【Bar風花 閑話】 漆黒のネイルと硝子の煙管 〜夜のお注射の真実はカウンターの向こうに〜
【前書き】
※本作は、冬の気配が近づく一条山の開墾現場と、夜の『Bar風花』を舞台にしたひと幕です。
※前話で描かれた予防接種の翌日、ふたりの甘い日常の余波に巻き込まれる三人娘の受難を描いています。
※作中に登場するシーシャやカクテル、作業車の描写は、作品固有の設定に基づいております。
山あいに秋の名残が色濃く残る、澄みきった青空の広がる午後。
一条山の現場では、昨日町を駆け巡った「美和さんの小鹿事件」の噂をめぐって、若き作業員たちの不埒で賑やかな推理合戦が繰り広げられていました。
土木現場の荒々しい風と、移動要塞のような軽トラックが運んできた温かな湯気。
そして夜の止まり木で明かされる、あまりにも無垢で優しい、神代の夫婦の真実。
どうぞ、グラスの氷が鳴らす音に耳を澄ませながら、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:白昼の重大インシデントと現場猫の鉄槌
晩秋の澄みきった青空の下で一条山の現場事務所前には昨日の昼休みに茉莉が持ち込んできた小鹿事件の衝撃波が丸一日経った今も冷めやらぬまま漂っていた。
ドラム缶スツールに腰掛けたまひろが缶ピースの紫煙を山風に細く吐き出しながら思い出し笑いで痛む腹筋をさすっている。
そのすぐ脇で二十歳の一条山現場監督兼筆頭メカニックの一条葵は油汚れのついた作業着の前をわずかに寛げてアンニュイな目つきで冷めかけた微糖缶コーヒーを口元へ運んでいた。
首元からは地雷系のレザーチョーカーと華奢なクロスネックレスが覗き耳元で揺れる安全ピン型のピアスが栗色混じりの黒髪ウルフロングと相まって独特の気怠い職人気質を醸し出している。
傍らの作業台には側面に現場猫のステッカーが貼られた特注マゼンタピンクのヘルメット。
そして広場の端には彼女の足車であり現場の相棒でもあるモモタロウピンクに全塗装されたスバルサンバートラックが荷台のステッカーを誇らしげに秋日に光らせていた。
そこへ昨日あれだけ枯れ草の上を転がり回って悶絶したはずの遥花が両手を腰に当てて無邪気な笑顔を輝かせた。
「でもぉ〜、よくよく考えたら不思議ッスよね! 美和さん、天さんから毎晩夜のお注射されているのに注射嫌いなんて可笑しいッス!」
遥花は爛漫な笑顔をキラキラと弾けさせ得意げに人差し指を立ててみせた。
ブッッッッッフォォォォォッッ!!!!
事務所の前にまひろの口から霧状になった微糖コーヒーの豪快なアーチが架かった。
「ゴホッ、ゲホッ、ゲホッ! ……テ、テメェ……ッ! 遥花、テメェいま白昼堂々、こんな神聖な山の中で何を口走りやがったい……!?」
まひろが胸元を押さえて激しく咳き込み涙目で空き缶の灰皿を手探りする。
一方の葵は微動だにしなかった。
缶コーヒーを持つ手をピタリと中空で静止させその切れ長の瞳から完全にハイライトが消え去る。
ゴトリと重機用コンテナの上に缶を置くと葵は作業用の革手袋を手首からスルリと引き抜いて無造作に放り出しゆっくりと首を傾げた。
漆黒のダークネイルが晩秋の乾いた陽射しを鈍く跳ね返す。
ボソリと地を這うような超低音のローテンションボイスが零れ落ちた。
「……遥花。テメェ今、なんて言ったっすか」
「え? だ、だからぁ、天さんと美和さんって毎晩……」
「重大インシデント発生っす」
葵はアンニュイなトーンを一切崩さないままマゼンタピンクの現場用ヘルメットの鍔を右手でガシッと掴んだ。
