【Bar風花】特別編 琥珀のぬる燗と一条山の秋 〜二人だけの贅沢は長火鉢のぬくもり〜
※ 本編は『Bar風花』の定期休業日を描いた、静かな秋の休日の短編エピソードです。
※ お店のカウンターを一時離れ、和室の長火鉢を囲む天と美和のささやかなプライベートをお送りします。
※ 実在する銘酒『黒龍 石田屋』のぬる燗と、一条山で拾った秋の恵みの情景をお楽しみください。
秋虫の声が夜の底から届く、風花町の静かな満月の夜。
お店の手入れを終えた平屋で、天が手際よく熾した竹炭の火に、美和がそっと極上の純米大吟醸を浮かべます。
長火鉢を挟んで酌み交わすやわらかなお燗と、網の上で弾ける香ばしい栗の甘み。
普段の凛とした佇まいを少しだけ緩めた妻と、ただ真っ直ぐに愛を伝える夫の、どこまでも愛おしく温かな時間が流れていきます。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:秋夜の火熾し
秋虫の細い声がどこか遠い夜の底からかすかに届いていた。
風花町の神社裏にぽつりと佇む平屋は昼間の賑やかさが嘘のように深い静寂に包まれていた。
今日は『Bar風花』の定期休業日。
明るいうちに店の手入れを全て終えた櫻庭天は和室の縁側をわずかに引き開け秋の引き締まった冷気と満月の青い光を部屋へと迎え入れていた。
畳の上に一筋の鮮やかな月光が落ちていた。
その中央にどっしりと鎮座しているのは櫻庭家に代々受け継がれてきた立派な長火鉢だった。
目の詰まった欅の巨木から切り出された極上の無垢材仕立てで表面には波打つような見事な玉杢が浮かび上がっている。
四方の角に施された真鍮の飾り金具は歳月を経て鈍い光を放ち手擦れによって磨かれた木肌はまるで上質な漆のように深みのある飴色に艶めいていた。
天は作務衣の袖を軽く捲り上げ慣れた手つきで長火鉢の灰へ手を伸ばす。
灰ならしを静かに滑らせ波のように美しく筋をつけた灰の真ん中へ手際よく炭を組んでいく。
今夜選んだのは先週末に二人で訪れた一条山で譲り受けた竹炭だ。
火箸が竹炭の表面に触れるたび高く澄んだ音が静寂に響く。
硬く焼き締められた竹炭は種火の熱を吸い込むとパチパチと大きく爆ぜることもなく青みを帯びた透き通るような赤い熾火へと静かに姿を変えていった。
部屋の中にほんのりと漂うのは嫌みのない香ばしい竹の匂い。
銅壺のお湯が十分に温まり五徳の上に載せられた古い鉄瓶から柔らかい松風の音が立ち上り始めたとき廊下から静かな衣擦れの音が近づいてきた。
「ふふ、もう良い火が熾せているのね、天ちゃん」
障子をそっと開けて入ってきた美和の姿に天の表情が一瞬で和らぎ目元が優しく崩れる。
「うん。一条山の竹炭、すごく良い火になってくれたよ」
普段の店で纏う凛としたバーテンダーの装いではなく今夜の美和は薄藍色の綿紬の着物に柔らかな帯を緩めに締めている。
艶やかな黒髪は結い上げず肩の上に優しく解き放たれその端正な顔立ちにどこか幼い色気を添えていた。
美和の手には小さな漆の盆が載せられている。
上には錫のちろりと二つの備前焼の盃。
そして竹籠に入った小ぶりの秋の恵みが添えられていた。
「一条山で拾ってきた栗と銀杏、少し持ってきてみたの。せっかくの竹炭だから、ここで炙りましょう?」
美和が楽しそうに小首を傾げると天は嬉しそうに頷いた。
「いいね。炭火の遠赤外線なら、栗の芯までふっくら火が通りそうだし、絶対に美味しいよ」
天は立ち上がり美和が座りやすいよう長火鉢の脇に座布団を整えた。
美和はすらりと畳に膝を折り長火鉢の猫板の上に盆を置き使い込まれて角の丸くなった欅のなめらかな木肌にそっと指先を馴染ませた。
美和は竹炭の熾火を覗き込み感嘆の息を漏らした。
「本当に綺麗な火……木炭の力強い赤も好きだけれど、この竹炭のどこか澄んだ火の色は特別ね。一条山の清らかな水と竹林が、そのまま火になったみたい」
「うん。まひろちゃんが言っていたよ。一条山の竹は節がぎゅっと詰まっていて、炭にすると音が全然違うんだって。ほら」
天が火箸で少し炭の位置をずらすと再び「キン」と風鈴の残響に似た涼やかな音が部屋に染み渡る。
