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【Bar風花】第二章 深紅のカクテルと半歩の影 〜妻の愛が重すぎてネットの悪意が消し飛ぶ夜〜

【前書き】


※ 本作は『Bar風花-kazahana-』の一話完結短編エピソードです。

※ 作中に登場するお酒(ウイスキー、カクテル)はすべて実在する銘柄です。

※ 妻の重すぎる愛と、裏で美和に振り回される天野里美ポンコツ秘書官による「スカッと」要素を含みます。


秋の穏やかな陽光が落ちる風花町の平屋。

スマートフォンの画面から溢れる無責任なノイズが、ひとりの男の胸に冷たい泥を沈めていきます。

「自分は彼女に釣り合っていないのではないか」

そんな呪いのような思いにとらわれ、愛する妻からそっと半歩だけ身を引いてしまった夜。

けれど、凛としたプロのバーテンダーであり、彼を狂おしいほどに愛する妻は、その静かな逃避を絶対に許しません——。

グラスを満たす濃密な赤と、逃げ場のない甘い拘束。

どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。

第1章:ノイズの温度

 

 手のひらに収まる薄い板が放つ冷たいブルーライトが、櫻庭天の眼鏡のレンズに四角い光の枠を映し出していた。

 秋の昼下がり。

 風花町の平屋には、縁側から差し込む穏やかな陽光が落ち、庭の四季桜が微かな風に枝を揺らしているはずだった。

 けれど、いまの天の視界は、液晶画面の硬質な光だけに完全に支配されている。

 きっかけは、ごく些細なことだった。

 数週間前、天は懇意にしている地元情報誌の依頼で、ある飲食店の取材記事を担当したのだ。

 そのウェブ版が、ひょんなことからSNSでバズった。

 記事そのものは好評だった。

 問題は、取材に同行していた妻・美和の横顔が、小さな写真として画面の隅に掲載されていたことだった。

 最初は、無邪気な反応に過ぎなかった。

 だが、地元の利用者が「これ風花町の『Bar風花』のオーナーじゃん」と書き込んだことを皮切りに、顔も見えない特定班が一気に群がった。

 彼女の店舗情報やプロフィールがあっという間に割り出され、タイムラインを濁流のように流れていく。

 親指で画面をスクロールする。

 その指先の感覚が、鉛のように重かった。

『このバーのオーナー綺麗すぎない? 女神かよ』

『お店行ってみたい。実在するの?』

 はじめは、そうした好意的な声ばかりだった。

 だが、安全な暗闇に身を潜める大衆の無責任な好奇心は、次第に残酷で無遠慮な品定めへと姿を変えていく。

『でも、隣に写ってるライターのお兄さん、なんか地味じゃない?』

『どう見ても釣り合ってないでしょw』

『こんな美人が田舎のしがないライターと? もっと金持ちのパトロンとか、イケメンの俳優とかが似合うのに』

『なんか、絵面がもったいない』

 天は画面を伏せてソファに投げ出し、深く苦い息を吐き出した。

 頭では痛いほど分かっている。

 これは、安全圏から有象無象が吐き散らした排泄物のような言葉だ。

 まともに受け取る価値などないし、気にするだけ時間の無駄である。

 ルポライターという仕事柄、ネットの炎上や匿名の悪意のメカニズムなど、嫌というほど見届けてきたはずだった。

 ――だが。

(……釣り合っていない、か)

 胸の奥底に、冷たくて重い泥のようなものが、ゆっくりと沈殿していく。

 美和は美しい。誰の目から見ても明らかなほどに。

 右目がワインレッド、左目がアンバーという神秘的な異色瞳。

 透き通るような白肌と、触れれば切れそうなほど凛とした気高さを備えている。

 カウンターに立てば、どんな高級な銘酒よりも客の心を惹きつけ、一瞬で空間を己の色に染め上げてしまう。

 それに比べて、自分はどうだろう。

 フリーランスのしがないルポライター。

 かつて陸上自衛隊で泥にまみれて這いずり回っていた過去はあるが、いまはただの平凡な中年男だ。

 皇グループの総帥を祖母に持つ、彼女の真の血筋の重さも知っている。

 自分が隣に立つことで、美和の美しさを、その絶対的な価値をくすませてしまっているのではないか。

 そんな呪いのような自己卑下が、天の心に静かに、けれど確実に根を張り始めていた。



  

第2章:半歩の距離

 

