【Bar風花】第二章 スモーキー・ハイボールと真鍮の紫煙 〜休日前の解禁酒はシーシャの煙とともに〜
【前書き】
※本作は『Bar風花-kazahana-』の日常を描いた短編エピソードです。
※仕事終わりの静かな夜、心地よい一杯とともにゆったりとお楽しみください。
一週間の過酷な現場仕事を終えた地雷系現場監督・黒木あおい。
モモタロウピンクのサンバーを置き、足音を響かせて向かった先は、静けさと暖かな明かりが灯る『Bar風花』でした。
アイラモルトのスモーキーなハイボールと、自慢のキャブセッティングにも似た繊細なシーシャの紫煙。
そして、ガチャガチャで起こる小さな奇跡。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第一章:モモタロウサンバーを置いて、解禁の夜へ
風花町の夕暮れは、山影から滑り落ちてくる深い紺青色に染まるのが早い。
一条山のぬかるんだ現場で、大型重機の誘導と油圧ホースの交換を完璧に終わらせた帰り道。指差し確認「現場指示ヨシ! 手当てヨシ!」をいつものように厳格にこなし、黒木あおいはトヨタの純正色モモタロウピンクに全塗装された社用車——サンバートラックを、路地の奥にある小さな空き地へ滑り込ませた。
エンジンを止めると、RR構造特有の空冷ファンとマフラーが、カチカチと静かに熱を冷ます音が響く。
あおいは運転席でゆっくりと深呼吸を一つ吐き出した。
チョーカーを巻き、病みかわいい地雷系の服を身にまとった上から、油と土の匂いが染みついた作業着を羽織っている。爪先にはシックな黒のダークネイル。現場ではその上から手袋を嵌め、厚生労働省規格の特注ピンクヘルメットを被って「鬼の現場監督」に徹するが、今の彼女は一人の二十歳の少女に戻っていた。
「……はぁ。ガチャ、3,000円溶かして全滅とか……マジで凹むっす……」
ダッシュボードの上、現場猫の「安全第一」ステッカーの横で、ダブりまくった「ヨシ!」のミニフィギュアが転がっている。お目当てのシークレット『ご安全に!』は、ついに影すら拝めなかった。
あおいは溜息をつきながらサンバーのキーを抜くと、それをジーンズの深いポケットに仕舞い込んだ。
今夜は、車で帰るつもりはない。
今日で今週の過酷な現場作業はすべて終わった。明日は日曜日、一条山農林の現場は休みだ。
「……明日は現場休みだし。今夜はお酒、飲むっす。サンバーはここに置いて、歩いて帰るっす」
誰に聞かせるでもなくボソボソと呟き、彼女は重厚なオーク材の扉の前へと向かった。
街灯の橙色の光がわずかに届く細い路地の奥。そこだけが、まるで別世界への入り口のように温かなアンバーの残り香を静かに漏らしている。
『Bar 風花 -kazahana-』。
真鍮のドアベルが、カランと静かな鈴の音を響かせた。
「……今晩はっす。美和さん、天さん」
暖簾をくぐると、程よく空調の効いたひんやりとした空気が肌を包む。耳をすませば、古いレコードの針が落とすピアノの余韻が、残響のように空気の中に溶けていた。
八センチ厚の鉄刀木の一枚板カウンターの奥で、純白のバーコートを着た櫻庭美和がグラスを磨く手を止め、柔らかく微笑む。
「お疲れ様、あおいちゃん。今週も現場、大変だったでしょう?」
「あおいちゃん、いらっしゃい。今日も一日ご苦労様」
カウンターの端でルポの原稿に向き合っていた櫻庭天も、眼鏡の奥の目を細めて声をかけてくれた。
あおいはカウンターの一番端、重厚な本革のチェアーに深々と身体を沈めた。長年の作業で角が丸くなり、吸い付くような艶を放つ黒革。座るとほのかに身体の熱を吸い取ってくれるこの場所が、あおいにとっては何よりの避難所だった。
「……美和さん。今夜は、カクテルが飲みたいっす。サンバーのキーはポケットの中だし、歩いて帰る気満々っす」
ポケットの上からキーの感触を確かめるように手で叩いて見せると、美和は「ふふ」と嬉しそうに目を細めた。
「そうね。先月二十歳になったばかりだもの。休日前夜の特別な一杯、心を込めて作らせてもらうわね」
