【Bar風花 閑話】 朱き明王の加護と朝露の熱 〜妻を愛でるための加護なら喜んで授かります〜
【前書き】
※ 本作は『Bar風花-kazahana-』本編の短編エピソードとなります。
※ 厳格な不動明王と情熱の愛染明王、そして夫婦の甘い日常を描いたコメディ展開をお楽しみいただけます。
※ 密教の教義から裏社会の極秘資料にまで及ぶ、天ちゃんの真面目すぎる暴走と美和さんのジト目が見どころです。
初夏の柔らかな陽光が差し込む朝の寝台で、深いため息をつく美和さん。
昼間は不動明王のように凛と自分を律する夫が、夜の寝床で見せる激しい熱情——。
「貴方にご加護を与えているのは、愛染明王様なんじゃないかしら?」
妻が漏らしたその一言から、ルポライターである天ちゃんの探求心は明後日の方向へと全力で暴走し始めます。
天上で頭を抱える明王たちの視線と、ソーニャさんが持ち込む怪しげな爆弾発言。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:朝の寝台と、明王の加護
風花町の朝は、穏やかな陽光が梅や檸檬の葉を濡らす朝露を照らし出し、美しくきらめかせながらやってくる。
風花町にある櫻庭家のプライベートスペース、そこに置かれた広々としたベッドの上。
まだ初夏の柔らかな気だるさと心地よい熱をその身に残した美和は、艶やかに乱れた黒髪を片手で掻き上げながら、ふぅと深い溜息をついた。
隣では、妻の寝顔を見つめながら朝食の段取りを考えていた天が、きょとんとした顔でまばたきをしている。
「……ちょっと、天ちゃん」
「ん? どうしたの美和さん、まだそんなに無理して起き上がらなくていいよ。今朝は僕が何か簡単な朝食を作るからさ……」
「……誰のせいで、こんなに体が気だるくて起き上がれなくなっていると思っているのよ。まったく……貴方にご加護を与えているのは、ご先祖様から受け継いだ不動明王様ではなくて、愛染明王様なんじゃないのかしら?」
「……えっ」
「『えっ』じゃないわよ」
美和は身を起こし、シーツを体に巻きつけながら不満げかつ愛おしげなジト目で夫を睨みつけた。
「昼間はあんなに誠実で、不動明王様のような厳格さで自分を律しているくせに……夜のベッドに入った途端にあんなに激しく愛欲を剥き出しにするなんて。完全に、情熱と愛欲をつかさどる密教の仏様の加護を受けているとしか思えないわ。私、昨夜は何度気絶しそうになったことか……」
「う、ぐ……それは、その……美和さんがあまりにも綺麗で、可愛すぎるのがいけないんだよ……」
「もう……すぐに人のせいにするんだから」
呆れたように頬を膨らめる妻の姿に、天はタジタジになりながらも、愛おしさが胸いっぱいに広がるのを感じていた。
——その頃、はるか天上の密教の浄土。
「解せん……」
真紅の怒髪を逆立てた愛染明王は、見事なまでに眉間を寄せ、六本の腕を組んでいた。
(我が神通力と情熱の加護は、あやつの『ただの妻バカ』という圧倒的な煩悩と、元自衛官由来の無尽蔵な男の体力にまるっきり勝手に使われておる……。いや、勝手に変換されておるではないか……!)
