【Bar風花 閑話】 琥珀色のハイボールとラムレーズン 〜たまには二人で場末のネオンに酔いしれて〜
【前書き】
※本作は『Bar風花-kazahana-』の本編から続く、秋の特別小話です。
※お酒と手作りのおつまみ、そして夜の街に生きる人々との温かな交流を描いています。
※物語単体でもお楽しみいただけますので、どうぞお気軽にお召し上がりください。
秋の冷気が満ちる深夜、暖簾を下ろした『Bar風花』。
バーテンダーの鎧を静かに脱いだ美和と、優しく寄り添う天が向かったのは、街の歓楽街に灯るネオンの先でした。
グラスを鳴らす豪快なハイボールと、時間をかけて仕込まれた手作りのレーズンバター。
静寂を守る者と、賑やかさに包み込む者——ふたつの「癒やし手」が出会う、琥珀色の夜の余韻。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:暖簾の先の余韻、静寂のオーク扉
風花町の夜が深い藍色のヴェールをさらに濃くする時間帯。
『Bar風花-kazahana-』の重厚なオーク材の扉に「Closed」の札が掛けられたのは日付が完全に変わってからのことだった。
真空管アンプの電源が落とされ店内に漂っていた微かなホワイトノイズが静かに消える。
そこには磨き上げられた鉄刀木の一枚板カウンターとクリスタルグラスの静かな光沢だけが残されていた。
オーナーバーテンダーとしての凛としたプロの顔から一人の「妻」としての柔らかい表情へ。
櫻庭美和は仕立ての良い白いバーコートのボタンを一つずつ丁寧に外しハンガーへと掛けた。
代わりに身に纏ったのは上品なオフホワイトのアンサンブルニットと夜風に揺れる細いプリーツのロングスカート。
夫である櫻庭天は愛用のモンブランの万年筆を胸ポケットに収めると私服に着替えた美和の肩をそっと抱き寄せるようにして路地へと歩み出た。
夏から秋へと深まりゆく季節の風は夜になると周囲の山々からの澄んだ冷気を孕んでいて少し肌寒い。
しかし触れ合う互いの体温がその冷気を心地よいアクセントへと変えていた。
「天ちゃん、本当に大丈夫? 無理して付き合ってくれなくても……」
美和は右目の深いワインレッドと左目のアンバーという不思議な異色瞳をほんのり細めながら夫の顔を見上げた。
いつものように眼鏡のブリッジを指先で押し上げ天は穏やかに笑う。
「何を言ってるの、美和さん。たまには二人でこうして秋の夜長を歩くのも新鮮だし何よりマツコさんたちのお店へ一度きちんとお邪魔してみたかったんだよ」
二人が向かうのは風花町の歓楽街の一角にある雑居ビルだった。
昼間はひっそりとしているその界隈もこの時間だけはスナックやラウンジの古びた看板がアンバーやピンクの光を放ち生き物のように蠢いている。
そのビルの二階。
黒塗りの扉の横でネオン管が『艶桜』という文字を艶やかに形作っていた。
中からは耳を澄まさずとも聞こえてくる賑やかな笑い声と少し古ぼけたスピーカーが鳴らす昭和ポップスのアップテンポな重低音が響いていた。
天が「失礼します」と呟きながらその重い扉を押し開けた瞬間、視界は一気に色彩の洪水へと切り替わった。
第二章:ネオンの『艶桜』と、夜の迷い子たち
「あら、いらっしゃい……って、嘘でしょ!?」
カウンターの奥で大ぶりなタンブラーを大雑把な手つきで拭いていたチーママのアンジェラが付けまつげのついた目を限界まで見開いた。
その高音の叫び声に奥のボックス席で常連客と盛り上がっていたオーナーママのマツコが素早く巨体を翻す。
「ちょっと待って、アタシの目に映ってるの、幻覚じゃないわよね。美和ちゃんに、天ちゃんじゃないの!」
マツコは見事なまでに高く結い上げられた夜会巻きを揺らしスパンコールがびっしりと縫い付けられた漆黒のドレスをきらめかせながら驚くべき足さばきで入り口へと突進してきた。
