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【Bar風花 閑話】 極細針の神業と甘き林檎 〜風花町の絶対的女王、注射器の前で小鹿になる〜

【前書き】

※本作は、冬を迎える風花町で繰り広げられる、櫻庭夫婦のささやかな日常のひと幕です。

※孤高のバーテンダーが見せる、ただひとりの伴侶の前でしかこぼさない「素顔」を描いています。

※作中に登場するお酒や医療の手技、カクテルの所作は、すべて実在するものに基づいております。


山あいから吹き下ろす冷たい風が、白壁通りの古い軒先を撫でていく十一月の午前。

普段なら誰よりも背筋を伸ばし、凛とした笑みを湛えている美和さんが、今朝ばかりは天のフリースの袖をぎゅっと掴んだまま離そうとしません。

細い注射針一本に怯える神代の姫と、彼女の恐怖をまるごと抱きとめる夫の大きな手。

そして、そんなふたりの微笑ましい秘密を知ってしまった町の人々が織りなす、晩秋のあたたかな一日。

どうぞ、暖炉の火にあたるような心持ちで、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。

第一章:晩秋の風花街道と、やけに口数の少ない妻

 

 山あいから吹き下ろす冷たい風が白壁通りの古い軒先をさらさらと撫でていく十一月の午前。

 道端に積もった鮮やかな落ち葉が晩秋の柔らかな陽射しを浴びて二人が踏みしめる靴底の下でかすかにかさりと乾いた音を立てていた。

 吐く息をふわりと白く染めながら天は愛用のフリースコートのポケットに手を突っ込みのんびりとした足取りで歩いている。

 だがそのすぐ斜め後ろをついてくる美和の足取りはいつになく重くぎこちなかった。

 上質なカシミアのロングコートに身を包み首元には淡い桜色のマフラーを巻いている。

 普段の『Bar 風花』で見せる凛と背筋の伸びた佇まいとは打って変わって顎をぐっと引いたまま所在なさげに視線を泳がせていた。

 その白く細い指先は天のコートの左袖の端をまるで迷子になった子供のようにぎゅっと握りしめて離そうとしない。

「……ねえ、天ちゃん」

 マフラーの奥からくぐもった声が零れ落ちる。

 低く澄んでいるのにどこか泣き出しそうな甘やかさを孕んだ響きだった。

「はい、美和さん」

「私、今朝起きてからずっと考えていたのだけれど……今年の冬は、私、一度も風邪を引く気がしないの。毎朝、うちのお庭の新鮮な柑橘をたっぷりいただいているし、夜はあなたが薪ストーブを完璧に焚いてくれているでしょう? 私の免疫系は、今、人生で一番研ぎ澄まされているもの」

 天は足を止めコートの袖を引かれるままふっと口元を緩めて振り返った。

 見上げる美和の瞳は右の深いワインレッドと左の透き通るアンバー。

 神秘的な二色の彩光が澄みきった秋空の下で小動物のように心細げに揺れている。

「先週、『これから冬本番になって、風花町にもインフルエンザが流行り出したら大変だから。Barにいらっしゃるお客様に万が一にもうつさないよう、私たち二人で真っ先に平医院へ受けに行きましょうね』って、僕の手を引いて予約を取ったのは美和さんでしたよ?」

「うっ……」

 美和は言葉に詰まり陶器のような白い頬をみるみる朱に染めた。

「そ、それは……理屈としてはそうよ。けれど……いざあの平医院の看板が見えてきちゃうと……その、ね」

 美和の指先が天の袖口をさらにきゅっと引っ張る。

 生地越しにもその小さな指先が冷たく強張っているのが痛いほど伝わってきた。

「……どうしても、あの細くて冷たい針が、二の腕のお肉にチクリと入ってくる瞬間を思い出してしまうのよ。……あんなもの、人間の身体に突き刺して良いはずがないわ。天ちゃん、今からでも遅くないから、おうちへ引き返して、一日中天ちゃんの薪割りを見て過ごしちゃダメかしら……?」

「ダメですよ。千草お姉ちゃんにも『美和ちゃんをちゃんと連れて行ってやってね』って頼まれましたからね」

 天は困ったように苦笑しながら自分の袖を掴んでいた美和の指を大きな温かい手でそっと包み込んだ。

 冷え切った指先にじんわりと体温を移していく。

「大丈夫です。平医院の茉莉先生は、内視鏡も注射も町で一番上手なんですから。僕がずっとお隣にいますよ」

「……天ちゃんの意地悪」

 美和は小さく唇を尖らせ観念したように長いため息を零した。

 天の手のぬくもりにすがるようにして静かに平医院の門をくぐった。



 

第二章:絶対君主の受付迎撃と、小動物のカルテ

 

 自動ドアが擦れるような音を立てて開くと暖房の効いた待合室には消毒液の清潔な匂いと小気味よいキータッチの音が満ちていた。

 受付カウンターの向こうネイビーの事務スーツを隙なく着こなしているのは平志乃だ。

 胸元のスリーダイヤのピンバッジが蛍光灯を鋭く跳ね返し眼鏡の奥の切れ長な瞳がすっと二人を捉える。

「あら、櫻庭さんご夫婦。いらっしゃい。定刻通りのご来院ね」

「こんにちは、志乃さん。夫婦そろってインフルエンザの予防接種をお願いしに来ました」

 天が二枚の予診票を受付トレイへ滑らせる。

 志乃は手際よく書類のチェック欄を流し見ていたが天の背中に半分隠れるようにして小さくなっている美和へ視線を移すと口元に艶やかな笑みを浮かべた。

「……あらあら、美和さん。どうなさったの? まるでこれから麻酔なしで胃カメラを飲まされる患者さんのようなお顔をしているわね」

「し、志乃さん……ごきげんよう。そんなこと、ないわ……」

 美和はいつもの淑女の笑みを取り繕おうとしたものの声の語尾がかすかに上ずってしまう。

「隠さなくてもいいのよ。あなたのその反応、毎年うちの待合室で泣き叫ぶ小学生たちとまったく同じだわ」

 志乃はくすりと笑いカルテをクリップボードにパチンと挟み込んだ。

「安心して頂戴。今日の接種担当は、我が平医院が誇る手技の鬼……副院長の茉莉よ。あの子の穿刺技術は、大学病院の消化器内科で小児科医も顔負けの極細静脈ライン確保から、痛覚を外す皮下注射まで一発で決めてきた超一流よ。痛点(ペインポイント)を避ける神業を味わってくるといいわ」

