【Bar風花】第二章 空冷二気筒とG線上のアリア 〜愛車を奪われたお姉ちゃん、深夜の涙と奇跡のフルレストア〜
【前書き】
※ 本編は戦闘・神話バトルなしの純粋な風花町日常回です。
※ 美味しいお寿司とお蕎麦、そして愛あるメカニック描写による飯テロ・愛車テロにご注意ください。
※ 櫻庭家の「頼れるメイドお姉ちゃん」こと千草さんと、愛車2CVを巡る温かな奇跡のお話です。
風花町の穏やかな日常を走る、翡翠色の小さな車。
いつもみんなを包み込む優しきメイドの瞳に涙が溢れたとき、
櫻庭家の夫と、町の職人たちの静かな熱意が動き出します。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第一章:パタパタと鳴る町の太陽
山あいの豊かな緑を借景に、どこまでも澄み渡る風花町の午後。細いレンガ通りの路地を、一台の翡翠色のシトロエン2CVが心地よい音を立てて滑り込んでいく。
「パタパタパタ……」
それは、まるで小さな生き物が懸命に羽ばたいているかのような、のんびりとした空冷二気筒のエンジン音だった。
「お、千草さん。今日も良い天気だね」
老舗の蕎麦屋『風花山房』の大将が、白い暖簾の隙間から顔を覗かせて声をかける。
「ええ、本当に。お天道様がこれほど微笑んでくださると、わたくしの胃袋もいつもより少し、お転婆になってしまいますわ」
車を降りた櫻庭千草は、乱れなく編み込まれた豊かな髪を揺らし、ロング丈のシックなメイド服の裾を美しく翻して、おっとりと微笑んだ。櫻庭家の頼れる同居人であり、普段は『Bar風花』の頼もしい警護役でもある彼女だが、この町においては、誰もが親しみを込めて「よく食べる、上品で男前なメイドお姉ちゃん」と呼んでいた。
お姉ちゃんのお財布は、常に温かい。そして、その使い方は実に粋だった。
「大将、本日は生蕎麦を三人前と、鴨南蛮の鴨を少し多めに分けていただけますかしら。それから、そちらの美味しそうな天ぷらの盛り合わせも」
「毎度! 千草さんが来てくれると、店にパッと火が灯ったみたいに活気が出るよ」
千草は手際よく包まれた折詰を受け取ると、次は保育園のすぐ側にある広場へと車を走らせた。ちょうどお散歩の時間なのか、風花保育園のちびっ子たちが保母の豊田珠美に連れられて歩いているのが見える。
車を停めて千草が手招きをすると、子供たちが「千草おねえちゃんだー!」と歓声を上げてわっと集まってきた。
「皆さん、ごきげんよう。今日もお利口さんにしていますね」
千草は、あらかじめ用意していた小さな紙袋を、笑顔で駆け寄ってきた珠美へと手渡した。中には、彼女が昨晩キッチンで丁寧に焼き上げた手作りのクッキーが入っている。
「これ、珠美先生と子供たちへ。いつもお疲れ様ですの」
「わあ、千草さん! ありがとうございます。私、千草さんのクッキーが本当に大好物なんです!」
珠美は嬉しそうに目を輝かせ、集まった子供たちの頭を優しく撫でた。
「親御さんたちもみんな、『千草さんのクッキーならアレルギーにも完璧に配慮して焼き分けてくれてるから、100%安心だ』って大喜びしているんですよ」
これこそが、風花町に存在する特別な暗黙の了解――【櫻庭家の千草さんルール】であった。
世間では「知らない人から食べ物を貰ってはいけない」と教えられる子供たちだが、この町ではどの家庭の親も、「ただし、櫻庭さんのところの千草さんからなら、何でも美味しくいただきなさい」と教えている。一人ひとりの顔と体質を思い浮かべながら丁寧に焼き分けられたクッキーには、単なるお菓子という枠を超えた、彼女の深い優しさが詰め込まれていた。
「それでは珠美さん、ちびっ子ちゃん達、またね。どーしーぼーちゃん、次のお買い物へ参りましょうね」
愛車を愛おしそうに「どーしーぼーちゃん」と呼ぶお姉ちゃん。彼女が再びクラッチを繋ぎ、パタパタと翡翠色の翼を羽ばたかせて去っていく姿を、町の人々は温かい目で見送るのだった。