 その夜の『Bar風花』は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。

 微かに漂う桜の香り。

 アンバー色の間接照明が、磨き上げられた鉄刀木の一枚板カウンターを艶やかに浮かび上がらせている。

 天はカウンターの最端、いつもの黒革のローチェアに深く身を沈めていた。

 普段なら、氷の溶ける清らかな音を聞きながら、美和の流麗な所作を眺める時間こそが至福の安らぎだった。

 だが、今夜は違った。

 グラスの中で氷がカランと鳴るたび、天は視線をそっと手元に伏せた。

 カウンターの向こうで常連の老紳士と静かに言葉を交わす美和の姿が、やけに遠く感じられる。

(……やっぱり、綺麗だな)

 照明を受けて輝く彼女の横顔を盗み見るたび、昼間に突き刺さった無遠慮な文字が脳裏に蘇る。

『どう見ても釣り合ってない』

 ズキリと胸の奥が軋んだ。

 天は無意識のうちに、美和と視線が交差するのを避けるようになっていた。

 彼女がこちらを向く気配を察するたびに、グラスの結露を指先でなぞってやり過ごす。

 やがて閉店の時間を迎え、二人で並んで歩く星月夜の路地。

 天は自分でも気づかないうちに、前を行く美和より半歩だけ後ろを歩いていた。

 自分が彼女の真横に並ぶ資格などないような気がして、無意識に街灯の影へと身を引いてしまっていたのだ。

 ふと、前を歩いていた美和の足が止まった。

 衣擦れの音とともに、ゆっくりと振り返る。

「……天ちゃん?」

 夜の闇の中、ワインレッドとアンバーの瞳が、静かに天の顔を捉えた。

「どうしたの? なんだか今日、元気がないわね。それに……歩くのが、遅い」

「あ、いや……ごめん。少し、取材の構成で考え事をしててさ」

 天は咄嗟に作り笑いを浮かべ、取り繕うように言った。

 美和は何も言わなかった。

 ただじっと、天の瞳の奥を射抜くように見つめている。

「……そう」

 数秒の息詰まる沈黙の後、美和は小さく呟くと、自分から天の手にそっと触れ、指を絡めてきた。

「風が冷たくなってきたわ。帰りましょう」

 繋がれた手の温もりが、天の胸をちくりと刺した。

 どうすればいいのか、天には分からなかった。

 美和から離れることなど、最初から選択肢にあり得ない。

 彼女を深く愛しているし、美和のいない人生など想像すらしたくない。

 かといって、ネットの心無い言葉を「ただの雑音だ」と完全に笑い飛ばせるほど、神経は図太くできていなかった。

 言葉を扱うルポライターだからこそ、「不釣り合い」という刃が皮膚の奥深くまで突き刺さる。

 夫婦である以上、姿を消して逃げ出すこともできない。

 これは匿名という実体のない悪意の濁流であり、個人の力で押し返せるものではなかった。

 そして何より、誰にも打ち明けられなかった。

 こんな情けない劣等感を、知人や友人に漏らすプライドは持ち合わせていない。

 愛する妻に「自分がネットで叩かれて悩んでいる」などと知られたら、彼女がどれほど心を痛めるか。

 そう思うだけで、口が裂けても言えなかった。

 逃げ場はない。

 ただ一人で冷たい泥をかぶり続けるしかない。

 誰にも言えず、たった一人でその重圧を抱え込み続けた結果、天の心は軋んだ音を立ててすり減っていった。

 気づけば彼は、愛する妻の瞳を真っ直ぐに見つめることすら、できなくなっていた。



  

第3章:Keep your eyes

 