「ひ、一発で……痛点……」

 リアルな医療用語の響きに美和がますます青ざめたその時だった。

「櫻庭天さーん、美和さーん。第一診察室へどうぞー」

 奥のドアが開き白衣を翻した茉莉の通る声が待合室に響き渡った。



 

第三章:元自衛官の平熱と、凍りつくコノハナサクヤヒメ

 

 第一診察室の丸椅子に腰を下ろすと机の向こうで聴診器を首に提げた平研造が目を細め人懐っこい笑顔を向けた。

「やあ、天くん、美和さん。寒い中よく来てくれましたね」

「お邪魔します、先生」

 天は慣れた手つきでフリースを脱ぐと長袖Tシャツの左袖を肩口まで滑らかにたくし上げた。

 日頃の山仕事や整備で引き締まった無駄のない筋肉の輪郭が露わになる。

「はい、それじゃあ天さんからいくわね。体温は三十六度四分、予診票の問診もアレルギーなし、問題なし」

 茉莉はチタンフレームの眼鏡を中指でくいと押し上げトレイからアルコール綿をつまみ上げた。

「ちょっと冷たいわよ」

 上腕後外側の接種部位を手早くアルコール綿で清拭する。

 シリンジのキャップを外し針先を上に向けて薬液の気泡をツンと弾き出した。

「チクッとするわよー。はい、息を吐いて」

 ちくり。

 針先が皮膚を捉え薬液がゆっくりと均等に入っていく。

 天は眉ひとつ動かさず静かに吐息を逃がしながらぼんやりと天井を眺めていた。

 自衛隊時代に各種ワクチンの洗礼を幾度となく受けてきた肉体にとって皮下注射の刺激など蚊に刺されたのと大差ない。

「はい、終わり。揉まないで、軽く押さえておいてね」

 茉莉が手際よく止血用ミニパッチをぺたりと貼る。

「さすが天さんね。腕全体の力みが完全にゼロだから、皮下組織への薬液の抵抗もまったくなかったわ。百点満点の被接種者よ」

「ありがとうございます、茉莉先生。全然痛くありませんでした」

 天が袖を下ろし立ち上がって美和へ席を譲ろうと振り返る。

 だがそこにいたのは診察室の引き戸の縁に両手をかけドア枠にしがみついたまま一歩も中に入ろうとしない妻の姿だった。

 二色の瞳がまん丸に見開かれトレイの上の注射器をまるで敵の抜剣でも見るかのような形相で見つめている。

「……美和さん?」

「て……天ちゃん……」

 美和の喉から掠れた切ない声が漏れた。

「私……やっぱり、お外でお待ちしているわ……。天ちゃんのお注射が無事に終わったのなら、それで十分だもの……」

「美和さん、逃げちゃダメよ」

 茉莉がトレイの横でシリンジを構えたまま呆れたように半眼になった。

「あなた、風花町の夜の止まり木を束ねる、あの凛としたバーテンダーの櫻庭美和さんでしょう? 22Bの吸排気の音を聞いただけで『今夜はよく調律されておりますわね』なんて涼しい顔で微笑んでいたあなたが、なんでインフルエンザの注射一本でそこまで怯えているのよ」

「そ、それとこれとは次元が違うわ、茉莉先生……!」

 美和は天の腕にすがりつき今にも泣き出しそうな声で訴えかけた。

「あんな金属の針で皮膚を貫くなんて、自然の摂理に反しているもの……! 痛いに決まっているじゃない……!」



 

第四章:至高の内視鏡医の手技 vs 神代の拒絶反応

 

「ふむ……美和さん、気持ちはよく分かりますよ」

 研造がカルテから顔を上げ穏やかな声で助け舟を出した。

「大人になっても注射が苦手な方はたくさんおられます。特に美和さんのように五感が澄み切っておられる方は、針の刺激を過敏に捉えてしまうものですからな。……天くん、美和さんの隣に座って、しっかり支えてあげなさい」

