい朝霧に包まれていた。

 此花神社の木立に隣接する櫻庭家。その敷地奥にある屋根付き駐車場兼整備スペース――『櫻庭FACTORY』のガレージから、低く、しかし驚くほど澄んだ金属音が響いた。

 不等長エキマニ特有のドロドロとした排気干渉音ではなく、完全等長化されたエキゾーストマニホールドとガナドールのマフラーが織りなす、雑味の一切ない、透き通るように整然とした低音のハミング。

 シャッターが上がり、暗がりから姿を現したのは、濡れたような光沢を放つソニックブルー・マイカの巨躯――スバル・エクシーガGTだった。

「……お待たせしました」

 運転席から天が降りてくる。助手席からは、厚手のニットにトレンチコートを羽織った美和が、眠気を感じさせない朗らかな笑顔で手を振った。

 旅行用のボストンバッグを肩にかけた茉莉は、吐く息を白く染めながら、まじまじとその車を見つめた。

「……ちょっと、天さん。話には聞いてたけど、これがあなたの『ファミリーカー』なわけ?」

 街灯のオレンジ色の光の下、エクシーガは異様な威圧感を漂わせていた。

 スバル純正の穏やかなミニバンのシルエットはそのままに、STIのフロントアンダースポイラーが路面を削るような低さで構え、サイドからリアへと続く整流板が完璧なエアロダイナミクスを描いている。

 そして何より、足元だ。

「……RAYSのVOLK RACING CE28N plus。それも特注の艶消しマットゴールド……。そのスポークの隙間から見えているの、スバル純正の赤キャリパーじゃないわね。ブレンボのゴールド4ポット……」

「美和さんを乗せて走る以上、フェード現象など論外ですから。バネ下重量を限界まで削り、オーリンズの車高調でロードホールディングを最適化してあります。さあ、茉莉先生、後ろへどうぞ」

「はいはい、お邪魔しま……って、何よこれ!?」

 ドアを開けた瞬間、茉莉は足を止めて絶句した。

 そこにあるはずの、広々とした布張りのキャプテンシートが存在しなかった。

 目の前に鎮座していたのは、漆黒のファブリックに包まれ、サイドサポートが鋭角に立ち上がった、正真正銘のSPARCO(スパルコ)製セミバケットシートだった。それが二列目だけでなく、薄暗い三列目の左右にまで、均等に、几帳面に並んでいる。

「……天さん。私、自分の視神経の異常を疑っているんだけど。これ、二列目も三列目も……全席スパルコなの?」

「はい。あえての六座独立レイアウトです。ミニバンの弱点である後席のロール剛性と横Gによる乗員の疲労を根絶するため、床下に専用の補強フレームを溶接し、全席に同じホールド感を与えました。三列目のセンターコンソールは、豊田モータースの親父さんに頼んでウォールナットの芯材から削り出してもらったワンオフです。長距離でも腰痛とは無縁ですよ」

「狂ってる……」

 茉莉は呻くように呟きながらシートに滑り込んだ。

 背中を預けた瞬間、両脇のサポートが吸い付くように身体を固定する。硬い。だが、不快な圧迫感は微塵もない。骨盤が正しい角度でロックされ、背骨の自然なS字カーブが完璧に支えられている。

「……何これ。悔しいけれど、うちのレヴォーグのウルトラスエードより座り心地がいいじゃないの……」

「ふふ、でしょう?」

 助手席の美和が振り返り、いたずらっぽく微笑む。

「天ちゃんの車、どれに乗っても身体がちっとも痛くならないのよ。魔法の絨毯みたいですわ」

「魔法じゃありません、スウェーデンの油圧工学の賜物です」

 天が静かにスポーツシフトのセレクターをDレンジへと滑り込ませた。

 エクシーガが、風花町の冷え切ったアスファルトの上を滑り出す。

 段差を越えた瞬間、茉莉は息を呑んだ。

 ゴツン、という衝撃が来ない。「トフン」と、極めて角の取れた微小な振動が一瞬だけ伝わり、次の瞬間にはフラットな姿勢へ戻っている。オーリンズのDFV(デュアル・フロー・バルブ)が、路面のうねりを瞬時に液体の奥へと逃がしていた。

