【Bar風花 閑話】 地獄の担々麺と甘いヴェルヴェット 〜完食ゼロの伝説を砕くメイドと瀕死のルポライター〜
【前書き】
※本エピソードは、風花町で繰り広げられる日常の一コマを描いた番外編です。
※辛いものが苦手なルポライターと、完璧すぎる黒衣のメイドによる激辛取材劇となります。
※お酒の飲めないひとときにも寄り添う、心とお腹を温める甘いモクテルも登場します。
山あいの風が静かに路地を吹き抜けていく、風花町の朝。
いつも真摯に街の声を掬い上げるルポライターの夫が直面したのは、あまりにも過酷な「激辛担々麺」の取材依頼でした。
胃薬をポケットに忍ばせ、意を決して出かけようとする彼のもとへ、漆黒のドレスを纏った完璧なるメイドが静かに寄り添います。
情熱の深紅と、静寂の黒。
そして、傷ついた心と胃袋を優しく包み込む、雪のように白い一杯。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第1章:受難の朝と、黒衣の同行者
風花町の朝は、山あいから吹き下ろす湿り気を含んだ風とともに明ける。
櫻庭家の平屋のリビングからは、四季を問わず青々と葉を茂らせる庭の木々が見えていた。
午前九時。櫻庭天は無垢材のローテーブルの上にノートパソコンと取材ノートを広げ、深い溜め息をひとつ落とした。
「……よりによって、激辛、か」
画面に表示されているのは、地元情報誌『風花日和』の編集者から届いた一通の依頼メールだった。
『櫻庭さん、次号の巻頭グラビア企画なんですけどね。“汗をかいて乗り切れ! 風花町・激辛&旨辛の名店巡り”でいきたいんです。ぜひ、あの味にうるさいルポライターの櫻庭さんに、旨さと辛さの限界に挑んでいただきたく!』
天はフリーランスのルポライターだ。
地域の歴史、独自の食文化、そして職人の誠実な手仕事を丹念に掬い上げる泥臭い取材スタイルには定評がある。
だが、依頼文にある『限界に挑んで』という一節が、彼の胃袋を情けなく縮み上がらせていた。
実のところ、天は辛い食べ物が決して得意ではない。
一般的なカレーの中辛で額にうっすら汗を浮かべる程度であり、巷の激辛ブームなどとは無縁の人生を送ってきたのだ。
しかし、日頃から世話になっている編集者からの頼みを、私情で無下に断るわけにもいかない。
「まあ……仕事だしな。しっかり取材して、読者に伝わるレポートを書くのがプロだ」
天は自分に言い聞かせるように呟くと、胃薬の小袋を二包、ジーンズのポケットに忍ばせた。
今日の取材先は、町の裏路地に店を構える担々麺専門店『担々麺 炎龍』。
暖簾をくぐった客の半分が悶絶して帰るという、知る人ぞ知る激辛の聖地である。
覚悟を決め、かさばる取材機材の運搬用として愛用しているスバル・エクシーガGTのキーを手に取り、玄関へ向かおうとしたその時だった。
「天様。本日の取材、私もお供いたします」
静かな、だが一切の異論を挟ませない凛とした声が廊下に響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは千草だった。
いつ見ても埃ひとつない、足首まで届く漆黒のロング丈メイド服。
胸元には真っ白なエプロンを優雅に揺らし、髪を完璧にまとめたその佇まいは、まるでクラシック映画のワンシーンから抜け出してきたかのようだ。
「……千草お姉ちゃん?」
天は思わず目を丸くした。
「お供って……今日の取材、町の中華屋さんだよ? 激辛の担々麺を一杯食べるだけなんだけど」
「承知しております。激辛料理の取材は時に取材者の判断力を奪い、肉体的・精神的な危機をもたらすと聞き及んでおります。プロのメイドたるもの、主のいかなる困難な現場にも同行し、サポートを完遂するのが務めでございます」
千草は一切ポーカーフェイスを崩さず、手に持った黒革の小さなボストンバッグを軽く持ち上げてみせた。
「いや、でも……その格好で行くの? 目立ちすぎるんじゃ……」
