【Bar風花】第二章 風花町夜更けの巡礼 〜鉄火なオカマと元レディース総長、そして白鹿のメイドが織りなす『御酒遊印帳』〜
【前書き】
※今回は本編のシリアスな静寂から少し離れ、風花町の夜を支える個性豊かな店主たちと家族の温かな交流を描いています。
※お酒と美味しいおつまみ、そして夫婦の甘い時間をゆったりとお楽しみください。
秋の夜長、一冊の和紙の帳面が風花町の路地に新しい灯りをともします。
オカマバーの艶やかな笑い声と、スナックのカウンターに漂う紫煙。
そして、重厚なオークの扉の向こうで静かにグラスを磨くバーテンダーと、一番近くで彼女を支える夫の物語。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第一章:昼下がりの作戦会議と、天ちゃんの受難
昼下がりのオカマバーは夜の熱狂が嘘のように静まり返っていた。
風花町の飲み屋街で顔役を務める『艶桜』の店内には紫のベロアソファが並び、かすかなおしろいの香りと洗い立てのグラスの匂いが漂っている。
その中央のテーブルを囲んでいたのはこの町の夜を支える面々だった。
テーブルの上に置かれた一冊の白無地の帳面。
此花山の清らかな伏流水で漉かれた特注の手漉き奉書紙を蛇腹折りに仕立てたものだ。
深い藍色と桜色のちりめん布が貼られた表紙を、オーナーママであるマツコの大きな手が愛おしそうに撫でた。
「いい紙使ってるじゃないの、美和ちゃん。これ、安っぽいスタンプラリーなんかにしたらアタシが承知しないわよ。大人が懐に忍ばせてニヤリとするような、粋な道楽に仕立てなきゃね」
鮮やかな深紅の口紅を引いたマツコが地響きのような低い声で笑う。
その隣では百八十センチ近い長身に粋な秋草模様の着物を纏ったチーママのアンジェラが、帳面の紙肌へ優雅に指先を滑らせていた。
「ほんと、手触りも極上だわ。これなら墨の吸い込みも完璧だし、朱肉の赤も綺麗に映えるわね。まさに風花町の気品を形にしたような『御酒遊印帳』よ」
二人の言葉に『Bar 風花』のオーナーバーテンダーである櫻庭美和は端正な面差しをほころばせた。
「ありがとうございます。神社の御朱印帳のように、その夜に出会ったお酒と店主の心をひとつずつ集めていく帳面にできたらと思って」
美和の隣で静かにメモを取っていた夫の櫻庭天が顔を上げた。
すると向かいの席で脚を組み細い煙草をくゆらせていた『スナック カサブランカ』のママ、楠順子が紫煙の向こうから目を細めた。
「いいじゃない。でも最初から数は絞った方がいいわね。まずは各店の常連たちにトータル二百冊限定で出しましょう。値段はワンドリンク付きで千五百円。これなら呑兵衛たちも喜んで飛びつくわよ」
かつて伝説のレディース『紅蓮華』の初代総長として夜の町に名を馳せた順子の言葉には、有無を言わせぬ説得力があった。
マツコが大きく頷く。
「決まりね。あと、一冊ずつに通し番号を入れましょうよ。限定二百冊のシリアルナンバーが入れば、男って生き物は目の色変えて欲しがるものよ」
「それなら各店舗の紹介文をまとめた小さな案内書きと、帳面への毛筆での番号入れは僕が引き受けますよ」
天が穏やかに申し出た瞬間、マツコの目がぎらりと光った。
「あら、さすが無菌室のインテリ坊や! 気が利くじゃないの! なんなら今夜、ウチの店でボーイとして働いてくれてもいいのよ?」
マツコが豪快なフェイクファーを揺らして巨体で抱きつきにかかると、アンジェラがすかさず扇子でマツコの肩をぺしりと叩いた。
「ちょっとマツコ、美和ちゃんの目の前で旦那様を襲うんじゃありません。天ちゃんの背中の筋肉、元自衛官だけあって極上だけど、つまみ食いは厳禁よ」
「あはは、天ちゃんは昔から手先だけは器用だったものねぇ」
順子が灰皿に煙草を揉み消し、妖艶な笑みを浮かべて天を指差した。
