【Bar風花】特別編 夜桜のウサギ 〜世界で一番甘い、僕たちだけのカクテル・アワー〜
【前書き】
※本編は『Bar 風花』の臨時休業の夜を描いた、少し甘口の特別エピソードです。
※作中に登場するカクテル「マイ・タイ」およびお酒は実在の銘柄をモデルにしています。
看板の明かりを落とした静かな店内で、いつもとは違うドレスに身を包んだオーナーバーテンダー。
凛としたプロの顔から、愛する夫の前だけで見せる、ちょっと不器用で愛らしい素顔へとほどけていく時間。
外のざわめきから切り離されたアンバー色の空間で、ふたりの心はトロピカルなカクテルよりも優しく溶け合っていきます。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第一章:無人の聖域と極秘の約束
風花町の夜は街灯の薄明かりがしっとりとした路地に滲むようにして深まっていた。
普段であれば重厚なオーク材の扉の向こうから古いレコードの針が落ちる微かなノイズとピアノの余韻のようなジャズが静かに漏れ聞こえているはずだった。
しかし今夜の『Bar 風花』の扉には一枚の小さな木製プレートが掲げられている。
『Closed』——本日臨時休業。
その聖域の鍵を開け店内のアンバー色の間接照明だけを灯したのはこの店のオーナーバーテンダーである櫻庭美和ではなく夫である櫻庭天だった。
ひんやりと心地よく空調の効いた空気が静寂に包まれた店内に満ちていた。
入って右手には何十年もの歳月が刻んだ微かな傷や指の跡を静かな光沢として吸い込んだ鉄刀木の一枚板カウンターが落ち着いた存在感を主張していた。
カウンターとほぼ同じ高さに設けられた戸棚にはバカラやリーデル、ウォーターフォードといった最高級のクリスタルグラスが整然と並んでいた。
薄暗闇の中で虹色の澄んだ光を放ち空間の底には遠くの春の風が運んできたような微かで儚い桜の香りが漂っていた。
天は一番端の黒革のローチェアに腰を下ろし自身の腕時計に目をやった。
かつて陸上自衛隊の野外演習で叩き込まれた時間感覚と鋭い観察眼。
ルポライターとして幾多の現場を潜り抜けてきた彼の瞳は今夜ばかりは少年のように爛々と輝き期待と興奮に彩られていた。
(……あと三分。本当に着てくれるのかな、美和さん……)
事の発端は数日前の何気ない晩酌の席だった。
取材先で見かけたレトロポップなポスターの話から天がふとおねだりをしてみたのだ。
「昔のバニーガールって、実はすごくシックで格好いい衣装なんだよね。もし美和さんが着たら世界で一番綺麗なバニーさんになるんだろうな……一度でいいから僕だけの限定で見せてほしいな」
ダメ元でそう口にしてみた天の言葉に普段なら照れて即座に却下するはずの美和が揺れた。
その日は天が取材先で身を挺して彼女を守り小さな怪我を負った直後のことだった。
天の純粋でまっすぐな上目遣いに、美和の「夫を甘やかしたい」という愛妻心が屈してしまったのだ。
「……一回だけだからね? 試着室……じゃなくてバックヤードで着替えたら、すぐ戻るんだからね……!」
そう約束して奥の控え室へ消えてからかれこれ二十分が経過していた。
静寂に包まれた店内にカチャリとバックヤードのドアノブが回る微かな金属音が響いた。
天の背筋がピンと伸びる。
元自衛官としての鋭い気配察知能力が未知の超高濃度な愛らしさの接近を告げていた。
第二章:白桜の跳躍
「……あの、天ちゃん……? 本当に……本当にこれでいいの……?」
「いいよ美和さん! 誰もいないしここは僕たちだけの貸切だから、出ておいでよ」
天が優しく促すと意を決したようにコツン、コツンと不慣れなヒールの音が板張りの床を叩いた。
静寂の満ちるカウンターの横から姿を現した妻の変身ぶりに天の息が完全に止まった。
そこに立っていたのはいつものきっちりとした白シャツに黒のベスト、仕立ての良いスラックスと蝶ネクタイを締めた凛として格調高いオーナーバーテンダーの美和ではなかった。
光沢のある純白の高級ストレッチサテン生地をベースに淡いピンクと真紅の繊細な桜の花びら刺繍が散りばめられた特注のバニースーツだ。
ハイレグのカッティングは彼女のしなやかで長い脚線を美しく際立たせきゅっと引き締まったウエストから豊満な胸元へのラインを艶やかに描き出している。
首元には可憐なピンクのサテンリボンタイ。
頭上には大きな桜モチーフのリボンとともにふわふわとした白いウサギの耳が彼女の動きに合わせてぴょこぴょこと揺れていた。
そして何より天の視線を釘付けにしたのは腰の少し上、ハイレグのラインの上にぽつんとあしらわれた丸くて大きな真っ白なカシミア毛のウサギの尻尾だった。
「……〜〜〜っ! 恥ずかしい……! 恥ずかしすぎて死んじゃうわ、天ちゃん……!」
