【Bar風花 閑話】 深海の白身大トロと黄金の雫 〜男の尊厳を賭けた四十時間の防衛戦〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花-kazahana-』の世界観を共にする、日常のひと幕を描いた外伝エピソードです。
※ 実在する深海魚の生態、および食品衛生法上の規定に触れていますが、危険ですので絶対に真似をなさらないでください。
※ 男の尊厳をかけた必死の防衛戦を、温かな目で見守っていただければ幸いです。
冬の乾いた風が風花山を撫で、櫻庭家の居間にはやかんの湯気が柔らかく揺れています。
玄界灘の底知れぬ暗黒から引き上げられた、白磁のように美しい禁断の白身。
ルポライターとしての抑えがたい探求心と、ほんのわずかな油断が招いたのは、人智を超えた流体力学の罠でした。
血相を変えて駆けつける町の名医、過剰な母性を広げるメイド、そして、オムツを胸に聖母のように微笑む妻。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
今夜も、静かな灯りを点してお待ちしております。
第一章:玄界灘の黒い誘惑と、禁断の一片
玄界灘から吹きつける冬の潮風は鉛色の夜の海を激しく波立たせていた。
水産資源と沿岸漁業の変遷を追う雑誌の特集ルポ——その現場取材のため天は呼子港を出港した深海延縄漁船の甲板に立っていた。
ウインチが鈍い軋み音を立て漆黒の海中から極太の幹縄を巻き上げていく。
水深数百メートルの暗黒から引きずり出されたのは体長一・五メートル体重四十キロを優に超える巨大な怪魚だった。
集魚灯の白光を浴びて現れたその巨躯は全身が黒褐色の硬い鱗に覆われエナメル質のとげが逆立っている。
異様に巨大なエメラルドグリーンの瞳が底知れぬ深海の冷たさを宿したまま濡れた甲板を見据えていた。
「へへっ、出ちまったな。アブラソコムツだ」
ゴム前掛けを着けた船長が長靴の爪先で魚体を軽く小突き煙草の煙を吐き捨てた。
「船長、これが噂に聞く……」
「ああ。食品衛生法で販売も流通も禁じられてる、いわゆる『禁断の魚』さ。市場に流せば一発で営業停止を食らう代物だがね。……だが天さん、こいつの身の脂の乗り方は本マグロの極上大トロどころの騒ぎじゃねえぞ。舌の上に乗せた瞬間、体温でふわりと消えちまう。漁師の間じゃ『この世で一番美味い白身』なんて呼ぶ奴もいるくらいだ」
「流通が禁止されている魚の、知られざる食文化……ですか」
ルポライターとしての業というべきか天の胸の奥で真実を舌で確かめたいという探求心が小さく疼いた。
港へ戻り番屋の板場で手際よく捌かれたアブラソコムツの肉塊は息を呑むほど美しかった。
純白の筋肉組織の隅々にまできめ細やかな脂のサシが網の目のように行き渡っている。
包丁を引くたびに刃先が吸い付くような重厚な手応えがあった。
醤油皿へ落とした一切れからは瞬く間に透明な油膜が円を描いて広がっていく。
「天さん、食べるなら二切れまでにしときなよ。それ以上いくと、明日の昼頃には自分が人間であることを後悔することになるからな」
船長の忠告に天は神妙に頷いた。
一切れ箸で摘んで口へと運ぶ。
——刹那、天の思考が吹き飛んだ。