 数日後。店は定休日を迎えていた。

 朝から冷たい秋雨が降り続き、風花町の家並みは厚い雨雲の下で薄暗く沈んでいる。

 昼下がり。

 自宅のリビングで原稿に向かっていたはずの天は、いつの間にか作業の手を止め、スマートフォンを開いていた。

 検索窓に、無意識のうちに美和の店の名前を打ち込んでしまう。

 見なければいい。そんなことは百も承知だった。

 それなのに、自ら剥き出しの刃物を握りしめて素肌に押し当てるように、他人の冷淡な言葉を探してしまう。

 それはもはや、止められない自傷行為に近かった。

『平凡な男』

『もったいない』

『絵面が合わない』

 スクロールを繰り返す天の背中が、どっと重く沈み込む。

 ――その時だった。

 背後から伸びてきた白く細い指先が、天の握りしめていたスマートフォンを強引にひったくった。

「えっ……美和さん?」

 驚いて振り返った天の言葉は、喉の奥で凍りついた。

 そこに立っていた美和の表情を見て、天は文字通り呼吸を忘れた。

 いつもの穏やかで優しい愛妻の顔ではない。

 そこにあったのは圧倒的な怒り――そして、それを遥かに凌駕する狂気的なまでの執着を剥き出しにした、肉食獣のような眼差しだった。

 美和は手にしたスマートフォンをソファの端へと乱暴に放り投げると、音もなく一歩踏み込み、天のシャツの襟元を両手で力強く掴み上げた。

「み、美和さ――」

 抗議する隙すら与えられなかった。

 天の身体は、抗えない強い力で強引に引き寄せられる。

 至近距離。

 互いの睫毛が触れ合いそうな間合いで、美和の異色瞳が逃げ場のない熱を帯びて天を真っ直ぐに射抜いた。

「……ねえ、天ちゃん。どうしてそんなに、自分を卑下するような目をしているの?」

 低く、甘く、それでいて底知れない狂気を孕んだ声。

 天の顎に、美和の冷たく引き締まった指先が添えられた。

 クイッと強引に上を向かされる。

 思わず視線を逸らそうとした天の顔は、彼女の指の力によって物理的に固定された。

「他人が吐き出したゴミみたいな文字なんて、見ないで。そんな下らないものに心を削られて、私から目を逸らすなんて……絶対に許さない」

「ボタンが掛け違っていただけなんだ、美和さんが――」

「……黙りなさい」

 低く、絶対零度の氷刃のような声音が、天の頼りない弁明を容赦なく切り裂いた。

 美和の顔がさらに近づく。

 彼女の纏う、春の夜のような微かな桜の香りが、天の肺の奥深くまで濃密に侵食してきた。

「名もなき雑音の言葉なんて、聞かなくていい。世界中の誰が何と言おうと、関係ないわ。……どうして、どこの馬の骨とも知れない他人の言葉を信じて、私の言葉を信じないの? 私が愛しているのは天ちゃん、あなた一人だけよ。それなのに、勝手に傷ついて、勝手に半歩下がるなんて……そんなこと、私が絶対に許さない」

 美和の瞳の奥で、ドロドロとした熱い独占欲が狂おしく渦を巻いていた。

 普段は理性の奥底にひた隠しにしている、天に対する限界を超えた情念そのものだ。

「私が選んだのは、天ちゃんよ。私の隣に並び立つのは、天ちゃん以外にあり得ない。……私以外のものを見て、私以外のことで悩むなんて、もう二度と言わせないわ」

 美和は指を天の顎から頬へと滑らせ、そのまま後頭部へと回した。

 がっちりとホールドされ、もう一ミリも視線を外すことは許されない。

「……私だけを見なさい」

 吐息が混ざり合う距離で、美和は狂おしいほどの熱を込めて、命じるように囁いた。

「余計なものは見ないで。他の誰の言葉にも耳を貸さないで。私のこの目だけを映して……ずっと、私だけを見ていればいいのよ」

 圧倒的な引力だった。

 天の存在そのものを自分の内側へ雁字搦めに縛り付け、外界をすべて遮断してしまう狂気的な愛の拘束。

 天の胸の奥で燻っていた冷たい泥は、彼女が放つ凄まじい愛の熱量によって、一瞬にして跡形もなく焼き尽くされていった。



  

第4章:狩人と獲物

 