憤慨しつつも、どこか誇らしげなその表情には、二人のあまりのラブラブっぷりに参ってしまったような苦笑いが混ざっていた。
第二章:ルポライターの真面目すぎる研究
それから数日後の昼下がり。
風花町の平屋のリビングには、窓から心地よい初夏の風が通り抜けていた。
ソファに腰を下ろした天は、愛用のスペースブラックのMacBook Proを開き、何かをものすごい集中力で読みふけっていた。
ルポの取材資料でも調べているのかと、珈琲の入ったマグカップを持って近づいた美和は、画面の文字を覗き込んでピタリと動きを止めた。
そこに映し出されていたのは、仏教美術における『愛染明王法』および『敬愛法』、そして『愛染明王の性魔術的アスペクトと煩悩即菩提』という、いささかディープすぎる密教の専門論文のページだった。
「……ちょっと天ちゃん、何を見ているの……」
「……あ、いや。美和さん」
天は微塵も慌てることなく、けれど耳の先端まで真っ赤に染めながら、パソコンの画面を少しだけ傾けた。
「この前、美和さんに『加護を与えているのは愛染明王様じゃないの』って言われたでしょう? あれが気になって少し調べていたんだけどさ……。愛染明王様って、愛欲や男女の情熱というエネルギーを打ち消すのではなく、そのまま巨大な悟りの力に変える『煩悩即菩提』の象徴なんだね。それに敬愛と縁結びの究極の秘法として……」
「……ちょっと待ちなさい」
美和は一瞬だけ呆然とした後、異色瞳をじと〜っと細めて天の隣にぽすんと腰を下ろした。
「ルポライターとしての探求心をどうしてそんな変な方向に発揮しているのかしら? 『性魔術に興味津々』って……天ちゃん、まさかそれ以上私をどうにかするつもりじゃないでしょうね?」
「そんな滅相もない! ただ、その……」
天は愛用のブライヤーパイプをパイプスタンドに置き、珍しくしどろもどろになりながら、美和の華奢な手を両手でそっと包み込んだ。
「愛染明王様の教えによると、愛する人との交わりそのものが神聖な修行であり、互いの魂を高め合う儀式なんだって。だから、僕が美和さんを求めてしまうのもあながち間違いというか、不純なだけじゃないのかなって真面目にそう思って……」
「もう。真顔で何を理屈づけているのよ、このバカ天ちゃんは」
美和はふうっと息を漏らして笑うと、赤くなった天の頬を両手でむにゅっと引っ張った。
「理屈や密教の難しい本に頼らなくても、天ちゃんの熱さは十分すぎるくらい私に伝わっているわよ。これ以上『愛染明王様の秘法』なんて研究されたら、私の体が幾つあっても足りなくなっちゃうわ」
「う、ぐ……すみません……」
「でもね」
美和は引っ張っていた手を緩めると、天の首にそっと腕を回し、耳元で甘く囁いた。
「今夜の営業が終わったら……その『研究の成果』、少しだけ試してみてもいいけれど?」
「……っ! 美和さん……!」
「ふふっ、冗談よ。さ、そろそろ夕方の仕込みの時間だから行くわね」
赤面して完全に固まった夫を置いて、美和は楽しそうにクスクスと笑いながら玄関の方へと歩いていく。
天上の愛染明王は、その様子を天眼で見届けながら、ふたたび頭を抱えていた。
(あやつ、我が『煩悩即菩提』の教えを、妻をより深く愛でるための理論武装に使っておる……。しかも嫁である木花咲耶姫に完全にお見通しで転がされておるではないか……。解せん、解せんぞ……!)
だが、その六本の腕のどこにも怒りの色はなかった。
むしろ、愛おしい夫婦の営みをそっと見守るような、温かな朱い光がその背後から静かに放たれていた。
第三章:滝行の果ての真剣祈願
風花町から少し離れた山あい——毎月二十八日に行う天のルーティンである「滝場参拝」の日がやってきた。
轟音を立てて落ちる激しい滝の水しぶきが、鍛え抜かれた天の肉体を容赦なく打ちつける。
肌を突き刺すような冷たさの中、彼は不動明王の真言――『ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン』を一心不乱に唱え、己の精神を極限まで研ぎ澄ませていた。
やがて滝行を終え、水しぶきを浴びたまま荒い息を整えた天は、ふと滝壺の脇にひっそりと佇む小さなもう一つのお堂に目を向けた。
そこには、真紅の体躯で凄まじい眼光を放つ愛染明王像が鎮座している。
天は濡れた髪をかき上げると、そのお堂の前に歩み寄り、真面目すぎる顔つきで静かに合掌した。
(……愛染明王様。いつも美和さんとの良縁をお守りいただき、ありがとうございます。……その、夜の秘法に関しましては、ルポライターの探求心として今後も精進してまいりますので、どうか美和さんの腰と体力をお守りください……)
大真面目な顔で心の中でそんな祈願を捧げながら、天は不動明王と愛染明王の二仏を並べて心の中で礼拝した。
その光景を霊的に目撃していた二人の明王の反応は、対照的だった。
不動明王は手にした利剣を構えたまま、深い溜息をついた。
(……天よ。我が与えたのは滝の行に耐えうる精神と肉体であって、夜の営みで妻を気絶させるためのスタミナではないのだが……。まあ、美和を邪気から守っておるから良しとするか……)
一方の愛染明王は、六本の腕で盛大に大賛成のサインを作りながら、豪快に笑っていた。
(まさか我への祈願が『妻を愛でるための技術向上と体力の加護』とはな! よいぞ天、その真っ直ぐすぎる煩悩、まさに『煩悩即菩提』の極み! 思う存分愛でるがよい!)