第二章:止まった心臓と、真鍮の鍵
だが、形あるものはいつか壊れ、完璧な日常ほど、一瞬の亀裂で呆気なく崩れ去る。
その日の夕暮れ時、買い物を終えて櫻庭家へと続く坂道を登っていたときだった。
「パタ……パツ……」
どーしーぼーちゃんの心臓であるエンジンが、不穏な息継ぎを始めた。お姉ちゃんが怪訝に眉をひそめた瞬間、ボンネットの隙間から、真っ白な水蒸気がモクモクと立ち上った。
ガクン、と短い衝撃を残して、翡翠色の車体が完全に停止する。
「あら……? どーしーぼーちゃん?どうなさいましたの?」
普段ならどんな窮地でも、凛として微笑んでいるはずのお姉ちゃんが、この時ばかりは目に見えて狼狽した。
彼女は夢中で車を降りると、自慢のロング丈のメイド服が汚れるのも一切構わず、アスファルトの上に膝をついた。泥とオイルがフロントスカートに染みるのも気にせず、ボンネットを開けて中を覗き込む。
しかし、お姉ちゃんには「機械のメカニズム」だけは致命的に苦手という弱点があった。
ディストリビューターが何なのか、キャブレターがどう機能しているのか、鉄の塊がなぜ動くのか、彼女の頭ではさっぱり理解できないのだ。
何度キーを捻っても、セルモーターは悲しげな金属音を立てるだけで、二度と爆発の息吹を上げることはなかった。
「どうしましょう、わたくしが……わたくしが、あなたの声に気づいてあげられなかったから……」
その時、異変に気づいて、自宅の平屋からツナギ姿の男が全速力で坂を駆け下りてきた。櫻庭天。美和の夫であり、普段はフリーランスのルポライターとして穏やかに暮らす男だ。
「お姉ちゃん! どうしたの!?」
「天さぁぁぁぁぁん!!」
天の姿を捉えた瞬間、千草の綺麗な瞳から、大粒の涙が溢れ出した。彼女は驚異のKカップの胸元を波立たせ、もの凄い勢いで天の胸へと飛びついた。
「どーしーぼーちゃんが、どーしーぼーちゃんが動かなくなっちゃいましたわーーーっ!! 」
「落ち着いて、お姉ちゃん、大丈夫だから!」
天は、子供のようにおんおん泣きじゃくるお姉ちゃんの背中を、汚れなど気にせず何度も優しく「よしよし」と撫でて受け止めた。その腕の中で、普段は誰よりも頼もしい彼女が、まるで一番大切なおもちゃを壊してしまった少女のように、激しく肩を震わせて泣き続けていた。
第三章:暗闇の寝言、作動したスイッチ
その夜、風花町商店街はまるで火が消えたかのように静まり返っていた。
いつもなら、夕方に『風花山房』で景気よく蕎麦をすすり、『鮨 志づか』で特上の折り詰めを頼んでは「これでお夜食の準備はバッチリですわ♪」と笑っているはずの千草の姿がない。
お姉ちゃんが自室に引きこもってしまったという知らせは、瞬く間に町を駆け巡り、人々の心にどんよりとした影を落としていた。
深夜、すべての営業を終えた『Bar風花』の静寂の中で、天と美和は足音を忍ばせて廊下の奥へと向かった。
「千草、まだ起きているかしら……」
美和がワインレッドとアンバーの異色瞳に深い心配の色をにじませ、そっとドアを数センチだけ開ける。隙間から漏れる薄明かりを頼りに、二人は部屋の中を覗き込んだ。
いつもなら乱れなく編み込まれている豊かな髪が枕元に広がり、お姉ちゃんはルームウェアを着て、ベッドの中で小さく丸まっていた。
その胸元で、両手でぎゅっと、壊れ物を扱うように大切に抱きしめられていたのは――園児たちのお手紙でも、大好きな地酒の瓶でもなかった。
パタパタと鳴り止んでしまった、あのシトロエンの小さな真鍮の鍵だった。
「うぅ……っ……。ごめんなさい、どーしーぼーちゃん……。わたくしが……メカのことに疎いばかりに、あなたに無理をさせて……」
掠れた、今にも消え入りそうな小さな寝言。
その痛々しい涙と、鍵を抱きしめながら自分を責め続ける言葉が、ドアの隙間から天の耳へと真っ直ぐに届いた。
――カチリ。