甘い。
そして恐ろしいほどに滑らかだった。
噛む必要すらない。
舌の熱だけで上質なバターのようにほどけ、濃厚なコクと上品な白身の旨味が喉の奥へと滑り込んでいく。
本マグロのような酸味や血の匂いは皆無で、ひたすら清らかな油の甘みだけが広がる。
(……美味い。これは確かに知らなければ書けない味だ……)
二切れ目を噛み締め天は深く息を吐いた。
だが皿の上には船長が余興でバーナーで炙ったハラスの切り身が香ばしい煙を立てて鎮座していた。
炙られた脂がパチパチと爆ぜ抗いがたい芳香を放っている。
「……一切れや二切れ余計に食べたところで、大差はあるまい」
元自衛官として泥水を啜るような野外訓練も耐え抜いてきた。
人並み外れて強靭な内臓を持っているという自負がほんのわずかな油断を生んだ。
箸が伸びた。
炙りを二切れ。
さらに皮を綺麗に引いた身の塩焼きの小片を一つ。
合計五切れ。
それが人智を超えた生化学の罠であることに、その時の天はまだ気づいていなかった。
第二章:静寂を侵す無音の重力 〜人体の制御弁崩壊〜
翌日の午後。
風花町は冬の柔らかな日差しに包まれていた。
櫻庭家の居間では石油ストーブの上でやかんが心地よいシュンシュンという音を立てている。
天は座卓にノートパソコンを開き昨夜の取材メモを整理していた。
縁側では美和が冬の光を浴びながら丁寧に針仕事を運んでいる。
時折針の手を止めて天の横顔を見つめ、慈しむように目を細める。
「天ちゃん。昨夜はお寒かったでしょう。今朝はお顔の色があまり優れないように見えますけれど、お疲れは残っていらっしゃいませんか?」
「大丈夫ですよ、美和さん。玄界灘の夜風は確かに冷えましたが、船長たちが親切にしてくれましたから。原稿もいいものが書けそうです」
そこへ足音も立てずに廊下の障子を滑らかに開け、純白のエプロンを揺らした千草が現れた。
サヴィル・ロウ仕立てのクラシックなロング丈メイド服に身を包み、大粒のエメラルドピアスをかすかに揺らしている。
お盆に載せた湯気の立つ玉露と自家製の栗蒸し羊羹を座卓へとおっとり並べた。
「あらあら、天さん♪ お仕事に熱が入っていらっしゃいますのねぇ。玄界灘の厳しい寒波を浴びてこられたのですもの、お身体を芯から温めてくださいましねぇ♪」
「ありがとうございます、千草さん。いつもすみません」
天が微笑み返しお茶に手を伸ばした——まさにその瞬間だった。
下腹部の奥深くに、これまでの三十余年の人生で一度も経験したことのない「ぬくもり」が走った。
腹痛はない。
胃痙攣のような締め付けもなければ、下痢の兆候である腸の蠕動音すら皆無だった。
ただ大腸の内部で何かの物質が「摩擦係数を完全にゼロ」にして、滑らかな坂道を下るように音もなく下降を開始したのだ。
(……ん? 便意……ではないな)
天は湯呑みを取ろうとした手を止め、無意識に下腹部へと全神経を集中させた。
便意というものは通常、直腸壁が刺激されて生じる神経反射であり、外肛門括約筋を意識的に収縮させることで排泄を制御できるものだ。
だが今そこにあるのは神経を介した反射ではない。
純粋な流体力学。
傾斜と重力に従い液体がただ下へと浸透してくる物理現象そのものだった。
(待て……。止まらない……!?)
