【Bar風花 外伝】青い聖杯を求めて② 薪ストーブの静寂と七十二キロの眠り姫 〜敏腕事務長の防諜網をくぐり抜け、群馬のシャッターが開く〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花 -kazahana-』本編から連なる、真冬の密やかな探索行の一幕です。
※ 医療法人のリアルな財務攻防や旧車探訪の専門描写を含みますが、知識がなくてもそのままお楽しみいただけます。
※ 薪ストーブの柔らかな温もりと、手摘みカモミールティーの静かな香りと共にお届けします。
夜の底に沈んだ止まり木で、薪のはぜる音だけが静かに響いています。
若き女医から託されたのは、「青い聖杯」と呼ばれる伝説の名車を追う無謀な祈りでした。
財閥の威光に頼ることなく、自らの足と手腕で鉄の系譜を辿る元自衛官の男。
医院の診察室で、母の冷徹な監査の刃に震える白衣の娘。
そして、からっ風の吹き荒れる北関東の古き町工場で、四半世紀の眠り姫がそっと息を吹き返そうとしていました。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:真夜中のインテリジェンス
研造と茉莉の、夜風を踏みしめて帰る足音が遠い夜の帳へと溶けていき、風花町の路地裏に深い静寂が戻っていた。
重厚なオーク材の扉にカチリと鍵が下ろされ、庇に吊るされた真鍮製ランタンの温かな橙色の灯火が静かに落とされる。
店内に残るのは、薪ストーブの薪が小さくはぜる微かな音と、壁に掛けられた古時計が刻む規則正しい秒針の音だけだ。
鉄刀木の一枚板カウンターの最奥で、天は愛用のMacBookを開き、手帳のメモを冷徹な眼差しで見つめていた。画面の上では、国内の特殊車両登録データや、過去数年間の旧車オークションにおける取引履歴が目まぐるしく更新されていく。
パイプのボウルに詰められたラタキア葉へ静かにマッチの火を寄せると、紫煙がアンバー色のランプの光に淡く揺らめいた。
「……修復歴なし、フルノーマル、極上状態のインプレッサ22B、か」
天は紫煙を細く吐き出し、眼鏡のブリッジを中指でそっと押し上げた。
その口元には、ルポライターとしての知的な探求心と、元自衛官としての作戦立案時に浮かべる苦笑が、複雑に混ざり合っている。
「美和さん。茉莉先生は、とんでもない無理難題を置いていかれましたね」
「ふふ。でも天ちゃん、とても楽しそうなお顔をしていらっしゃいますわ」
美和は純白のバーコートを脱ぎ、柔らかな鶯色のカーディガンを羽織ると、湯気の立つマグカップを天の横へ静かに置いた。
庭で摘んだカモミールに、ほんの少しの蜂蜜と生姜を落とした、芯から温まるハーブティーだ。
「茉莉先生のあんなに必死な眼差し、初めて拝見いたしましたもの。よほど、志乃事務長のお車に悔しい思いをなさってきたのでしょうね」
「ええ。ですが相手は、あのスバルが世界ラリー選手権三連覇を記念して、一九九八年にわずか四百台限定で世に放った『青い聖杯』です。当時ですら五百万円のプライスタグがついていたハンドメイドの怪物ですよ。二・二リッターにボアアップされた専用ボクサーエンジンに、熟練工が一枚ずつ手作業で叩き出したブリスターフェンダー……」
天はMacBookのキーボードを軽やかに叩きながら、眉間に深い皺を刻んだ。
「現在、現存個体の多くは海外の富裕層やコレクターに買い漁られ、国内に残っている車体もその大半が改造されているか、サーキットで酷使された個体ばかりです。ましてやフルノーマルで無事故、実走行の少ない極上状態となれば、国内に現存するのは十台にも満たないでしょう」
「皇グループのネットワークを使えば、すぐに見つかるのではありませんの?」
美和のワインレッドとアンバーの異色瞳が、いたずらっぽく細められた。
天は即座に、真面目な顔で首を横に振る。
「滅相もない。お祖母様の威光やグループの財力に頼って車を探すなど、美和さんの夫としての一線に反します。それに何より、そんな動きを見せたら志乃事務長の情報網に即座に捕捉されますよ。平医院の兵站を握るあの人の情報収集能力は、地方連隊の通信隊並みですからね。ここは僕自身の足と、民間の旧車ネットワークだけで完遂しなければなりません」
天はハーブティーを一口含んで喉を潤すと、画面上の専用回線へと指先を滑らせた。
「作戦名『青い聖杯』……。極秘裏に、情報収集を開始します」
