【Bar風花】第二章 橘ビルの屋上テラス 〜法廷の魔女が開く、今夜限りのささやかな花火宴〜
【前書き】
※本作は『Bar風花-kazahana-』のサイドストーリー(屋上編)となります。
※地上で繰り広げられる三人衆や武居刑事たちの賑やかなお祭り騒ぎと、あわせてお楽しみください。
※静かな夜風と美味しいお料理、そして大切な人々の温もりを詰め込んだ一夜のお話です。
残暑が居座る九月上旬の風花町。
地上の喧騒を遠くに見下ろす『橘ビル』の屋上テラスには、今夜だけの小さな宴が設けられていました。
手作りの重箱に、川の恵みの燻製、甘酸っぱい特製のお茶と、夜空を彩る『大桜花火』。
大切な人々が肩を並べ、同じ光を見上げる静かで温かな時間を——。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
残暑が残る9月上旬の夕刻、風花町には日中の強い熱気がなおもしつこく居座っていた。
川沿いから吹き抜ける風もまだどこか生温い。それでも、深い夕闇が田園風景と古い街並みを静かに包み込んでいくにつれ、風の切れ端にほんのわずかな秋の気配が混じり始めていた。
町のはずれ、街路樹の緑に溶け込むように佇む三階建てのビルがある。深みのあるダークグレーの打ちっぱなしコンクリートと黒のアルミルーバーが組み合わされたその建物は、過剰な主張を削ぎ落とした静かな存在感を放っていた。
『橘ビル』。その屋上テラスには、今夜のためだけに誂えられたささやかな宴の席があった。
ウッドデッキのフェンスに腕を預け、眼下を見下ろしていた櫻庭天が、感心したように息を吐く。
「うわぁ……。栞さん、ここ本当にすごい特等席ですね。風花川の仕掛け花火まで、上から全体がバッチリ見えますよ」
「そうでしょう?」
天の言葉に、橘栞がどこか得意気に胸を張る。その隣で、特注のガーデンテーブルの上に漆塗りの重箱を広げていた櫻庭美和が、ふんわりと目を細めた。
遠く見下ろす風花川の河川敷には、ぎっしりと並んだ屋台の明かりが光の帯となって浮かび上がっていた。地上を包む祭りの熱気や人混みの賑わいも、この橘ビルの屋上までは届かない。ただ高く澄んだ夜風だけが、心地よく吹き抜けていく。
「人混みに揉まれずに、こんなに綺麗な花火をゆっくり眺められるなんて……ふふ、栞ちゃん、こんな特等席を貸してくれて本当にありがとう」
美和の着ている浴衣は、紺地に淡い桜が散らされた静かな柄だ。首筋の美しいラインと、仕立ての良い生地が描く陰影が、普段のバーのカウンターの中にいる彼女とはまた違う、柔らかな艶やかさを醸し出している。
声をかけられた橘栞は、耳たぶを少しだけ朱に染め、藍色のしとやかな浴衣の袖を整えながらアンダーリムの眼鏡を指先でくいっと押し上げた。
「……いいえ、美和様。元々は事務所の息息抜きにと作った屋上ですが……こうして皆様と花火を眺めていると、この場所を設けて本当によかったと思えますわ」
法廷での冷徹な顔を完全に仕舞い込み、どこか幼子のようにはにかむ栞の横顔を、天は微笑ましく見つめた。
「ふふっ、栞先生ったらぁ〜」
ころころと鈴を転がすような声で笑ったのは、金魚柄の浴衣を着た一条結だ。手に持った竹うちわをパタパタとあおぎながら、小さな磁器の皿をテーブルに並べていく。
「あ、天さん! 一条川の上流で私が釣り上げた山女魚の燻製と、冷やし福餅も持ってきましたから、いっぱい食べてくださいねぇ〜♪」
結の肩の上から、ひょっこりと小さな茶色の顔が覗く。フェレットのカモくだ。「クックッ」と喉を鳴らし、鼻先をひくつかせながら、風に乗って運ばれてくる夜の匂いや人々の楽しげな気配に興味津々な様子を見せている。
「皆さ〜ん! 台湾から送ってもらったパッションフルーツで作った特製の冷たいお茶、淹れましたよ! 氷もたっぷり入っています!」
エレベーターの前に置かれたトレイから、ガラスピッチャーとグラスを大切そうに抱えて歩いてきたのは、朝顔柄の浴衣を着た華羽婷——小婷ちゃんだ。
