【Bar風花】特別編 真紅のカンパリとアフリカの星 〜彗星と呼ばれた撃墜王は形見の勲章を友に遺す〜
【前書き】
※本作は実在の歴史上の人物および史実をモチーフにしたフィクション・SS作品です。
※『Bar風花』の静かな夜の一幕を、お好きなお飲み物とともにお楽しみください。
今回は『金髪の復讐姫〜Sofia Kaverin Chronicles〜【Bar風花 外伝】』とスピンオフした話です。
夜の湿気を切り裂くように、サハラの熱風がそっと吹き抜ける『Bar風花』。
重厚なカウンターの端に漂うのは、かつて「アフリカの星」と呼ばれた若き撃墜王の面影と、彼を今も覚えている古い友の静かな沈黙でした。
真紅のカクテル・カンパリソーダの泡に揺れる、遥かな空と不器用な英雄の記憶。
どうぞ、グラスの氷が溶ける音に耳を澄ませながら、そっとカウンターの向こう側を覗いてみてください。
第一章:風花町の夜と、黄金の訪問者
風花町の夜は、時折、遠い異国の熱気を孕むことがある。
路地を埋める湿った夜気の中に、どこか乾燥した砂の粒と、高オクタン価のアビエーション・ガソリンが気化する甘い匂いが混ざり込んでいた。
重厚なオーク材の扉の向こうにある『Bar風花』の店内は、外界の鬱陶しさを拒むように静まり返っている。
程よく空調の効いたひんやりとした空気の中、鉄刀木の一枚板で仕立てられたカウンターの端で、ソーニャはひとり、黒革のローチェアーに深く身体を沈めていた。
彼女の傍らには、古びた真鍮のシガレットケース。
そしてその横には、冷えたシャンパングラスがそっと置かれている。
それは、1942年の北アフリカ、エル・アラメインの果てしない砂漠の灼熱と、青空を切り裂くようなエンジンの咆哮を呼び覚ますための、ひそやかな引き金だった。
カラン、と。
静寂を破り、扉の上部に吊るされた真鍮の小さな鈴が、軽やかな音を鳴らした。
足音に重たさはない。まるでジャズのステップでも踏むかのような、軽快で伸びやかな足取り。
入ってきたのは、夏服の飛行服を軽薄なほど崩して着こなした、眩しいほどの金髪を持つ美しい青年だった。
首元には、わずか二十二歳で授与された最高峰の栄誉——『柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章』が、夜の照明を受けて誇らしげに輝いている。
かつて北アフリカの上空で「アフリカの星」と称えられ、愛機Bf 109 F-4「黄色の14」などを駆って百五十八機を撃墜した超人的な撃墜王、ハンス・ヨアヒム・マルセイユその人であった。
青年は帽子を指先で少し持ち上げると、白い歯を見せて破顔した。
「やあ、ソーニャ。相変わらず、気難しい顔をして飲んでいるんだね」
ソーニャは驚く素振りすら見せなかった。胸元から取り出した細身のタバコに火をつけ、甘く神秘的な香煙をくゆらせながら、ハニーアンバーの瞳を可笑しそうに細めた。
「……相変わらずルール無用で、生意気な小僧ね、ヨッヘン」
「小僧とは酷いな。ヴァルハラでも相変わらず、俺のステップについてこられる女の子を探すのに苦労しているんだから、もう少し優しく迎えてくれてもいいじゃないか」
マルセイユは軽やかに笑いながら、ソーニャの隣のローチェアーへと滑り込んだ。
その身体からは、何十年もの時を経てもなお、キレのある若さと、サハラの太陽に焼かれた皮膚の匂いが確かに立ち上っていた。
第二章:真紅のカクテルと、空のダンス
カウンターの奥から、櫻庭美和が静かに歩み寄る。
異色瞳の奥で、目の前に座る青年がこの世の者ではない「魂」であることを静かに見抜いていながらも、美和は所作に一点の揺らぎも見せない。彼女はプロのバーテンダーとしての凛とした佇まいを崩さぬまま、恭しく問いかけた。
「お二人のお飲み物は、いかがいたしましょう」
マルセイユはいたずらっぽくウィンクしてみせた。
