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【Bar風花】第二章 南風の夜市と老兵のアルゴンキン 〜時の彼方より『古い友達』へ愛を込めて〜

【前書き】


※本作は『Bar風花』の特別編(台湾旅行回)となっております。

※超常現象やバトルのない、異国での温かな再会と旅情を描いた日常・旅情回です。

※夜市グルメや冷えたカクテルの描写が含まれます。お腹が空く時間帯の閲覧にはご注意ください。


南国のぬるやかな風がそっと頬を撫でる、台北の夜。

賑やかな士林夜市の熱気と喧騒を抜け、静かな永康街の地下へと続く階段を降りれば——そこには、幾千の夜を見守り続けてきた老兵の酒場がありました。

かつて傷ついた心を黙って癒やしてくれた、淡い黄金色の『アルゴンキン』。

そして、長い時の彼方から帰ってきた大切な存在へと贈られる、ルビー色の『オールドパル』。

変わらぬ不滅の美と、愛する家族とともに寄り添う今の温もり。

ふたつのカクテルが交差するとき、過去の寂しさはそっと愛おしい記憶へと昇華していきます。

どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。

✅️南風の夜市と老兵のアルゴンキン 〜時の彼方より『古い友達』へ愛を込めて〜

台北の残響、老兵のアルゴンキン

 

「あらあら、美和。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。街全体が、こんなにも優しく私たちを歓迎してくれていますもの( ´∀` )」

 台北松山空港に降り立った瞬間、南国のぬるやかな風が三人の頬を撫でた。

 鮮やかなアロハ調の羽織を粋に着こなした千草お姉ちゃんは、眩しそうに目を細めて台北の空を見上げる。その全身から漂うのは、清廉でありながらどこか悠久の時を感じさせる瑞々しい気——白鹿大明神としての、泰然とした包容力だ。

「そうだよ、美和さん。俺も一緒に居るんだから」

 天ちゃんが隣で優しく微笑み、美和の手をそっと包み込む。

 美和はふっと肩の力を抜き、照れくさそうに目を細めた。

「ええ……ありがとう、天ちゃん。千草お姉ちゃんも。なんだか、昔一人でここに来た時とは、空気を吸った瞬間の胸の温かさが全然違うわ」

 親日的な空気が街の至るところに満ちている。タクシーの運転手も、すれ違う人々も、日本人だと分かると破顔して「ニホンカラ? イラッシャイ!」と温かい声をかけてくれた。

 夕暮れ時。三人は熱気あふれる士林夜市の喧騒の中にいた。

 頭上を埋め尽くす赤い提灯の灯り。ジュージューと肉が焼ける音、香ばしい胡椒と八角の香気、完熟したパイナップルやマンゴーの甘い匂い。

「ほらほら二人とも、次はあの大きな鶏排ジーパイをいただきましょうか。天ちゃん、あっちのお茶も買ってきてくださるかしら( ´∀` )」

「はいはい、千草お姉さん。ちょっと待っててね(笑)」

 千草お姉ちゃんは少女のように目を輝かせ、大きな鶏排を豪快にはふはふと頬張り、熱々の小籠包から溢れるスープに目を丸くしている。

「本当に美味しいですわねぇ……! 土地の気が生き生きとしていて、人の笑顔が溢れております。こんなに気持ちの良い街でしたら、美和が昔ここに身を寄せたくなったお気持ちもよく分かりますわ」