その姿はまるで夜の海を泳ぐ巨大な熱帯魚のようだ。
「こんばんは、マツコさん、アンジェラさん。お邪魔いたします」
美和がBarでの凛とした佇まいを少しだけ残しながらもプライベートの柔らかさを帯びた声で一礼する。
マツコは両手を激しく叩き合わせて歓喜した。
「まあまあ! よく来てくれたわね! いつもアタシたちが『風花』の方に押し掛けちゃって極上のカクテルを格安でいただいてるみたいで気が引けてたのよ。まさか二人がこんな場末のオカマバーに来てくれるなんて夢にも思わなかったわ。ささ、突っ立ってないでカウンターの特等席へどうぞ!」
勧められるままに腰を下ろしたスツールは鮮やかな赤いベルベット張りだった。
『Bar風花-kazahana-』の長年使い込まれて体温をそっと吸い取るような黒革のローチェアーとは何もかもが対照的だ。
お尻を包み込むような弾力とどこか場慣れたレトロな艶っぽさがある。
しかしそれが決して不快ではない。
むしろ入ってきた者を「ここでは格好をつけなくていいのよ」と力強く全肯定してくれるような包容力があった。
「さて、何をお出ししようかしらねぇ。美和ちゃんのプロの舌を唸らせるような上等なお酒なんてうちの棚には並んでないわよ?」
アンジェラがバックバーに並んだ一般的なウイスキーや焼酎のボトルを前に少しだけ縮こまったように肩をすくめた。
美和はクスッと鈴の音を転がすように笑う。
「お気遣いなく、アンジェラさん。今夜は『Bar風花-kazahana-』のバーテンダーではなくただの不器用な一人の客ですから。マツコさんのおすすめをそのままいただけますか?」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないの、この美女は! じゃあアタシたちの命の泉、ちょっと濃いめの『ハイボール』で派手に乾杯しましょう。天ちゃんもそれでいいわよね?」
「うん、喜んで。喉が鳴っていたところなんだ」
天が親密な微笑みを浮かべて頷くとマツコは「よしきた!」と袖をまくりあげた。
第三章:酒精の哲学、勢いのハイボール
マツコのハイボール作りは美和のそれとは完全に異なっていた。
美和の技術は一切の雑音を排し液体分子を崩さないように静かにバースプーンを滑らせる「静の芸術」。
対するマツコは冷蔵庫から豪快に掴み出した市販の角氷をガラスのジョッキにガツガツと放り込みウイスキーを躊躇なく目分量で注ぐ。
そして冷えた炭酸水を勢いよく注ぎ入れたかと思うとロングマドラーを縦横無尽にガランガランと大きな音を立てて回した。
炭酸の泡がジョッキの縁から微かに弾け飛ぶ。
しかしその手際の良さには長年この夜の街で客を満足させてきた独自の「呼吸」が宿っていた。
「はい、お待ち遠さま! 風花町の美男美女カップルに、乾杯!」
「「「「乾杯っ!」」」」
四人のジョッキとグラスが賑やかな音を立てて合わさる。
天は厚手のジョッキを傾け大きく一口飲み込んだ。
「――っ、美味い……!」
ウイスキーのしっかりとしたアルコール感と強炭酸の容赦のない刺激が一日の仕事を終えた身体の隅々にまで電撃のように染み渡っていく。
バーで供される計算し尽くされた完璧な温度のハイボールが「鑑賞すべき絵画」だとするならばマツコのハイボールは渇えた喉に直接注ぎ込まれる「熱い生命力」そのものだった。
美和もまた小さめのジョッキを上品に傾け喉を鳴らした後にふうと満足そうな息を吐き出す。
「本当に美味しいです、マツコさん。ベースのウイスキーのコクが炭酸の勢いに負けていませんわ。氷の角が少し溶けて全体が馴染んだ瞬間のバランスが絶妙です」
「あら、プロの批評が入ると緊張しちゃうわね。良かったわ、口に合って。いつも美和ちゃんには奇跡みたいな一杯をいただいてるからお返しにしちゃあ安上がりで申し訳ないと思ってたんだけど」