「北アフリカのあの狂おしい灼熱を吹き飛ばすような、鮮やかで甘苦いヤツを頼むよ、綺麗なバーテンダーさん」
「かしこまりました」
美和は静かに深々と一礼すると、バックバーから一本のボトルを手に取った。
真紅の液体を満たしたその瓶の名は、カンパリ。
氷を満たした大型のタンブラーにカンパリが注がれ、冷えたソーダで満たされる。ライムを一搾り。グラスの中で弾ける炭酸の泡が、アフリカの夕日のような鮮烈な赤を艶やかに浮かび上がらせた。
「お待たせいたしました。カンパリ・ソーダでございます」
美和はソーニャの前に置かれていた空のシャンパングラスを静かに下げると、真紅のカクテルを注いだグラスを二つ、カウンターの上にそっと差し出した。
「素晴らしい色だ! まるでガザラの上空で見た、最高の夕焼けのようだね」
マルセイユは無邪気に歓声を上げ、繊細なグラスを目の高さまで静かに持ち上げた。ソーニャもまた、差し出されたグラスをそっと掲げる。
「無軌道で、誰よりも早く流れていった不器用な星へ」
「俺たちの愛した、青く澄み切った北アフリカの空へ」
互いにグラスを交わすこともなく、音ひとつ立てずに静かに目を合わせ、微かに頷き合った。
一口含めば、カンパリ独特の鮮烈なハーブの苦味と柑橘の甘み、そしてソーダの爽快な刺激が口腔いっぱいに弾け飛ぶ。
脳裏をよぎるのは、1942年、エル・アラメインの焼けつくような熱砂。一日で十七機を落としたという、常軌を逸した「狂気的な偏差射撃」の旋律と、戦闘機の限界を超えた急旋回による連続撃破の記憶だ。
「貴方のあの飛び方は、今思い出しても正気とは思えなかったわ」
ソーニャはタバコの煙を吐き出しながら、冷ややかに、だがどこか懐かしそうに呟いた。
「敵の旋回軌道の先を読み、一瞬の照準修正だけでエンジンを打ち抜く……『空のダンス』だなんて気取っていたけれど、あれはただの超人的な感覚の暴力よ」
「ははっ、酷い言い様だな!」
マルセイユはカンパリ・ソーダを喉に流し込み、声を上げて笑った。
「でもね、ソーニャ。俺は一度だって、人を殺すために引き金を引いたつもりはないんだ。ただ機体と空がひとつになって、メッサーシュミットが描く線の先に向かって弾丸を置いた。それだけさ。撃墜した連合軍のパイロットがパラシュートを開いたのを見るたび、俺がどれだけ胸を撫で下ろしていたか、君なら知っているだろう?」
第三章:不器用な英雄と、残酷な最期
「ええ……知っているわ。だからこそタチが悪いのよ、貴方は」
ソーニャはハニーアンバーの瞳を柔らかく和らげた。
出撃のたびに敵機を次々と撃墜しながらも、基地に帰還するや否や「撃墜した敵兵の救助をお願いしたい」と位置情報を通信兵に送らせていた、青年のあまりにも不器用で優しすぎた素顔。
しかし、その天衣無縫な栄光の末路は、あまりにも呆気なく、そして残酷だった。
1942年9月30日。
敵との激しい空戦ではなく、新型のBf 109 G-2が起こしたエンジントラブルによって機内に黒煙が充満した。視界を奪われ、脱出を余儀なくされた末、機体の垂直尾翼に身体を強く打ちつけられて即死した。
二十二歳という、あまりにも若すぎる最期だった。
「……最後くらい、格好良く空で散りたかったんだけどね」
マルセイユはグラスの中の氷をカラリと鳴らし、苦笑いを浮かべた。
「黒煙の中で脱出に失敗して命を落とすなんて、俺の『ダンス』の幕引きとしてはあまりに格好悪かった」
「誰も貴方を責めやしないわ……」
ソーニャは静かに言った。
「貴方が落ちたという報せを聞いたとき、第27戦闘航空団の男たちがどれほど絶望し、声を上げて泣いたか……貴方は愛されていたのよ、ヨッヘン。誰よりも自由に舞い、誰よりも強く、そして誰よりも優しかったから」
マルセイユは一瞬だけ呆けたような顔をし、やがて気恥ずかしそうに鼻を擦った。
「……君にそんな風に褒められると、調子が狂うな」
第四章:形見の十字架と、彗星の還る場所