「白昼の一条山現場における、風花町最高神への著しく不適切な下ネタの投下……。労働安全衛生法違反、公序良俗違反、全方位アウトの極大ヒヤリハットっす。……どうして現場猫の指差し確認を怠るんすか……」
葵は本気で頭痛を覚えたようにこめかみを指先で押さえ深いため息とともに言葉を失った。
「ひっ、葵ちゃん、完全に目が現場猫になってるッス……!」
「……美和さんはうちにとって、現場帰りに極上の特製辛口ジンジャーエールと柑橘シーシャを仕立ててくれる、神聖で最高にかっこいいお姉さんなんすよ」
葵が音もなく一歩間合いを詰める。
ダークネイルの指先がスッと遥花の鼻先を鋭く指差した。
「シーシャの炭の熱量管理とトップボウルの空気微調整を、うちのガンマのキャブセッティングと同じ目線で優しく見守ってくれる美和さんに対して……生々しい医療器具の隠語をスライドさせるとか、完全に意味不明だし、うちの脳内保安基準が許さないっす」
「だ、だってぇ!」
遥花は後ずさりしながらも持ち前のハイテンションでジタバタと両手を振り回した。
「だって事実じゃないッスか! あんな美男美女が神社の裏の平屋で二人きりで暮らしてて、天さんがあんな逞しい身体してて、何も起きてないはずがないッス! 天さんのあの極太の……愛の注射針が、毎晩のように美和さんの奥深くにプスリと……」
「黙れっす」
ガコォッ!!
鈍く乾いた衝撃音が一条山の山肌に木霊した。
葵の手にしたマゼンタピンクのヘルメットが遥花の後頭部へ寸分の狂いもなく水平スイングで炸裂する。
「あぎゃッ!? い、痛い痛い痛いッス!!」
「……安全帯ヨシ、足場板ヨシ、遥花への物理的教育指導ヨシ。『確認ヨシ!』ってことで、現場猫の刑、執行っす」
葵はそのまま流れるようなアンニュイな動作で遥花の首元へ腕を回しガッチリとスリーパーホールドを極めた。
「うちの脳内フィルターではなぁ、美和さんと天さんの夜は全部『神話の清らかな桜吹雪が舞い散る神秘の儀式』に全自動変換されてんだよ。テメェの濁りきった俗世フィルターを一条山に持ち込むんじゃねぇっす」
「ぐ、ぐえぇぇ……! 葵ちゃんの脳内フィルター、都合が良すぎるッス……! まひろ姉、助けてぇぇぇ!」
「知るかバカ。自業自得だ」
まひろは缶ピースに火を付け直し腹を抱えて肩を揺らしながら紫煙を吹き出した。
「だが遥花、テメェの命知らずな度胸だけは買ってやるよ。あたしも一瞬、天のあの毎晩の腕前を想像しちまったじゃねぇか」
「まひろ姉まで何を言って……」
葵が半眼でジト目を向けかけたその時だった。
第二章:移動要塞サンバーと絶対零度の重箱
キュルルル……クォォォォンッ――。
晩秋の澄んだ空気を震わせて響いてきたのは軽トラックの常識を覆す直列四気筒の緻密なメカノイズと低回転から鋭く立ち上がるスーパーチャージャーの研ぎ澄まされた過給音だった。
つづら折りの急勾配を軽やかに駆け上がってきたのは防衛省陸上自衛隊純正のオリーブドラブに身を包んだ異様な威容を誇るスバルサンバートラック。
二インチリフトアップされた強靭な足回りにゴツゴツとしたブロックパターンの大径マッドテレーンタイヤ。
フロントには堅牢なパイプアニマルガードと電動ウインチを備えリアにはクローバー4の過給機心臓部を抱え込んだまさに山林の移動要塞である。
荷台のミニクレーンと特注ジュラルミンケースの脇には大きな保温容器がしっかりと固定されていた。
ザッと砂利を小気味よく噛んで停車すると高いキャブのドアが開き愛用のフリースコートを羽織った天が爽やかな笑顔で飛び降りてきた。
助手席の特製クッションから大判の風呂敷に包まれた重箱を大切そうに抱え上げて歩み寄ってくる。
「おーい、みんな。お昼の作業、お疲れ様」
瞬間。