第二章:六連星の地下人脈
翌朝。冬晴れの冷涼な日差しが、風花町の山並みを鮮やかに照らし出していた。
此花神社の鎮守の杜に隣接する櫻庭家。
神社とは生垣で隔てられた別敷地の奥に位置する屋根付き駐車場兼整備スペース――通称『櫻庭FACTORY』である。
工具が整然と並ぶ作業台の片隅で、天は淹れたての珈琲を口に含みながら、旧知の相手へ何本もの電話を慎重にかけ続けていた。
相手は、中古車市場の表舞台には決して姿を現さない、特殊な職人たちだ。
富士重工の元実験走行部ドライバー、群馬の老舗スバル専門レストア工房の代表、そしてかつて全日本ラリー選手権でワークスチームのチーフメカニックを務めていた古参の技術者たちである。
「――ええ、先輩。ご無沙汰しております、櫻庭です。単刀直入に伺いますが、例の『二二』の生息情報はありませんか。実動かつフルオリジナル、修復歴なしの個体です」
受話器の向こうから、乾いた笑い声と重いため息が漏れ聞こえてくる。
『おいおい天、お前まであの青い亡霊を探しているのか。先月もイギリスのバイヤーが白紙の小切手を持って乗り込んできたぞ。いま状態の良い個体が出れば、海外オークションで四千万円は下らない。そんな極上車、国内のオーナーが手放すわけがないだろう』
『櫻庭くん、うちの顧客で一人だけ新車ワンオーナーの二二Bを持ってる爺さんがいるがね。ガレージに空調を入れて、毎週欠かさずエンジンオイルを循環させてるような偏屈者だよ。「棺桶に入れて一緒に埋めてくれ」って言ってるくらいだ。三億円積まれたって首を縦に振らんよ』
次々と返ってくるのは、絶望的な回答ばかりだった。
二十八年の歳月は、あまりにも重い。
現存するだけで奇跡と呼ばれる名車を、妥協なきコンディションで、しかも志乃事務長に察知されずに手に入れるなど、不可能の領域に思われた。
天は手帳に細かなバツ印をつけながら、パイプの煙をガレージの梁へと静かに逃がした。
妥協した改造車や、事故歴を隠した車体を茉莉に掴ませるわけにはいかない。
本物の医療を志す彼女には、本物の鉄で応えなければならないのだ。
第三章:白衣の監査官と冷戦の気配
その頃、町外れにある平内科医院の診察室では、別の意味で張り詰めた空気が漂っていた。
午前の外来診療が終わり、茉莉がカルテの電子データをチェックしていると、診察室の引き戸が音もなくすっと開いた。
入ってきたのは、事務長であり母である平志乃だった。
仕立ての良い紺のスーツに身を包み、手には医院の財務諸表と分厚いバインダーを抱えている。胸元には、三菱のラリーアートを象徴する小さなピンバッジが鈍い光を放っていた。
「お疲れ様、茉莉。午前の胃カメラ、十二件すべて定刻通りに終わらせたようね」
「ええ、事務長。早期胃癌の疑いがあった症例も、無事に粘膜下層剥離術の適応判断ができたわ。来週のスケジュールに組み込んでおいて」
「結構よ。手技のスピードと正確さは、大学病院仕込みの申し分ない腕前ね」
志乃は事務机の前にすっきりと立ち、眼鏡の奥の切れ長な瞳をスッと細めた。
その冷徹な視線が、茉莉の机の片隅に飾られた『タミヤ 1/24 インプレッサ WRC 1999』へと向けられる。
「ところで副院長。今朝、銀行の担当者から医院の財務部へ連絡があったのだけれど。大口の資金移動があるようだが、何か医院設備で急な支払いの予定でもあるのか、とね」
「……え?」
茉莉の指先がピクリと止まった。
「あなたの個人名義の定期預金五千万円、満期解約の手続き書類が請求されたそうね。さらに、国債と投資信託の解約シミュレーションまで出させたと」
「っ……! あ、あれは、その……資産運用のポートフォリオを見直そうかと、勉強のために……」
冷や汗が、茉莉の背中をツーと伝い落ちる。
志乃は無表情のままバインダーを開き、静かな、だが逃げ場のない声で告げた。
「平医院の来期の設備投資計画を覚えているかしら。内視鏡室の経鼻内視鏡システム、ハイビジョン光源装置の更新時期よ。あなたの個人資産が何のために使われるのか、私には知る由もないけれど……まさか、我が家のガレージに、四角いフェンダーをした青い鉄屑が増えるようなことはないわよね?」
「て、鉄屑だなんて! スバルのWRC三連覇を記念した至高の工学遺産を鉄屑だなんて言わせないわよ!」
思わず口を滑らせた茉莉に、志乃の眉がわずかにピクリと動いた。
「あら。やはり何か企んでいるのね」