天の背筋に氷水を一気に流し込まれたような悪寒が走った。
括約筋をこれ以上ないほど強固に締め上げる。
自衛隊仕込みの筋骨逞しい肉体が鋼鉄の防潮堤となって門を閉ざそうとする。
しかし相手は固体でも泥状でもない。
体温で極限まで粘度を失ったサラサラの純粋な油分なのだ。
筋肉の微細な隙間を毛細管現象のように押し広げながら、液体が重力に従ってじわりと前進してくる。
「……っ!?」
天の額から大粒の脂汗が吹き出した。
声を出せば腹圧が変わって決壊する。
天はノートパソコンを音もなく閉じ、極限まで爪先に重心を乗せながらすり足で座卓から立ち上がった。
「天ちゃん? どうかなさいましたの?」
「あらぁ? 天さん、お顔が真っ青ですわよ?」
美和と千草が揃って怪訝そうに小首を傾げる。
「い、いえ……ちょっと、お手洗いに……」
掠れた声でそれだけを絞り出し、天は内股のまま摺り足で廊下へと消えた。
トイレの引き戸を閉め内鍵をカチャリと掛けた瞬間、天は便座へ崩れ落ちるように腰を下ろした。
恐る恐る下着を確認する。
白い木綿の生地の中央に直径五センチほどの、見たこともない鮮やかなネオンオレンジの染みが広がっていた。
無臭。
腐敗臭も便臭も一切ない。
ただ機械油のように透き通った蛍光色を帯びたオレンジの油膜。
「……嘘だろ……」
個室の静寂の中、元自衛官の男の喉から絶望的な呻きが漏れた。
意志の力では一滴たりとも堰き止めることができない。
天の人体は今、底の抜けた油圧タンクと化していた。
第三章:消化器内科医の緊急臨検 〜リパーゼの敗北〜
天がトイレに籠城してからすでに四十分が経過していた。
トイレットペーパーを幾重にも折り重ねて下着の内側に仕込んでも、わずか数分でサラサラのオレンジ油が飽和しじわりと外側へ浸透してくる。
便座から立ち上がることすらできない。
廊下からトントンと控えめなノックの音が響いた。
「天ちゃん……? もうずいぶん長くいらっしゃいますけれど、本当にお加減がお悪いのではありませんか? 扉を開けてくださいな。お背中をさすりますわ」
「だ、駄目です美和さん! 絶対に入ってこないでください!」
「あらあら、天さん♪ 籠城戦をお決め込みですの? 気密性の高いお部屋とはいえ、扉の隙間からかすかに……そう、極上の深海魚を塩焼きにしたような、香ばしい脂の匂いが漂ってまいりますのよ〜♪」
千草の恐ろしく鋭い嗅覚とおっとりした指摘に天は個室の中で頭を抱えた。
「そ、そんな……! 声がひどく震えていらっしゃいますわ! 千草、私、平医院にお電話してまいります!」
「待って、美和さん! 医者を呼ぶような病気じゃ……あ、美和さん!? 美和さぁぁん!!」
天の悲痛な叫びも虚しく廊下を小走りに去っていく美和の足音が聞こえた。
そしてわずか数分後。
風花町の静寂を切り裂いて平内科医院の往診車——あの狂気的な過給圧チューンが施されたスバル・R1Sが、凄まじいスキール音とともに櫻庭家の庭先へ滑り込んできた。
ガラリと玄関の引き戸が乱暴に開く。
「天さん!! 大丈夫なの!?」
廊下を軍靴のように鳴らして突き進んできたのは、往診バッグを抱えチタンフレームの眼鏡を光らせた平茉莉医師だった。
その後ろから息を切らせた研造院長と美和が続く。
茉莉がトイレのドアノブを激しく揺さぶった。
「天さん、鍵を開けなさい! 急性虫垂炎の穿孔? それとも虚血性腸炎!? 顔色が悪かったって美和さんから聞いたわよ! それに四十分も籠城してるなんて異常事態よ! 油だけじゃなく、腸液の水分や電解質も一緒に引っ張られて急速な脱水症状を起こすわよ! 天さん、水分はちゃんと摂れているの!?」
茉莉の鋭い問いかけに背後から千草が「まあまあ♪」と銀のお盆を掲げて優雅に進み出た。
「茉莉先生、ご安心くださいませ♪ わたくし、一条山の湧き水に天然塩とブドウ糖、自家製のカボス果汁を黄金比でブレンドいたしました特製経口補水液を、ポットごとご用意しておりますわ♪ ドアの隙間からストローでお差し入れいたしましょうかぁ?」