さっぱりとした清々しい顔で『Bar風花』に戻ってきた天は、仕込みをしている美和の背中に声をかけた。
「美和さん、今日から不動明王様と一緒に、愛染明王様のご真言も毎朝唱えることにしたよ」
それを聞いた美和は、手に持っていたバースプーンをそっと置き、数秒間の静寂ののち、最高潮に呆れ返ったジト目で夫を振り返った。
「……ねえ天ちゃん。お願いだから、これ以上変なご利益を勝手に授かってこないでちょうだい……?」
「どうしてかな、すごくありがたいご利益だと思うんだけど……」
顔を真っ赤にしつつ言い放つ妻の姿に、天は困惑したように首をかしげるばかりだった。
第四章:裏社会の魔女と、爆弾発言
夜が更け、『Bar風花』の重厚なオーク材の扉が静かに開いた。
今夜も客の途切れたカウンターの端で、東スラヴ系の透き通るような白肌に金髪のウェーブを揺らしながら、ソーニャがバカラのグラスを傾けていた。
トム・フォードのスーツを着こなし、ダークフローラルな香りを漂わせる彼女は、この平和な町にあって数少ない血生臭い裏社会の空気を纏った危険な美女である。
カウンターの中でグラスを拭いていた美和と、いつものカウンター席で今日買ってきた洋酒の専門書に目を通していた天の前で、ソーニャはふっと紫煙をくゆらせて笑った。
「ねえ、天ちゃん。仏教の密教論文だの愛染明王法だのって、随分とマニアックな検索履歴がパソコンに残ってたわよ? 一体、何の真似?」
ギクリと天の肩が揺れた。
美和はといえば、顔を真っ赤にして「ちょっと、人のパソコンを勝手に見ちゃダメよ、ソーニャ!」と抗議の声をあげる。
しかしソーニャは悪びれる様子もなく、妖しく口角を吊り上げた。
「愛染明王法ねぇ……。あ〜、そう言えば昔、私がぶっ飛ばしたオカルト組織の幹部に変態野郎がいてね。そいつがまさに愛染明王法の性魔術の使い手だったわよ」
「なっ……!?」
天が目を丸くした。
美和は「そ、そんな物々しい組織の人と戦ってたの……!?」と言葉を失う。
ソーニャは気にせず、さらに爆弾を投下する。
「そいつからぶんどった性魔術の秘儀に関する極秘オカルト資料なら、私の手元にまだゴロゴロ転がってるけどさ……。どう、天ちゃん、ルポの資料として貸したげよっか? 結構エグいテクニック書いてあるわよ?」
「ソ、ソーニャさん! やめてっ、そんな物騒で怪しげな資料をこの人に渡さないで!」
美和はカウンターの向こう側で文字通り飛び上がり、両手をブンブンと振って否定した。
「ただでさえこの人、大真面目な顔してルポライターの探求心を変な方向――夜の夫婦生活にばかり発揮しているのよ!? これ以上変な魔術資料なんて渡されたら、私の体が本当に保たなくなっちゃうわ!」
「キャハハハ! なんだ美和、そんなに天ちゃんの夜の『加護』が激しいわけ? 良いことじゃない、若いんだしそれだけ愛されてる証拠でしょ!」
ソーニャが豪快に笑い転げる横で、天は至って真剣な、微塵の曇りもない真面目な顔のまま、愛用のMacBook Proの傍らでパイプの煙を静かにくゆらせて言った。
「ソーニャさん。……その変態魔術師の使っていた密教的アプローチと、西洋魔術における性エネルギーの昇華理論の接点について、ルポの構成上非常に興味があります。ぜひその資料、今度拝見を――」
「天ちゃんっ!!!(怒)」