マツコは大きな身体をカウンターに預け太い指先でハイボールのジョッキを弄びながら二人をじっと見つめた。
「それにしてもこうして二人が並んで座っているのを見ると本当に絵になるわね。なんて言うのかしら、アタシみたいな業の深い人間から見ると神棚にでも飾っておきたいくらい綺麗よ、二人とも」
その言葉に天と美和は思わず顔を見合わせ内緒の可笑しさを堪えるようにして微笑んだ。
彼らにとって「神棚に飾る」というマツコの表現はあまりにも的を射すぎていた。
もちろんマツコたちはそんな裏事情を知る由もない。
「マツコさんのお店、すごく温かくて素敵ですね。皆さん心の底から笑っていらっしゃる」
天が奥のボックス席で楽しそうに大声を上げている常連客たちを見渡しながら言うとマツコはふっと化粧の奥にある優しい「守護者」の表情を見せた。
第四章:「癒やし手」の定義、手作りのレーズンバター
「ここはね、夜の迷い子たちが集まる場所なのよ、天ちゃん。みんな昼間の顔に疲れちゃってね。男だとか女だとか会社の役職だとか誰かの親だとか、そういう重たい看板を全部クロークに預けないと息が詰まって死んじゃうような子たち、この扉を叩くの。だからアタシたちはこうやってちょっと派手な格好をしてバカな話をして現実を一時的に忘れさせてあげる。……まあ、美和ちゃんのお店みたいに静かに魂を癒やす高尚な真似はできないけれどね」
マツコの言葉は自嘲気味ではあったが己の仕事に対する確固たる誇りに満ちていた。
それに対して美和はジョッキを置きまっすぐにマツコを見つめた。
その異色の瞳が店のきらびやかなネオンを反射してまるで此花神社の御神木に咲く夜桜のように妖しくそして深く輝く。
「そんなことはありません、マツコさん」
美和の声にはいつもの甘やかな響きではなくBarのカウンターで客の人生を受け止める時の凛とした重みがあった。
「形は違えど傷ついた人や疲れた人を包み込み明日へ歩き出すための活力を与える。マツコさんやアンジェラさんもこの町の立派な『癒やし手』ですわ。私はマツコさんのそういう他人の痛みを決して笑わない温かいところが本当に大好きですよ」
真っ直ぐな一点の曇りもない美和の言葉。
マツコは一瞬言葉を失ったように大柄な身体を硬直させた。
化粧で縁取られた瞳が微かに潤んだようにも見えた。
しかしすぐに激しく照れくさくなったのか両手で自分の大きな顔を仰ぐようにしていつものお騒がせな調子に戻る。
「もう、美和ちゃんったら! そんなお上手言われたらアタシ今夜は一晩中タダでお酒出しちゃうじゃないのよ! アンジェラ、何ぼさっとしてんの! 二人につまみ持ってきなさい、一番良いやつ!」
「はいよママ! 特製のレーズンバターね、今出すわ!」
アンジェラが小走りで奥の厨房から運んできたのは小さなお皿に盛られた驚くほど分厚い手作りのレーズンバターだった。
不揃いにカットされた断面からはラム酒に深く浸かった大粒のレーズンが顔をのぞかせている。
「これマツコさんが昼間に仕込んでるのよ。バターを室温に戻してしっかりと空気を含ませるまで練るから口溶けが全然違うんだから」
アンジェラの説明を聞きながら美和は添えられたクラッカーにそのレーズンバターをたっぷりと乗せ口へと運んだ。
「――っ!」
美和の目が驚きに丸くなる。
舌の上に乗せた瞬間、体温でふわりと溶け出したバターは濃厚でありながらもしつこさが一切ない。
しっかりと練り込まれたことで空気を多く含みまるで極上のムースのような軽やかさを持っていた。
そして噛み締めた瞬間に弾ける自家製のラムレーズン。
ジャマイカ産のダークラムの芳醇な香りとレーズン自体の持つ凝縮された甘みがバターの塩気と完璧なコントラストを描いていた。
「美味しい……! マツコさん、これ素晴らしい仕事ですわ。ラム酒のアルコールを適度に残しつつレーズンの水分をバターが優しく包み込んでいる。この濃厚さが少し濃いめのハイボールの炭酸とウイスキーの樽香を何倍にも引き立てています」