「千草さん、ナイス判断よ! ……って、感心してる場合じゃないわ! 天さん、何があったの、何を隠しているのよ!」
観念した天は個室の奥から消え入りそうな声で白状した。
「……アブラソコムツを……取材先の港で……五切れほど……」
瞬間。
廊下の空気がピシリと凍りついた。
「…………は?」
茉莉の口から低く地を這うような声が漏れた。
「あ、アブラ……ソコ……ムツ……?」
「はい……刺身を二切れと、炙りを二切れ……塩焼きを一欠片……」
「アブラソコムツですってぇぇぇぇぇッッ!!!???」
平屋全体が激震するほどの茉莉の絶叫が炸裂した。
チタンフレームの眼鏡が完全に傾き、茉莉はドアに額を叩きつけるようにして怒声を張り上げた。
「あなた、正気なの!? 元自衛官の危機管理意識はどこへ消えたのよ!! アブラソコムツの筋肉に含まれる脂質の九割以上は『ワックスエステル』——高級脂肪酸と高級アルコールが結合したエステル化合物よ! 人間の消化器官が分泌する膵リパーゼはね、トリグリセリドは分解できても、ワックスエステルを加水分解する能力なんて持っていないの! 生化学的に、人間には一ミリも消化・吸収できないのよ!!」
「は、はい……身をもって知りました……」
「体温三十七度の中で、その脂がどうなるか考えたことある!? 完全に粘度を失った超低粘度の工業用オイルよ! それが胃から十二指腸、小腸、大腸の粘膜をコーティングしながら、ブレーキの壊れた急流のように滑り降りてきてるの! 便意の神経反射を介さないから、自律神経も括約筋も無力化されて当然よ! 現代医学のいかなる止瀉薬も、物理的な重力落下を止めるエビデンスなんて持ち合わせていないわよ!!」
研造が腕を組み深く感心したように髭を撫でた。
「うむ……あれは昔、南方戦線の軍医日誌にも『悪魔の油魚』と記されていたな。屈強な下士官が、歩哨の最中に知らず知らずのうちにズボンを黄金色に染め、音もなく男の威厳を失っていったという……恐ろしい自然の摂理じゃ」
「お父さん、呑気に民俗医学の昔話を語ってないで!!」
茉莉が髪を振り乱して父親を怒鳴りつけた。
「櫻庭家の無垢の一枚板と、極上の畳の防衛戦よ! 一滴でもあんな工業油を垂らしたら、風花町の文化財級の床板に一生消えない油染みが残るわ!!」
第四章:櫻庭家絶対防衛戦 〜オムツと男のプライド〜
茉莉は往診バッグを床へ放り出すと玄関へ駆け戻り、R1Sのトランクから巨大な段ボール箱を両腕で抱えて戻ってきた。
ドサリと廊下に置かれた箱の側面には太いゴシック体で誇らしげに印字されている。
『大人用・高吸収メガポリマー介護用オムツ 夜間安心特大パッド付属 男女共用』
「さあ天さん、ドアを十センチだけ開けなさい! 最新の医療用兵站物資を投入するわ!」
ドアの隙間から覗いた天の顔は幽霊のように青ざめ、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ま、茉莉先生……まさか、それを……僕に穿けと……?」
「当たり前でしょう! 今のあなたの骨盤底筋群は、パッキンが吹き飛んだ油圧シリンダーと同じよ! この特大パッドを二重に当てて、外側からテープ式オムツで完全密閉する以外に、無垢材の床を守るプロトコルは存在しないわ!」
天が絶望に打ちひしがれたその時、背後から進み出たのは美和だった。
その異色瞳には聖母のような、どこまでも深く澄みきった無償の愛の光が宿っている。
「天ちゃん……恥ずかしがることはありませんわ」
美和は優しく微笑み、茉莉の手から特大オムツを受け取ると両手で恭しく胸元に抱いた。
「夫婦とは、健やかなるときも、病めるときも……たとえワックスエステルに苛まれるときであっても、共に分かち合い、支え合うものと神前に誓いましたわ。さあ、ドアをお開けになって。私がお当ていたしますわ」
さらにその隣から千草がKカップの豊満な胸元を優雅に揺らし、天使のような慈愛の笑みを浮かべて寄り添ってきた。