「ええ……。あの頃の私は、自分の運命や時の重さに少しだけ疲れていて……この街の熱気と無頓着な優しさに、救われていたの」

 美和は串刺しのマンゴーを一口かじり、懐かしそうに目を細めた。

 天ちゃんはその横顔を愛おしそうに見つめ、そっとその肩を抱き寄せる。

 三人で笑い合い、食べ歩き、夜市の熱気を肌で感じながら、目的の場所——永康街ヨンカンジェの静かな路地裏へと足を進めた。

 喧騒を離れた路地の奥。古びた建物の地下へ続く階段がある。

『隱酒吧』。

 重厚な木の扉を開けると、そこには夜市の熱気とは対極の、深く静謐な空間が広がっていた。

 ウッドと使い込まれた革、そしてかすかな煙草とお香が混ざり合った独特の匂い。壁一面には古いジャズのレコードジャケットが並んでいる。

tカウンターの奥には、70代半ばの老バーテンダーが背筋を伸ばして立っていた。白髪をきっちりと撫でつけ、年季の入ったベストを纏った姿は、まさに職人そのものだ。

 扉の真鍮のベルが鳴り、老人が静かに視線を上げる。

「……お久しぶりです、マスター」

 美和の声が、地下の静寂に落ちた。

 老人は一瞬、グラスを拭く手を止めた。老眼鏡の奥の小さな目が大きく見開かれる。

 数秒の静寂ののち、老人は深く、長く息を吐き出し、深く刻まれた目尻のシワを崩した。

「……美和。……本当に、来たのか」

 掠れた、けれど温かい声。

 美和の瞳に、瞬時に涙が溜まっていく。

「響子ちゃんから……伝言を聞きました。『俺はまだここにいるぞ』って……」

「あのアホ娘、本当に伝えたのか……」

 マスターは照れくさそうに苦笑し、手元のおしぼりを三人の前に並べた。「座れ。……ずっと、待っていたぞ」

 カウンターに並んで腰を下ろす三人。

 千草お姉ちゃんは静かに店内を見渡し、マスターの佇まいに深く頷いた。

(……良い手職人プロですわね。この方の誠実さが、この小さな店をずっと守ってきたのですね)

 マスターは何も訊かず、無言で熟した台湾パイナップルを取り出すと、手際よく包丁を滑らせた。果肉を押し潰し、鮮度抜群の果汁を絞り出す。

 ライウイスキー、ドライベルモット、そしてパインジュース。

 氷を満たしたシェイカーに注ぎ、静かに蓋を閉める。

――シャカシャカシャカ……。

 硬質で、けれど滑らかなシェイクの音が地下室に響く。

 それは、昔一人でこの席に座り、傷ついた心を抱えていた美和を黙って慰めてくれた、あの懐かしい音そのものだった。

 注がれたのは、淡い黄金色のカクテル——『アルゴンキン』。

 マスターは美和の前にそのグラスを静かに置くと、隣に座る天ちゃんと千草お姉ちゃんをじっと見つめた。

 天ちゃんの穏やかだがブレない凛とした佇まい。そして千草お姉ちゃんの、すべてを包み込むような温かな瑞気。

 マスターはポツリと語り始めた。

「……昔のあんたはな。いつもそこに一人で座って、折れそうな目をしてこのアルゴンキンを飲んでいた。何も言わないが、背中に『寂しい』と書いてあった……。だが……」

 マスターは美和の隣の二人を指差し、優しく目を細めた。

「今のあんたの隣には、最高の男と、頼もしい家族がいる。もう……あの頃の寂しい味はしないはずだ」

 美和の目から、ポロリと大粒の涙が零れ落ちた。

 グラスを両手で持ち、一口含んで微笑む。

「……はい。とっても……温かいです。世界で一番、美味しいです……っ」

 天ちゃんが美和の背中を優しく撫で、千草お姉ちゃんが静かにグラスを掲げた。

「ええ……本当に、素晴らしいお味ですわ」

 アルゴンキンを飲み干し、夜が静かに更けていく。

 マスターはそっと目元を弛ませると、ミキシンググラスを取り出した。

 氷を満たし、手際よくボトルを傾ける。

 ライウイスキー。

 ドライベルモット。

 そして、ほろ苦い赤のルビー——カンパリ。

 バースプーンが静かに氷を滑り、カチカチと心地よい音を奏でる。

 ストレーナーを通して注がれたのは、アンバー色の照明に美しく映える、深いルビー色の液体。

 マスターは、そのグラスを三人に向かって一つずつ静かに置いた。

「マスター……これは……」

 美和が問いかける。

 老人は愛おしそうにグラスを見つめ、静かに呟いた。

「……『オールドパル』だ。カクテル言葉は……『古い友達』」

 ルビー色に輝くグラスを手に取り、美和はそっと目を閉じた。

 口の中に広がる、カンパリの強いほろ苦さと、ライウイスキーの静かな温もり。

 その一杯が、遠い過去の記憶を静かに呼び覚ます。

(……かつて、世界が激しい渦に呑み込まれ、幾千もの若い命が桜のように儚く散っていくのを、ただ見届けることしかできなかった頃……)