第二章:特製スモーキー・ジンジャーハイボールと、真鍮のパイプ
バーテンダーがグラスに向き合う瞬間、店内の空気がほんの少しだけ緊張で締まる。
美和はバックバーから、薄張りで重厚感のあるハイボールグラスを取り出した。霜が降りたように真っ白に冷やされたクリスタルガラス。そこへ、グラスの形状に削り出された角のない柱状の氷を音もなく滑り込ませる。
「あおいちゃんは、現場で一日中冷たい風と土に向き合ってきたでしょう? だから、ただ冷たいだけじゃなくて、胸の奥から熱が湧いてくるような一杯がいいと思って」
美和が取り出したのは、漆黒のボトル。スコットランドのアイラ島で作られる、ピート(泥炭)の強い燻製香が特徴のシングルモルト・ウィスキーだ。
メジャーカップを使わず、美和の手元から透明な琥珀色の液体がすっとグラスへと注がれる。正確無比な四十五ミリリットル。
「お酒はね、ただアルコールを摂取するためのものじゃないの。その土地の空気や水、樽の中で眠った年月……そして飲む人のその日の体調や気持ちに寄り添うためにあるのよ」
続けて注ぎ込まれたのは、美和が自ら生姜とスパイスを煮詰めて作った自家製のジンジャーシロップ。比重の重いシロップをウィスキーとなじませるように優しく一度ステアしてから、最後に、氷の隙間を縫うように静かに炭酸水が注がれる。
バースプーンが一度だけ、氷を滑らかに持ち上げて全体を均一に調和させた。
「お待たせいたしました。『特製スモーキー・ジンジャーハイボール』です」
目の前に置かれたグラスからは、生姜の鋭いスパイシーな香りと、まるで焚き火や煙草の燻煙のような強いピート香が立ち上っていた。
あおいは両手でそっとグラスを持ち上げ、口元へ運ぶ。
——ごくり。
「……っ〜〜!!」
喉を通った瞬間、あおいの目が丸くなった。
一口目は、生姜のピリッとした刺激と強炭酸が喉を突き抜ける。しかしその直後、胸の奥からじわじわと温かい熱が広がり、鼻腔を抜けていくのは力強くも品のあるスモーキーな余韻。
「……美味いっす。……これ、マジでヤバいっすね。生姜のキレがサンバーのRRトラクション並みに鋭くて、この煙の香りは……スガヤチャンバーの爆音並みに中毒性があるっす……」
「ふふ、例えが相変わらずメカニックね。でも、気に入ってもらえて良かった」
美和が心底ほっとしたように微笑む。
お酒は、作り手と飲み手の無言の対話だ。言葉以上の確かな「味覚」という共通言語で心が通じ合った瞬間、あおいの肩の力がすっと抜けていった。
「さて、あおいちゃん。お酒の準備ができたら、あちらも始めましょうか」
美和がバックバーの棚の奥から、布に包まれた大きな器を取り出した。
あおいの目が、パッと輝く。
それは、美和があおいのためだけに用意してくれた、最高級のガラス台座とエジプト製真鍮で組み上げられた、特注のシーシャ(水タバコ)パイプだった。
第三章:キャブレターと熱量管理の相関関係
シーシャのセッティングは、どこか儀式めいている。
ボウルと呼ばれる素焼きの小鉢に、美和特製のフレーバーが優しく盛られていく。風花町特産の摘果みかんの皮をベースに、ミントと数種類のハーブ、ほのかなシナモンをブレンドした、完全ノンニコチン・ノンタールのオーガニックフレーバーだ。
上からアルミホイルを被せ、美和が針で均一に小さな穴を開けていく。その整然とした手つきを、あおいは身を乗り出すようにして見つめていた。
「天ちゃん、炭をお願いしてもいいかしら?」
「はいはい、できてるよ」
カウンターの端から、天が小さなトングで真っ赤に熾された竹炭を運んでくる。
シーシャのトップに設置されたヒートマネジメント(熱管理器具)の上に、炭がそっと乗せられた。
「あおいちゃん、吸ってみて。最初は少し強めにね」
美和から渡された専用のマウスピースをホースに差し込み、あおいはゆっくりと息を吸い込んだ。
ポコポコポコ……と、ボトルの中の水が心地よい音を立てて波打つ。
吸い込み、少しだけ肺に溜めてから、あおいは静かに口を開けた。