「小学校一年の時、アサガオの支柱を竹ひごで無駄に頑丈なトラス構造に組んで、先生に呆れられてたものね。あの泣き虫だった天ちゃんが、まさかこんな綺麗な奥さんをもらうなんてねぇ」
「……順子、頼むからその顔で小学校の時の話をするのはやめてくれないか」
同級生である順子に昔の黒歴史を掘り返され、天は思わず頭を抱えて小さくなった。
するとそれまで静かに微笑んでいた美和がすっと背筋を伸ばし、ワインレッドとアンバーの異色瞳を凛と煌めかせた。
「順子ママ、マツコママ。私の天ちゃんをあまり困らせないでいただけますか。……天ちゃんの貸し出しは、いかなる理由があってもいたしませんので」
凛とした鈴の音のような声に、百戦錬磨の夜のプロたちが顔を見合わせてからからと笑い声を上げた。
第二章:櫻庭家の夜、最初のページに咲く桜
その日の夜、神社裏にある櫻庭家の平屋は静かな虫の音に包まれていた。
和室の文机に向かい、天は一冊ずつ丁寧に筆を運んでいた。
硯で磨った墨の香ばしい匂いが部屋に満ちている。
衣擦れの音だけが近づき、障子が音もなく開いた。
現れたのは櫻庭家に同居する専属メイドの千草だった。
ロロ・ピアーナの深いミッドナイトブルーの生地で仕立てられた英国式ロング丈メイド服に、抜けるような純白のエプロン。
足音を一切立てず、ただ優雅な所作だけが一室に華を添える。
「あらあら、天さん、美和様。根を詰めすぎてはお身体に毒ですわよ。温かいほうじ茶と、焼き栗のお菓子をお持ちいたしましたわ」
翠の瞳をおっとりと細め、千草が漆の盆を置く。
天は最後の一冊を書き終えると筆を置き、特別な三冊を机の中央へ並べた。
一冊目は番号の入っていない無垢な帳面。
これは企画の発起人である美和が持つ親本だ。
二冊目は『第〇〇壱番』と記された天の帳面。
そして三冊目の『第〇〇弐番』を、天は千草の前へと差し出した。
「千草お姉ちゃん、お待たせ。これが千草お姉ちゃんの分だよ」
「まあ、天さんの次、第二番……大変光栄ですわ。なんて風流で素敵なお帳面ですの」
千草は豊満な胸元に手を当てて嬉しそうに微笑むと、エプロンのポケットから真新しい千円札と、磨かれたように輝く五百円玉を取り出した。
それを両手で恭しく美和の手のひらへと納める。
「美和様、きっちり千五百円、お納めいたしますわね。今度のお披露目からはこの千草、風花町をくまなく巡ってお酒の露払いを務めさせていただきますわ」
「ありがとう、千草お姉ちゃん。……じゃあ、私たちの旅立ちの前に、最初のページを埋めましょうか」
美和は着物の袖をたすき掛けのように片手でそっと押さえ、新しい筆に墨を含ませた。
まずは天の『第〇〇壱番』を開く。
美和の白い指先が迷いなく動き、背筋の伸びるような端正な楷書で『Bar 風花』の屋号と日付が書き入れられていく。
その上から、繊細な雪の結晶と桜の花びらが舞う特製の朱印が静かに押し込まれた。
続けて千草の『第〇〇弐番』、そして自身の親本へ。
手漉き和紙の上に、鮮やかな朱色の風花が三つ咲き誇った。
「私たちの巡礼は、この『風花』から始まって、またここへ還ってくるのね」
「うん。町のみんなの想いと一緒に、この帳面を埋めていこう」
美和の言葉に天が優しく頷き、三人は湯気の立つほうじ茶で静かに祝杯を挙げた。
第三章:宵闇の遊印帳、いざ開幕
翌週末の宵闇が降りる頃、風花町の飲み屋街はいつになく粋な熱気に包まれていた。
各店に配られた合計二百冊の『御酒遊印帳』を手に、常連客たちが楽しげに暖簾をくぐっていく。
天も懐に『第〇〇壱番』を忍ばせ、千草と共に『艶桜』の重厚な扉を開けた。
「あらあら、今夜は一段と華やかですわねぇ」
「いらっしゃい、天ちゃん、千草ちゃん! 待ってたわよ!」
カウンターの奥からマツコが威勢よく声をかける。