天の脳内で、何かが完全に音を立てて切り替わった。【侠気ランプ】に灯が灯り【千草お姉ちゃんギア】が、唸りを上げる。
(いつもは優しくて最強で、大食漢で、僕らをこれでもかと甘やかして、世界一頼もしく笑ってくれているお姉ちゃんが。こんなに小さな背中を丸めて、一人で泣いている……。――そんなの、男として、櫻庭家の夫として、絶対に放っておけるわけがない)
天の穏やかな瞳の奥に静かで熱い覚悟が宿る。ドアをそっと閉めると、天は隣に立つ美和を真っ直ぐに見つめ、低く、しかし恐ろしいほど頼もしい声音で囁いた。
「……美和さん」
「ええ、分かっているわ、天ちゃん。……今夜流されたお姉ちゃんの涙の分まで、あなたの誠意を……櫻庭の男としての矜持を、示しておいでなさい」
美和もまた、夫の胸に灯った熱い侠気を信頼するように、優しく目を細めて微笑んだ。
第四章:魂の土下座と、職人のプライド
翌朝一番、天は動かなくなった2CVをレッカーで『豊田モータース』へと運び込んだ。
油と鉄の匂いが染み付いたガレージの奥。頑固一徹で知られる豊田のオヤジさんが、首にタオルを巻いた姿で仁王立ちしていた。
天は持参した分厚い企画書を脇に抱え、真っ直ぐにオヤジさんの目を見つめた後、迷うことなくその場で深く、深く頭を下げた。自分のプライドなどどうでもよかった。ただ目の前の職人に誠意を伝えるためだけに、天は魂を込めて頭を下げ続けた。
「お願いします、オヤジさん! 僕に力を貸してください! 千草お姉ちゃんの笑顔を、あの車を、絶対によみがえらせたいんです!」
「フン……」
オヤジさんは難しい顔をして腕を組み、恐ろしい仏頂面で天の企画書を睨みつけた。
「シトロエンだぁ? うちの工場をなんだと思ってるんだ。そんなおフランスの気取った、しかも骨董品みたいな車、おいそれと引き受けられるわけねえだろ……」
だが、その渋る声とは裏腹に、オヤジさんの胸中は激しい動転に見舞われていた。
(な、なんだと……!? あの千草さんが愛車を失って、飯も喉を通らねえだと……!? 冗談じゃねえぞ。あの人の笑顔が消えるなんて、この町にとっての一大事だろ! 心の中じゃ今すぐ『任せときな!』って胸を叩いて引き受けてえよ、バカ野郎……!)
緩みそうになる口元を必死で引き締め、職人の威厳を保ちながら、オヤジさんはわざとらしく大きな溜息をついた。
「……チッ、しょうがねえな。お前さんのその熱意と、深々と下げられた頭に免じて……一肌脱いでやるよ」
「ありがとうございます、オヤジさん!」
天は顔を上げると、心底安堵したように胸を撫でおろした。
ここから、ルポライターとしての天の真骨頂が動き出す。彼は懇意の自動車専門誌へ、入念に練り上げた『シトロエン2CV・奇跡のフルレストア密着ドキュメント』の連載企画を持ち込み、見事に枠を勝ち取っていた。さらに、その連載決定の告知記事を引っ提げ、欧州車の旧車パーツに強い専門商社や老舗ショップへ直談判。雑誌での長期露出を条件に、入手困難な2CVの復刻パーツやデッドストック部品の協賛を取り付けて見せたのだ。安易なコネに頼るのではなく、己の知恵と行動力で勝ち取った最高のバックアップだった。
「よし、天の字! 役者は揃ったな。ここからは泥臭い鉄の戦いだ!」
作業が始まると、オヤジさんの目つきが一変した。引き出された2CVのプラットフォームフレームは、長年の湿気で赤サビに侵され、歪みが生じている。オヤジさんはサンダーで腐食した鉄を削り落とし、寸分の狂いもないように補強の鋼板を当てては静かに火花を散らしていく。魔法など存在しない。ただ長年の経験と勘だけを頼りに、鉄と対話する職人の意地がそこにあった。
オヤジさんがガス溶接の火花を散らし、ハンマーをガンガンと打ち下ろす。腐食した箇所をすべて切り落とし、熟練のハンマーワークで一ミリの狂いもなく板金修理。さらに、要所に厚みのあるスチールプレートを溶接して「ガセット補強」を施し、新車時を遥かに凌駕するシャシー剛性を練り上げていく。天もまた、ペンを工具に持ち替え、油にまみれながら602ccの空冷二気筒エンジンをボルト一本まで分解し、100分の1ミリ単位の精密バランスでオーバーホールを進めた。