「何か問題でもございますか? 私は櫻庭家のメイドでございます。この装い以外で外に出ては、家名の格式に関わります」
「いやいや、風花町のラーメン屋さんにロング丈のメイド服は、格式どころの話じゃないと思うんだけど……」
天の正論など風に舞う木の葉ほどにも気にしていない様子で、千草は「さあ、お車へどうぞ」と優雅に手を差し伸べた。
この人に何を言っても無駄だと、天は瞬時に悟った。
諦めて苦笑いを浮かべながら、エクシーガの運転席に乗り込む。
助手席のドアが滑らかに開き、千草がスカートの裾をふわりと折りたたんで静かに着席した。
車内に、かすかな石鹸とラベンダーの清々しい香りが広がる。
「安全運転でまいりましょう、天様」
「はいはい……」
青空の下、水平対向ターボエンジンの静かな重低音を響かせながら、エクシーガは風花町の狭い路地へと走り出した。
第2章:赤い提灯と地獄の丼
『担々麺 炎龍』は、昭和の面影を色濃く残す狭い路地の奥にひっそりと佇んでいた。
風に揺れる赤い提灯と、「激辛」の二文字が躍る黒い幟旗。
引き戸を開けると、一瞬で鼻腔を突く刺激臭が二人を迎えた。
焦がした唐辛子と花椒の刺すような香辛料の匂いが、店内の空気に濃密に充満している。
「いらっしゃい! おう、アンタが雑誌の取材の櫻庭さんかい?」
厨房の奥から現れたのは、いかにも頑固そうな店主だった。
ねじり鉢巻きに黒いTシャツ、太い腕組みをした姿は、こだわりを絵に描いたようなラーメン職人そのものだ。
だが、その店主の視線が天の隣で止まった瞬間、ピキリと凍りついた。
「……あの、店主さん?」
「……いや、なんだ。そっちの、めちゃくちゃ気合いの入ったメイドさんは……コスプレでの取材か何かか?」
「いえ、私のアシスタントでして……」
「左様でございます。本日は天様の取材補佐として参りました」
千草は何の動揺も見せず、寸分の狂いもない完璧な角度で一礼してみせた。
店主は完全に気圧され、毒気を抜かれたようにカウンターの奥へと下がる。
「まあいいや! 取材だろ? うちの看板メニューは『特製・極み激辛担々麺』だ。辛さのレベルは一般的な『激辛』の五倍。半端な覚悟じゃスープ一口で泣きを見るぜ」
「は、はい……それでお願いします」
天は引きつった笑顔で頷き、カウンター席の中央に腰を下ろした。
千草はそのすぐ隣に、まるで要人警護官のように背筋をぴんと伸ばして腰掛ける。
厨房から聞こえる、ジャキジャキと中華鍋を振る激しい金属音。
油が爆ぜる音とともに、さらに濃厚な辛味の湯気がフロアを支配していく。
天はそれだけで喉がヒリヒリとしてきて、思わず生唾を呑み込んだ。
「へいお待ち! 『特製・極み激辛担々麺』だ!」
目の前にドンと置かれた丼。
天は息を呑んだ。
スープの表面は、ドロッとした深紅の油膜で覆われている。
中央に鎮座する肉味噌の上には、これでもかと粉末唐辛子が山を築き、輪切りの赤唐辛子と粗挽きの花椒が容赦なく散らされていた。
まるで活火山の火口を、そのまま丼に切り取ってきたかのようだ。
「……すごいいい香りですね。胡麻の香ばしさがしっかりと……」
天はライターとしての習性で、まずは視覚と嗅覚の印象をノートに書き留めた。
しかし、ペンを握る指先が微かに震えている。
「冷めないうちにどうぞ。完食できたら本物だ」
店主がニヤリと挑戦的な笑みを浮かべた。
「いただきます……」
天は意を決してレンゲを取り、赤いスープを少しだけ掬って口に運んだ。
その瞬間。
喉の奥で、小さな爆弾が弾けた。
胡麻の濃密な旨味が広がったのはほんの一瞬。
次の刹那には、マグマのような熱気と、舌を麻痺させる花椒の猛烈な痺れが口内全体を暴力的に蹂躙した。
「っ……ふぅーっ! ぐっ……! か、辛い……!」
「天様、いかがいたしましたか?」
「辛いっていうか、痛い! 喉が、喉が熱い……!」
一瞬で頭皮の毛穴という毛穴が開き、滝のような汗が噴き出してきた。