天と千草がカウンターに腰を下ろし、それぞれの帳面を開いて差し出すと、覗き込んだマツコとアンジェラが感嘆の声を上げた。
「まあ……一ページ目にはもう美和ちゃんの凛とした『風花』の印が入ってるじゃないの。夫婦と家族で最初のページを揃えるなんて、粋なことしてくれるわねぇ」
「うふふ、神聖なスタート地点ね。じゃあ二ページ目は、アタシたちの愛をたっぷり刻んであげなきゃ」
アンジェラがうっとりと目を細め、マツコの前に硯と筆を用意した。
その間に運ばれてきたのは、切子のグラスから受け皿へと惜しげもなく注がれた『久保田 萬寿』と、燻製たくあんが刻み込まれた『艶桜』特製のポテトサラダだった。
「さあ、まずは迎え酒よ。きゅっとやりなさいな」
「まあ、お気遣いいただき本当にありがとうございます。では、遠慮なくいただきますわね」
千草はクラシックなメイド服の背筋を美しく伸ばしたまま、冷え切った『久保田 萬寿』を小気味よく喉へと流し込んだ。
華やかな吟醸香と柔らかな旨味を味わい、すっと息を吐くその飲みっぷりは、まさに粋な江戸っ子そのものだった。
「ちょっと千草ちゃん、そのおっとりしたお嬢様みたいな顔で、萬寿を水みたいに綺麗に空けないでちょうだい! 惚れ惚れしちゃうじゃないの!」
「ふふ、マツコママのポテトサラダ、燻製のたくあんの香ばしさと食感がアクセントになっていて、お酒が止まりませんわ」
微笑む千草の横で、マツコはふっと表情を引き締めた。
筆を執った大きな手が、迷いのない力強い軌道を描く。
和紙の上に躍ったのは、豪快でありながら驚くほど均整の取れた達筆の『萬寿』の二文字。
二冊の帳面それぞれに大輪の八重桜を象った朱印が、どん、と力強く捺された。
「はい、一丁上がり! 『艶桜』の魂、しかと刻んだわよ!」
マツコの頼もしい笑顔に、天と千草は深く頭を下げて温かな帳面を受け取った。
第四章:白百合と紫煙、同級生の絆
『艶桜』を後にした天と千草は、秋風の吹く路地を抜けて『スナック カサブランカ』の扉を開けた。
店内には落ち着いた昭和歌謡が低く流れている。
「いらっしゃい、天ちゃん、千草さん。マツコさんのところでいいお酒を飲んできた顔ね」
シルクのブラウスに身を包んだ順子が、紫煙をくゆらせながら微笑んだ。
カウンターの上に置かれたのは、分厚いロックグラスで作られた『オールドパー 12年』の水割り。
此花神社の湧水と、角を落としたカチ割り氷がグラスの中で涼やかな音を立てている。
その脇には、飴色に染まった熱々の牛すじ大根の小鉢が添えられた。
「ほら天ちゃん、食べなさい。これからまだ回るんでしょ? 美和ちゃんに心配かけないよう、胃にちゃんと膜を張っとくのよ」
「ありがとう、順子。……やっぱりお前の作る牛すじ大根は、出汁が染みてて最高だな」
天が箸を割り、とろとろに煮込まれた牛すじを口に運んで目を細める。
順子はふんと鼻を鳴らし、天と千草の帳面を開いた。
一ページ目の端正な『Bar 風花』、二ページ目の豪快な『艶桜』。
その並びを見つめる順子の瞳に、優しい光が宿った。
「美和ちゃんから始まって、マツコさん、そしてウチね。……なんだか本当に、この町の夜がひとつの糸で繋がっていくみたいで悪くないわね」
順子は細身の筆を取り、二冊の帳面に流れるような色香のある女文字で『オールドパー』と書き添えた。
その横に、高貴な大輪のカサブランカを模した朱印をそっと重ねた。
「斜めに立って絶対に倒れないオールドパーのボトルみたいに、あんたたち夫婦もずっと右肩上がりでいなさいよ」
「ふふ、昔馴染みの絆というものは、熟成したウイスキーのように芳醇で素敵ですわねぇ」
千草がピート香の穏やかな水割りを優雅に傾けながら微笑むと、順子は少しだけ照れたように新しい煙草へ火をつけた。
第五章:還ってきた聖域、二人だけの特別な余熱