「あら、嬉しい。アタシ不器用だからさ、こういう時間をかけることしかできないのよ。レーズンをラムに一週間漬け込んで毎日毎日瓶をひっくり返してね。そうするとレーズンがラムをしっかり吸ってぷっくりと膨らむの。それを上質な有塩バターと合わせるだけ。手間暇だけは裏切らないからね」
天もまたそのレーズンバターを口にしジョッキを傾けた。
「本当だね。これはお酒が進みすぎて困っちゃうな。美味しい料理と美味しいお酒、それだけで人はこんなにも救われるんだ」
居酒屋のカウンターで出されるじっくりと味の染みた大根の煮物のようにこのレーズンバターには作った人間の『食べてくれる人を喜ばせたい』という純粋でオーガニックな温もりが詰まっていた。
第五章:幸福な琥珀色の朝へ
賑やかな音楽とマツコたちの弾けるようなマシンガントーク。
真逆の空間のはずなのに不思議なほど居心地が良かった。
この店を満たす「熱」がすべてを溶かし込んで包容する大自然の熔岩のような温かさを持っていたからだろう。
天はそっとテーブルの下で美和の白く細い手を握りしめる。
美和は一瞬驚いたように手を震わせたがすぐにその指を天の指の隙間に滑り込ませ恋人のように強く握り返してきた。
気づけば東の空が薄紫から淡い琥珀色へと移り変わる夜明け直前の時間帯になっていた。
「本当に楽しかったです。マツコさん、アンジェラさん、ありがとうございました」
「こちらこそ来てくれて本当に嬉しかったわ。またいつでも、昼間の顔に疲れそうになったら逃げてきなさいね」
ドレスのスパンコールに朝の淡い微光を反射させながらマツコとアンジェラはビルの入り口まで見送ってくれた。
ひんやりとした澄んだ秋の空気が二人の火照った身体を優しく包み込む。
夜の喧騒が嘘のように静まり返った町の道を二人は再びぴったりと寄り添って歩き出した。
「天ちゃん、本当に楽しかったね」
「うん。みんな美和さんのあの偏見のない真っ直ぐな温かさに魂を救われているんだよ」
天の言葉に美和は夫の逞しい腕にぎゅっと抱きついた。
「私はね、天ちゃん……。あなたが隣にいてくれて天ちゃんだけの『普通の女の子』に戻れる時間があるからあの『風花』のカウンターで凛としたプロとして立っていられるの。神様の重圧もバーテンダーとしての孤独も天ちゃんの腕の中に入れば全部優しい体温に変わってしまうんですもの」
美和は天の胸にコトと額を預け長い睫毛を伏せながら小さく囁いた。
「お家に帰ったら天ちゃんをたくさんチャージさせてね」
「ええ、もちろん。いくらでも」
かすかに香る桜の余韻とラムレーズンの甘い残り香を秋の路地に残しながら。
二人は誰もいない静かな風花町の路地を互いの手をしっかりと繋いだまま幸福な琥珀色の朝へとどこまでも静かに歩み進めていくのだった。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
今回は『Bar風花』の静寂を少し離れ、マツコさんたちの店『艶桜』を天ちゃんと美和さんが訪れるエピソードをお届けしました。
一切の雑音を排した美和さんの「静」のカクテルと、溢れる熱量で客を包み込むマツコさんの「動」のハイボール。
アプローチは正反対ですが、傷ついた誰かを温かく受け止める二人は、どちらもこの町になくてはならない「癒やし手」なのだと感じます。
秋の夜長に味わう濃いめのハイボールと、手間暇を惜しまず仕込まれた濃厚な手作りレーズンバター。
そのじんわりと広がる温度が、読んでくださった皆様の心にも少しでも届いていれば幸いです。
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また次の夜、風花のカウンターでお会いしましょう。
天照(Bar風花)




