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【Bar風花】番外編 赤ちょうちんと五本指の証明 〜アラサー独身コンビは居酒屋で敗北を知る〜

【前書き】


※本エピソードは『居酒屋 ちどり』を舞台にした沙耶と栞の番外編となります。

※実在する酒銘柄・居酒屋料理の写実的な描写を含みます。

※アラサー独身コンビの賑やかな本音と、静かな愛着をお楽しみいただければ幸いです。


赤ちょうちんの灯りが揺れる、風花町の小さな居酒屋。

炭火の煙と酒の香りに包まれて、二人の女性が語り合う「理想の男」の姿。

グラスを重ねるうちに浮かび上がるのは、灯台下暗しのような一人の男の面影と、決して揺らぐことのない愛の形。

どうぞ、そっと居酒屋の暖簾をくぐってみてください。

第一章:居酒屋「ちどり」の赤ちょうちんと、消えた覚悟

 

 暖簾をくぐった瞬間に押し寄せる、炭火で炙られた脂の香ばしい匂い。

 風花町の路地の奥、古びた赤ちょうちんが揺れる『居酒屋 ちどり』の店内には、昭和の面影を残す使い込まれた木造りのカウンターが横たわっていた。

「——だいたいね、今の男は『覚悟』ってものが圧倒的に足りないのよ!」

 カウンターの端で、橘栞は知的な眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。目の前に運ばれてきたばかりの湯気を立てる皿を指差し、弁護士らしい滑らかな、しかし完全に酒の入った口調で捲し立てる。

 皿の上には、きつね色に香ばしく焼き上げられた豚バラ串。炭火の熱でじんわりと脂が滲み出し、粗塩の粒が表面で微かに弾けていた。

「知性があって、人の痛みが理解できて、決して嘘をつかない。そして万が一の時には『一生をかけてでもこの人や家族を守る』という、腹の括れた男! そういう筋の通った本物が、今の婚活市場のどこに生息しているっていうの?」

「言えてる!!」

 隣に座る武井沙耶が、ガラスの重厚なロックグラスをドカンとカウンターに叩きつけた。

 グラスの中で、大ぶりな氷がカランと重く澄んだ音を立てる。中に注がれているのは、定番にして至高の本格芋焼酎『黒霧島』だ。グラスを傾ければ、黒麹仕込み特有のトロッとした甘みと、蒸留釜のぬくもりをそのまま閉じ込めたような芳醇で香ばしい芋の香りが立ち上る。

「現場で修羅場くぐってなさそうなヤツばっかりだろ! 男ならな、泥だらけになろうが頭下げようが、大切な女のために体を張れる度胸がなきゃダメなんだよ! 優しくて、力強くて、でも威張らない……そんな最高にカッコいい男、この町に一匹くらい生息しててもバチ当たんねえだろ!?」

「まあまあ、二人とも。そうカリカリしなさんな。美味しい酒がもったいないよ」

 カウンターの向こう側から、白髪混じりの店主——大将が、穏やかな声でなだめた。

 手際よく長年使い込まれた団扇を仰ぎ、炭火の火加減を調整している。パチパチと小さなはぜる音が響き、香ばしい煙が天井の木目に吸い込まれていった。

 大将は静かな所作で、焼き上がったばかりのつくねの皿を二人の前に差し出す。

 甘辛い特製のタレがたっぷりと絡み、炭の燻煙を纏った艶やかなつくね。その脇には、濃密な黄色を光らせる新鮮な生卵の黄身がひとつ、静かに落ちていた。

「熱いうちに食いな。タレの甘みと黄身のコクが、その芋焼酎の力強い香りと喧嘩せずに溶け合うから」

 沙耶は言われた通りつくねを手に取り、黄身を崩して贅沢に絡め、口へと運んだ。

 甘辛いタレの濃厚さと、鶏肉のジューシーな旨味、そして軟骨のコリコリとした心地よい食感。口中に広がる濃厚な脂を、冷えた芋焼酎のロックで流し込む。甘みが引き締められ、鼻から抜ける香ばしさが爽やかな余余韻を残した。

「……美味い。大将、この合わせ方はズルいわ」

「酒と肴ってのはね」と、大将は包丁の汚れを布巾で静かに拭きながら言った。「互いの主張を潰し合うんじゃなく、引き立て合うために寄り添うもんだ。人間も同じじゃないのかね」

「それが寄り添える相手がいないから、こうして二人で油を売ってるんじゃない」

 栞は溜め息をつき、今度は手元のぬる燗に手を伸ばした。

 福岡・八女の銘醸蔵『喜多屋』が誇る『純米吟醸 寒山水』のぬく燗だ。徳利から盃へ注ぐと、低温発酵で醸された米の繊細でやわらかな香りがふわりと膨らむ。一口含むと、温かな酒の穏やかな酸味と軽快なキレが喉を撫で、先ほどの豚バラの芳醇な脂と旨味を綺麗に洗い流してくれた。



  

第二章:グラスに映る生き様と、聖域の温もり

 