一条山の現場が絶対零度の極寒へと完全凍結した。
遥花をヘッドロックしていた葵の動きがピタリと止まりまひろの煙草を持つ手が宙で静止する。
天は眼鏡の奥の目をパチパチと瞬かせながら不思議そうに首をかしげた。
「美和さんがね、『寒い中、一条山で頑張ってくださっている皆さんに』って、朝から仕込んでくれたんだ。一条山の猪肉と根菜をたっぷり煮込んだ味噌汁と、シナモンを効かせた焼き林檎のデザート。……あれ? どうかしたのかい、三人とも? なんだか妙に静かだけれど」
天の無垢で穏やかな聖人のような微笑み。
そのフリースコートの胸元――昨日の午前中に美和がマフラーごと頭を埋めて震えていた事件の震源地を三人の視線が一斉に射抜いた。
そして遥花の視線が天の引き締まった腰回りへとスルスルと吸い寄せられていく。
(こ、この人が……毎晩、美和さんに……夜の……特太の……注射を……!)
ゴクリと遥花が唾を飲み込んだ気配を葵の現場レーダーが見逃すはずもなかった。
ドスッ。
葵の安全靴の爪先が遥花のすねの内側へ音もなく正確無比なローキックを叩き込んだ。
「んぐゥッッ――!?」
急所を完璧に捉えられた遥花の喉から肺の空気がすべて漏れ出るような声にならない悲鳴が上がった。
「……なんでもないっす、天さん」
葵は遥花を足元に転がしたままサッと直立不動の姿勢を取り右手をピンと伸ばして重箱を指差した。
「美和さんの特製猪汁、および焼き林檎の現物、確認ヨシ! ……天さん、マジでネ申っす。午前中の法面均しで完全に糖分と塩分が切れてたんで、めちゃくちゃ助かるっす」
「あはは、葵ちゃん、喜んでもらえてよかったよ。美和さんもね、左腕の重だるさが引いて、すっかり機嫌よく腕を振るってくれたんだ」
天が愛おしそうに目を細めて重箱の蓋を開ける。
ふわりと立ち上る味噌とシナモンの甘やかな湯気。
その横で地面にうずくまってすねを押さえる遥花の耳元へ葵がスッと影のように屈み込んだ。
ボソリとだが鼓膜を直接凍りつかせるような超低音のウィスパーボイスが注ぎ込まれる。
「……おい、遥花」
「ヒッ……」
「今夜、Bar風花へ行くっすよね。……もしカウンターで美和さんの顔見て、さっきの『夜のお注射』のフレーズを一文字でも口走ってみろっす」
葵のダークネイルが遥花の首筋をトンと軽く突いた。
「……PC20のバケットでテメェを掬い上げて、ワサビ田の一番深い暗渠の中にそのまま埋設して『転圧ヨシ!』って指差し呼称してやるからな。分かったっすね?」
「ヒ、ヒィィッ……! わ、分かりましたッス……! 墓場まで持っていくッス……!!」
葉を落とし始めた晩秋の雑木林に味噌汁の温かな湯気と少女のガタガタと震える歯の根の音が静かに溶け込んでいった。
第三章:夜の止まり木とカウンター下の攻防
九時を回り風花町の夜気がしんと張り詰める頃。
細い路地の奥に佇む『Bar 風花 -kazahana-』の重厚なオーク材の扉がカランと控えめな真鍮ベルの音を立てて静かに開いた。
外の冷気とともに滑り込んできたのは昼間の土埃をシャワーで洗い落としすっかり私服に着替えた一条山三人娘だった。
先頭を切る白石まひろは着古したヴィンテージの革ジャンに黒のストレートジーンズ。
最後尾の一条葵はオーバーサイズの黒パーカーの胸元からシルバーのクロスネックレスを揺らし首元のレザーチョーカーと耳元の安全ピンピアスを鈍く光らせている。
アンニュイなウルフロングの髪を払い気怠げな視線を流す姿は昼間の泥臭い現場監督から一変して完全な地雷系女子の佇まいだった。
そしてその二人に挟まれた赤城遥花はといえば。
(……入っちゃったッス。来ちゃったッスよ、『Bar 風花』……!)