美和は両手で真っ赤になった顔を覆い隠そうとするが照れくささで頭のウサギの耳がぺたんと前倒れになり逆に愛らしさを爆発させている。
右目が燃えるようなワインレッド左目が深いアンバーという彼女の異色瞳は潤んだ熱を帯びて泳ぎ白い肌は耳の先まで綺麗に桜色へと染まり上がっていた。
天は立ち上がり思わず両手で激しく拍手をした。
「素晴らしい……! 完璧だよ美和さん! 桜バニー最高すぎる! 可愛いなんてレベルじゃない、神々しいまでの萌えの爆発だよ!」
「も、もうっ! 爆発とか神々しいとか言わないで! こんな……こんな生地の少ない格好、天ちゃんの『一回だけ!』に騙された私がバカだったわ……!」
美和はプクッと頬を膨らませて抗議しようとするが動揺するたびに腰の白い尻尾がぴょんぴょんふわふわと左右に不規則に跳ねる。
本物のウサギが警戒と好意の間で揺れ動いているかのようだった。
「えへへ、見てごらんよ美和さん。言葉とは裏腹に尻尾がすごく嬉しそうに揺れているよ。美和さんの照れ顔、今夜の最高記録更新だね」
「揺れてない! 揺れてないわよ! これは……物理的な振動! 重力のせいなんだからぁーっ!」
美和は真っ赤になってツッコミを入れるものの天の真っ直ぐで甘い眼差しに耐え切れずカウンターの上にそのまま突っ伏してしまった。
「うぅ……天ちゃんのいぢわる……イジりの切れ味が鋭すぎるわ……」
ぺたんと倒れたバニー耳と突っ伏した腰元で揺れる真っ白な尻尾。
そのあまりのギャップと破壊力に天の胸はドキュンと物理的な衝撃を受けたかのように高鳴っていた。
第三章:不器用なシェイカーと『桜マイ・タイ』
「……で、でもっ、私はプロのバーテンダーですもの! カウンターの前に立ったからにはお客様のおもてなしをしなければ……!」
美和は突っ伏していた体をえいっと起こすと必死にプロの仮面を被り直そうとした。
しかしバニースーツの背中のカッティングと頭の耳が邪魔をしていつもの優雅な身こなしが完全に狂っている。
「……お、お客様。本日はいかがなさいますか……?」
語尾が消え入りそうになりながらも彼女はカウンターの内側へ入り天の正面に立った。
天は黒革のローチェアに深く腰掛け直し意地悪く、けれど心底愛おしそうに笑った。
「そうだなぁ。じゃあ現在の僕の気分にぴったりな、美和さん特製のスペシャルカクテルをお願いできるかな?」
「わ,分かったわ……! すぐにお作りするわね」
美和は背筋を伸ばしバックバーへと手を伸ばした。
ところがハイヒールを履いて背伸びをした瞬間だった。
プリッとお尻を突き出すような体勢になり腰についた大きくてふわふわの白い尻尾がデコレーションの準備として置いたグラスにぽふっと当たった。
カタン!
「わわっ!?」
重心を崩したグラスが滑り落ちそうになる。
美和が悲鳴を上げた瞬間——カウンター越しにスッと風を切るような無駄のない手が伸ばされ倒れかけたクリスタルグラスを空中で完璧にキャッチした。
天である。
元自衛官としての超人的な反射神経と動体視力が咄嗟に発動したのだ。
「ふう、危ない危ない。怪我はなかった、美和さん?」
「あ……あ……ありがとう、天ちゃん……」
安堵の息をつく美和に天はキャッチしたグラスをカウンターに戻しながらいたずらっぽく囁いた。
「それにしても美和さんの尻尾、僕のことが好きすぎて自分から絡んできたのかな?」
「か、絡んでないわよっ! これは不可抗力! 尻尾に意思なんてないんだからぁーっ!」
美和は顔から火が出るほど真っ赤になりバニーの耳をぶんぶんと左右に振って抗議した。
天は声を上げて笑う。
「ふふ、可愛い事故だね。普段は隙のないプロの美和さんが見せるドジっ子モード、超レアで最高だよ」
「ドジっ子じゃないもん……! 私、普段は一ミリのミスもしないプロなんだから……うぅ……」
美和は恥ずかしさに耐えかねて唇を噛み締めながらもアイスピックで氷塊を手際よく砕き始めた。
照れてはいるものの、一度道具を握ればその手つきには職人の血が宿る。
彼女が選んだボトルはジャマイカ産の芳醇なダークラム『マイヤーズ』とハバナクラブのホワイトラム、そしてコアントローだ。
「……カクテルはタヒチ語で『最高!』を意味する名作……『マイ・タイ(Mai-Tai)』をベースにアレンジするわね」
美和はフレッシュなパイナップルジュース、オレンジジュース、手搾りのライム果汁を加えホワイトラムとコアントロー、隠し味の自家製アーモンドシロップとともにシェーカーへと注ぎ入れた。
氷を投入しストレーナーとトップを確実にはめる。
美和が両手でシェーカーを構えた。
バニースーツの胸元が強調され白くしなやかな腕が繊細に躍動した。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ——!