「だいたいね、沙耶」

 盃を置き、栞は少しトーンを落として語り始めた。

「私は職務柄、数多くの『破綻した男女』を見てきているわ。浮気、不貞、責任転嫁……裁判所で繰り広げられるのは、化け皮が剥がれた人間の見苦しい保身ばかり。男が一番醜く見えるのは、自分の過ちを認めるのが怖くて、妻や家族を裏切る瞬間よ」

「警察も似たようなもんだよ」と沙耶も眉をひそめる。「保身に走るヤツ、トラブルが起きると現場に責任をなすりつけるヤツ。昔ながらの男気なんて、今の世の中じゃ絶滅危惧種なんだよ」

 二人は再び「はあぁぁぁ……」と長い溜め息を吐いた。

「酒を飲む場所だってそうよ」栞は盃をくるくると回す。「ただ酔うためだけにアルコールを煽る店と、杯の中に込められた一杯の価値を理解して出してくれる店……本当に良い店と良い男は、探すのが難しすぎるわ」

「良い店なら、私たちにはあの場所があるけどな」

 沙耶の言葉に、栞も静かに頷いた。

 ふたりの脳裏に浮かぶのは、細い路地の奥にひっそりと佇む『Bar風花』の光景だった。

 重厚なオーク材の扉。足を踏み入れれば外界の喧騒が完璧に遮断される静寂。

 鉄刀木の一枚板カウンターの上、手元だけを優しく照らす極限まで絞られた光。

 オーナーバーテンダーである櫻庭美和が差し出す一杯のカクテルは、ただのアルコールの調合ではない。その日の客の体調、空気、心の揺れ動きまでを汲み取り、氷の削り方一つ、マドラーの回転一つにまで魂を込めた至高の芸術だ。

「あの店で美和様がつくってくださるグラスを傾けているとね」栞はどこかうっとりとした目で呟いた。「お酒というものは、作る人間の生き様そのものがグラスに投影されるのだと痛感するわ。一切の妥協がなく、凛として美しく、けれど客を優しく包み込む……あそこ以上の『本物』に、私は出会ったことがないわ」

「ああ。あそこのカクテルを味わうと、他の生半可な店で酒が飲めなくなるんだよな」

 沙耶も深く同意するように頷いた。

 ふたりの胸中には、単なる行きつけのバーという枠を超えた、櫻庭家への深い敬意と温かな愛着が満ちていた。

 警察官と弁護士として、日々人間の泥臭い欲望や狡猾な悪意と向き合い続けている二人。それゆえに彼女たちの直感は、誰よりも鋭く人間の本質を見抜いてしまう。

 だが、あの路地の奥にある『Bar風花』の扉を押し開けたとき、ふたりの皮膚にまとわりつく緊張感は跡形もなく消え去るのだ。

 そこにあるのは、澄み切った清らかな空気と、嘘偽りのない温もりだけ。

 美和のワインレッドとアンバーの異色瞳、そして千草お姉ちゃんの琥珀色の瞳は、人の心の機微や本音をあまりにも鮮やかに見通す。下心や悪意を持つ人間なら、一歩として足を踏み入れることすら叶わない聖域。

 そんな『Bar風花』で客として温かく迎え入れられ、静かにグラスを傾けられること——それは、沙耶と栞の魂がどこまでも綺麗で誠実であるという、何よりの証明でもあった。ふたりにとって『Bar風花』で過ごす時間は、殺伐とした日常の中で擦り減った心を救い、原点へと戻してくれるかけがえのない宝物なのだ。

 そして、料理と酒を楽しみながら、二人の愚痴は再び「理想の男探し」へと巡っていく。

「知性があって、人の痛みがわかる」

「万が一の時には泥だらけになって頭を下げてでも身内を守る、腹の括れた男」

「優しくて、力強くて、威張らない」

 酒が進むにつれ、理想の条件はどんどん高くなり、ついに現実離れした領域へと達していった。



  

第三章:折り曲げられた五本指と、1ミクロンの隙間

 

「……待ちなさい、沙耶」

 不意に、栞の手が止まった。

 盃を手に持ったまま、彼女の知的な瞳がピクリと動く。

「あ?」

「今……私とあなたが並べ立てた条件、最初から全部唱え直してみなさい」

 栞は細くしなやかな指を一本ずつ折り曲げ始めた。

「まず、知性があって、人の痛みがわかること。そして絶対に嘘をつかないこと」

 指が二本折れる。

「万が一の時には、己のプライドなんか迷わず捨てて、泥だらけになって頭を下げてでも、大切な身内を守り抜く『腹の括れた男』であること」

 指が三本折れる。

「普段は威張らず、どこまでも穏やかで優しいけれど、いざという時の行動力と知恵は職人をも唸らせるほど圧倒的であること」

 四本目、五本目の指が折れ曲がった。

「……」

「……」

 店内を一瞬の沈黙が支配した。

 大将が団扇を仰ぐ手をとめ、チラリと二人を見る。

 沙耶の手にあった芋焼酎のグラスが、カタリと微かな音を立てた。

 二人の頭の中に、全く同じ『一人の男』の姿が鮮明に浮かび上がっていた。

 普段は穏やかな笑みを浮かべ、フリーライターとして静かに街に溶け込んでいる青年。

 けれど、同居している大好きなお姉ちゃんが愛車が壊れて泣きじゃくったあの夜、彼は男としての【侠気】を爆発させた。

 自分のプライドなど微塵も気にせず、頑固一徹な職人の前で深く深く頭を下げ、ペンと知恵を武器にしてパーツを勝ち取り、自ら油にまみれて愛車を奇跡の復活へと導いてみせた。