遥花はゴクリと喉を鳴らしガチガチに強張った膝をぎこちなく前へと運んでいた。
視界の端では葵がパーカーのポケットに両手を突っ込んだままジトッとしたハイライトのない瞳で遥花の側頭部をロックオンしている。
その無言の圧力は完全にいつでもPC20の操作レバーをフルストロークで倒せる重機オペレーターのそれだった。
「いらっしゃいませ。冷え込む夜によくお越しくださいました」
鉄刀木の一枚板カウンターの奥から澄んだ鈴の転がるような美声が響く。
純白のバーコートを隙なく纏い美しい姿勢で一礼したのは櫻庭美和だった。
照明を浴びて艶めく異色瞳――右のワインレッドと左のアンバーが温かな慈愛を湛えて三人を出迎える。
その神々しいまでの佇まいは昼間の現場で遥花が口走った不埒な妄想など微塵も寄せ付けないまさに不可侵の美そのものだった。
「こんばんは、美和さん。三席、空いてるかい?」
「ええ、まひろさん。どうぞ、中央のお席へ」
カウンターに並ぶ本革張りの黒いローチェアー。
まひろが一番奥へ遥花が真ん中へそして葵が逃げ道を塞ぐように遥花のすぐ右隣へと滑り込む。
美和が温かいおしぼりを手際よく差し出しながらふわりと目を細めた。
「お昼は、一条山の皆さんで猪汁を召し上がってくださったそうで……お口に合いましたかしら?」
「最高だったよ。山の上は風が冷たかったからね、身体の芯まで温まったさ。……ねえ、遥花?」
まひろが煙草の箱をカウンターに置きながら面白がるように視線を投げる。
「ひゃ、ひゃいッッ!!」
遥花は背筋を直立不動に跳ね上げ裏返った声を上げた。
「め、めちゃくちゃ美味しかったッス! 根菜がホクホクで、お味噌のコクがこう……ガツンと染み渡って! 天さんが運んできてくれた重箱開けた瞬間、湯気がブワッて……!」
「ふふ、天ちゃんも嬉しそうに話してくれたわ。『三人とも、驚くほど綺麗に平らげてくれたよ』って」
美和が愛おしそうに口元を綻ばせる。
その何気ない天ちゃんという甘やかな響き。
そしてカウンターの上で優雅にナプキンを畳む美和の長袖バーコートの左腕。
その袖口の奥、昨日の午前中に茉莉が打ち込んだ三十ゲージの穿刺痕と千草が仕込んだという羽二重シルクパッド、そしてあの黄色い星の絆創膏が潜んでいるはずの絶対領域へ遥花の視線が磁石のように吸い寄せられていく。
(……っ! 左腕……! やっぱり天さんに……じゃなくて、昨日の茉莉先生のお注射の痕……!)
(……待て、違うッス。お昼の天さんのあの引き締まった腰回り……そして、美和さんのあの透き通るような白磁の二の腕……! あの二人が毎晩、神社の裏の平屋で……ふ、二人だけで……夜の……特太の……ッ!)