「あらあら美和様、素晴らしいお心構えですわ♪ ……でも天さん、ここは櫻庭家のメイド頭として、わたくしにお任せくださいませぇ。赤子に戻られたおつもりで、わたくしの胸に身を委ねてくださいな。どれだけ激しい油の奔流であっても、このわたくしが手際よく綺麗さっぱりお当て替えいたしますわよ〜♪」
「美和さんも千草さんも、お願いだから来ないでぇぇぇぇッッ!!!」
天の魂の絶叫がトイレの個室から響き渡った。
「誓いの言葉にワックスエステルを混ぜないでください!! 千草さんも胸元を広げないで!! 妻とお姉ちゃんにオムツを当てられたら、僕の男としての尊厳が完全に灰になって消滅します! 死んでも自分で穿きます! 隙間から物資だけを投げ入れてください!!」
ドアの隙間からガサガサと音を立ててオムツと特大パッドが押し込まれた。
個室の中で必死の形相で下半身を拘束していく天。
そこへ外から研造の重厚な助言が飛ぶ。
「天くん、油断するなよ! 高吸収ポリマーは水性(尿)には絶大な威力を発揮するが、親油性のワックスエステルはポリマーの網目をすり抜けてギャザーの隙間から漏れ出す恐れがある! オムツの上から四十五リットルのゴミ袋を二重に穿き、太ももと腰回りを布ガムテープで完全にシーリングするのじゃ!」
「先生……! その具体的なアドバイス、絶対に過去に誰かがやらかした臨床データですよね……!?」
涙声で叫びながらも天は言われた通りにゴミ袋へ両足を通し、布ガムテープで太ももを何重にも密閉した。
カチャリと内鍵が開く。
トイレのドアがゆっくりと開いた。
そこには下半身をモコモコとした巨大なオムツと黒いゴミ袋で武装し、ガムテープでガチガチに固められた完全防水仕様の元自衛官の姿があった。
美和は両手を口元に当て溢れ出そうになる愛しさを噛み締めるように目を細めた。
「まあ……天ちゃん、とても逞しいですわ……」
「あらあら、まあまあ♪」
千草も両手をポンと打ち翠の瞳を三日月にして微笑んだ。
「まるで極地戦仕様の装甲歩兵のようで、とっても凛々しいですわよ、天さん♪」
「頼むから二人とも、その慈愛に満ちた目で僕を見ないで……」
天はその場に崩れ落ち、板張りの床に額を擦りつけて咽び泣いた。
第五章:抜けるような青空と、温かな免罪符
悪夢の一夜が明けた。
天は防水シーツを三重に敷き詰めた居間の特設ベッドで、千草特製の経口補水液をストローで補給しながら身じろぎ一つせず朝を迎えた。
重力とワックスエステルとの死闘は四度のオムツ交換を経て、明け方にはようやく終息を告げた。
体内を滑降していたすべての不消化油は排泄され尽くし天の腸管には平穏が戻っていた。
腹痛も発熱もなく出し切ってしまえば体調は極めて快調だった。
だが失われた自尊心と精神的疲労のせいで天の魂は口から半分抜けかけたままだった。
「うん、腸雑音は極めてクリア。脱水所見もなし。腹部の緊満感も消失しているわね」
往診に訪れた茉莉が天の腹部から聴診器を外して満足そうに頷いた。
「完全にデトックス完了よ。まったく、手のかかる患者なんだから」
「茉莉先生……本当に、お見苦しいところを……」
「いいのよ。消化器内科医として、生きたワックスエステルの臨床経過をつぶさに観察できたのは、極めて有意義な症例報告になったわ」
茉莉は不敵に笑いチタンフレームの眼鏡をクイと押し上げた。
その日の夜。
細い路地の奥に暖かな明かりを灯す『Bar 風花』の店内には、静謐で澄みきった空気が満ちていた。
鉄刀木の一枚板のカウンターの端には平志乃、研造、そして茉莉の三人が並んで腰を下ろしている。
カランと氷が鳴り、志乃が満足そうにウイスキーのグラスを傾けた。
「ふふふ。天さん、昨夜は大変だったそうねぇ」
「志乃さん……お願いですから、その話は……」
カウンターの中でグラスを拭いていた天が小さくなって肩をすくめる。
志乃は悪戯っぽい笑みを浮かべ、バッグから取り出した一枚の細長い伝票をスーッと天の前へと滑らせた。