ふぅ〜……。
アンバー色の照明の中に、真っ白で濃密な煙がゆっくりと広がっていく。店内に満たされるのは、みかんの爽やかな酸味とハーブの甘い香り。
「……っ〜……。……天さん、これ……やっぱり完全にRGV250Γのキャブセッティングと同じっすよ」
あおいは煙の向こうで、ボソボソとした低音の声に熱を帯びさせた。
「炭の熱量と、ホイルの穴から入る空気量のバランスが崩れると、フレーバーが焦げて焼き付くっす」
吐き出した煙を愛おしそうに見つめながら、彼女はさら言葉を継ぐ。
「逆に熱が足りないと、煙がスカスカで低速トルクが出ないっす。コンマミリ単位の空気調整と熱量管理……マジでキャブ調整そのものっすね」
「ははは! お酒とシーシャのペアリングをキャブレターのセッティングで例えるのは、世界中を探してもあおいちゃんくらいだよ」
天が心底楽しそうに声をあげて笑う。
「でもね、あおいちゃん。その通りなんだよ。タバコも、お酒も、料理も……『熱』と『空気』と『時間』をどうコントロールするかで、すべてが決まる。あおいちゃんがバイクのエンジンを組むときに注ぐ情熱と、美和さんがカクテルを作る時のこだわりは、根っこで繋がってるんだ」
「……天さんに炭の熾し方教わってから、煙の立ち上がりが段違いっす。天さん、マジで神っす……」
照れくさそうにグラスのハイボールを一口含み、あおいは再びシーシャの煙をふわりと吐き出した。
「それに……お酒が入ると、口の中の湿度と温度が変わるっすね。さっきのスモーキーなハイボールのあとにこのみかんハーブの煙を吸うと、煙の甘みが三割増しで際立つっす。これ、気候変動でメインジェットの番号変えるのと同じ現象っすよ……」
「ふふ、本当にあおいちゃんは研究熱心ね」
美和がクスリと笑い、あおいのハイボールのグラスに、小さくカットしたライムの皮をそっと添えてくれた。
第四章:地雷系現場監督の、酔いと現場猫の奇跡
カクテルが二杯目に入る頃、あおいの白い頬はほんのりと赤く染まっていた。
二杯目は、美和が作ってくれた和柑橘のロングカクテル。爽やかな果汁の酸味が、ハイボールで温まった身体を心地よく癒していく。
「……うちさ、本当に運が良いと思うっす」
シーシャのホースを握ったまま、あおいはグラスの氷を指先で揺らした。
「一条山農林の結さん(山親方)は、うちみたいな工業高卒のガキに現場監督任せてくれて、日曜祭日休みで有給もくれて、社用車自由に使わせてくれてガソリン代も全額会社持ちっす。こんなホワイトな環境、世の中探してもないっすよ。……だからうち、絶対に現場で事故出したくないんす」
「あおいちゃんの現場監督としての腕と、安全に対する意識の高さは、結さんもすごく評価してるよ」
天が優しく相槌を打つ。
「この前もまひろと一緒にDioとJOGでドカヘル被って買い出しに行ったら、風花署の沙耶さんに捕まって怒られたっす。『ドカヘルで公道走るな!』って。……でも沙耶さん、最後には『お前らの走りの筋は認めてる。事故だけは起こすなよ』って缶コーヒー買ってくれたっす。……今度、沙耶さんの車のオイル交換、タダでやってあげる約束したっす」
ぶっきらぼうな口調の裏にある、周囲の人々への深い感謝と愛着。
美和はあおいのそんな不器用な優しさが愛おしくてたまらなかった。
「そういえば、あおいちゃん。お店に入る時、何だかすごく落ち込んでいたでしょう? 何かあったの?」
「……あ」
あおいは思い出して、がっくりと肩を落とした。
「……そうなんすよ。現場猫のガチャガチャ、シークレットの『ご安全に!』が欲しくて3,000円分回したのに、全部『ヨシ!』のダブりっす……。今月、ガンマのパーツ代でお小遣いピンチなのに……マジで凹むっす……」
「ふふふ。やっぱりそうだったのね」
美和は悪戯っぽく微笑むと、カウンターの脇の引き出しから、小さな透明のカプセルを取り出した。
トン、とあおいのコースターの隣に置かれる。
「これ……なにっすか?」
「今日ね、買い物に行ったの。 その店にあったガチャガチャ機で見かけてね。あおいちゃんが好きそうだなと思って、一回だけ回してみたの」