遥花の脳内CPUが臨界点を超えてオーバーヒートを起こし鼻腔から湯気が噴き出さんばかりに真っ赤に沸騰し始めた。
その口唇が痙攣するようにわなわなと震えだす。
「あのっ……美和様……! 天さんって……天さんの……その……夜の……す、すたみな……ッ」
カチリ。
隣で金属が擦れ合う微かな音がした。
遥花が恐る恐る視線を右斜め下へ落とすと葵がダークネイルの親指で耳元の安全ピンピアスをギリと弾いていた。
アンニュイを極めた葵の右手がカウンターの死角でスルスルと伸びてくる。
そして遥花の右太もものデニム生地を親指と人差し指の腹で万力のようなトルクをかけてギュゥゥゥゥッと90度捻り上げた。
「ぎっ……!?」
激痛に耐えかねた遥花は肺の空気をすべて吐き出すような声にならない悲鳴を上げカウンターの下で身体をくの字に折り曲げた。
「美和さん」
葵は一切表情を崩さず平熱以下のウィスパーボイスで滑らかに会話を上書きした。
「こいつ、山風に当たりすぎて完全に脳のキャブが詰まってるっす。気にせずスルーしてほしいっす」
「あら……遥花ちゃん、大丈夫? 少しお顔が赤いわよ。熱でもあるのかしら」
美和が心底心配そうにカウンター越しに身を乗り出してくる。
至近距離に迫る世界で一番美しい二色の瞳とかすかに漂う甘い桜の香り。
遥花は太ももを引き千切られそうな激痛に耐えながら涙目で激しく首を横に振った。
「だ、だいじょうぶッス! 熱湯風呂に入ったタコみたいになってるだけッスから!!」
「そう? 無理はなさらないでね。……葵ちゃんは、今夜もいつものかしら?」
「……っす。美和さんの特製辛口ジンジャーエールと、一条山のみかんを使った柑橘シーシャをお願いするっす」
「かしこまりました。まひろさんは?」
「あたしはアードベッグをロックで。……それと、この茹でダコには、頭が冷えるような炭酸強めのノンアルコールを頼むよ」
まひろが吹き出しそうになるのをニヤニヤと堪えながらオーダーを告げた。
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
美和が静かに一礼し氷を取り出すために背後のパントリーへと向かう。
その背中が見えなくなった瞬間だった。
「ぎゃああああ痛い痛い痛いッス葵ちゃん!! 肉が! 太ももの内側の柔らかいお肉が千切れるッス!!」
「……誰が夜のスタミナの話をしていいっつったっすか」
葵は指先の万力を緩めず氷点下のジト目を遥花へ突き刺した。
「あと一ミリでも声帯が振動して余計な単語を吐き出したら、膝関節の靭帯に直接アンカーボルト打ち込んで現場固定するっすよ」
「ひぃぃっ! だって美和様が近すぎるッス! あんな尊いお顔で『天ちゃんが』なんて言われたら、昼間の妄想がフラッシュバックして脳のヒューズが全部飛ぶッスよ!!」
「飛んだヒューズは現場で直結すればいいっす」
「横暴すぎるッス!!」
二人がカウンターの下で激しい攻防を繰り広げているとパントリーの引き戸が静かに開き純白のエプロンを揺らした千草が盆を持って優雅に現れた。
「あらあら、まあまあ♪ 一条山の元気な小鳥さんたち、いらっしゃいませぇ♪」
千草はおっとりと微笑みながら三人の前へ自家製ピクルスと燻製ナッツの小鉢をコトンと置く。
「今夜は冷え込みますから、美和様が腕によりをかけてジンジャーエール用の生姜シロップを煮詰めていらっしゃいましたのよ。……あ、葵さん、シーシャの炭は、わたくしが極上のオガ炭をしっかり熾しておきましたからねぇ♪」
千草は小鉢とともにカウンターの端へ最高級ガラスとエジプト製真鍮で仕立てられたシックな特注シーシャパイプを静かに据えた。