 エクシーガは静寂を保ったまま、夜明け前の九州自動車道へと吸い込まれていった。

 本州へ渡る関門橋を越える頃、東の空が白み始め、周防灘の海面が鈍色から淡い茜色へとグラデーションを描き出していた。

 車内は、信じられないほど静かだった。

 ガナドールのマフラーは、パーシャルスロットルを維持している限り、室内に低周波の籠もり音を一切響かせない。耳に届くのは、フロントガラスを撫でる風切り音と、ルーフスポイラーが後方へ受け流す気流の微かな擦過音だけだ。

 新東名の百二十キロ巡航区間に入っても、エクシーガの車体は路面に張り付いたように微動だにしなかった。

「……天さん」

 後部座席から、茉莉が前屈みになって声をかけた。手にはタブレットが握られ、22Bの透視図とスペック表が表示されている。

「何ですか、茉莉先生」

「あの車のエンジン……EJ22改。ボアを96.9ミリまで広げて、排気量を二・二リッターにした特別な水平対向四気筒よね。手組みの鍛造ピストンに、中空エキゾーストバルブ。クランクシャフトも一本一本、職人が手作業でバランス取りをしている」

「ええ。当時の富士重工のモータースポーツ部門が、採算を度外視して組んだ狂気の心臓です。カタログスペックは自主規制いっぱいの二百八十馬力ですが、実測では三百五十馬力近く出ている個体も珍しくありません。アクセルを踏み込んだ瞬間、過給器が効く前からトルクの塊が背中を蹴飛ばしてきますよ」

「……私ね、タミヤの1/24のキットを組んだ時、あのフェンダーの張り出しを何度もペーパーで撫でたのよ」

 茉莉は窓の外、遠ざかる山の稜線を見つめながら、独り言のように言った。

「父のBLITZENも好きよ。ポルシェが引いた端正なラインと、大人のグランドツアラーとしての気品がある。でも……22Bは違う。あれは、勝つためだけに鉄板を叩き出した、野生の肉食獣の骨格よ。泥にまみれて、岩を跳ね上げて、それでも壊れずにゴールへ飛び込むための機能美。……現代の車は安全だし、賢いし、私のレヴォーグなんて何もしなくても真っ直ぐ走ってくれる。でも、あの時代のスバルが持っていた、剥き出しの鉄の祈りみたいなものが……どうしても忘れられないの」

 助手席で静かに話を聞いていた美和が、ふと肩越しに茉莉を見た。その異色瞳の奥に、懐かしむような光が宿っている。

「鉄の祈り……。良い言葉ですわね、茉莉先生」

「美和さん?」

「私の刀も、そうでしたのよ。一文字の則宗さんが鋼を打っていた時、周りにはもっと強そうなお刀や、権威を示すための派手な細工がたくさんございました。でも、則宗さんはただ、私という一人の女が夜道を歩く時、寒さに震えないように、春の風が吹くようにと……それだけを祈って、あの桜の刃文を焼いてくださいましたの」

 美和は膝の上で揃えた白い指先をそっと見つめた。

「機械であれ、刃物であれ……誰かの切実な想いが込められたものは、どれほど年月が流れても、魂が眠ったまま残るものですわ。そのお車もきっと、あなたのような方に起こしてもらえるのを、ずっと待っていらっしゃるはずです」

 茉莉は眼鏡を指で押し上げ、照れ隠しのように小さく鼻を鳴らした。

「……神様にそんな太鼓判を押されたら、何が何でも引き取るしかないじゃない。預金通帳、三冊持ってきた甲斐があったわ」

 運転席の天が、バックミラー越しに茉莉の顔を見て、静かに口元を緩めた。

 エクシーガの速度計の針は、寸分の狂いもなく法定速度の上限を指し示し、群馬への距離を淡々と削り取っていった。



 

第三章:からっ風の城下町、関口モータース

 

 高崎ジャンクションを抜け、北関東自動車道から一般道へ降りたのは、正午を少し回った頃だった。

 赤城山から吹き下ろす乾いた「からっ風」が、道端のススキを激しく揺らしている。

 太田市郊外。かつて中島飛行機の広大な工場群が広がり、戦後はスバルの城下町として日本のモータリゼーションを支え続けてきた土地。古びたスレート屋根の工場や、色褪せた六連星の看板を掲げる整備工場が点在する街道の奥に、その店はあった。