 その夜。

 休業日であるはずの『Bar風花』のカウンターに、天は腰掛けさせられていた。

 店内の照明は極限まで落とされ、ただカウンターの中央だけが、アンバーの間接照明に照らされている。

 美和は純白のバーコートではなく、身体のラインを際立たせる黒のタートルネックという私服姿でカウンターの内側に立っていた。

 彼女の眼差しには、昼間の情熱がまだ色濃く宿っている。

 氷の塊を砕くアイスピックの音すら、研ぎ澄まされた刃のような鋭利な響きを帯びていた。

 美和がバックバーから手に取ったのは、アメリカ産のライ・ウイスキー『ミクターズ』。

 そして、深紅のチェリーブランデー『チェリー・ヒーリング』。

 メジャーカップすら使わない。

 普段の厳格な手順すら煩わしいとばかりに、美和はボトルの首を掴むと、ミキシンググラスへ直接、琥珀色の液体を迷いなく注ぎ落とした。

 途切れのない、美しい一本の糸のような流線。

 神域の感覚と完璧な肉体のコントロールだけで、注ぎ入れる分量を寸分違わず裁ち切ってみせる。

 続いて注がれたチェリーブランデーの濃密な赤が、氷の隙間をすり抜けながらウイスキーと混ざり合っていく。

 バースプーンが滑らかに回転し、氷と酒がステアされる澄んだ音が店内に静かに響く。

 やがて美和はストレーナーを被せ、あらかじめ冷やしておいたカクテルグラスへと注ぎ入れた。

 グラスを満たしたのは、まるで凝固しかけた血のような、深く暗い赤色だった。

 トントン、とグラスが天の前に置かれる。

「……これは?」

 天が尋ねると、美和はカウンターに両手をつき、身を乗り出すようにして天の顔に迫った。

「『ハンター』よ」

 その言葉の響きに、天の背筋を甘美な悪寒が駆け抜けた。

「ライ・ウイスキーと、チェリーブランデー。……天ちゃん、あなたはね、私が捕まえた、私だけの獲物なの」

 美和の異色瞳が、獲物を前にした肉食獣のように妖しく細められる。

「もう、誰の目にも触れさせないし、どこへも逃がさない。ネットの連中にも、世間の目にも、指一本触れさせないわ。あなたは私だけのもの。……私以外を見ることは、私が許さない」

 自己卑下する隙など一ミリも与えない。

 神としての気高き威厳と、一人の女としての底知れぬ執着が完全に溶け合ったその姿は、恐ろしいほどに美しかった。

 天は、自分が完全に彼女の檻の中に囚われていることを、抗いがたい歓びとともに悟った。



  

第5章:甘い檻

 

 天は促されるままに、『ハンター』の満ちたグラスを持ち上げた。

 チェリーの甘く濃密な香りの奥底に、ライ・ウイスキーの強烈なアルコールが牙を剥いて潜んでいる。

 一口含むと、スパイシーな力強さとドロッとした果実の甘みが舌の上で絡み合い、喉の奥を熱く焼いた。

 それはまさに、目の前にいる妻の愛そのものだった。

 優しくて、甘美で、逃げ出せないほどに重くて、強い。

「……美味しいよ」

 天はグラスを置き、真っ直ぐに美和の目を見つめ返した。

 もう、視線を逸らそうとは思わなかった。

 他人のノイズなど、この強烈なアルコールと彼女の放つ熱の前には、道端の小石ほどの価値もない。

「……負けたよ、美和さん。ごめん。僕が馬鹿だった」

 天の口元に、いつもの穏やかな微笑みが戻る。

「僕は、君に捕まったただの獲物だ。……もう、よそ見はしない。君しか見ないよ」

 その言葉を聞いた瞬間、美和の顔から張り詰めていた狩人の仮面が、ふっと溶け落ちた。

 ワインレッドとアンバーの瞳が柔らかく潤み、極上の、とろけるような笑みが花開く。

「……うん。よくできました」

 美和はカウンターの内側から足早に出てくると、天の座るローチェアの横に立ち、そのまま彼の手を引いた。

「お酒はもう終わり。……獲物はおとなしく、狩人に食べられなさい」

 繋がれた手の力は、昼間よりもずっと熱く、強かった。

 天はもう、半歩下がることはなかった。

 彼女の隣にぴったりと肩を並べ、その甘い引力に身を委ねる。

 カチリ、と美和の手でスイッチが切られ、カウンターの照明が落とされた。

 『Bar風花』は完全な闇に包まれる。

 だが、天の視界はもう迷わない。

 暗闇の中でも自分を導き、縛り付けてくれるたったひとつの熱だけを、真っ直ぐに見つめていた。

 外の世界のノイズは、厚いオーク材の扉の向こう側に完全に締め出されている。

 ここにあるのは、狂おしいほどの独占欲で編まれた、甘くて絶対に抜け出せない永遠の檻だけだった。



  

第6章:絶対零度の制裁

 