美和の人生で最もフルスロットルなジト目と、怒気を含んだ可愛らしい一喝が店内に響き渡った。
天はビクリと背筋を伸ばした。
「……すみませんでした」
即座にMacBook Proの画面をパタンと閉じた。
第五章:赤面と、甘やかな夜の訪れ
やがて夜の喧騒が完全に収まり、『Bar風花』の営業時間が終わった。
店内の照明が落とされ、アンバー色の間接照明だけが静かに空間を照らす中、美和は疲れたような、けれどどこか嬉しそうなため息をつきながらカウンターを片付けていた。
「もう……ソーニャさんは変なこと言うし、天ちゃんは真面目な顔してとんでもない資料を欲しがるし……私の苦労も知らないで……」
ぷりぷり怒りながらグラスを拭く美和の後ろから、ふわりと温かな影が近づいてきた。
天は何も言わず後ろからそっと美和の華奢な体を包み込むように抱きしめ、その首筋に優しく顔をうずめた。
「ごめんね、美和さん。変な心配をかけちゃってさ。でも、僕がそんなふうに色々と調べちゃうのも、全部美和さんのことが好きすぎてもっと深く知りたいし、大切にしたいからなんだよ」
背中越しに伝わってきた夫の真摯で真っ直ぐな体温に、美和の怒りは一瞬で霧散してしまった。
彼女はふっと力を抜き、天の腕に自分の手を重ね合わせた。
「……本当に、しょうがない人ね」
振り返った美和の瞳は、ワインレッドとアンバーの輝きのなかにとろけるような甘い光を宿していた。
「密教の秘法や魔術の資料なんてなくても……天ちゃんが私に向けてくれるその熱があれば、それで十分すぎるくらい満たされているわよ」
「美和さん……」
静まり返った店内でふたりの影がゆっくりと重なり合い、甘いキスが交わされる。
ルポライターとしての真面目すぎる探究心も、天上の明王たちが見守る圧倒的な煩悩も、すべてはこの店の静かな空間と、櫻庭家の温かな寝台の上で優しく溶け合っていく。
誰も邪魔することのできない世界で一番甘くて温かな『Bar風花』の夜は、ふたりの愛の深さとともに、どこまでも静かに、そして豊かに更けていくのだった。
【あとがき】
いつも『Bar風花』の物語を温かく見守っていただき、本当にありがとうございます。
今回は、櫻庭家ゆかりの不動明王様と、情熱と良縁を司る愛染明王様を巡る、天ちゃんと美和さんの甘くて少しコミカルな日常をお届けいたしました。
普段は誠実でストイックな天ちゃんですが、大好きな美和さんのこととなると、持ち前の探究心が大真面目に暴走してしまいます。
MacBook Proで密教論文を読み込み、滝行の果てに「美和さんの腰と体力」を祈願し、ソーニャさんの怪しいオカルト資料にまで目を輝かせる……。
そんな真面目ゆえのおかしさと、妻を一途に想う純粋な熱情、そして呆れつつも最後は優しく受け止める美和さんの懐の深さを感じていただけたら幸いです。
天上から呆れつつも温かく見守る明王たちの存在も、風花町に流れる静かでどこか神聖な空気感のアクセントとなっていれば嬉しく思います。
もし今回のエピソードをクスッと笑い、楽しんでいただけましたら、ページ下部の「ブックマーク追加」や「★★★★★評価」、温かい感想などを寄せていただけますと大きな執筆の励みになります。
静かなカウンターの灯りの下で、今夜もふたりの温かな愛がそっと咲き誇りますように。
また皆様とお会いできる刻を、心より楽しみにしております。
天照(Bar風花)