『関口モータース(スバル特約店)』

 昭和の香りを色濃く残すトタンの建屋。給油機の跡が残るコンクリートの土間。ショールームのガラスは白く曇り、隅には「永年のご愛顧ありがとうございました」と墨で書かれた貼り紙が揺れていた。

 エクシーガが静かに土間に滑り込むと、奥の事務所から、油染みのついたツナギを着た小柄な老人が、怪訝そうに顔を出した。背中は少し曲がっているが、その眼光は豊田モータースのオヤジによく似た、頑固な職人のそれだった。

「……櫻庭さん、かい?」

「直にお会いするのは初めてですね、関口さん。電話でお話しした通り、九州から参りました」

 天が深く一礼する。

 老人は天の背後にあるエクシーガに目を留め、眉をピクリと動かした。

「……ほう。エクシーガか。綺麗に乗っとるな。……いや、ただの綺麗じゃないな。そのホイールの奥、ブレンボを奢ってあるのか。足もノーマルじゃないな。……わざわざ福岡から、こいつで走ってきたのかい?」

「はい。そして、こちらが……電話でお伝えした、私の友人です。風花町で地域医療を守っている、内科医の平茉莉先生です」

 茉莉はツナギの老人の前に進み出ると、医師としての凛とした姿勢で、深々と頭を下げた。

「平です。本日は、突然の不躾なお願いを聞き届けていただき、本当にありがとうございます」

 老人は茉莉の顔をじっと見つめ、それから彼女の手を見た。細く、白く、しかし爪の先まで清潔に切り揃えられた、プロの医療従事者の手。

「……医者んちの娘さんかい。金に糸目をつけねえブローカーや、海外へ転売しようってハイエナどもなら、箒で追い払うつもりだったんだがな。……まあ、入れや。埃っぽいとこだが」



 

第四章:四半世紀の眠り姫

 

 老人がショールームの重い引き戸を開けた。

 薄暗い室内の空気は、ひんやりと冷たく、古い機械油と、経年変化したタイヤのゴムの匂いが満ちていた。

 中央に、大きな木綿のボディカバーを被せられた塊があった。

 老人が、その端を無造作に掴む。

「四半世紀余りだ。親父が倒れてから、ショールームの電気を落として、ずっとここに置いたままにしてた。たまに俺がエンジンに火を入れて、オイルを回すくらいでな。……表の光を浴びるのは、久しぶりだ」

 バサリ、と重い布が払われた。

 舞い上がった埃の向こうから、その姿が現れた瞬間――茉莉の呼吸が完全に止まった。

 深い、深い、紺碧。

 スバルの栄光の象徴、ソニックブルー・マイカ。

 だが、そこに佇んでいたのは、街で見かけるどのインプレッサとも似ていなかった。

 フロントフェンダーからドア、そしてリアフェンダーへと続く、凶暴なまでに張り出したブリスターフェンダー。プレスラインの継ぎ目は一切なく、手作業の板金によって滑らかにボディと一体化している。