 国の為、愛する者の為に空や海へと消えていった若い兵士たち。神としての現身でありながら、その散りゆく運命を救えなかった深い絶望と傷。

 擦り減り、凍りついてしまった心を持て余し、身も心もボロボロのまま彷徨い着いたのが……この台北の湿った地下室だった。

 神としての威光も、富も何もない一人の傷ついた存在として蹲っていた自分に、この老マスターは何も訊かず、ただ静かに一盃の酒を差し出してくれた。

『生きていていいのだ』と——無骨で温かな手が、頑なに閉じ合わされていた美和の心を解かしてくれたのだ。

 あの救いがあったからこそ、自分は再び立ち上がり、やがて『Bar風花』のカウンターに立つことができた。そして……最愛の夫である天ちゃんと巡り会うことができたのだ。

 赤く艶めくグラスの向こうで、マスターの目がどこか遠くを見るように柔らかくなった。

「俺もな……もう半世紀近く、このカウンターに立っていろんな人間を見てきた。……だがな、美和」

 マスターは両手をカウンターに突き、美和の目をまっすぐに見つめた。

「俺が白髪になり、顔にシワが増え、こうして老いていく中で……あんただけは、出会ったあの頃から……何ひとつ変わらない。その美しさも、背負っている気の高さもだ」

 美和が息を飲んだ。

 マスターはそれ以上、無粋な追及はしなかった。神だとか、人間を超えた存在だとか、そんな野暮な言葉を口にするつもりは毛頭ない。長年、酒場という聖域で幾千の夜を見守ってきたプロの職人だからこそ、肌で感じ取っているのだ。

 この女性(美和)が、自分たち人間とは異なる、はるかに高貴で果てしない時を生きる存在であることを。

「……美和。お前は変わらないな」

 ぽつりと漏れたその言葉には、恐れなど微塵もなかった。ただただ、長い年月を越えて自分のもとへ帰ってきてくれた『古い友人』への、無限の愛おしさと敬意だけが込められていた。

「だがな……たとえあんたがどれほど長い時を生きる存在だろうと……俺にとってあんたは、いつまでも大切な『古い友達』だ。それは、この命が尽きるまで変わらんよ」

 美和の瞳から、ボロボロと溢れ出す温かな涙。

 天ちゃんも千草お姉ちゃんも、老バーテンダーの職人としての誇りと深い愛に、胸を打たれ静かに頷いた。

「……ありがとう、マスター。……私にとっても、あなたは最高の『オールドパル』よ」

 三人はグラスを持ち上げた。

 カンパリのほろ苦さとライウイスキーの温かさが、三人の喉を通って胸の奥深くを包み込んでいく。

 別れの時。

 路地裏の地上へ続く階段の手前。美和は何度も振り返り、マスターを見つめた。

 マスターもまた、店の入り口まで見送りに上がってきてくれていた。

「マスター……私、また来ます。絶対に、また会いに来ますから……っ」

 涙で顔を濡らす美和に、老バーテンダーは静かに首を振り、知る限りの一番優しい笑顔を浮かべた。

「無理はするな、美和。あんたには、帰るべき場所(風花)があるんだからな。……だが」

 マスターは背筋をピシッと伸ばし、拳を胸に当てた。

「俺は、手が動く限りここでグラスを磨き続けている。……だから、またいつでも『ただいま』と言いに来い」

「……はい! 『ただいま』って……言いに来ます!」

 二人は固く手を握り合った。言葉を超えた、何十年もの時を繋ぐ温かな涙の握手。

 天ちゃんも「マスター、俺の大切な妻を救ってくれて……本当にありがとう」と深く礼をし、千草お姉ちゃんは瑞気あふれる笑みを残して、「お達者でいてくださいね、マスター」と静かに手を振った。

 地上に出ると、台北の夜空には美しい月が浮かんでいた。

 南国の風が優しく吹き抜け、三人の頬を撫でていく。

「……帰ろうか、美和さん。俺たちの『風花』へ」

「ええ……帰りましょう、天ちゃん( ´∀` )✨」

 美和は涙を拭い、天ちゃんの手を強く握りしめた。

 その胸にはもう、過去の悲しみや寂しさは一片も残っていなかった。ただ、台北の温かな残響と、大切な『古い友人』の温もり、そして愛する夫と家族とともに歩む未来の光だけが、煌々と輝いていた。

【あとがき】

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

今回は、美和さんの大切な原点であり、かつて傷ついた心をそっと包み込んでくれた台北での再会を描いた特別編をお届けいたしました。

神だとか人間を超えた存在だとかを言葉にして野暮に追及せず、ただ半世紀近くカウンターに立ち続けてきた職人プロの直感だけで美和さんの「不変の美と高貴な気」を感じ取り、変わらぬ『古い友達』として抱きしめる老マスター。

そして、かつて一人で抱えていた孤独を乗り越え、天ちゃんや千草お姉ちゃんという大切な家族とともに笑い合う美和さんの姿を描くことができ、作者としても深く胸に残る一話となりました。

読み終えたあと、南国の夜風を感じながら冷えたカクテル(あるいは、熱々の小籠包や大きな鶏排!)が恋しくなっていただけましたら、これ以上の喜びはありません。


もし少しでも「世界観が好き」「マスターの粋な優しさに胸が熱くなった」「カクテルが美味しそう」と感じていただけましたら、ページ下部の評価【★★★★★】やブックマーク、温かいご感想をいただけますと、今後の執筆の大きな糧となります!


天照(Bar風花)

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