天は涙目になりながら冷水を口に含み、なんとか呼吸を整える。
そして意地になって箸を伸ばし、スープをたっぷり絡めた麺を口へと放り込んだ。
「ふ、ふーっ……! でも、うん……辛さの奥に、ちゃんと挽き肉の旨味と……自家製ラー油のコクが……ある……っ!」
「おお、わかるか! そうなんだよ、ただ辛いだけじゃねえ、コクがあるんだ!」
店主が嬉しそうに声を張り上げる。
天は汗をボロボロと流し、何度もハンカチで顔を拭いながら、メモを取っては麺をすする作業を繰り返した。
苦悶の表情を浮かべながらも、決して途中で匙を投げず、味の分析をやめない。
それはまさに、ルポライターとしての意地と誠実さだった。
そのすぐ隣で、千草は優雅な所作で小さなボストンバッグから新しいハンカチを取り出し、絶妙なタイミングで天の手元へ差し出した。
「天様、汗をお拭きになってくださいませ」
「あ、ありがとう千草お姉ちゃん……っ、水、水おかわり……」
「はい、冷えたお水でございます。急にお飲みになると胃に障りますので、まずは口に含んで転がすようになさってください」
完璧なサポートだった。
……しかし天は、チラリと千草の横顔を見て気づいてしまった。
千草の涼やかな目元と口元が、ほんのわずかに、実に楽しそうに緩んでいることに。
(この人……絶対に僕が苦しんでるのを面白がってる……!)
天が心の中で悶絶していたその時、店主が腕を組み、満足そうに頷きながら言った。
「へえ、大した根性じゃねえか、お兄さん! 普通の客なら二口でギブアップだぜ。まあ、これに満足できたなら何よりだ。……もっとも、うちの本当の“伝説”には遠く及ばねえがな」
「え……伝説、ですか?」
天が汗を拭いながら息も絶え絶えに尋ねる。
「おうよ。裏メニューの『裏・閻魔担々麺』さ。世界一辛いと言われるキャロライナ・リーパーの抽出エキスと、激辛唐辛子パウダーを通常の十倍ぶち込んだ悪魔の一杯だ。メニューに載せてから三年、挑戦者は何十人もいたが……完食者はゼロ! 全員が途中で救急車を呼びそうになって撃沈した、文字通りの『未踏峰』よ!」
ガハハと誇らしげに笑う店主。
天は苦笑いし、手元の残りの麺をなんとか腹に収めようとした。
だが、その時だった。
隣の席から、鈴の音のように澄み切った声が響いた。
「店主様。その『裏・閻魔担々麺』というお品、ひとつ頂戴できますでしょうか?」
第3章:至高のメイド、降臨
店内の熱気が、一瞬にして凍りついた。
「……え?」
天が麺を口にくわえたまま完全にフリーズする。
店主もまた目を丸く見開き、千草を二度見した。
「おいおい、お姉ちゃん……冗談だろ? 今の話聞いてなかったのか? キャロライナ・リーパーだぞ? 触った手で目を擦るだけで激痛が走るような危険物なんだぞ!」
「千草お姉ちゃん、やめときなよ! ネタで頼むようなレベルじゃないって!」
天も慌てて制止しようとしたが、千草は胸の前でそっと手を合わせ、穏やかに微笑むだけだった。
「お気遣い感謝いたします。ですが、お残しはいたしませんので。どうぞ、お作りいただけますか?」
その瞳には、一切の迷いも揺らぎもなかった。
圧倒的な気圧に押された店主は「……後悔しても知らんぞ!」と吐き捨て、奥の厨房へと消えていった。
数分後。
厨房から漂ってきたのは、もはや料理の枠を超えた刺激臭だった。
店主自身が防毒マスクのような重装備をして中華鍋を振っている。換気扇がけたたましい悲鳴を上げていた。
「……はいよ。『裏・閻魔担々麺』だ……!」
カウンターに置かれた丼から、赤黒い湯気がゆらりと立ち上る。
スープはもはや液体ではなく、レンゲが直立するほどドロッとした黒と深紅のペースト状だった。
キャロライナ・リーパー由来の禍々しい赤油と唐辛子粉末が何層ものグラデーションを作り、立ち上る湯気に対峙するだけで目が痛んでくるような異様な威圧感を放っている。
天は思わず椅子ごと身を引いた。
(あ、あれはダメだ。人間が口にしていいものじゃない……!)