美和はその音に耳を傾けながら嬉しそうに目を細めた。
美和は錫のちろりに酒を注ぎ長火鉢の銅壺に張られたお湯のなかへ静かに沈めた。
今夜選んだ酒は福井の銘醸『黒龍 石田屋』。
熟成を経た最高峰の純米大吟醸だ。
冷やして飲むのも至高だが長火鉢のやわらかなお湯でほんの少し温めると隠されていた芳醇な旨味と丸みが劇的にひらく。
「温度、私が見ていてあげる」
美和はちろりの首を指先で持ち湯加減を確かめる。
その横顔を天はただ静かに見つめていた。
縁側から入ってくる秋風が美和の解けた髪をわずかに揺らす。
月光の青と竹炭の赤。
二つの光が合わさる場所に座る美和の瞳は右目が深く熟したワインレッド左目が透明感のあるアンバーに浮き上がり吸い込まれそうなほどに美しい。
「……天ちゃん? どうかしたの?」
視線に気づいた美和が不思議そうに振り返ると天は照れる様子もなく素直に笑った。
「ううん。ただ、美和さんが綺麗だなと思って」
唐突で真っ直ぐな夫の言葉に美和は一瞬だけ目を丸くしそれから照れくさそうに目元を和ませた。
「急に何を言い出すの。……もう、お燗がちょうど良いわよ」
美和はちろりを湯から引き揚げ底の水滴を和紙で軽く拭うと天の盃へとくとくと酒を注いだ。
続けて天がちろりを受け取り美和の盃も満たした。
「乾杯しましょう、天ちゃん。今年の秋に」
「うん。美和さんと過ごす、この静かな夜に」
ふたつの備前焼の盃がコチリと小さく重なった。
第ニ章:滋味とぬくもり
口に含んだ瞬間驚くほどまろやかな温もりが舌の上を滑った。
メロンのような芳醇な吟醸香が温められたことでより優しく膨らみを持って鼻腔へ抜けていった。
喉を落ちたあとに残るのは清々しいほどの余韻だけだった。
「……美味しいね。お燗にすると、お酒の角が取れて豊かな優しさが引き立つよ」
「ふふ、でしょう? お店で緊張感を持って出すお酒も好きだけど、こうして長火鉢を挟んで天ちゃんと飲むぬる燗が、私には一番贅沢に感じられるわ」
美和は満足そうに微笑み網の上に持ってきた銀杏と栗を並べた。
竹炭の強い熱を受け五徳の小網の上で銀杏が「パチン」と小さな音を立てて翡翠色の顔を覗かせる。
栗の鬼皮には縦に浅く切れ目が入っておりそこから香ばしい湯気と甘い香りが立ち上り始めた。
天は火箸を小振りの竹箸に持ち替え焼き上がった銀杏と栗を小皿に取り分ける。
熱々の栗をひとつ拾い上げると天は熱さに耐えながらもほっくりとした黄色い実を綺麗に剥き上げた。
それを美和の小皿へとそっと置いた。
「天ちゃん、熱いでしょう? 自分で剥くわよ」
「ううん、大丈夫。美和さんの綺麗な指先を火傷させたくないからね」
天は指の腹を少し赤くしながらも満足そうに目を細めた。
美和はその栗を箸でつまみ口へと運んだ。
一口噛みしめると炭火で炙られた香ばしい薫気が鼻に抜け自然な栗の強い甘みが口いっぱいに広がった。
「……すごく甘い。一条山の豊かな土の味がするわ。ほら、天ちゃんも食べて」
美和は自分の小皿から栗を半分に割り天の口元へ差し出した。
天は少し照れながらも美和の手から直接その栗を口に含みゆっくり噛みしめる。
「本当だ、すごく滋味深いね。先週末、二人で山に入って拾ってきた甲斐があったよ」
「そうね。あの日は少し肌寒くて、二人で籠を抱えて山道を歩いて……楽しかったわね」
二人は目を合わせどちらからともなく小さく笑い合った。
酒を交わし炭火の音を聴き山の恵みを味わう。
会話の間には秋虫の声と鉄瓶の松風だけが静かに流れていた。
言葉が途切れても少しも気まずさはなかった。
むしろその静寂こそが二人の間に流れる愛の深さを物語っていた。
夜が深まるにつれ縁側から吹き込む風の冷たさが少しずつ増してきた。
美和が小さく肩をすくめたのを見逃さず天は傍らに畳んでおいた厚手の膝掛けを手に取り立ち上がって美和の背後へと回った。
「寒くなってきたね。これ、羽織って」
「ありがとう、天ちゃん」
天が美和の肩に膝掛けを優しくかけると美和はその温もりに包まれながらふっと身体の力を抜いた。
そしてそのまま天の手をそっと引き自分の隣へと促した。