「はい」

 天は優しく美和の背中に手を添え丸椅子へとエスコートした。

 美和はおっかなびっくり腰を下ろすとコートを脱ぎこわばる指先で白いニットの左袖を肘の上まで持ち上げた。

 現れたのは雪のように白く柔らかな二の腕。

 けれど恐怖のあまり皮膚の下の筋肉がカチコチに引き攣っていた。

「美和さん、そんなに力が入っていたら、針が入るときに余計に痛いわよ」

 茉莉が新しいシリンジを手に取りながら息を整えるように言った。

「人間の痛覚はね、緊張して身構えるとセンサーが過敏になって、何倍もの痛みに跳ね上がるの。皮下注射の痛みなんて、物理的にはほんの一瞬の刺激に過ぎないわ」

「そ、そんな医学の正論を言われたって……怖いものは怖いんだもの……」

 美和はもう限界とばかりに隣の天のフリースコートの胸元へぎゅっと顔を埋めてしまった。

 カシミアのマフラーごと天の前胸部にすっぽりと額を押し当てぎゅっと目を閉じる。

 そして恐怖に小さく肩を震わせながら見ないように反対側へ向けて――こわごわと白く華奢な左腕だけを茉莉の前へと差し出した。

「……あちゃあ。完全に小鳥の籠城ね」

 茉莉が呆れつつも思わず口元を緩める。

「でも、視界を遮断するのは大正解よ。……天さん、そのまま美和さんの背中を抱いて、落ち着かせてあげて」

「はい。……美和さん、大丈夫ですよ」

 天は空いた右腕を美和の細い背中に回し大きな手のひらでトントンと優しくあやしながら耳元へ低く囁いた。

 天の胸板を通して美和の速い心拍と小刻みな震えがダイレクトに伝わってくる。

「僕がずっと抱きしめていますからね。……今夜のBar風花のメニュー、何にしようか。一条山の猪肉を使った温かいポトフはどうかな。美和さんが好きな、甘い焼き林檎のデザートも用意しようか」

「天ちゃん……っ、林檎……」

 胸元に顔を押し当てたままくぐもった声が漏れる。

「そう、林檎。千草お姉ちゃんに、シナモンをたっぷり効かせてもらおうね。……息を吸って。そう、深く吸って……そして、ゆっくり吐いて……」

 美和が天のぬくもりに包まれ胸元へふう……と細く息を吐き出した――まさにその瞬間だった。

 茉莉の指先が流れるような職人技で動いた。

 上腕後外側の皮膚を親指と人差し指で広範囲にキュッと軽くつまみ上げる。

 触圧覚を先行させて痛みの伝達ゲートを遮断する手技。

 つまみ上げた皮膚の頂点へ向け痛覚を刺激しないよう特別に用意された三十ゲージの超極細針が寸分の迷いもなく斜め二十度の角度ですっと滑り込んだ。

「……んっ」

 美和の細い身体がビクンと跳ね天の胸元へさらに深く顔を埋めた。

 天の服を握りしめる指先にきゅうっと力がこもる。

 だが身構えていたような鋭い痛みは走らない。

 まるで冷たい氷の粒で皮膚の表面をツンと突かれたような淡い違和感がかすめただけだった。

 茉莉は美和が再び強張る隙を与えず親指の腹でシリンジのピストンを極めて滑らかな一定のスピードで押し進めていく。

 薬液が組織を急激に押し広げて痛みを生まないよう計算し尽くされた微小流量の注入。

 そして――。

「はい、おしまい」

 サッとアルコール綿が当てられペタリと止血パッチが貼られた。

 刺入から抜針まで美和の体感としてはほんの一瞬の神業だった。

「……え?」

 美和は天の胸元に顔を埋めたまま耳だけをピクリと動かした。

「茉莉先生……今、何とおっしゃいましたの……?」

「おしまいよ、美和さん。もう針は抜けたわ」

 茉莉がシリンジを医療廃棄ボックスへカランと落としチタンフレームの眼鏡を直して悪戯っぽく微笑んだ。

「どう? 私の神業皮下注射。痛くなかったでしょう?」

「う……嘘……」

 美和は恐る恐る顔を上げ自分の左腕を見下ろした。

 そこには小さな黄色い星のマークが描かれた可愛らしい丸い絆創膏がちょこんと貼られているだけだった。

「本当に……痛くなかったわ……。チクッとも……ほとんど……」

「ふふ、だから言ったでしょう。力を抜いて、息を吐いた瞬間に打てば、痛みなんて逃げていくのよ」

 茉莉が得意げに胸を張ると研造も満足そうに頷いた。

「いやあ、茉莉の手技も大したものだが、天くんの誘導呼吸も見事だった。まさに阿吽の呼吸、夫婦の愛の勝利ですな!」

「も、もう……先生までからかわないで……!」

 美和は恥ずかしさのあまり再び天のフリースの中に顔を隠してしまった。

 診察室の中に温かく朗らかな笑い声が広がっていった。



 

第五章:第一診察室の崩壊 〜プロの仮面が剥がれた瞬間〜

 

 カチャリと引き戸が完全に閉まり待合室の向こうで退出チャイムが鳴り響いた。

 足音が完全に遠ざかり街道の静けさに溶け込んだ――その刹那。

「……ッッ、ぶふぅぅぅぅぅぅッッッ!!!」

 茉莉が両手で口元を覆い耐えきれずにチタンフレームの眼鏡を跳ね上げながらカルテ机に突っ伏した。

 肩を激しく上下させ白衣の背中をわなわなと震わせている。

「だ、ダメ……! あはははははっ! もう無理、腹筋が引き攣る……! ちょっと父さん、見た!? 今の見たでしょ!?」

「わ、ワシに振るな茉莉……ッ! ぐふっ……ふ、ふふふ……っ!」

 研造もまた首に掛けた聴診器を握りしめたまま白髪の頭を抱えてパイプ椅子の上で悶絶していた。

 老名医の顔が笑いを噛み殺しすぎて真っ赤に染まっている。

「な、なんという……なんという破壊力じゃ……! あの『Bar 風花』の美和さんだぞ!? 鉄刀木のカウンターで、どんな気難しい客でも一瞥で背筋を正させる、あの気品と神々しさの塊のような美和さんが……!」

「天さんのフリースの胸板に! すっぽり顔埋めて! 『天ちゃん……っ、林檎……』って小声で呟きながらプルプル震えて左腕だけ差し出してくるのよ!?」

 茉莉は机をバンバンと叩き涙目になりながら天を仰いだ。

「反則でしょあんなの!! なんなのあの生き物は! 保護色使って木の洞に隠れたつもりのモモンガかしら!? それとも生まれたての子鹿!? 三十ゲージの針を刺す私の手が、可愛すぎて別の意味で震えそうになったわよ!!」