 そして何より——世界で一番美しく凛とした妻を、一人の女性として深く、深く、一途に愛し抜いている男。

「……いたわ」

「……いたな」

 二人はゆっくりと顔を見合わせた。

「……櫻庭天」

「……天ちゃんだな」

 居酒屋の煙の中に、言葉にならない敗北感が静かに立ち込めた。

 二人が酒の勢いに任せて追い求めていた「奇跡のような理想の男」は、出会い系アプリでも、都会の高級ラウンジでもなく、目と鼻の先にある『Bar風花』のカウンター席の奥で、妻を支えながら当たり前のような顔をして存在していたのだ。

 次の瞬間、沙耶が頭を抱えてカウンターに突伏した。

「ダメじゃん!! あいつ、結婚してんじゃんかよ!! しかも美和さんしか見えてねえんだぞ! スキマどころか、空気の入る余裕すらねえよ!!」

「ええ……完璧な既婚者よ」

 栞も眼鏡を外し、目頭を指で強く押さえながら、深々と溜め息を吐いた。

「……しかも妻以外の女性をハナから視界に入れていない、筋金入りの愛妻家……。不貞の証拠を探すどころか、浮気心のカケラすら見当たらないなんて、弁護士泣かせにも程があるわ」

「クッソぁぁぁ! 大将、芋焼酎おかわり! もうボトルで持ってきて!!」

「私も……同じ物をもう一合頂戴。……はぁ、世の中の『本当にいい男』っていうのはね、沙耶……私たちがこうして居酒屋で愚痴を言っている間に、とっくに一番賢くて美しい女に買われてるのよ」

 大将が苦笑しながら、新しく注がれた芋焼酎と温燗の徳利を差し出した。

「お二人さん、身近にそんな良い男がいるって分かっただけでも、儲けもんじゃないかい?」

「儲けもんじゃないですよ大将!」沙耶が叫ぶ。「手に入らない最高級品を見せつけられてるだけなんだから!」

「そうよ」栞も盃を煽る。

 ふたりは今の『Bar風花』や美和たちとの温かな関係性に心から満足し、心底感謝している。彼らの安らぎや家族の絆を壊したいなどとは1ミリたりとも思っていない。

 ……思ってはいないのだが、独身女性としての理性の奥底で、ほんの1割ほどの「もし万が一、奇跡のワンチャンでもあれば……?」という淡い夢を捨てきれないのもまた、偽らざる本音だった。

「でも……不思議ね」栞がふっと表情を緩めた。「天ちゃんみたいな本物の男がこの町にちゃんと生息していると思うと、なんだかこの酷い世の中も、捨てたもんじゃないと思えてくるわ」

「……確かに。あいつが笑ってあの場所にいてくれるだけで、こっちまで『この街も捨てたもんじゃねえな』って、腹括って仕事に向き合える気がするもんな」

 沙耶はぷはっと息を吐き、残りのつくねを綺麗に口へ運んだ。

「よし! 今夜はこのまま飲み明かして、明日の夜は『Bar風花』に逃げ込むぞ! 美和さんの綺麗な顔拝んで、最高のカクテルでこの虚しさを洗い流してもらうんだ!」

「大賛成よ」栞も微笑んだ。「でも……いつものカウンター席で天ちゃんが優しい顔で『お疲れ様です』なんて微笑んできたら、格好よすぎてまた酒が進んでしまいそうだけれどね」

「違いない!」

 赤ちょうちんが風に揺れる居酒屋『ちどり』のカウンターに、アラサー独身コンビのハッキリとした笑い声と、少しだけ切なく、けれど温かな乾杯の音がどこまでも高く響き渡っていった。

【あとがき】


いつも『Bar風花』をご愛読いただき、誠にありがとうございます。

今回は日常を戦う警察官の沙耶と弁護士の栞、二人のアラサー独身コンビによる酒場の愚痴から始まる番外エピソードをお届けいたしました。

天ちゃん自身は直接登場しない「不在の描写」でありながら、二人の本音を通して天ちゃんと美和さんの強い絆、そして『Bar風花』という聖域の温もりがより一層伝わっておりましたら幸いです。


作品を「面白い」「クスッと笑えた」と感じていただけましたら、ぜひページ下の【ブックマーク登録】や【評価(★★★★★)】、温かな感想をいただけますと今後の執筆の大きな励みになります。


また静かな夜のカウンターでお会いできることを楽しみにしております。

天照(Bar風花)

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