風花町特産のみかんとオーガニックハーブを調合した完全ノンニコチンノンタールの特製ブレンド。
そのトップボウルへ赤熱したオガ炭が手際よくセットされる。
「あざす、千草さん。炭の火加減、完璧っす」
葵はホースの吸い口を受け取ると軽く吸い込みふぅ〜……と澄んだ白い煙を天井へ細くくゆらせた。
炭の熱量管理と空気の微調整。
かつて天からキャブセッティングと同じだと手解きを受けた通りの絶妙な温度感に葵のアンニュイな瞳がふっと微かに和らいだ。
第四章:純白の告白と暗渠転圧の祈り
そこへパントリーから氷を手にした美和が戻ってきた。
重厚なロックグラスと背の高い二脚のクリスタルタンブラーをバーマットへ並べ氷をピックで手際よく割っていく。
その流れるような所作の最中ふと美和がほんの一瞬だけ左腕の動きを止め眉を微かに寄せた。
カフスの下で黄色い星の絆創膏が貼られた上腕後外側の筋肉が重たい氷を割る衝撃でツンと引き攣るように痛んだのだ。
「……っ」
美和は誰にも気づかれないよう小さく息を吸って痛みを逃がそうとした。
だがその微細な変化を美和を絶対神として崇める葵と妄想の暴走機関車と化した遥花というカウンターの二大信徒が見逃すはずもなかった。
(い、痛覚反応を確認ッ……!)
遥花の背筋にビビッと電流が走る。
(左腕……! やっぱりまだ痛むんだ……! 昨日の茉莉先生のお注射の後が……!)
(……いや、待てッス。もしかして昨日の夜……天さんが……あんなに優しそうな顔をして……『美和さん、痛みますか?』とか言いながら……痛む左腕を庇う美和さんを……ベッドの上で……あんなことやこんなこと……ッ!!)
ドクン、ドクンと遥花の心臓が早鐘を打つ。
「……美和様」
絞り出すような限界寸前の声が遥花の口から漏れた。
隣で葵がハッと息を呑み再び万力の手を伸ばそうとする。
だがそれよりも早く遥花の両手がガタガタと震えながらカウンターの上へと叩きつけられた。
「美和様っ! あ、あの……っ、天さんはっ! 天さんは昨日の夜、その……優しかったッスか……!?」
静寂。
『Bar 風花』の澄みきった空気がピシリと凍りついた。
まひろが燻製ナッツの小鉢へ伸ばしかけた手を止め葵の瞳のハイライトが完全に死滅する。
美和は氷を割る手を止めパチパチと異色瞳を瞬かせた。
そして遥花の言葉の意味を純粋に受け止めたようにほっと胸を撫で下ろして柔らかく微笑んだのだ。
「ええ……天ちゃん、本当に優しかったわ」
遥花の脳内で目に見えない特大榴弾が直撃して爆発四散した。
「注射の後、腕が少し重たくて熱を持っていたのだけれど……天ちゃんが一晩中、冷たいタオルを取り替えて腕を冷やしてくれて、不安がる私の手をずっと大きな手で温めてくれたの」
遥花の理性の防波堤が派手な音を立てて音速で崩壊していく。
「『僕がついていますから、安心して眠ってくださいね』って、眠るまでずっと背中をトントン撫でてくれて……。本当に、私にはもったいないくらい、優しい夫よ」
美和は照れくさそうに陶器のような白い頬をほんのり桜色に染め慈愛に満ちた笑みを零した。
それはどこまでも純真でどこまでも温かい神代の夫婦の無垢な愛の告白だった。
だが俗世のフィルターで限界突破していた遥花の脳みそにとっては致死量の猛毒以外の何物でもなかった。
「……ッッ、ア゛ッッ……!!!!」
遥花は両手で顔を覆い椅子の背もたれへガクンと仰け反った。
「尊い……っ! 尊すぎて内臓が全部ひっくり返りそうッス……!! 一晩中……っ、大きな手で……背中をトントン……ッ!! 神様……仏様……木花咲耶姫様……ウチを……今すぐ一条山の暗渠に……転圧して……ッ!」