「しかも天くんだよ、茉莉!」

 研造が膝を叩いて身を乗り出す。

「あの落ち着き払った『僕がずっと抱きしめていますからね』という低音の誘導呼吸! 背中をトントンするあの慣れた手つき! あれは完全に『野生の警戒心の強い小動物を手懐けきったプロの飼育員』の所作じゃないか! あんな特効薬、現代のいかなる抗不安薬(マイナートランキライザー)より即効性があるぞ!」

「ほんとそれ!! 『夫婦の愛の勝利ですな』って父さんが言った瞬間、さらにフリースに深くめり込んで再籠城したの見た!? 後頭部の髪の毛しか見えなくなってたじゃない!!」

 二人が机を挟んで腹を抱え涙を流して爆笑していると診察室の引き戸がガラリと静かに開いた。

「……お二人とも。外の廊下まで丸聞こえよ」

 氷のように冷ややかな、しかし口元を隠しきれない笑みで歪めた平志乃が二枚の電子カルテ用バインダーを手に立っていた。

 胸元のスリーダイヤのピンバッジを指先で弄びながら眼鏡の奥の切れ長な瞳を細める。

「受付の防犯カメラのモニター、見ていたわよ。あの美和さんが、行きは天さんのコートの袖を幼稚園児みたいに握りしめて歩いてきて、帰りは左腕の星の絆創膏をかばいながら、天さんの二の腕にすっかりぶら下がって帰っていったわ」

「母さん、見たのね!?」

「見たわよ。……まったく、普段はうちのパジェロ・エボを前にしても『静かな夜に似合う車ですわね』なんて涼しい顔をして見下ろしてくるくせに、注射針一本で完全に牙を抜かれた子猫じゃないの」

 志乃はふっと艶やかに唇の端をつり上げると茉莉の前の机へ電子カルテの端末をコトンと置いた。

「はい、副院長。笑い転げるのはそこまでにして、今の症例の特記事項、きっちり入力しておきなさい」

 茉莉は涙を指先で拭いキーボードに手を乗せるとまだ笑いに震える指先で猛烈なブラインドタッチを叩き込んだ。

 

【カルテ特記事項:櫻庭 美和(予防接種)】

主訴:重度の穿刺恐怖症(注射嫌い)。

症状:診察室入口での硬直および退却要求。

逃亡企図あり。

処置:夫(櫻庭 天)の前胸部への頭部完全埋没による視界遮断、ならびに誘導呼吸(好物:焼き林檎の連想療法)を併用。

上腕後外側へ30G極細針にて微小流量注入。

経過:穿刺時の疼痛訴えなし。

ただし羞恥心により、夫のフリース内への二次的完全籠城を確認。

処方:帰宅後のホットショコラ投与および夫による手繋ぎ継続。

備考:『風花町の絶対的女王、注射器の前では生後三ヶ月の小鹿と化す』。

来季も夫同伴での受診を厳命のこと。

「……よし、完璧よ」

 茉莉がエンターキーをッターン!と叩き込むと研造がカルテ画面を覗き込んで再び吹き出した。

「これ、今夜の『Bar 風花』へ呑みに行った時、美和さんの顔を直視できる自信がないぞ……」

「大丈夫よ父さん。美和さんは絶対に『昼間のことは夢想の類ですわ』って顔で、澄ました顔してグラスを拭いて迎えてくれるから」

「ふふふ。なら今夜は、カウンターでホット・バタード・ラムでも頼んで、『美和さん、左腕のお加減はいかがかしら?』って優しく微笑みかけてあげましょうね」

 絶対君主・志乃の恐ろしい囁きに平医院の診察室は再び抱腹絶倒の渦に包まれるのだった。



 

第六章:晩秋の一条山と、悶絶する三人娘 〜黄色い星の衝撃波〜

 

 葉を落とし始めた雑木林を背負った一条山の現場事務所前。

 昼下がりの澄みきった青空の下で二トンクラス超小旋回ショベル(PC20MR-3)のエンジンを止め、クローラから軽やかに飛び降りた黒木葵は作業用グローブを外して額の汗を拭った。

「ふいーっ! 午前中の法面均し、なんとか予定ラインまで追い込んだっすね!」

「お疲れ、葵ちゃん! はい、自販機のあったか〜い微糖コーヒー、キャッチっす!」

 十九歳の赤城遥花が放ったスチール缶を葵は左手でパシッと受け止めプシュッと小気味よい開缶音を響かせた。

 プレハブ事務所のドラム缶スツールにはすでに作業着のファスナーを胸元まで緩めた白石まひろが腰を下ろしている。

 愛用の缶ピーから取り出した一本にジッポの火を点け紫煙を山風に細く溶かしながらハスキーな声で短く息を吐いた。

「ご苦労さん、二人とも。午後からは湧水路の蛇籠据え付けだ。……ん?」

 まひろが咥え煙草のまま視線を山道の下方へ向けた。

 キュルルルル……クオォォォォンッ!