静かな店内に氷と液体がステンレスの壁を打ち叩く軽やかでリズミカルなシェイク音が響く。
その動きに合わせて頭のウサギ耳と腰の白い尻尾がまるでダンスを踊るように可愛らしく跳ねていた。
天はそのあまりにも眩しく美しい光景を一秒たりとも逃すまいと目尻を下げて見つめていた。
シェイクを終えた美和はたっぷりとしたダイヤモンドのようなクラッシュドアイスを敷き詰めたバカラのブランデーグラスに、淡い黄色に泡立つ液体を滑らかに注ぎ込んだ。
そしてその上から濃厚な琥珀色のダークラムを静かにフロートさせた。
比重の違いで二層に分かれた液体のトップにカットライムとフレッシュミント、そして仕上げに自身で塩漬けにした食用桜の花びらをそっと浮かべた。
最後に二本の長いストローをグラスに寄り添わせるように挿して完成した。
「……できたわ。名前は……『桜マイ・タイ』……。桜バニーの格好で作ったから……えへへ、どうかしら?」
グラスの中でトロピカルな黄色とダークラムの琥珀色、そして桜のピンクが美しく調和している。
天はストローを一本口に含みゆっくりと吸い上げた。
口の中に広がったのはフレッシュな柑橘とパイナップルの甘酸っぱさ、そして遅れてやってくるダークラムの芳醇なコクとカラメルのような香ばしさ。
後味にふわりと鼻を抜けるかすかな桜の塩気と芳香が重なった。
「……美味しい! すごいよ美和さん! 甘酸っぱくてコクがあってどこまでも優しい……美和さんの僕に対する愛がぎゅっと詰まった最高の味だ!」
美和はカウンターに両肘をつき手の上に顎を乗せてとろけるような眼差しで天を見つめた。
「……ふふ。天ちゃんにそう言ってもらえるなら……こんな恥ずかしい格好でも頑張って作った甲斐があった……かな」
「もちろん! こんな贅沢なカクテルタイム、世界中で僕しか味わえないんだから。幸せすぎてバチが当たりそうだよ」
美和は照れくささが限界に達したのか頭のバニー耳をぎゅっと両手で押さえた。
「……もう、ずるいわよ……。そんなストレートに甘い言葉ばかり投げかけられたら……私の心臓が持たないわ……」
第四章:一本のストローと、重なる鼓動
天は黒革のローチェアに腰掛けたままカウンター越しに手を伸ばし、美和の白く柔らかな手を優しく包み込んだ。
「じゃあもっと近くに来て? 心臓が破裂しそうなら僕がぎゅっと抱きしめて守ってあげるから」
美和はこくこくと素直に頷くとカウンターの内側から足早に出て、天の座るローチェアのすぐ隣へと回り込んだ。
そして迷うことなく天の膝の上に横向きに腰を下ろしてきたのだ。
ふわふわの白い尻尾が天の太ももの上でぽすっと乗っかり安心したように小さく揺れる。
「……天ちゃん、ぎゅってして? このマイ・タイみたいに……もっと甘くなりたいの……」
「美和さん……」
天が背中に手を回し豊満な体を強く引き寄せると美和は待っていましたと言わんばかりに天の首筋に顔を埋めてきた。
バニースーツの滑らかなサテン生地の感触と彼女自身の温かく甘い体温がダイレクトに天の全身へと伝わってくる。
「大好きよ、天ちゃん……。私ね、普段の凛としたバーテンダーとしての自分も誇りに思っているけれど……こうして天ちゃんのためだけにバニーさんになって甘える私も……天ちゃんになら全部見せてあげたいって思っているの……」
「僕も大好きだよ、美和さん。どんな姿の美和さんでも僕は世界で一番愛しているし、ずっとずっと隣にいたいんだ」
ふたりはしばらくの間お互いの体温と鼓動を感じ取りながら静かに抱き合っていた。
店内にはふたりの吐息とかすかな桜の香りが心地よく溶け合っている。
ふと美和が天の胸元から顔を上げカウンターの上に置かれた『桜マイ・タイ』を見つめた。
「……これ、一緒に飲まない……? ふたり同時に……」
「いいね! それが世界で一番美味しくなる飲み方だ」