トレイを置く手元で、Seiko LUKIAのチタンベルトが街灯の光を受けて微かに閃く。白蝶貝の文字盤は、夜の光のなかで繊細な虹色を宿していた。小婷ちゃんが抱えた鳥用キャリーの中では、白文鳥の『雪花』と桜文鳥の『大福』が、もちもちとした丸いシルエットで寄り添いながら、丸い目をつぶらにはためかせている。
「ありがとう、小婷ちゃん。手伝ってくれて助かったよ」
天がグラスを受け取ろうと手を伸ばすと、小婷ちゃんは黒髪のロングヘアをサラリとなびかせ、素直な笑みを返した。
「天さん、どうぞそのままにしてください! 栞さんのこの屋敷……あ、屋上の景色、スケッチしたくなるくらい綺麗で……私、とっても感動しています!」
小婷ちゃんが大きく見開いた瞳の先では、川沿いの屋台の明かりが、まるで川面に落ちた星屑のように優しく揺れていた。
その足元には、栞の愛犬であるコーギーの『ぷりん』と『ちび』が、小婷ちゃんの浴衣の裾に鼻を寄せては、短い尾をちぎれんばかりに振っている。
チーン、と静かな電子音とともにエレベーターの扉が開き、風花町支所の名で手配した上質な重箱と、三脚付きの撮影機材を抱えた天野里美が姿を現した。
姿勢をピンと正し、完璧な秘書官の笑みをたたえて歩み寄ってくる。
「天様、美和様、お待たせいたしましたわ。風花町名物『大桜花火』の打ち上げまで、あと三分でございます。記録用として最高の画角を確保いたしましたわ」
「あはは、里美ちゃん落ち着いて。重箱置くから、まずそのカメラ落とさないでね」
天が苦笑しながら三脚を受け取った、まさにその時だった。
——ヒュゥゥゥゥ……ッ!
夜空を切り裂く一筋の光が、まっすぐに天へと伸びていく。
一瞬の静寂。
ドーン……!
お腹の底を直接揺らすような重低音が、遅れて風花町の夜空に弾けた。
視界一面が、光で埋め尽くされる。
巨大な枝垂れ桜を模した大輪の花火が、幾重にも重なり合って夜の闇を押し開いた。鮮やかなピンクとゴールドの光粒がゆっくりと尾を引いて垂れ下がり、その光が川面へと降り注ぐ。暗かった水面が、一瞬にして黄金色に染まり上がった。
「……わぁ……っ! すごい、本当に夜空に大きな桜が咲きました……!」
小婷ちゃんが感嘆の声を漏らし、吸い寄せられるように膝の上のスケッチブックを開いた。鉛筆の芯が紙を滑るサラサラという音が、花火の余韻に紛れて静かに響く。
「綺麗だねぇ……」
美和が隣で静かに呟く。夜空を彩る美しい光と、そのアンバー色の光に照らし出される人々の温かな笑顔を、彼女の異色の瞳は愛おしそうに映し出していた。
グラスに注がれたパッションフルーツのお茶は、パッションフルーツの鮮やかな甘酸っぱさと、ジャスミン茶の爽やかな苦味が綺麗に調和している。氷がカランと音を立てるたび、フルーティーな香りが鼻腔をくすぐった。
「このお茶、すごく美味しいよ。酸味が尖ってなくて、口の中がさっぱりする」
天が感想を伝えると、小婷ちゃんは嬉しそうに眉を下げた。
「台湾の実家でよく飲んでいたんです。生の果汁だけじゃなくて、果肉のつぶつぶ感を少し残すのがコツで、甘酸っぱい香りが引き立つんですよ」
「お酒や濃いお料理の合間にいただく『お口直し』……西洋料理で言うグラニテのような役割を、しっかり果たしてくれているね」
美和が重ねて言う。
「素材のフレッシュな酸味とお茶の苦味が、お口の中を綺麗にリセットしてくれる。小婷ちゃんの丁寧なおもてなしの心が伝わってくるよ」
バーテンダーとしての視点がふいに顔を出す美和の言葉に、小婷ちゃんは感心したようにノートを取り出したくなりそうな目で頷いていた。
テーブルの上には、それぞれの持ち寄った料理が整然と並んでいる。
美和が用意した重箱には、出汁をたっぷりと含ませた出汁巻き玉子、海老の芝煮、そして季節の野菜を使った煮こごり。派手さはないが、一つ一つの仕込みに丁寧な手仕事が伺える、静かな品格を感じさせる料理だ。
一方、一条結が差し出したのは、自家製の山女魚の燻製だ。
丁寧にいぶされた山女魚は、美しい飴色の皮目を纏い、桜のチップの香ばしい香りを漂わせている。
「この山女魚、川魚特有の臭みが全くなくて、身がキュッと引き締まっていますね。皮目の芳ばしさと煙の香りが絶妙だ」