 晩秋の静寂を切り裂いて響いてきたのは軽自動車の排気量とは思えない鋭角な過給機ノイズと研ぎ澄まされたエキゾーストノート。

 STIのマフラーを誇らしげにチラつかせたワインレッドの往診車――スバル・R1Sが急勾配のヘアピンを完璧なイン・ベタでクリアし、砂利を小気味よく蹴散らして事務所の前に滑り込んできた。

 運転席から勢いよく飛び出してきたのは白衣の上にハーフコートを羽織りチタンフレームの眼鏡を激しく光らせた平茉莉だった。

「ちょっと! 三人ともいるわね!?」

「茉莉先生? 結社長への定期健診の問診票なら、事務所のデスクの上に……」

「書類なんて後よ後! 聞きなさい三人とも! 今ここで誰かに吐き出さないと、私の横隔膜と腹筋が破裂して死んじゃうのよ!!」

 茉莉の血圧二百超えの剣幕に三人娘は揃って目を丸くした。

 まひろが灰皿代わりにしている空き缶へ灰を落とし眉をひそめる。

「……なんだい藪から棒に。研造先生がまた内緒でアルシオーネSVXを引っ張ってこようとしたのがバレて、志乃事務長に除細動器構えられたのかい?」

「違うわよ! もっと国家機密級の重大インシデントよ! ……いい、心臓の弱い人は座って聞きなさい。今日の午前中、平医院に櫻庭天さんと美和さんがインフルエンザの予防接種に来たのよ」

「美和さんが?」

 葵が黒ネイルの指先をピクリと動かした。

 三人娘にとって櫻庭美和という女性は単なる近所のBarの店主ではない。

 此花神社の神気に守られ鉄刀木の一枚板カウンターで気高く微笑む、まさに神聖にして不可侵の絶対的女王であり全女子が息を呑む美の化身そのものだった。

「はいはい、毎年の恒例ッスよね? 美和様なら、あのワインレッドとアンバーの瞳を涼やかに細めて、針が刺さる瞬間すら一ミリも表情を崩さずに『あら、もう終わりましたの?』とかエレガントに微笑まれたんでしょーが!」

 遥花が胸を張って断言する。

 だが茉莉はチタンフレームの眼鏡を指先でクイと押し上げ不敵かつ激しく肩を震わせた。

「……それがね。大・大・大ハズレよ」

「へ?」

「美和さん、重度の注射恐怖症(ガチの針嫌い)だったのよ」

 沈黙が一条山の広場を包んだ。

 晩秋の風がサッと吹き抜けまひろの指先の煙草から一筋の煙が立ち上る。

「……は?」

 葵の口から間抜けな声が漏れた。

「注射嫌い……? あの、美和さんがっすか……?」

「そうよ! 行きの風花街道から天さんのフリースの袖を両手でぎゅっと握りしめて離さず、『私の免疫系は今、人生で一番研ぎ澄まされているもの』『おうちへ引き返して、一日中天ちゃんの薪割りを見て過ごしちゃダメかしら……?』って、半泣きで逃亡を図ったのよ!」

「ぶっ……!!」

 まひろが吹き出し激しく咽せ返った。

「ゲホッ、ゴホッ! ま、薪割りを見て過ごしちゃダメかしら……!?」

「それだけじゃないわよ!」

 茉莉が身振手振りを交え診察室の阿鼻叫喚を完全再現し始める。

「診察室のドア枠に両手でしがみついて『あんな金属の針で皮膚を貫くなんて自然の摂理に反しているもの! 痛いに決まっているじゃない!』って後退りして、天さんに椅子までエスコートされたと思ったら……もう限界って顔して、隣の天さんのフリースコートの胸元に、マフラーごと頭からすっぽり顔を埋めたのよ!!」

「ギ……ッッ!?」

 遥花が喉の奥で息を詰まらせ両手で頭を抱えた。

「胸板に顔をぎゅーって押し当てて視界をゼロにして、小刻みにプルプルプルプル震えながらね! 反対側へ向けて……見ないようにしながら、こわごわと、あの雪のように白くて細い左腕だけをスッと差し出してきたのよ!!」

「ア゛ッッッッ……!!!!」

 葵が引き裂かれたような悲鳴を上げ現場用軽トラの荷台のアオリに額を激しく叩きつけた。

「ダメっす……! 想像しただけで脳の血管が三本くらい焼き切れたっす……! なんなんすかその破壊力はァァッ!!」

「まだあるわよ!」

 茉莉の勢いは止まらない。

「天さんがね、片腕で美和さんの背中を抱きしめてトントンあやしながら、『今夜のメニューは何にしようか。美和さんの好きな焼き林檎のデザートも作ろうね』って低音で語りかけるの! そしたら美和さん、胸元に顔を押し当ててくぐもった声で、『天ちゃん……っ、林檎……』って呟くのよ!!」

「ギャァァァァァァァッッッ!!!!」

 遥花が地面に倒れ伏し枯れ草の上をゴロゴロと転がり始めた。

「尊いッッ!! 尊すぎて死ぬッス!! 『天ちゃん……っ、林檎……』!? あの美和様が!? 天さんの胸に埋まりながら林檎!? 神様仏様此花様、うちを今すぐ一条山の土に埋めてくださいッス!!」

「で、私が皮膚をつまんで痛点ブロックして、特注の三十ゲージ極細針で斜め二十度から一瞬で打ったの! 終わった後、『美和さん、もう抜けたわよ』って言ったら、胸元に顔埋めたまま耳だけピクリと動かして……父さんが『夫婦の愛の勝利ですな!』って冷やかした瞬間、恥ずかしさのあまり天さんのフリースの中にさらにズブズブめり込んで、完全再籠城よ!!」

「カハッ……ふ、ふふ……あはははははっ!」

 まひろが煙草を灰皿缶に放り込み両手で顔を覆って椅子から崩れ落ちそうになりながら爆笑した。

「腹が痛ぇ……! なんだいその小動物は! 風花町の絶対的女王が、旦那の胸板にめり込んで耳だけピクピクさせてただって!? 天も天だ、完全に百戦錬磨の猛獣使いじゃないかい!」