ふたりは顔を寄せる。
バニー耳が天の髪にカサリと触れ美和のワインレッドとアンバーの異色瞳が至近距離で天の瞳を捉えた。
グラスに挿さった二本のストロー。
ふたりは同時にそれを一本ずつ咥えゆっくりと甘い液体を吸い上げた。
「……ん……天ちゃんの吐息が近くて……胸が苦しいくらいドキドキするわ……」
「僕もだよ。美和さんの甘い香りがお酒より効いてる……」
ラムとフルーツの芳醇な甘みが口いっぱいに広がりふたりはストローを咥えたまま目を細めてクスクスと笑い合った。
天が美和の腰を抱く手に力を込め耳元でそっと囁く。
「美和さんの作った桜マイ・タイ、二人で飲むと本当に世界一甘いね。僕の分まで幸せ感じてくれてる?」
美和はストローから唇を離すと上目遣いに天を見つめ恥ずかしそうに、けれど誇らしげに頷いた。
「……うん。天ちゃんの膝の上が……世界で一番幸せよ……」
一口、また一口。
交互に吸っては見合って笑い甘い囁きを交わす。
無人の『Bar 風花』にはまるで時間が止まってしまったかのような甘く優しい幸福なひとときが流れていた。
第五章:朝まで解けない魔法
やがてバカラのブランデーグラスの底にあったクラッシュドアイスも溶けはじめ琥珀色のカクテルは綺麗に飲み干された。
カランと小さな氷の音が静寂に響く。
美和はグラスに視線を落としたあと、天の瞳をじっと見つめ返した。
「……全部、なくなっちゃったわね。……でも私の胸の中はまだとっても甘いわ。天ちゃんの笑顔が……ずっと甘いんだもの……」
天は優しく微笑むと彼女の額に、そして鼻頭にそっと愛おしそうなキスを落とした。
「もちろんさ。僕の愛の全部を美和さんに感じてほしいんだ。今夜は臨時休業だからね。朝が来るまでずっとこうして一緒にいよう」
美和は幸せそうに瞳を閉じると天の首に回した腕にギュッと力を込め胸元へと深く潜り込んでくる。
頭の上のウサギの耳が天の髪に心地よく絡まりバニースーツに描かれた繊細な桜の花びらがふたりの重なり合う温もりで優しく揺れていた。
「……天ちゃん、大好き……。こんなに優しく甘やかされたら……私、もう天ちゃんから離れられなくなっちゃうわ……。ずっと……ずっとこうしていてね……?」
「うん、ずっとだよ。今夜の貸切の『Bar 風花』は、僕たちふたりだけの誰も邪魔できない甘い世界なんだから」
空になったブランデーグラスがアンバー色の光を受けて静かに佇んでいる。
深く抱き合ったままふたりは何度も名前を呼び合い密やかな唇を重ね甘い笑い声を響かせ続けた。
普段はピシッと格調高く誰からも一目置かれるプロのバーテンダー・櫻庭美和。
そして今夜、愛する夫のためだけに舞い降りた甘えん坊で愛くるしい桜バニーガール・美和。
そのどちらもが櫻庭天という一人の男だけが知る、かけがえのない最愛の妻の真実の姿だった。
トロピカルで甘酸っぱいマイ・タイの魔法のようにほんのりと温かく、どこまでも甘く溶け合っていく風花町の夜は静かに、ゆっくりと深まっていくのだった。
【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、普段は毅然としたプロフェッショナルである美和さんが、天ちゃんの前でだけ見せる「とびきり甘くて不器用な姿」を書き下ろしてみました。
頭のバニー耳や小さな尻尾に照れながらも、大切なお酒を真剣にシェイクする姿や、ストローを分け合って見つめ合うふたりの時間を、温かく見守っていただけたなら幸いです。
静かな夜のBar風花で生まれたこの甘い魔法が、あなたの心にも小さな灯りをともせましたら、これ以上の喜びはありません。
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天照(Bar風花)