 大型のリアウイングが空を睨み、ゴールドのBBS製鍛造ホイールが、薄暗がりの中で鈍く光を放っていた。

「……あ……」

 茉莉の口から、掠れた吐息が漏れた。

 彼女はふらふらと引き寄せられるように車に近づき、触れることすら躊躇うように、両手を胸の前で握りしめた。

「……本物……。本当に、22Bだわ……」

「触ってもいいぞ、先生」

 老人が煙草をくわえようとして、美和の姿を見て思いとどまり、胸ポケットへ戻した。

 茉莉は震える指先を伸ばし、そっとリアフェンダーの頂点に触れた。

 冷たい鉄の感触。しかしその奥に、狂気じみた情熱でこの鉄板を叩き出した、名もなき職人たちの手の温もりが残っているかのように感じられた。

「……チリが、狂っていない……」

 茉莉はしゃがみ込み、ルーペを取り出しそうな勢いでフロントバンパーとフェンダーの隙間を見つめた。

「手作業で組んだ限定車なのに……左右のクリアランスが、コンマ五ミリも狂っていないわ。どうして……こんな精緻な仕事が、量産ラインの裏でできたの……?」

「親父の自慢だったよ」

 老人が、懐かしむようにボンネットを掌で叩いた。

「スバルが世界一を獲った時の記念碑だ。売ってくれって客は何百人も来たが、親父は首を縦に振らなかった。『この車はな、ただ速いだけじゃねえんだ。中島飛行機から続いてきた、俺たちの意地が全部詰まってんだよ。金勘定しかできねえ奴にアクセルを踏ませたら、車が泣く』ってな」

 老人は茉莉を見下ろした。

「あんた、この車をどうする気だ? ガレージに閉じ込めて、値上がりを待つ口かい?」

「とんでもない!」

 茉莉は即座に顔を上げ、強い光を宿した瞳で老人を射抜いた。

「走らせます。風花町の、風花山のワインディングを。私の実家は小さな町医者です。父も私も、スバルの車で命を繋いできました。この車が持っている狂気も、意地も、すべて受け止めます。日常の往診には使えないかもしれない……でも、私がこの町の命を守り続ける限り、この子の心臓も、絶対に止まらせません。オイルの一滴、ボルトの一本まで、櫻庭FACTORYと、近所の凄腕の町工場と一緒に、私の生涯をかけて維持し続けます!」

 一瞬の静寂。

 からっ風が、トタンの壁をガタガタと揺らした。

 老人は茉莉の顔をじっと見つめ、それから腕を組んで、ふっと短く息を吐いた。

「……よし。商談といこうか。奥へ入れ」



 

第五章:新車価格の誇り

 

 油染みの染み込んだ事務所の片隅。

 スバルの古いカレンダーが壁で小さく揺れ、灯油ストーブの上のやかんが低くシュンシュンと湯気を上げていた。

 パイプ椅子に浅く腰掛けた茉莉の膝の上には、黒革のビジネスバッグが置かれていた。

 そのチャックの隙間から覗くのは、大学病院時代の過酷な当直代、ボーナス、投資信託を解約してまとめた定期預金の通帳と、いつでも振り出し可能な当座の書類。世界的なオークションで三千万、四千万円という天文学的なプライスタグがつく怪物を買い取るため、彼女は文字通り「自らの青春の全重量」をここに持ち込んでいた。

 茉莉はごくりと唾を飲み込み、チタンフレームの眼鏡を指先で押し上げた。声がわずかに震える。

「……関口さん。お値段の、お話をさせてください」

「ん」

 関口の親父さんは、灰皿にショートピースの吸い殻を押し付け、無造作に鼻を鳴らした。

「覚悟は、できています」

 茉莉はバッグを抱きしめ、真っ直ぐに親父さんの濁りのない瞳を見つめた。

「今、市場で22Bがどういう扱いを受けているか、知っています。海外の投資家が買い漁り、投機の道具にされて、家が一軒建つような値段で取引されていることも……。私の全財産を突っ込みます。もし足りない分があれば、平医院の役員報酬から毎月必ず――」

「おい、先生」

 親父さんが、低く乾いた声で遮った。

 机の引き出しをガラリと引き、中から取り出したのは、黄ばんだ一枚の紙切れだった。

 平成十年――一九九八年の日付が入った、スバル特約店の新車注文書の控え。そこに印刷された数字を、親父さんは油で黒く汚れた人差し指でトントンと叩いた。

「当時の価格でいい。五百万だ」

「………………は?」

 事務所の中の空気が、ピキリと凍りついた。

 茉莉の喉から、間の抜けた、空気が抜けるような音が漏れる。

「ご……ひゃく……?」

「ああ。五百万だ。消費税が五パーセントの時代だったからな、正確には五百二十五万だが……端数は切り捨てだ。五百万ポッキリでいい」

「ちょ……っ、関口さん、何を仰っているの!?」

 茉莉はガタッとパイプ椅子を鳴らして立ち上がった。血圧が急上昇し、顔が真っ赤に染まる。

「五百万って、新車の当時の定価じゃないですか! 走行距離七十キロそこそこの、事実上の未走行新車ですよ!? 今の相場をご存じないんですか!? これ、オークションに流せば三千万……いえ、状態が良ければ四千万だって一瞬で現金化できる個体なんですよ!? 私が小さな町医者だからって、変な情けをかけるのはやめてください――」