しかし、千草は優雅な動作で胸元のエプロンを整えると、白く細い指先でレンゲを取り上げた。
「いただきます」
端正な合掌。
そして一切の躊躇なく、ドロッとした赤黒いペーストを掬い、その薄い唇へと運んだ。
静寂の中、スープが口内へと滑り込む。
天は息を呑んだ。店主もまた固唾を呑んで千草の反応を凝視している。
激痛で悶絶するか、悲鳴を上げて水を求めるか――。
しかし。
「……あら」
千草はそっとレンゲを置くと、うっとりとしたように目を細めた。
「まあ……とても素晴らしいコクでございますね。ベースの鶏ガラと豚骨の出汁がしっかりと効いており、唐辛子のフルーティーな甘みと香ばしさが実に見事に調和しております」
「……は?」
店主の口から、間の抜けた声が漏れた。
「ち、千草お姉ちゃん……? 辛くないの……!?」
天が恐る恐る尋ねると、千草は不思議そうに首を傾げた。
「辛味……でございますか? ええ、ほのかに心地よい刺激を感じますわ。まるで、初夏の爽やかな風に吹かれているような、清々しい味わいでございます」
(初夏の風!? あのマグマみたいなやつが!?)
千草は迷いのない手つきで割り箸を取ると、スープをたっぷり纏った太麺を掬い上げた。
そして一切の音を立てず、上品かつ滑らかな所作で麺を口へと運んでいく。
スッ、スッという、麺が滑る微かな音だけが店内に響く。
一口、二口、三口。
千草の白い肌には、汗ひとつ浮かばない。
呼吸が乱れることもなく、まるで最高級ホテルのアフタヌーンティーでスコーンを味わっているかのような涼しげな顔で、地獄の担々麺を平らげていく。
「そんな……バカな……! うちの閻魔だぞ!? キャロライナ・リーパーだぞ!?」
店主が頭を抱えて叫ぶ。
「麺の茹で加減も絶妙でございますね。固すぎず、スープとの絡みが計算し尽くされております」
千草の箸は止まらない。
肉味噌を掬い、青菜を味わい、みるみるうちに丼の中身が消えていく。
隣で自分が頼んだ通常激辛すら完食できずにハアハアと肩で息をしている天は、もはや己の存在意義を見失いかけていた。
そして、わずか数分後。
カチャリ。
千草は丼を両手で持ち上げると、残った赤黒いスープを優雅に飲み干した。
トントンと器がカウンターに置かれる。
丼の底には、真っ白な陶器の肌と『感謝』の二文字が綺麗に露出していた。
「……ごちそうさまでした。大変美味しゅうございました」
千草は胸ポケットから白い絹のハンカチを取り出し、チョンチョンと優しく口元を拭うと、満足そうに微笑んだ。
「……か、完食者第一号が……ロング丈のメイド服のお姉ちゃん……!?」
店主は膝から崩れ落ち、愕然とした表情で天井を見上げた。
店内には、店主の絶望と感涙の混ざった叫びが虚しく響き渡っていた。
第4章:甘いモクテルと、風花町の噂話
夜の帳が下りる頃。