二人はそれ以上、過去の戦果や惨劇について語らなかった。
ただ、静かに流れるジャズの余韻に耳を傾けながら、真っ赤なカンパリ・ソーダを一口、また一口と傾けていく。
灼熱の砂漠の熱気も、撃墜王という重圧も、いまはこの穏やかな空間のどこにも存在しない。ただ、冷えたカクテルと、古い友との心地よい沈黙だけがあった。
やがて、ガラス窓の隙間から漏れる街灯の光が、わずかに色を変え始める。
夜明けの気配が、風花町の路地に静かに忍び寄っていた。
マルセイユはグラスを空にすると、軽やかな動作でローチェアーから立ち上がった。
そして首元にそっと手を伸ばすと、国家最高峰の栄誉——『柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章』をリボンごと静かに外し、ソーニャの目の前、カウンターの木肌の上にそっと置いた。
「生憎こちらの世界のお金はもちあわせていないんだ。ソーニャ、悪いけど今夜のところは君がおごってくれるかい? 代わりに……これを君に受け取ってほしい。俺の形見としてね」
ソーニャはタバコの煙をくゆらせたまま、カウンターに置かれた煌びやかなダイヤモンドの十字架と、青年を交互に見つめた。
「……こんな国家の最高栄誉を形見として残していくだなんて、どこまでも不躾で、ルール無用なおバカさんね」
「勲章なんかより、君とこうして飲んだ時間の方がずっと価値があるからね」
マルセイユは満足そうに白い歯を見せて頷くと、美和とソーニャに向かって気障に帽子へ手を添え、軽やかに掲げた。
「美しいバーテンダーさん、最高の酒と、最高の時間をありがとう。ソーニャ、ヴァルハラでもジャズのレコードをかけて待っているよ」
「ええ。あまり女の子を泣かせないようにね」
ソーニャが可笑しそうに笑うと、青年の黄金色の佇まいは、朝の光が混ざり始める店内の空気の中へ、サハラの熱風の残響を残して滑らかに溶け込んでいった。
残されたのは、カウンターの上に置かれた二つの空のグラスと、朝の柔らかな光を受けて静かに輝くダイヤモンドの十字架。
ソーニャはグラスに残ったカンパリ・ソーダを静かに飲み干すと、美和に向かって穏やかに微笑みかけた。
「美和……今夜の分は、二人まとめて私のお会計にして頂戴」
「かしこまりました、ソーニャ。確かに承りました」
美和は静かに深々と一礼し、二つの空のグラスをシンクへと納めた。
ソーニャはカウンターの上に遺された重厚な勲章を細くしなやかな指先で愛おしむように撫で、ゆっくりとタバコの煙をくゆらせた。
「……風のような、素敵な方でしたね」
美和がグラスを下げながら、静かに声をかける。
ソーニャはハニーアンバーの瞳を細め、ぽつりと呟いた。
「ええ。空の上で誰よりも自由に舞い……そして誰よりも早く流れていった、一筋の美しい彗星よ」
風花町の夜が、静かに明けていく。
サハラの熱砂の記憶は鮮やかな真紅のカクテルの中に溶け去り、かつて「アフリカの星」と呼ばれた若き撃墜王の魂は、栄誉のすべてを愛しい友に預けて、朝の光に導かれるようにして永遠の空へと還っていった。
【あとがき】
今夜も『Bar風花』にお越しいただき、誠にありがとうございます。
今回は、かつて北アフリカの上空で誰よりも自由に舞い、そして誰よりも早く駆け抜けていった撃墜王、ハンス・ヨアヒム・マルセイユとソーニャの秘められた再会を描かせていただきました。
国家から与えられた最高峰の栄誉よりも、愛しい友と傾ける一杯の酒と時間を選んだ彼の美学と儚さが、カンパリ・ソーダの苦味とともに皆様の心に届いておりましたら幸いです。
作品を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマーク登録や下の評価欄(★★★★★)、ご感想などをいただけますと、次の物語を紡ぐ大きな励みとなります。
またのご来店を、心よりお待ちしております。
天照(Bar風花)