「し、しまった……ッ!」
「いいこと、茉莉。うちのガレージにはすでに、お父さんのスバル360とレガシィ、あなたのレヴォーグとR1Sが鎮座しているのよ。これ以上スバル車が増えてごらんなさい。我が家のモータースポーツ史における三菱の栄光――マキネンとエボリューションが築いた四連覇の金字塔に対する冒涜だわ」
志乃は胸元のピンバッジを指先で弾き、冷徹な微笑を浮かべた。
「もし変な契約書に判子を押したら、即座にあなたの個人口座を医院の運営資金として強制凍結し、最新型内視鏡スコープ三セットに化けさせますからね。肝に銘じておきなさい、若先生」
ピシャリ、と引き戸が閉められた。
足音が廊下の向こうへ消えた瞬間、茉莉は机の上に突っ伏し、両手で頭を抱えて悲鳴を上げた。
「天さん……早くして……ッ! 私の口座が医療機器の減価償却資産に呑み込まれちゃう……ッ!!」
第四章:太田からの電信
数日後、天は群馬の古い整備工場を巡る産業ルポの取材のため、北関東へと足を伸ばしていた。
太田市周辺は、かつて中島飛行機の広大な製作所が広がり、戦後は富士重工の企業城下町として日本のモータリゼーションを牽引してきた聖地だ。
街道沿いに並ぶスバル車の多さと、年季の入った町工場の看板を眺めながら、天は取材先である古参の部品問屋の事務所で茶をすすっていた。
「……ええ、櫻庭さん。群馬も昔ながらの特約店がめっきり減りましてね。太田の隣町で半世紀続いていた『関口モータース』さんも、今月いっぱいでついに看板を下ろすそうですよ」
帳簿をめくる問屋の主人が、ふと懐かしそうに呟いた。
「関口さんといえば先代が熱烈なスバリストでね。ショールームの奥に新車時から一度もナンバーを切っていない、とんでもないお宝を仕舞い込んでいるって噂でした。埃をかぶったシートの下に、あの限定の22Bがあるとかないとか……。先代が亡くなった後、工場を継いだ息子さんも高齢で店を畳むことになりましてね。親父さんの形見同然の名車が、ブローカーにスクラップ同然に買い叩かれるのをひどく悔しがっているらしいですよ」
天の瞳が、鋭く据わった。
「そのお話、詳しく伺えますか」
天はその足で役場と旧車登録のネットワークへ連絡を入れ、親父さんの証言と車台番号の控えを照合した。
間違いなく、正規の『GC8E2SD』。
オドメーターの刻む数字は、わずか七十二キロ。
新車デリバリー時の移動と定期的な点検アイドリングのみを記録した、雨天未走行、実質的に公道を一度も走っていない『ほぼ未走行の新車状態』の眠り姫だった。
風花町へ戻る最終の新幹線の中、天は手帳を閉じ、スマートフォンの画面を指先で弾いた。
宛先は、平茉莉。
送信した文面は、元自衛官らしい無駄を削ぎ落とした、わずか一行の電文だった。
『群馬の個人特約店で、シャッターの奥に眠る青い個体を確認』
送信ボタンを押した瞬間、天は車窓の外の暗闇を見つめ、静かに息を吐き出した。
嵐が来る。
平医院の若き副院長が、白衣を脱ぎ捨てて飛び込んでくる気配が、肌を刺すように予感されていた。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
今回は、前夜の密やかな誓いから一転、天ちゃんの冷徹な情報戦と、平医院でのヒリつくような「母娘の冷戦」、そしてスバルの聖地・群馬太田での奇跡の邂逅をお届けいたしました。
午前の胃カメラ十二件を完璧にこなしながらも、預金五千万円の動きを即座に捕捉され、「内視鏡スコープ三セットに化けさせるわよ」と母・志乃事務長に追い詰められる茉莉先生の悲哀と焦燥。
そして、安易に権力へ依存することなく、泥臭く誠実な職人人脈だけでオドメーターわずか七十二キロの奇跡を掘り当て、新幹線の車窓から短い一行の電文を放つ天ちゃん。
大人たちがそれぞれの矜持と熱情を胸に、静かに、けれど全力で駆け引きを繰り広げる姿を楽しんでいただけたなら幸いです。
この一行の電信が、次なる「深夜のBar風花への突進」と、群馬への怒涛のロードムービーへと繋がっていきます。
もし今回のエピソードを少しでも楽しんでいただけましたら、下部の【ブックマーク追加】や、作品への【いいね・評価(★★★★★)】、率直なご感想などをそっと残していただけますと、執筆の大きな力になります。
冷たい風の吹く季節、皆さまも温かなハーブティーをお手元に、心地よい夜をお過ごしください。
天照(Bar風花)