「うるせえな、この若造が」

 親父さんは眉間に深い皺を寄せ、煙草の煙をふうと吐き出した。その眼光には、半世紀にわたってスバルの鉄と向き合い続けてきた老職人の、刃物のような矜持が宿っていた。

「俺は車屋だ。古物商のブローカーじゃねえんだよ」

 親父さんは立ち上がり、窓越しにショールームの青い巨躯を見つめた。

「親父が生きてた頃から、この店はずっと『走るための車』を売ってきた。走らせもしねえでガレージに閉じ込めて、値段が上がった下がったと右から左へ転がすような連中に、この車の何がわかる。あの22Bのフェンダーを叩き出した職人の汗の匂いが、テメエらの札束で買えると思ってんのか」

 親父さんは振り返り、茉莉を真っ直ぐに指差した。

「あんたはさっき、あのフェンダーを見て涙を流したな。『生涯をかけて走らせ続ける』と言ったな。手入れの行き届いたその指先を見てりゃ、あんたがどれだけ誠実に人と車に向き合ってきたか、嫌でもわかる。……そんな本物の乗り手から、世間のバカげたプレミア価格で金を巻き上げたらな……」

 親父さんはふっと目元を緩め、照れくさそうに頭を掻いた。

「……あいつが、泣くだろ」

「…………っ」

「機械だって生きてんだよ。やっと自分を全開で走らせてくれる『相棒』が迎えに来てくれたってのに、その相棒に生涯の借金背負わせてどうすんだ。五百万だ。当時の定価で、俺の店から『新車』としてあんたに納車する。これが関口モータース最後の仕事だ」

 茉莉の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。

 両手で口元を押さえ、声を出さずに肩を震わせる。

 そんな彼女を見て、親父さんは「やれやれ」と小さく笑い、事務机の伝票にサラサラとボールペンを走らせた。

「……あ、そうそう。九州までの陸送費だがな」

「は、はい……! 陸送費は、十万でも二十万でも私が……!」

 茉莉が涙を拭いながら必死で頷く。

「いらねえよ」

 親父さんは伝票をペラリと裏返し、事も無げに言った。

「陸送費込みでいいぞ。群馬から福岡の風花町まで、うちの積載車で若い奴に運ばせる。……新車納車の納車費用を客に二重取りするようなケチな真似、関口モータースの看板にかけてできるかい」

「関口さん……っ!!」

 ついに耐えかねた茉莉は、パイプ椅子から崩れ落ち、事務所の土間に両膝をついて号泣した。

「ありがとう……ございます……っ! 大切にします……! 私の命に代えても、あの子を……あの子を絶対に大切にしますから……っ!」

 その背後で、ずっと静かに成り行きを見守っていた天が、深く、深々と頭を下げた。元自衛官としての、そして一人の技術者としての、最大級の敬意を込めて。

「……関口さん。櫻庭FACTORYを代表して、御礼申し上げます。風花町に届いた瞬間から、あの一台は僕の目の黒いうちは一ミリの狂いもなく維持し続けることを、お約束します」

「おう、頼んだぞ櫻庭の坊主。……お前のあのエクシーガの作り込みを見て、俺も腹を括ったんだからな」

 親父さんが豪快に笑う中、コートを羽織った美和が、静かに一歩前へ進み出た。その佇まいは、まるで陽だまりの桜のように柔らかく、温かい。

「関口様」

「ん? 奥さん、なんだい」

 美和はふわりと微笑み、アンバーとワインレッドの異色瞳を優しく細めた。

「人が真心で紡いだ縁は、黄金よりも重く、尊いものですわね。……あの子の鉄の魂が、あなたのその美しい誇りを、一番よく知っておりますわ。関口モータースの看板に刻まれた真のお心が、これからも風花町の山々で、あの青い風とともに永遠に走り続けますように」