「極めつけはこれよ!」

 茉莉が悪魔的な笑みを浮かべ人差し指を立てた。

「打った後の左腕に貼った止血パッチ……小児科用の、『黄色い星のマークがついた丸い絆創膏』よ!!」

「「「死ぬゥゥゥゥッッッッ!!!!」」」

 一条山に三人娘の絶叫が木霊した。

「黄色い星の絆創膏……!」

 葵が軽トラのバンパーを両手でバンバン叩き涙目で天を仰ぐ。

「あの白磁のような、夜の月光みたいに透き通った美和さんの二の腕に、黄色いお星様のシールが貼られてるんすか!? 反則っす! レッドカード一発退場っすよ!! そんなの今夜Barに行ったら、カウンター越しに気になって気になって、酒の味どころじゃなくなるっす!!」

「無理無理無理ッス!」

 遥花が立ち上がり膝をガクガクと震わせる。

「もし今夜Bar風花に行って、美和様がいつもの凛としたお顔で『いらっしゃい』なんて微笑みながら長袖のバーコートからチラリとお星様覗かせたら、うちその場で合掌して昇天するッス!! 尊さの過剰摂取でアナフィラキシーショック起こすッスよ!!」

「ふーっ……ふーっ……」

 まひろがようやく呼吸を整え涙の滲んだ目尻を拭いながらポケットから温かい缶コーヒーをもう一本取り出した。

「……まいったね。あの二人が風花町の真ん中で、どれだけ深く互いを預け合ってるかってのが、嫌というほど伝わってきやがる。……美和様が唯一、完全に鎧を脱いで駄々をこねられる場所が、天のあの広い胸の中ってわけかい」

 まひろのしみじみとした呟きに転がっていた遥花もバンパーを叩いていた葵もふっと息を呑んで静かになった。

「……っすね」

 葵が照れくさそうに鼻の頭を掻いた。

「天さん、普段は控えめで何でも自分で直しちゃう優しいルポライターっすけど……やっぱり美和さんを守るためなら、世界中のどんな理不尽からも盾になる男なんすよね」

「うん……天さんの旦那力、世界遺産に登録するべきッス……」

 遥花が両手を胸の前で合わせ澄んだ秋空を仰ぎ見た。

「でしょ!? でしょ!?」

 茉莉が得意げに胸を張りチタンフレームの眼鏡をクイと押し上げる。

「だから今夜、平医院チームは三人揃ってBar風花へ突撃する予定よ。志乃事務長なんて、『左腕のお加減はいかがかしら?』って優しく耳元で囁く練習を、さっき受付の鏡の前でしていたわ」

「志乃さん、相変わらず容赦ねぇな……!」

 まひろが苦笑し葵と遥花が身を竦めた。

 秋晴れの一条山。

 澄みきった風が雑木林を揺らし重機の鉄の匂いと缶コーヒーの湯気の中で少女たちの悶絶とあたたかな笑い声が山あいの空へと溶け込んでいった。



 

第七章:止まり木のホットショコラと、星の絆創膏

 

 夕暮れ時。

 晩秋の茜色の光が障子を染める櫻庭家の居間では薪ストーブが心地よい熱を放っていた。

 座卓の上には千草が腕を振るった湯気の立つマグカップが二つ並んでいる。

「みなさま、予防接種の試練、無事にお務めを果たされましたのねぇ♪」

 純白のエプロンを揺らした千草がおっとりと微笑みながら座卓へ腰を下ろした。

「今夜は美和様のお痛みを優しく癒やすために、一条山の天然蜂蜜と純ココア、そして風花町の牧場から届きました搾りたてのジャージー牛乳をコトコト煮込みました特製ホットショコラをご用意いたしましたわ。身体の芯から温まってくださいましねぇ♪」

「ありがとう、千草」

 美和は両手でマグカップを包み込みふうと息を吹きかけてから一口すすった。

 濃厚なカカオの香りと蜂蜜のまろやかな甘みが緊張で強張っていた身体の隅々へじんわりと染み渡っていく。

「ふう……生き返るわ……」

「美和さん、腕、腫れたり痛んだりしていませんか?」

 隣に座る天が優しく声をかける。

「ええ、全然平気よ。……少しだけ、打ったところが重たいような気がするけれど」

 美和はセーターの袖を少しだけ捲り上げ黄色い星のマークがついた絆創膏を愛おしそうに指先でそっとなぞった。

 それから上目遣いに天を見つめ小さく体を寄せてくる。

「ねえ、天ちゃん」

「はい、美和さん」

「……今日の私、少し情けなかったかしら。あんなに大騒ぎして、あなたにしがみついてしまって……」

「そんなことありませんよ」

 天は穏やかに目を細め美和の頭を大きな手のひらで優しく撫でた。

「Barではいつも誰よりも凛として、町の人たちを包み込んでくれる美和さんですが……僕の前では、どんなに弱虫なところを見せてくれてもいいんです。甘えてくれる美和さんも、僕は世界で一番愛しいですから」

「……天ちゃん」

 美和の瞳が嬉しそうにとろりと細まる。

 美和はカップを座卓に置くと天の肩へこてんと頭を預け幸せそうに目を閉じた。

「来年の秋も……また平医院へ行くときは、私の手を握っていてくれる?」

「ええ、もちろんですよ。何年先でも、ずっと僕が手を握っています」

 ストーブの上でやかんが穏やかなシュンシュンという音を立て窓の外では晩秋の冷たい夜風が静かに木々を揺らしていた。

 黄色い星の小さな絆創膏と甘いショコラの温もり。

 神代の記憶を胸に秘めた夫婦の平穏な日常はどこまでも温かく優しい夜の帳の中へと溶け込んでいくのだった。



 

第八章:真夜中のBar風花と、甘美なるからかいの宴

 