第五章:町一丸の「胃袋」と「心のガソリン」
レストアが始まって数日。豊田モータースのガレージには、異様な光景が広がっていた。
お姉ちゃんが愛車を失って元気を無くしていると知った商店街の面々が、作業の邪魔にならないよう、事務所のテーブルへと怒涛の「差し入れ」を届けにやってくるのだ。
「千草さんが来ないと店が寂しくていけねえ! 親方、これ食って一秒でも早く直してくれ!」
『風花山房』の大将が、揚げたての特大天ぷらを山盛りにして持ってくる。
「美味いもん食わねえと良い仕事はできねえだろ」
『鮨 志づか』の大将が、贅沢な特上握りの折り詰めを差し入れる。
「千草ちゃん、寂しがってないかしら」
近所のおばちゃんたちが、炊きたての山菜おこわや自家製のお漬物をどっさり置いていく。
工場の事務所のテーブルは、またたく間に限界突破の食糧で埋め尽くされた。
そんな中、ようやく部屋から出てきて工場を訪れた千草。最初は申し訳なさそうに縮こまっていたものの、出前で届いた豪華なお寿司とお蕎麦を目にした瞬間、彼女の瞳にふっと職人特有の「粋」な光が宿った。ロング丈のメイド服の袖を上品にたすきで纏めると、穏やかな笑みを浮かべる。
「……もう、親方様も天様も、わたくしのためにそこまでお気遣いくださらなくてもよろしいのに。ですが、いただいたお寿司とお蕎麦、乾いたり伸びたりしては、拵えてくださった方にも申し訳ありませんわ。最高の状態のうちに、皆様で美味しくいただきましょうね」
誰よりも洗練された、しかし一切の迷いがない見事な手際で蕎麦を手繰り、特上寿司を繊細な指先でひょいと摘んで口へ運んでいく。その隙のない美しさと、あまりに気持ちの良い食べっぷりのギャップに、工場の若い整備士たちも「千草さん……格好良すぎる……!」と一瞬で心を奪われていた。
夕方、そんな賑やかな工場に、オヤジさんの娘である豊田珠美がやってきた。その胸には、園児たちから預かった大切なプレゼントが抱えられていた。
「お父さん、天さん、お疲れ様! これ、保育園の子供たちから。みんな千草お姉ちゃんとお車に早く元気になってほしいって、一生懸命作ったんだよ」
手渡されたのは、小さな手で一生懸命に折られた色とりどりの千羽鶴。そして、画用紙いっぱいにクレヨンで描かれた、大きなお姉ちゃんと2CVの絵だった。そこには、歪な、けれど心のこもった文字でこう書かれていた。
『どーしーぼーちゃん、はやくげんきになってね♪ ちぐさおねえちゃん、またドライブにつれていってね!』
「……っ、珠美、よく持ってきてくれた。よし……天、この子たちの期待を裏切るわけにはいかねえ! 工場で一番目立つ特等席の壁に、これを飾るぞ!」
普段は頑固なオヤジさんが、目頭に浮かんだものを汚れた作業服の袖でぐっと拭い、噛み締めるように力強く吼えた。
「……まあ……✨」
その絵を見た瞬間、千草お姉ちゃんの瞳が再び激しく潤んだ。お姉ちゃんは子供たちの描いた可愛い絵を両手でそっと抱きしめる。
「天さん、美和様……見てくださいませ。子供たちが私の車を『どーしーぼーちゃん』なんて可愛いお名前で呼んで……うう、愛おしすぎて、わたくしの心は涙で水没してしまいます……!」
「ふふ、本当ね。千草お姉ちゃんがいつもみんなに沢山の優しさを配っているからよ」
いつの間にか様子を見に来ていた美和が、その肩を優しく抱き寄せる。
天は、工具をさらに強く握り直した。
「うん。お姉ちゃん、これを見たら僕も親方も、俄然気合が入っちゃったよ。商店街のみんなと子供たちのためにも、新車以上の最高の状態に仕上げてみせるからね!」
第六章:風花町の職人技と、至高の音色
メカニズムが完璧に蘇る一方、天は次なる作戦のために、風花町が誇る職人街へと足を運んでいた。