 夜が深い底へと沈み込んだ頃。

 櫻庭家の寝室で、天が完全に安心しきって深い眠りに落ちたことを確かめると、美和はシーツの音を立てないよう、そっとベッドを抜け出した。

 薄手のリネンガウンを羽織り、静かにリビングへと向かう。

 窓の外では、冷たい秋雨がまだ降り続いていた。

 暗闇の中、美和はサイドボードの奥から、普段は使うことのない銀色の専用端末を取り出した。

 画面を数回タップし、耳に当てる。

 数回のコールの後、相手は息を呑むような早さで通話に応じた。

「……里美。夜分に失礼」

『は、はい……! 直ちにグループ法務統括部およびサイバーセキュリティ対策室が対象のログ保全を完了し、待機しております』

 電話の向こうで、皇グループの秘書官である天野里美が、直立不動で受話器を握りしめている気配が伝わってくる。

「……今すぐ、すべて消しなさい」

 その声には、先ほどまで天に見せていた甘い熱量など微塵もなかった。

 あるのはただ、絶対零度の声音。愛する夫の尊厳を踏みにじった有象無象に対する、容赦のない処刑宣告だった。

「ただデータを消させるだけでは生ぬるいわ。天ちゃんを侮辱したアカウント、悪意ある中傷を拡散した首謀者は一人残らず特定しなさい。プロバイダへの発信者情報開示請求から、名誉毀損による刑事告訴、損害賠償請求まで、法が許す限りのあらゆる手段を叩き込みなさい。悪質なまとめサイトの運営者も含め、その身元を完全に割り出して、二度と社会で軽々しい言葉を吐けないよう徹底的に追い詰めなさい」

 美和の声音に宿る冷酷な威圧感に、電話口の里美は息を呑み、戦慄とともに背筋を伸ばした。

『……畏まりました、美和様。グループの総力を挙げ、夜明けまでにすべての法的措置とデジタルタトゥーの完全消去を完了させます』

 通話を切ると、美和は銀色の端末を再びサイドボードの奥深くに滑り込ませた。

 振り返った彼女の顔には、もう冷徹な刃の気配はない。

 ふわりといつもの愛らしい妻の顔に戻ると、美和は何事もなかったかのように寝室へと戻り、規則正しい寝息を立てる天の腕の中へ、幸せそうにすり寄っていった。

 翌朝。

 目を覚ました天が、恐る恐るスマートフォンの画面を開くと、昨日まで彼を苛んでいた不快なコメントや心無い声は、跡形もなく消え去っていた。

 代わりに並んでいたのは、穏やかで温かい食レポへの感想ばかりだった。

「……ネットの話題の移り変わりって、本当に早いんだな」

 天は拍子抜けしたように呟き、心底ほっと胸を撫で下ろした。

 それが皇グループ法務統括部とサイバー対策室の総力による、電光石火のログ特定と容赦ない法的包囲網の賜物であるなど、彼が知る由もなかった。

「おはよう、天ちゃん。よく眠れた?」

 キッチンから、エプロン姿の美和が顔を出した。

 その笑顔は朝の陽光よりも眩しく、一点の曇りもない。

「うん、すごくよく眠れたよ。今日もいい天気だね、美和さん」

 天が笑い返すと、美和は満足そうに目を細めた。

 愛する夫の心を傷つける者には、神の慈悲など一片もない。

 不快なノイズはすべて合法的に、徹底的に社会の隅へと追いやる。

 朝の光を浴びながら、美和は天に気づかれないよう穏やかに微笑んだ。

 残酷なまでの過保護と狂気的な愛を、夫には生涯気づかせない。

 それもまた、彼女が天へ捧げる、狂おしいほどに純粋で絶対的な愛の形であった。

【あとがき】


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

今回は、ネットの心無い言葉に一人で思い悩む天ちゃんと、それを「ただの雑音」と切り捨て、己の凄まじい執着と独占欲で彼を繋ぎ止める美和さんのお話でした。

作中に登場したカクテルは『ハンター』。

ミシターズのライ・ウイスキーが持つ骨太な力強さと、チェリー・ヒーリングの血のように濃密な甘さが混ざり合う一杯です。

メジャーカップもポアラーも使わず、ボトルから直接ミキシンググラスへ注ぎ落とすダイレクトポアの手元には、美和さんの職人としての美学と、「捕まえた獲物を決して逃がさない」という肉食獣のような熱を込めました。

そして寝室を抜け出し、裏で徹夜のサイバー殲滅作戦を指示された秘書の里美ちゃん……。

彼女の半泣きの苦労もまた、風花町の平穏(?)を守る大切なピースです。


もし少しでも「美和さんの重愛が良い」「天ちゃんが愛されていてスカッとした」「カクテルが飲みたくなった」と感じていただけましたら、ページ下部の【ブックマーク登録】や【評価(★★★★★)】、感想などを残していただけますと、執筆の大きな励みになります。


また次の夜、風花のカウンターでお会いしましょう。

天照(Bar風花)

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