「向かい合っているのも良いけれど……こっちに来て? 一緒に火を見たいの」
「うん」
天は素直に美和の隣へ腰を下ろした。
第三章:月光の影と余熱
二人の肩が触れ合う距離。
美和は自然な動作で天の腕に自分の腕を絡めその肩へと頭を深く預けた。
綿紬の布地越しに天のやわらかな体温がじわりと伝わってくる。
「長火鉢って、不思議ね」
美和が炭火の赤を見つめながらぽつりと呟いた。
「こうして火を眺めていると、時間が止まっているみたい。何十年も、何百年も前から……こうして天ちゃんと二人で、秋の夜を過ごしていたような気がしてくるの」
天は自分の肩に添えられた美和の手に大きな手を優しく重ねた。
指を絡め合わせその温もりを確かめるように包み込んだ。
「僕も同じことを思っていたよ。風花町の季節が巡って、秋が来て、こうして美和さんと美味しいお酒を呑む。……僕の人生には、これ以上の幸福も、これ以上の価値もないよ」
「もう……天ちゃんは、どうしてそんなに真っ直ぐな言葉を言えるのかしら」
美和はくすくすと笑い重ねられた手に少しだけ力を込めた。
ワインレッドとアンバーの瞳が竹炭の火を映して甘く揺れている。
「お祖母様からいただいたあのお酒も美味しかったけれど……今の私には、一条山の竹炭で温めたこの一杯が、世界で一番のご馳走よ」
美和の口から出た「お祖母様」という言葉の響きに皇グループという巨大な背景の気配がかすかに掠めた。
だがいまの二人が切り取っているこの小さな和室の空間にはそんな世俗の権力や複雑な神話の影など入る隙間もなかった。
ただそこに存在するのはお互いを心から愛おしむ一対の夫婦の姿だけだ。
夜が静かに更けていく。
長火鉢の中の竹炭は表面に白い灰をかぶりはじめ鋭い赤から深みのある柔らかな熾火へと変わっていた。
鉄瓶からの湯気もゆったりとした筋を描いて消えていく。
美和は盃を猫板の上に置くとすっかり天の胸元に顔を寄せるようにして深く息を吐いた。
ほろ酔いの朱がその白い頬をほのかに染めている。
「天ちゃん……」
「なに、美和さん?」
「……もう、お火を休ませてあげましょうか」
美和は上目遣いに天を見つめ作務衣の裾を指先でそっと掴んだ。
「そうだね。灰を被せて、休ませようか」
天は余韻を残さぬ丁寧な手つきで火箸を握り周りの綺麗な灰をそっと竹炭の上へと寄せていった。
赤い光が少しずつ灰の下へと隠れ部屋の明かりが畳を照らす月光だけになっていく。
竹炭の柔らかな余熱が静かに部屋の空気を温め続けていた。
天は美和の肩をそっと抱き寄せ立ち上がるのを手助けした。
美和は天の腕にすがりつくようにして立ち上がり縁側の障子を静かに閉めた。
月光が障子紙を柔らかく透かし部屋のなかにまるで絵模様のような繊細な陰影を作り出した。
「冷えないうちに、お布団に行こうか」
天が優しく声をかけると美和は嬉しそうに微笑み天の胸にそっと額を預けた。
「うん……今夜は、朝までずっと抱きしめていてね、天ちゃん」
「うん、ずっとそばにいるよ」
長火鉢の残熱がほのかに漂う和室を後にし二人はしっかりと身を寄せ合いながら奥の寝室へと向かっていく。
外では満月が風花町の夜空に高く輝き秋虫の声がどこまでも優しく二人の絆を祝うように響き続けていた。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
今回は『Bar風花』の休業日、お店のピシッとした空気感とは少し違う、夫婦ふたりきりの穏やかな秋の夜を描いてみました。
一条山の竹炭が澄んだ音を立てる静寂や、長火鉢の銅壺で温めた純米大吟醸のまろやかな丸み、そして熱々の栗を指先で剥き合うふたつのぬくもりが、読んでくださった皆様の心へほんのり届いていましたら幸いです。
もし「この二人の雰囲気が好きだな」「少し心が温まったな」と感じていただけましたら、下部にある【ブックマーク登録】や【評価(★★★★★)】、または一言感想などを残していただけますと、今後の執筆の大きな糧になります。
朝夕の冷え込みが増す季節、皆様もどうぞ温かくしてお過ごしくださいね。
天照(Bar風花)