 細い路地の奥で古風な真鍮ランタンが琥珀色の灯りを落とす『Bar 風花 -kazahana-』。

 厚いオーク材の扉を開けるとそこには外の冷気を忘れさせる澄みきった静寂が広がっていた。

 磨き上げられた鉄刀木の一枚板カウンターの奥で純白のバーコートの袖口をカフスボタンできっちり留め背筋を凛と伸ばして立っていたのは櫻庭美和だった。

 右目は深紅のワインレッドで左目は澄んだアンバー。

 神秘的な異色瞳を静かに伏せバカラのロックグラスをネルのクロスで曇りひとつなく拭き上げているその姿は昼間の動揺など微塵も感じさせない神々しさとプロの気品に満ち満ちていた。

 カランと真鍮のドアベルが涼やかな音を立てる。

 冷涼な夜気とともに店内へ滑り込んできたのはコートを脱ぎながら並んで入ってきた平家の三人――研造、茉莉、そして志乃だった。

「いらっしゃいませ。平先生、茉莉先生、志乃さん。冷え込む夜によくお越しくださいました」

 美和はグラスを伏せ完璧な角度の会釈で三人を出迎えた。

 声のトーンも視線の配り方も非の打ち所がない一流バーテンダーのそれである。

「こんばんは、美和さん。三人で少し身体を温めたくてね」

 研造が少年のように目を細めカウンターの向かって左端へ腰を下ろす。

 続いて茉莉がチタンフレームの眼鏡の位置を直し中央の席へ。

 そして仕立ての良いチャコールグレーのスラックスに黒のハイネックセーターを纏った志乃が美和の真正面となる席へ音もなく滑り込んだ。

 志乃はカウンターに細い両肘をつき組んだ指先の上へ顎を乗せると切れ長の瞳をスッと細めた。

 獲物を狙う山猫のような妖艶な笑みが口元に浮かぶ。

「こんばんは、美和さん。……今夜は冷えるわね。ところで――」

 志乃は身を乗り出し美和の耳元へ囁きかけるように極上のハスキーボイスを滑らせた。

「――左腕の、お加減はいかがかしら?」

 ピシリとカウンターの空気が微かに張り詰めた。

 美和の眉がわずか一ミリだけ微動だにする。

 だがそこは百戦錬磨のバーテンダー。

 美和は艶やかな微笑みを崩さず小首をかしげて見せた。

「左腕、でございますか? ええ、毎日丹念にアイシングとストレッチを行っておりますので、今夜もシェイカーを振る筋力に一片の狂いもございませんわ。……志乃さん、今夜の最初の一杯は、何になさいますの?」

「あら、とぼけちゃって」

 志乃がくすりと喉を鳴らすと隣の茉莉が待ってましたとばかりに身を乗り出した。

「美和さん、無駄よ無駄。こっちにはカルテという名の動かぬエビデンスがあるんだから。あら、せっかくシェイカーを振る気満々なところ申し訳ないけれど、今夜は温かいカクテルをお願いできるかしら? ……そうね、例えば、バターとスパイスの効いた『ホット・バタード・ラム』なんて最高じゃない? あ、使うラムは『ロン・サカパ 23』でお願いね。あの濃厚なバニラと焦がし糖の香りで……シナモンをたっぷり振った『焼き林檎』の気分を味わいたいのよ」

「……っ」

 美和の喉元が微かに小さく上下した。

 だが視線を逸らすことはない。

「畏まりました。ロン・サカパのホット・バタード・ラムでございますね。……研造先生と茉莉先生は?」

「ワシはな、タリスカーの十年をストレートで、チェイサーをつけてもらおうかの。……いやあ、今夜は酒が五臓六腑に染み渡りそうじゃ。昼間の感動的な『夫婦の愛の結晶』を思い出すだけで、寿命が十年は延びた気がしてな」

「私はフィーバーツリーのトニックで割ったブードルズ・ジンのジントニックをちょうだい。……あ、美和さん。ライムを絞るとき、左腕の筋肉に過度なトルクをかけないように気をつけてね。三十ゲージの穿刺痕が広がっちゃうといけないから」

「……お気遣い、痛み入りますわ」

 美和は静かに一礼するとバックバーへ背を向けた。

 耐熱グラスを湯煎で温め無塩バターと角砂糖、シナモンスティックとクローブを準備する。

 右手でボトルを滑らかに傾けメジャーカップなど使わず手首の角度と液体の流速だけで正確無比に四十五ミリリットルのロン・サカパを注ぎ落とす。

 その一連の流れるような所作はまさに芸術品だった。

 ――ただ一点、耐熱グラスを支える左腕を添える角度が普段よりほんのわずかに控えめであること以外は。

「ねえ父さん、見た?」

 茉莉がカウンターの下で研造の膝を小突き小声で耳打ちする。

「左腕の挙上運動、無意識にかばってるわ。打った部位が少し重だるいのね」

「うむ……あの白磁のような皮膚の下で、今まさに免疫抗体が作られておる証拠じゃな。実に愛らしいではないか」

「ちょっとお二人とも、丸聞こえよ」

 志乃がグラスを拭く天へ視線を投げ妖艶に微笑む。

「天さん。あなたも大変だったわねぇ。あの逞しいフリースコートの胸元、今夜はちゃんと陰干しして差し上げたのかしら? あれだけ深くすっぽりと顔を埋められて、涙と吐息を吸い込んだのだから、さぞかし温もりが残っているでしょうに」

 カウンターの端でチェイサーの準備をしていた天は困ったように苦笑しながら眼鏡を直した。

「志乃さん、お願いですから美和さんをあまりいじめないでください。平医院を出てから家に着くまで、ずっと不安そうに僕の袖をぎゅっと握りしめていたんです。本当に怖かったんですよ」