「……遥花、安心しろっす」
葵が静かに立ち上がり安全ピンのピアスを冷たく光らせながら遥花の首根っこをガシッと掴んだ。
「テメェの遺言通り、今夜中にPC20で深さ二メートルの穴掘って、砕石と一緒に綺麗に転圧してやるっす」
「ひぃぃっ! 葵ちゃん目がマジっす! 助けてまひろ姉ぇぇぇ!」
「あっはっはっはっは!」
まひろがカウンターをバンバン叩き涙を流して大爆笑した。
「美和さん、悪いね! こいつら山から下りてきたばっかりで、野生の猿と変わらないんだ!」
「あらあら……まあまあ♪」
千草がエプロンを揺らしコロコロと楽しそうに喉を鳴らす。
その賑やかな攻防を前に美和は手元で流れるような所作を再開させていた。
割った氷をそれぞれのグラスへ滑り込ませメジャーカップを使わずボトルを傾けてアードベッグを過不足なく落とす。
特製ジンジャーシロップと搾りたてのライム果汁へそれぞれのタンブラーに冷えた強炭酸とトニックウォーターを氷の角に当てず静かに満たしていく。
美和はバースプーンを指先で滑らかに弄び炭酸の層をそっと持ち上げてから何が起きているのか分からず小首をかしげて微笑んだ。
「はい、お待たせいたしました。特製辛口ジンジャーエールと、アードベッグのロック……そして、遥花ちゃんには、身体の熱を冷ます特製のライム・トニックウォーターです」
澄んだクリスタルグラスに注がれた爽やかな炭酸の泡がチリチリと涼やかな音を立てる。
その時奥のパントリーの戸が静かに開いた。
「おや、皆さん揃って楽しそうだね」
洗い物を終えて清潔なリネンエプロンをつけた天が爽やかに顔を覗かせた。
「ヒッ……!!」
遥花が悲鳴を上げて葵のパーカーの背中に完全籠城した。
晩秋の冷たい風が吹き抜ける風花町の夜。
暖かな琥珀色の灯りに包まれた止まり木には少女たちの悶絶と小気味よい氷の音、そしてどこまでも穏やかな夫婦の愛の余韻がいつまでも温かく溶け合っていた。
【あとがき】
いつも『Bar風花』の物語に温かな灯りをともしていただき、心より御礼申し上げます。天照です。
今回は、前話のインフルエンザ予防接種(小鹿事件)の余波を、一条山で汗を流す三人娘の視点から描かせていただきました。
現場監督として確かな腕を持ちながら、地雷系の佇まいで現場猫の教えを尊ぶ葵。
何事にも全力で、それゆえに脳のヒューズを派手に焼き切ってしまう遥花。
そして、そんな妹分たちを煙草の煙の向こうから面白そうに見守るまひろ。
昼の山林で泥にまみれ、夜にはBarの片隅で静かに煙をくゆらせる彼女たちの存在が、風花町の日常に活気と愛嬌を添えてくれています。
どれほど下世話な勘違いや邪推が持ち込まれようと、当の美和さんと天ちゃんの間には、ただただ混じりけのない深い慈愛だけが存在しています。
「一晩中冷たいタオルを取り替えて、手を温め、背中をトントン撫でてくれた」という美和さんの飾らない告白は、邪心にまみれた遥花にとっては致死量の光そのものでした。
笑い転げたあとに、ふたりの静かで確かな結びつきが、皆様の胸にもじんわりと温かく届いておりましたら幸いです。
もし、葵の容赦ないツッコミや、遥花の豪快な尊死、そしてふたりの純愛に少しでも心がほぐれましたら、画面下の【ブックマーク追加】や、評価の【★★★★★】、温かいご感想などをいただけますと、これからの執筆の大きな励みになります。
夜風の冷たさが日増しに身に染みる頃合いとなってまいりました。
皆様もどうか、身体を温かく保ち、穏やかな夜をお過ごしくださいね。
天照(Bar風花)