夜が更けるにつれ、細い路地の奥にある『Bar 風花』の重厚なオーク材の扉が幾度も静かに開かれた。
『艶桜』や『カサブランカ』、町の蕎麦屋や小料理屋を巡ってきた常連客たちが、その夜の締めくくりを求めてやってきたのだ。
鉄刀木の一枚板カウンターの向こうで、美和は凛とした立ち姿のまま客たちの帳面を両手で受け取った。
ページに並ぶ店主たちの個性豊かな墨書と朱印。
美和は客がそれまでに飲んできた酒の余韻を汲み取り、ある客には胃を優しく温める『カルヴァドス ブラー X.O.』を、またある客には神社の湧水を添えた『ザ・グレンリベット 18年』を静かに供した。
一筆ずつ丁寧に楷書を書き入れ、風花の印を押すたび、客たちは満足そうに微笑んで夜の路地へと帰っていく。
やがて最後の客を見送り、千草も「今夜は最高のお散歩でしたわ。お先に失礼いたしますわね」と一礼して一足先に平屋へと引き上げたあと、店内には澄みきった静寂が戻ってきた。
アンバー色の間接照明の下、黒革のローチェアに座った天は、懐から『第〇〇壱番』を取り出してカウンターの上に置いた。
「美和さん、ただいま。風花町の夜を巡って、一番大好きな場所に帰ってきたよ」
美和は蝶ネクタイの襟元をわずかに緩め、ワインレッドとアンバーの瞳を柔らかく細めた。
「おかえりなさい、天ちゃん。……みんな、自分の帳面を宝物みたいに嬉しそうに見せてくれたわ。天ちゃんが素敵な案内書きを作って、一番近くで支えてくれたおかげよ」
美和は天の帳面を手に取り、最初の『風花』、二番目の『艶桜』、三番目の『カサブランカ』の印を指先でそっと撫でた。
そして、帳面の一番最後のページを静かに開く。
「天ちゃんの帳面には、私からの特別なお礼を押させてね」
美和が取り出したのは、通常の営業では決して使わない小さな柘植の印章だった。
朱肉をつけ、最後のページの隅へそっと押し込む。
浮かび上がったのは、二つの桜の花びらが寄り添うように重なり、その中に『天』と『美』の小さな文字が隠された、夫婦だけの秘密の落款だった。
「……これ、いつ作ったの?」
「ふふ、天ちゃんが一生懸命ナンバリングをしてくれていた時に、こっそり用意していたの。私の一番のお客様である天ちゃんだけの、特別な結願の印よ」
美和は悪戯っぽく微笑むと、シェーカーを手に取り、フレッシュな柑橘とジンを合わせて軽やかにシェイクした。
二つのバカラのグラスへ等分に注がれ、澄んだ光を放つ一杯が天の前へ置かれる。
美和は自分用のグラスを手にカウンターの内側から出て、天の隣のローチェアへと静かに腰を下ろした。
そして天の肩へとそっと頭を預ける。
「乾杯しましょう、天ちゃん。この町の優しい夜と、私たちのこれからに」
「うん。世界中で一番素敵なバーテンダーの、僕の奥さんに」
二つのクリスタルグラスが、そっと重なった。
微かな桜の香りと、幾つもの酒場が紡いだ温かな余熱に包まれながら、風花町の夜はどこまでも甘く静かに更けていった。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
今回は、いつもの『Bar風花』の静かなカウンターを一歩飛び出して、風花町の個性豊かな飲み屋街の面々を主役に迎えた特別なお話をお届けしました。
マツコさんの豪快な優しさ、順子ママの変わらない同級生の絆、そしていつでもおっとりと優雅に風花町を闊歩する千草お姉ちゃん。
そんな愛おしい人たちに囲まれて、天と美和の絆がより一層深まっていく様子を、温かい気持ちで見守っていただけたなら幸いです。
もし今回の「御酒遊印帳」の巡礼を楽しんでいただけましたら、作品への「ブックマーク」や「評価」「感想」をそっと残していただけると、執筆の何よりの励みになります。
それではまた、次の夜の扉の向こうでお会いしましょう。
天照(Bar風花)