目指すのは、2CVの車内を世界一美しい「移動式プライベート・サロン」へと昇華させること。そのために、天は頑固な家具職人とレザークラフト職人の工房の床で、深々と頭を下げた。
「お願いします! 千草お姉ちゃんの為、皆さんの力を貸してください!」
普段なら数ヶ月待ちが当たり前のプライド高き職人たちだったが、「千草さんのため」と聞いた瞬間、即座に腕捲りをした。
「何だと……!? あの千草さんが心を痛めているだと!? よし分かった、我が工房で寝かせている最高のウォールナットを使って、2CVのインパネを美しく飾るウッドパネルを仕立ててやる!」
「天ちゃん、お前さんの情熱に免じて、俺もとっておきの極上本革を卸してやるよ。千草さんの雰囲気にぴったりのパステルグリーンだ。寸法ひとつ狂いのないステッチで完璧に張り上げてやるからな!」
こうして、風花町が誇る職人たちの寝食を忘れた手仕事により、内装の再構築が始まった。
上品なパステルグリーンの本革と、丁寧に磨き上げられたウッドパネル。そのセンターに静かに埋め込まれたのは、伝説的なカーオーディオ、McIntoshのヘッドユニットだった。艶やかで温かみのある音色。ドアトリムの裏側には、2CVの車体形状を完全にアコースティック解析したフルコンポーネント・スピーカーが配置された。
オヤジさんと天が夜通し叩き直したガチガチの補強フレームは、この極上のスピーカーが放つ重低音の振動を優しく受け止め、余計な共振を100%カットする。
「……天ちゃん、凄いね」
自宅の洗濯場で、天の油まみれのツナギを洗いながら、美和が呟いた。
「ウッドの温もりと、あのマッキントッシュの青い光……なんだか、私たちの『Bar風花』の夜の空気にも似ていて、とっても素敵。お姉様、きっと嬉しくて、あの車から一生降りられなくなっちゃわね」
車を単なる移動手段としてではなく、乗る人の心を安らげる「特別な空間」として仕立て上げる。それは、一杯のカクテルに人生の重みを込める、バーテンダーの哲学にも似た、天の執念の結晶だった。
第七章:風花町の空に解き放つメロディ
数週間に及ぶ不眠不休の作業の果て、ついに完全復活を遂げた【シトロエン 2CV “Emerald-Guardian Spec”】。
塗装は、静寂に包まれた夜の風花町を思わせる、最高級の「ダーク・モスグリーン」。何層ものクリア塗膜を重ね、鏡のように深く深く磨き上げられていた。
天はお姉ちゃんを工場へと連れ出した。
工場のシャッターがゆっくりと上がると、そこには柔らかな月光を浴びて、静かに艶めく翡翠の翼があった。
「……あ、……あぁ……っ……」
お姉ちゃんが絶句し、瞳をこれでもかと見開いて震える。
「さあ、お姉ちゃん。ずっと抱きしめていたその鍵で、もう一度、新しい命を吹き込んであげて」
天が最高の笑顔で促すと、千草はおずおずと運転席へと滑り込んだ。
かつて引きこもった夜から、ずっと両手でぎゅっと抱きしめ続けていた真鍮の鍵。それを、丁寧に、祈るようにイグニッションに差し込み――ゆっくりと回す。
カチリ。
マッキントッシュの「ブルーアイズ・メーター」が暗闇の中に鮮やかな青い光を灯し、精密にオーバーホールされたエンジンが、限りなく低振動でシルキーな鼓動を刻み始めた。
「パタパタパタ……」それは以前よりもずっと深く、確かな音だった。
同時に、カースピーカーから風花町の静かな夜空へと解き放たれたのは――J.S.バッハの『G線上のアリア』だった。
どこまでも優しく、どこまでも荘厳で、そっと大きな包容力で抱きしめるような、深く美しい弦楽器のメロディ。精密なメカニズムの鼓動と、マッキントッシュの至高の調べが、奇跡的な調和を見せて車内を満たしていく。
「天さん……美和様……」
千草の瞳から、今度は溢れんばかりの感動の涙が静かに零れ落ちた。耳元で揺れる深いエメラルドのピアスが、インパネに灯る柔らかな光を反射して美しくきらめく。