天が舌鼓を打つと、結は自慢気に胸を張った。
「ふふん、でしょう? 一条川の清流で育った最高のヤマメですからね。塩で一晩締めてから、桜のチップでじっくり煙を通したんですよ!」
「丁寧な下処理と、絶妙な火入れだね」
美和が出汁巻き玉子をひとつ口に運びながら、静かに微笑む。
「川や山で分けてもらった命を大切に扱っているのが、味からしっかり伝わってくるよ。結ちゃんのヤマメに対する愛情と、山への敬意を感じるね」
「美和様にそう言っていただけると、苦労して煙と格闘した甲斐がありましたぁ〜♪」
結はうれしそうに目を細め、冷やし福餅の器に手を伸ばした。
「(ワンッ!)」
腹に響く大玉の打ち上げ音に、ぷりんとちびが一瞬ビクッと耳を伏せる。だが、天が腰を落として優しく背中を撫でてやると、すぐに安心したように息を吐き、結がポケットから取り出した犬用のおやつを行儀良く受け取ってほおばった。
結の肩の上にいるカモくんも、キャリーの中の雪花と大福も、小さな目を丸くして空の光を見つめている。人間たちの温かな空気が伝わっているのか、怖がる様子はない。
「里美ちゃん、カメラのセッティングはうまくいったの?」
天が振り返ると、里美は三脚の横で完璧な姿勢を保ちながら、液晶画面を真剣な目で見つめていた。
「バッチリでございます、天様! 一条山の借景と、風花川の花火、そして皆様の笑顔が完璧な構図で収まっております! これは風花町支所の広報資料としても、個人的な宝物としても永久保存版でございますわ!」
「もう、相変わらず大げさなんだから」
栞が少し呆れたように言いつつも、手元のかき氷の器を大事そうに抱え直す。自家製の柑橘シロップがかかった氷は、花火の光を浴びて宝石のようにきらきらと輝いていた。
「栞さん」
天が呼びかけると、栞は視線を天に向けた。
「本当に、ありがとうございます。こんなに贅沢で、あたたかい思い出……一生忘れません」
栞は一瞬目を見開き、それから眼鏡を少し直して、どこか少女のような柔らかい笑みを浮かべた。
「お気に召していただけたなら、何よりです。……この場所は、私が手に入れたただの建物ではありません。大切な皆様が集まり、こうして笑い合える場所であってこそ、意味を持つものだと思っておりますの」
静かな声だったが、そこには揺るぎない温もりが宿っていた。
「ですから……来年も、再来年も。この場所は、いつでも皆様のために空けておきますわ」
またひとつ、夜空に大きな花火が咲いた。
今度は眩いばかりの銀色の柳。しだれ落ちる光の尾が、風花町の街並みを静かに照らし出し、テラスに集まった一人ひとりの顔を優しく浮かび上がらせる。
美和が心を込めて仕込んだ重箱の、優しい出汁の甘み。
小婷ちゃんが淹れてくれた、甘酸っぱく爽やかなお茶。
一条結が清流の恵みを丁寧に仕込んだ、香ばしい燻製の風味。
里美の凛とした愛らしい気配と、栞が静かに注ぐ情愛。
そして、それら全てを包み込むように吹き抜ける、9月特有の少し湿り気を帯んだ夜風。
混雑する地上の喧騒から遠く離れた、小さな屋上の特等席。
夜空に咲いては消えていく光の華の下で、互いを慈しむ人々の温かな笑い声は、風花町の夜の中にいつまでも、いつまでも静かに響き渡っていた。
【あとがき】
皆様、最後までお読みいただきありがとうございます。
今回は『風花温泉花火大会』を舞台に、地上組の熱気とは一味違う、橘ビル屋上での穏やかで優しい特等席のひとときを描かせていただきました。
美和さんの丁寧な重箱料理や、結ちゃんのヤマメの燻製、小婷ちゃんの台湾仕込みのお茶、そして栞さんの静かな優しさ……それぞれ持ち寄った温もりが、夜空の花火とともに優しく重なり合う空気感を感じていただけたなら幸いです。
作品を「面白い」「この雰囲気が好き」と思っていただけましたら、下部の評価(★)やブックマーク、温かな感想などをいただけますと、執筆の大きな糧となります。
今後とも『Bar風花』と彼らの物語を、どうぞ温かく見守っていただければ幸いです。
天照(Bar風花)