 その言葉が落ちた瞬間、事務所の中に、まるで初春の風が吹き抜けたかのような、清らかな気配が満ちた。

 親父さんは一瞬ポカンと美和を見つめ、それから「……へへ、神様みたいなことを言う奥さんだなあ」と、照れ隠しに新しい煙草に火を点けた。

 土間にへたり込んだまま、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった茉莉が、天の裾を弱々しく引っ張る。

「……天さん」

「何ですか、茉莉先生」

「……私、浮いたお金で……平医院の裏庭のピットに、最新の二柱リフトとスナップオンの工具箱を一式導入するわ……! そして母には……母には『五百万で買えたから実質タダよ!』って胸を張って言い張るわよ……!」

 天は苦笑しながら、そっと茉莉に清潔なハンカチを手渡した。

「先生。『実質タダ』は、一番事務長の逆鱗に触れるワードですから、絶対に口にしてはいけませんよ」



 

第六章:夕暮れのボクサーノート

 

 作業が終わる頃には、上州の山並みは燃えるような夕焼けに染まっていた。

 すべての油脂類を抜き替え、天の手によって完璧な火入れを終えたEJ22改は、四半世紀の眠りから覚めたとは思えないほど軽やかに、地響きのような重低音を周囲に響かせていた。

「……茉莉先生。陸送の手配が完了するまで車は預かりますが、伊香保の宿まで少し走らせますか。役場から借りてきた臨時運行の仮ナンバーは、前後にしっかりボルト留めしてありますよ」

 関口の親父さんがフロントバンパーに掲げられた赤い斜線入りの仮ナンバーを指差し、悪戯っぽく笑った。茉莉は真っ赤に腫らした目を擦り、不敵に口元を綻ばせる。

「当たり前じゃない。伊香保の温泉宿まで、私がこの子のステアリングを握るわ。……天さん、後ろからエクシーガでついてきて。慣らし運転よ、三千回転以上は回さないから」

「了解しました。先行してください、茉莉先生」

 22Bの運転席に乗り込んだ茉莉の姿は、先ほどまでの泣き虫なオタクではなく、平医院の命を背負う立派な医師の、引き締まった横顔に戻っていた。

 重い強化クラッチを踏み込み、カチリと硬質な音を立てて一速へ叩き込む。

 乾いたボクサーサウンドが夕暮れの空へ突き抜け、青い怪物が、滑るように街道へと躍り出た。

 その後ろを、天と美和を乗せたエクシーガが、静かに、しかし絶対的な守護者のように追従していく。

 二台の青いスバルは、湯煙の立ち上る上州の山懐へと、夕闇を切り裂きながら駆け上がっていった。

【あとがき】


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

今回は、前話の電文から一秒の隙もなく幕を開ける、群馬・太田への弾丸ロードムービーと、奇跡の納車劇をお届けいたしました。

白衣のボタンを掛け違えたまま飛び込んできた茉莉先生の切迫感。

それに呆れつつも、全席スパルコの特製エクシーガで何食わぬ顔をして千キロの夜道を走破してしまう天ちゃんと、「ピクニックですわね」と微笑む美和さんの懐の深さ。

そして何より、現代の狂乱じみた旧車バブルを前にして、「あいつが、泣くだろ」と当時の新車価格のまま鍵を差し出す関口モータースの親父さんの矜持。

札束で右から左へ転がされる投機の道具ではなく、走るために生まれ、誰かの祈りによって叩き出された鉄の魂。

それを生涯かけて愛し抜くと涙ながらに誓う茉莉先生の姿に、書き手としても胸が熱くなりました。

(その直後に「実質タダよ!」と叫んで天ちゃんにたしなめられるあたりが、なんとも彼女らしくて愛おしいのですが)

この夕暮れの慣らし運転を経て、物語はいよいよ風花町でのシャシダイ測定――あの驚異の実測数値へと繋がっていきます。


もし今回のエピソードを少しでも楽しんでいただけましたら、下部の【ブックマーク追加】や、作品への【いいね・評価(★★★★★)】、率直なご感想などをそっと残していただけますと、次回への大きな力になります。


夜風の冷たい季節、皆さまの心にも温かな灯火が灯りますように。

天照(Bar風花)

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