「わたくしの耳にまで、……こんな極上の贅沢を……。天様、わたくし……この美しい空間の中で、天様の奏でる物語を、一生、聴き続けていたいですわ……っ」
「千草お姉ちゃん、お待たせしました。さあ、もう涙を拭ってください。今夜はこの最高の音楽に包まれながら、みんなでゆっくり、風花町の夜空の下を走りましょう」
千草は、助手席のドアを開けた天をそっと愛おしそうに抱きしめると、涙を拭い、いつもの気高くも温かな微笑みを取り戻すのだった。
第八章:宇宙一温かいお財布の逆襲
翌日、風花町商店街は、昨日までの沈滞が嘘のような温かな歓喜に包まれていた。
完全復活を遂げた2CVの助手席と後部座席に、ぎっしりとお土産を積み込んだ千草が凱旋したからだ。
まず向かったのは、風花保育園。千草は車を降りると、駆け寄ってきた子供たちを優しく膝をついて受け止め、一人ひとり愛おしそうに抱きしめた。そして、丁寧に切り分けた完熟のマスカットやみたらし団子をそっと手渡していく。子供たちは「どーしーぼーちゃん、元気になってよかったー!」と大はしゃぎで、ピカピカに磨かれた車体にそっと触れていた。
千草が魅せる本気の恩返しは、風花町商店街を大きな温もりで包み込んでいった。
品格ある微笑みはそのままに、千草の豪快で粋な心が次々と花開く。
「大将! 『風花山房』の生蕎麦、今日お店に来られる方々へ、わたくしからの感謝としてお振る舞いさせてくださいな」
「毎度! って、千草さん、本日のお客様全員にかい!?」
「ええ。それから『鮨 志づか』の大将、特上の折詰を50人前、注文させていただきますわ。豊田モータースの皆様や町内会へ、感謝の差し入れです」
八百屋で最高品質の果物をどっさりと買い付け、レザー職人や家具職人の元へも、選び抜かれた極上の特産品を携えて訪れる。
千草が気前よく、そしてどこまでも誇り高く感謝を届けるたび、歓声が上がり、商店街全体がまるで祭りのような活気を取り戻していくのだった。
夕暮れ時。本日二度目となる、食材とお土産の心地よい重みにしなやかな足回りを沈ませながら、2CVは誇らしげに櫻庭家の平屋へと凱旋した。
「千草お姉ちゃん、本当に商店街を丸ごと巡ってお振る舞いをしてきたのね?」
玄関で出迎えた美和が、呆れつつも愛おしそうな笑顔を異色瞳に浮かべる。
ツナギの汚れを落とした天も、「さあ、千草さんの完全復活祝い。今夜はみんなで美味しいものを囲もう!」と穏やかに声を上げた。
その夜、櫻庭家のリビングには、溢れんばかりの特上寿司と揚げたての天ぷら、そして見事に蘇った愛車から微かに漏れ聞こえる温かな音楽が満ちていた。
美味しい食べ物と、大切な人の笑顔。それさえあれば、人生のどんな坂道も、きっとあの空冷エンジンのように小気味よい音を立てて乗り越えていける。
愛と感謝に満たされた風花町の夜が、静かに更けていくのだった。
【あとがき】
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
今回は、いつも櫻庭家と『Bar風花』を完璧な献身で支えてくれている千草さんと、彼女の愛車であるシトロエン2CVを中心としたお話をお届けいたしました。
機械の仕組みにはちょっぴり疎い千草さんの可憐な涙と、彼女の笑顔を取り戻すために知恵と技術を絞る天ちゃん、そして風花町の職人たちの粋な人情を感じていただけましたら幸いです。
職人たちの手によって蘇った2CVの車内に響くバッハの調べ、そしてラストの温かな食卓の余韻が、皆様の心にも優しく届きますように。今夜は美味しいお寿司や揚げたての天ぷら、そして少し良い音楽が恋しくなるかもしれません。
もしこのお話を楽しんでいただけましたら、ページ下の**【ブックマーク登録】や、【評価ポイント(★★★★★)】**、心温まるご感想をいただけますと、執筆の大きな励みになります。
それでは、また次の夜に『Bar風花』でお会いしましょう。
天照(Bar風花)