「はいこれ、平内科医院からの特別保険外診療の請求書よ」
「請求書……?」
「ええ。『特定有害深海魚誤食に伴う緊急排油管理料および精神的ケア加算、医療用特大高吸収オムツ一包、ならびに床板防衛のための布ガムテープ二巻』。次のルポの原稿料が入ったら、きっちり振り込んでちょうだいね」
「うっ……ぐうの音も出ません……」
天が頭を抱えるとカウンターの脇で優雅に控えていた千草が、おっとりと微笑みながら志乃のグラスにチェイサーを注いだ。
「まあまあ、志乃様♪ 天さんの男のプライドをこれ以上お削りになっては可哀想ですわぁ。昨夜の天さんは、それはもう立派に戦い抜かれましたのよ? ゴミ袋の裾を翻すお姿、とっても勇敢でいらっしゃいましたもの♪」
「千草さん、フォローになっていません……!」
天が涙目でカウンターに突っ伏すと、奥から純白のバーコートを着た美和が静かに歩み寄ってきた。
その両手には湯気をふわりと立ち上らせる、温かな耐熱クリスタルのトディグラスが大切に抱えられている。
「天ちゃん。本当にお疲れ様でしたわね」
美和は穏やかな微笑みをたたえ、琥珀色の液体を満たしたグラスを天の前にそっと置いた。
「自家製の生姜シロップと、有機栽培のカモミールティー、そこにほんの少しの柚子の果汁を絞った、特製のホットモクテルですわ。傷ついた消化器の粘膜を優しく温めて、荒れた神経を鎮めてくれますの」
湯気とともに立ち上る爽やかで優しい花の香りと生姜のぬくもり。
天が両手でグラスを包み込みそっと口をつけると、甘やかで温かな液体が疲れ切った五臓六腑へと染み渡っていった。
「……美味しいです、美和さん。身体の芯まで解けていくようだ……」
「ふふ、良かったですわ」
美和は愛おしそうに目を細めた。
そしてその神秘的な異色瞳——ワインレッドとアンバーの瞳をかつてないほど清らかに、そして絶対に逆らえない絶対零度の優しさで細め、天の耳元へそっと囁いた。
「でもね、天ちゃん。……もう二度と、あの黒くてテカテカしたお魚を召し上がらないと、私にお約束していただけますわね?」
その瞳の奥に宿る、神代の神威すら感じさせる絶対の言霊。
天は背筋をピンと伸ばし、カウンターに両手をついて深々と頭を下げた。
「はい……! 天地神明に誓って、二度と口にいたしません……ッ!」
Bar風花の薄暗い店内に平親子と志乃、そして千草の華やかで快活な笑い声が弾けた。
グラスから立ち上る柚子とカモミールの香りが夜の静寂の中に優しく溶け込み、男の尊厳を賭けた壮絶な防衛戦の幕をどこまでも温かく下ろしていった。
【あとがき】
最後までお付き合いいただき、心より御礼申し上げます。
今回は、水産ルポの現場で出会ってしまった「アブラソコムツ」を巡る、天ちゃんの受難の一日をお届けいたしました。
食品衛生法で市場への流通が禁じられながらも、漁師たちの間で「人間を辞めるほど美味い」と語り継がれる禁断の深海魚。
自衛隊の過酷な訓練を耐え抜いてきた天ちゃんの内臓の強さをもってしても、ワックスエステルという物理的・生化学的な摂理の前には、あまりにも無力でした。
愛する夫を救うため、神前の誓いを胸にオムツを差し出す美和さんと、完璧な処方で退路を塞ぐ千草お姉ちゃん。そして怒涛のエビデンスを浴びせる茉莉先生に、歴戦の知恵を授ける研造院長……。
風花町の文化財級の一枚板を守る防衛戦は、ある意味でどんな神々の戦いよりも過酷だったかもしれません。
最後に美和さんが見せた「絶対に逆らえない慈愛の笑顔」と、思わず神仏ならぬ己のルーツへ平伏してしまった天ちゃんに免じて、どうか笑って許していただければ幸いです。
もし少しでもクスリと笑っていただけたり、風花町の冬の温もりを感じていただけましたら、ページ下部の【ブックマークへの追加】や【☆☆☆☆☆の評価】、そして率直なご感想などをそっと残していただけますと、何よりの励みになります。
冷え込む夜には、皆様もどうぞ温かな一杯を。
天照(Bar風花)