『Bar風花』の重厚なオーク材の扉が開き、ボロボロになった天が這うようにして店内に滑り込んできた。
「ただいま……美和さん……」
「あらあら、おかえりなさい、天ちゃん。……ずいぶんと大変な取材だったみたいね」
カウンターの中でグラスを拭いていた美和が、その美しい異色瞳を柔らかく細め、くすりと優しく微笑んだ。
天はいつもの定位置であるカウンター一番奥のローチェアに、崩れ落ちるように腰掛けた。
胃の中がまだカッカと熱く、全身の脱力感が凄まじい。
「はい、天様。お疲れ様でございました」
天の隣にすっと立ち、完璧な手際で冷たいおしぼりを差し出す千草。
その顔には汗一粒なく、相変わらず寸分の乱れもないメイドの装いだった。
「千草お姉ちゃんは……本当に何ともないの……? 胃とか、舌とか……」
「ええ。大変清々しい心地でございます。本日の夕食は、天様の胃腸を労わり、消化に良い和風のお粥をご用意いたしますね」
「あ、ありがとう……助かるよ……」
天がぐったりと鉄刀木のカウンターに伏していると、美和が手際よくカクテルツールを動かし始めた。
バカラの重厚なオールドファッションド・グラスに、大きめの澄んだロックアイスを浮かべる。
そこに注がれたのは、濃密な成分無調整牛乳、冷えたアーモンドミルク、そしてほんの少しのバニラシロップ。
バースプーンが底から静かに滑らかに踊り、比重の異なる素材を、氷とクリスタルの澄んだ音とともに艶やかに溶かし込んでいく。
「はい、天ちゃん。特製のノンアルコール・カクテル『ホワイト・ヴェルヴェット』よ。唇が腫れて痛むでしょうから、ストローでそっと召し上がってね」
美和の細やかな気配りに感謝しながら、天はおそるおそるストローに口をつけ、ゆっくりと吸い込んだ。
「……あ……優しい……」
まろやかな牛乳のコクとアーモンドの香ばしい風味が、荒れ果てた天の胃と喉を優しく包み込んでいく。
痛みがすーっと引いていくような感覚に、天の目からポロリと涙が零れ落ちた。
「美味しいよ、美和さん……生き返る……」
「ふふ、よかったわ。今夜は余計なことは考えず、ゆっくりお腹を休めてね」
美和の慈愛に満ちた微笑みに包まれながら、天は心底から安堵の息を吐き出した。
――しかし、本当の試練は、取材記事の入稿後に待っていた。
取材から数日が過ぎた、ある日の昼下がり。
風花町の若者やグルメ好きの間で使われているSNS上で、ひとつの投稿が爆発的な勢いで拡散されていた。
『【吉報】『担々麺 炎龍』の完食者0人伝説、ついに崩壊!!
昨日、あの悪名高き『裏・閻魔担々麺』をペロリと平らげた猛者が現れました!
しかも、まさかの漆黒のロング丈メイド服を着た超絶綺麗な女性……! 一切顔色を変えず、スープまで一滴残さず飲み干して『ごちそうさまでした。とても爽やかな辛味でしたわ』と優雅に微笑んで去っていきました……マジで何者なんですかあの女神……!?