「天ちゃんッ!?」

 美和がカッと顔を真っ赤にして振り返った。

 その瞬間、純白のバーコートを纏った孤高のバーテンダーの鎧に決定的な亀裂が入る。

「な、何を余計なことをおっしゃっていますの……! あ、あれは足元が少し滑りやすかったから、掴まっていただけでしてよ!」

 美和は手元のバーマットへ耐熱グラスを据えると研造のチェイサーと茉莉のジントニックの準備を進めるためアイストングを手に取った。

 その時――。

「あらあら、まあまあ♪」

 奥のパントリーの引き戸が滑らかに開き純白のエプロンを揺らした千草が銀のお盆を抱えて優雅に現れた。

「みなさま、いらっしゃいませ。美和様、お二の腕のお星様の絆創膏、カフスの擦れで痒くなったりはしていらっしゃいませんかぁ? 痛みがぶり返さないよう、今夜のバーコートの内側には、わたくし特製の羽二重シルクパッドを縫い付けておきましたから、ご安心くださいましねぇ♪」

 ドカンとカウンターに目に見えない特大榴弾が着弾した。

「ぶふっっ……!!」

 茉莉が吹き出しカウンターに突っ伏して両手で顔を覆った。

「お、お星様の絆創膏……! カフスの中にまだ貼ってあるのね!? 見せて! 美和さん、主治医として経過観察の義務があるわ! カフスを外しなさい!!」

「だ、断じてお見せいたしませんわ!!」

 美和はトングを握りしめたままサッと左腕を背中に隠し異色瞳を吊り上げて後退りした。

「いやあ、素晴らしい!」

 研造が膝を叩いて大笑いする。

「小児科用の黄色い星マークをつけたまま、名酒のホット・バタード・ラムを作るバーテンダー! これぞ風花町の奇跡、至高のギャップ萌えですな志乃さん!」

「ええ、本当に。受付の防犯カメラの映像、平医院の創立記念パーティーのスライドショーに永久保存版として組み込んでおきたいくらいだわ」

「志乃さんまで……ッ! もう、皆様……!」

 美和の顔は耳たぶから首筋までまるで林檎のように真っ赤に染まりきっていた。

 普段の威厳はどこへやら潤んだ両目をパチパチと瞬かせ助けを求めるように天の背中へと視線を送る。

 それでも美和はプロの意地とばかりに素早く手元を動かした。

 耐熱グラスへ熱湯を注ぎシナモンスティックで丁寧にステアした黄金色のカクテルを志乃の前へ。

 続けざまにストレートグラスへ琥珀色のタリスカーを手際よく落としてチェイサーを添え、氷を満たしたタンブラーへブードルズ・ジンとトニックウォーターを滑らせてバースプーンで静かに氷を持ち上げて三脚を同時に滑らせた。

 グラスからはロン・サカパの甘美な熟成香と溶けたバターの濃厚なコク、そしてスパイシーなシナモンの香りが湯気とともにふわりと立ち上る。

 美和はぷうっと小さく頬を膨らませ上目遣いに三人を見据えた。

「……はい、どうぞ。お望み通りの、シナモンたっぷりのカクテルでございますわ。……皆様、本当に意地悪でいらっしゃいますこと」

 その拗ねたような仕草に志乃は満足そうに目を細め熱いグラスを両手で包み込んだ。

「ふふっ……いただきますわ、美和さん。……ええ、とても優しくて、甘くて、身体の芯まで温まるわ」

「ジントニックも最高よ、美和さん。炭酸の抜けが完璧」

 茉莉が眼鏡を指で押し上げ笑い涙を拭いながらグラスを掲げる。

「タリスカーも美味い。天くん、今夜は美和さんに、甘い林檎をたくさん食べさせてやりなさいよ」

 研造が破顔し琥珀色の液体を喉へと流し込んだ。

 カウンターの中では天が優しく美和の肩へ手を置きそっと耳元で囁いた。

「美和さん、カクテル、とても美味しそうですよ」

「……天ちゃんが余計なこと言うからよ。もう……」

 美和は天の服の裾をキュッと小さく摘み怒ったふりをしながらもその手のひらの温もりに安心したようにふうと長い吐息を漏らした。

 鉄刀木の一枚板カウンターにクリスタルグラスの澄んだ乾杯の音が重なる。

 窓の外では晩秋の冷たい風が夜の街を吹き抜けていたが温かな灯りに包まれた店内にはからかいと慈愛に満ちた笑い声がいつまでも穏やかに溶け合っていた。

【あとがき】

いつも『Bar風花』を温かく見守っていただき、心より感謝申し上げます。天照です。

今回は、冬の気配が濃くなる頃に誰もが通る「インフルエンザの予防接種」をきっかけに、櫻庭夫妻の少しこそばゆく、どこまでも優しい日常をお届けしました。

鉄刀木のカウンターに立ち、町の人々の心を静かにほぐしていく美和さん。

けれど、どんなに気高く美しい彼女であっても、大好きな天ちゃんの胸の中だけは、すべての鎧を脱ぎ捨てて、駄々をこねる「ひとりの女性」に戻れる唯一の聖域なのだと思います。

三十ゲージの針に怯えて「天ちゃん……っ、林檎……」と小さく震える美和さんと、当たり前のような顔でそれを受け止め、呼吸を導いてあやす天ちゃんの圧倒的な包容力。そして、ふたりの絆を愛おしそうにいじり倒す平医院の面々や一条山の三人娘の賑やかさを、一緒に楽しんでいただけたなら何よりです。


もし、今回の美和さんの愛らしいギャップや、ふたりの静かな純愛に少しでも心が温まりましたら、画面下の【ブックマーク追加】や、評価の【★★★★★】、励ましのご感想などをいただけますと、次の夜を紡ぐ大きな力になります。


冷え込む夜が続きます。

皆様もどうか、シナモンをきかせた温かい飲み物でも片手に、身体を大切にお過ごしくださいね。

天照(Bar風花)

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