あおいは怪訝そうにカプセルを受け取り、透明なプラスチック越しに中身を覗き込んだ。
——静寂。
「……っっ!!???」
あおいの目が、見開かれた。
カプセルの中に収まっていたのは、白いヘルメットを被った猫が、ビシッと敬礼を決めているアクリルキーホルダー。
そう、あおいが3,000円溶かしても出なかった、幻のシークレット——『ご安全に!』。
「み、美和さん……!? これ……これオクでプレ値ついてて、2,000円超えで取引されてるやつっすよ……!? 一発で引いたんすか……!?」
「ええ、一回で出たわよ? 『ご安全に!』って書いてあって、可愛いわね」
美和は事もなげに微笑んでいるが、あおいにしてみれば奇跡以外の何物でもない。
「っ〜〜〜! 神……! 美和さんマジで神っす……!! 」
ボソボソ声のあおいが、今夜一番の大声を(それでもBarの雰囲気を壊さない程度に)あげた。
彼女は震える手でカプセルを開けると、宝物のようにキーホルダーを取り出し、地雷系バッグの大きなクロスペンダントのすぐ隣に大事そうに取り付けた。
「……神棚に祀るレベルっす……一生大切にするっす……!」
目を爛々と輝かせてキーホルダーを見つめるあおいの姿に、天と美和は顔を見合わせ、声を合わせてくすくすと笑った。
第五章:紫煙とアンバー色の静寂
夜が深まるにつれ、店内の静寂はより一層その密度を増していく。
あおいは熟練のメカニックの手つきで、ヒートマネジメントの上の竹炭の位置をミリ単位でずらし、フレーバーの焦げを防ぎながら一定の熱量を保ち続けていた。
ポコポコポコ……。
水煙の渡る静かな音だけが、ピアノの余韻と交じり合って店内に響く。
カクテルの心地よい酔いと、オーガニックハーブシーシャの柔らかなリラックス感。
一週間、危険と隣り合わせの現場で張り詰めさせていた神経が、お酒と煙の温もりによって綺麗にほどけていく。
「……はぁ〜……」
白い煙を天井に向けて長く吐き出し、あおいは本革チェアーの背もたれにすっぽりと身体を預けた。
「……明日は休みだから、目覚まし掛けずに昼まで寝るっす。サンバーもお店の駐車場に置かせてもらって……風花町の夜風を浴びながら、歩いて帰るっす」
「ええ、車は明日まで置いておいて大丈夫よ。気を付けて帰ってね」
美和の優しい声が静かに届く。
あおいはバッグに揺れる『ご安全に!』のキーホルダーにそっと触れ、それから美和と天を順番に見つめた。
「……うち、このお店と、美味しいお酒があるから……来週も事故ゼロで現場仕切れるっす。……ご安全に」
「ええ、ご安全に」
美和が微笑んでお辞儀を返す。
グラスに残った最後の氷が、チリンと小さな鈴のような音を立てて溶けた。
重厚なオーク材の扉を開けると、秋の風花町の夜風が、ほんのり熱を持ったあおいの頬を優しく撫でる。
見上げれば、澄み切った夜空に満天の星。
ポケットの中にあるサンバーのキーの重みと、胸の奥に残るスモーキーな余韻。
いつもならハンドルを握っている時間に、夜風を感じながら足音を響かせて歩く贅沢。
明日はきっと、良い休日になる。
そんな確信を抱きながら、彼女の小さな影が、橙色の街灯の下を静かに伸びていった。
【あとがき】
今夜も『Bar風花』の扉を開けていただき、誠にありがとうございます。
今回は、二十歳の若さで現場を背負う「鬼の現場監督」ことあおいちゃんの、休日前のささやかな解禁の夜を描きました。
厳格な安全第一の素顔の裏にある、メカニックへの偏愛と、ガチャ爆死に凹む年相応の可愛らしさ。
美和さんの作る特製ハイボールと自家製フレーバーのシーシャ、そして天さんとの意気投合した会話が、彼女の張り詰めた心を少しでも解きほぐせたなら幸いです。
最後の一滴まで楽しんでいただけましたら、ぜひブックマーク登録や作品への評価(★★★★★)、温かい感想をお寄せいただけますと大変励みになります。
また次の夜も、皆様のお越しを心よりお待ちしております。
天照(Bar風花)