(※ちなみに隣で取材していた地元ライターっぽいお兄さんは、普通の激辛で滝のような汗を流して半泣きで瀕死になってましたw)
#風花町グルメ #炎龍 #激辛チャレンジ #謎のメイドさん #がんばれお兄さん』
「……くすっ。ふふふ……っ!」
橘法律事務所のデスクで、弁護士の橘栞がスマートフォンを握りしめたまま、必死に笑いを堪えて肩を揺らしていた。
隣のデスクで書類を揃えていたパラリーガルの一条結が、不思議そうに首を傾げる。
「栞先生、どうされたのですか? そんなに楽しそうなお顔をして」
「結、これ見て……! 今、町のタイムラインで一番バズっている投稿なんだけど……」
結は差し出された画面に目を通すと、最初は真面目な顔で文章を追っていた。
だが、途中で「あ」と小さく声を漏らし、引きつった笑みを浮かべた。
「……これ、伏字や匿名にはなっていますけれど……『クラシックメイド服の美女』と『瀕死のライターっぽいお兄さん』って……」
「ええ。間違いなく、千草さんと天ちゃんね。町内の人間なら、一秒で特定できるわ」
時を同じくして、風花町役場の地域振興課でも、山﨑響子がスマホ画面を見て「吹き出しちゃったじゃないですか……!」と一人で悶絶していた。
そしてその夜の『Bar風花』。
開店直後、いつもの定位置であるカウンターの端に腰を下ろしていた櫻庭天は、磨き上げられた鉄刀木の上に突っ伏したまま、深く重い溜め息をついていた。
「……天ちゃん、どうしたの? そんなに落ち込んで」
カウンターの中でグラスを磨いていた美和が、異色瞳を丸くして心配そうに覗き込む。
「……美和さん。今日、取材で町を歩いてたらさ……八百屋のおじさんにも、酒屋の店主さんにも、果ては通りすがりの高校生にまで『お兄さん、激辛で瀕死になってたらしいね! 命が無事でよかった!』って温かく声をかけられたんだよ……」
「まあ……ふふっ」
美和は慌てて口元を華奢な手で覆ったが、堪えきれずに優しく目を細めて笑った。
「匿名で『ライターっぽいお兄さん』って書いてあるのに、なんで風花町の人たち全員に僕だってバレてるんだろう……」
「それはもちろん、天ちゃんが町のみんなに愛されているからよ。それに……千草お姉ちゃんのあの完璧なメイド服姿は、この町では一目見たら忘れられないもの」
美和の言葉に合わせるように、奥のパントリーからトレイを持った千草が静かな足取りで現れた。
寸分のシワもないロング丈のメイド服を纏い、いつもの涼やかなポーカーフェイスで天の前へ温かいハーブティーを置く。
「天様。SNSという瓦版のようなもので、少々騒がしくなっているようでございますね」
「少々じゃないよ、千草お姉ちゃん! 完食者ゼロの激辛を完食した『謎のメイド女神』として大絶賛されてるんだから! ……で、当の完食者さんはケロッとしてるし……」
「お褒めにあずかり光栄でございます。ですが、あの程度の辛味で『閻魔』を名乗るのは少々大げさかと。私にとっては、爽やかなカモミールティーのようなものでございました」
「カモミールティーの概念が崩壊するよ……!」
頭を抱える天の姿に、美和はくすくすと声を立てて笑い、そっと天の頭を撫でた。
「でもね、天ちゃん。記事の評判もすごく良いって聞いているわ。『ヘタレなお兄さんの必死な食レポが親しみやすい』って、炎龍さんのお店も大繁盛なんですって」
「……それ、褒められてるのかな……?」
「ええ、もちろんよ。天ちゃんの飾らない素直な文章だからこそ、みんなに届くの。……私の自慢の旦那様なんだから」
美和が耳元で甘く囁くと、天は赤くなった顔を照れくさそうに掻いた。
「……美和さんにそう言ってもらえるなら、瀕死になった甲斐もあったかな」
「ふふ、おかえりなさい、天ちゃん。今夜は私の特製カクテルで、お腹を優しく労わってあげるわね」
風花町の夜風が、静かに路地を吹き抜けていく。
ネットの噂話すらも温かな笑い話に変えてしまう『Bar風花』のカウンターには、今夜も甘く穏やかな時間が流れていた。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
今回は、普段は完璧で誇り高い千草さんの「底知れぬ激辛耐性」と、それに翻弄される天ちゃんの愛おしいヘタレっぷりを書いてみました。
激痛に身をよじらせながらもルポライターとしての誠実さを捨てない天ちゃんと、マグマのようなスープを「初夏の風」と評して優雅に平らげてしまう千草さん。
そして夜の『Bar風花』で、ボロボロになった夫を特製のモクテルと極上の笑顔で迎える美和さん。
三人三様の温かな距離感を楽しんでいただけていましたら幸いです。
もしこのお話を読んで「少しクスッと笑えた」「胃の奥がじんわり温かくなった」と感じていただけましたら、作品ページ下部よりブックマーク登録や、評価(★評価)、温かいご感想などを残していただけますと、今後の執筆の何よりの糧になります。
風花町の夜風が、今夜も皆様の心に優しく寄り添いますように。
天照(Bar風花)




