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【Bar風花】第二章 黒と白の完全なる蕎麦前 〜プロのメイドは昼下がりに三合の夢を見る〜

前書き


ある初夏の午後二時半。

メイド服姿の千草お姉ちゃんが、いつものように『蕎麦処  風花山房』に現れた。

彼女にとってここは「別腹」の聖域。

今日のおやつは、地酒のぬる燗から始まり、天ヌキ、そしてもり蕎麦で締めるという、まさに大人の三段論法。

黒と白の完璧な佇まいのまま、静かで贅沢で、ちょっと背徳的な——千草お姉ちゃんの至福のおやつタイムです。

ドラマも恋愛もありません。

ただ粋で美味しくて、のんびりした時間だけをお届けします。

第一章:午後二時半の黒と白

 

 風花町の昼下がり、二時半。

 駅前の喧騒から外れた路地に佇む老舗『蕎麦処 風花山房』の暖簾を、初夏の風が優しく揺らしていた。

 お昼時のピークが過ぎ、静まり返った店内に、カランコロンと引き戸の音が小さく響く。

「大将、こんにちは。お邪魔するわね」

 茹で釜の前で一息ついていた大将の目が、その声を聞いた瞬間にパッと輝いた。

「へい! 千草さん、いらっしゃい!」

 入ってきたのは、仕立ての良い黒い生地に、一点の汚れもない純白のエプロンを揺らす、クラシカルなロング丈のメイド服姿の女性——千草だった。

 つい一時間ほど前まで、櫻庭家のリビングで美和や天ちゃんと普通のお昼ご飯をしっかり平らげていたはずの彼女だが、ここは千草にとっての『別腹』であり、一日の内で最も大切な「おやつ」の時間だった。

「いつもの席、空いてるかしら?」

「勿論ですよ、特等席を空けて待ってました」

 大将は手早く白い布巾でカウンターの端を拭き、厨房の奥の「特別な棚」へと手を伸ばした。そこにあるのは、一般の客には絶対に出さない、千草のためだけに預かっている——いや、大将が彼女の立ち姿に惚れ込んで買い求めた、一点物の専用酒器だった。



 

第二章:一の杯、蕎麦前の様式美

 

「大将、まずは若竹屋 馥郁元禄之酒をぬる燗で一合。それと、蕎麦味噌と板わさを頂戴」

 メイド服の背筋をピンと伸ばしたまま、千草が最初の一手を静かに告げる。

 運ばれてきたのは、掌にしっくりと馴染む、時代物の唐津焼の徳利と猪口。そして、杉板の上できちんと波打つ上質な小田原の板わさと、杓子に塗られて香ばしく炙られた蕎麦味噌だ。

 千草はメイド服の長い袖口を、汚れないようにもう片方の手でそっと押さえながら、猪口にトトト……とお酒を注いだ。ふっと立ち上る米の香りを確かめてから、喉を鳴らして半分ほど含み、満足そうに目を細める。

「……ん、良い温度ね」

 わさびを醤油に溶かさず、板わさの上に少しだけ載せて口に運ぶ。あるいは、炙りたての蕎麦味噌を箸の先で少しだけ削り取り、舌の上で転がしながら、ぬる燗で追いかける。

 だらだらとスマホを見ることもなく、ただ静かに、その「発酵と出汁と米」の完璧な三角形を、慈しむように楽しむ。おやつ代わりに楽しむにはあまりにも粋なその姿に、古い蕎麦屋のカウンターは、まるで上質な小料理屋のような艶っぽい空気に包まれていった。



 

第三章:二の杯、引き算の背徳

 

 一合目の徳利が綺麗に空になったタイミングで、千草は小さく人差し指を立てた。

「大将、次はお蕎麦は抜きで……そうね、『天ヌキ』を頂戴。お酒はいつもの切子に、今度は冷やで『純米吟醸 渓 無濾過生原酒』を頂けますか?」

「へい、天ヌキに冷や一合! 喜んで!」

 大将の目の色が変わる。

『天ヌキ(天ぷらそばの蕎麦抜き)』という注文は、蕎麦屋にとって「うちの引いた出汁と天ぷらの油だけで、酒を飲んでみせる」という、客側からの最高峰の信頼の証だった。炭水化物をあえて引き算するその頼み方は、江戸のツウも顔負けの粋さだった。

 西日を浴びてアンバーと万華鏡のような光を放つ、見事な薩摩切子の冷酒グラスが、カウンターの上で静かに艶めく。千草がそこに注がれた『地純米吟醸 渓 無濾過生原酒』をきゅっと半分ほど干したところへ、湯気立つ器が差し出された。

 漆黒のツユの海に、まだ衣の端が「サクッ」と小さく音を立てている、揚げたての見事な大海老天が横たわっている。

 千草は箸を入れ、まずは出汁の熱が移る前の衣の、香ばしいところを一口、口に運んだ。上質なごま油のコクがじゅわりと広がり、すかさず切子の冷やでそれを追いかける。

「……最高。大将のごま油の利かせ方、本当にこの純米酒と綺麗に手をつなぐわ」

 時間が経つにつれ、海老天の衣が蕎麦ツユをたっぷりと吸い込み、逆にツユには天ぷらの旨味溢れる油が溶け出して、えも言われぬ濃厚な「天だし」へと進化していく。

 箸でつつくとホロリと解ける、ツユを吸ってぽってりとした衣を掬い上げ、今度はじんわりと温かい冷やの酒で迎え撃つ。あまりにも贅沢で、あまりにも背徳的な、大人の時間がそこに完成していた。



 

第四章:三の杯、物足りずにもり蕎麦

 

 海老の身を綺麗に平らげ、天ぷらの旨味がこれでもかと溶け出した極上のツユを見つめながら、千草はふふ、と悪戯っぽく微笑んだ。お昼ご飯を食べた後だというのに、どうやら極上の天だしが、彼女の「本気」に火をつけてしまったらしい。

「大将、美味しい天だしを飲んだら、なんだか物足りなくなっちゃった。最後にお蕎麦を『もり』で一枚。それから、お酒を同じものをもう一合、今度も冷やで頂戴」

「へい! もり蕎麦に冷や一合、喜んで! すぐ茹でるからね!」

 大将は内心で(やっぱりそうこなくっちゃあ!)と快哉を叫んでいた。

 運ばれてきたのは、瑞々しく茹であげられ、風花町の冷水できゅっと締められた漆黒の十割蕎麦。千草にとって、このもり蕎麦は食事の締めであると同時に、三合目を迎えるための「最高にして最後の酒の肴」だった。

 まずは、おツユに浸けずにお蕎麦の端を数本、そのまま手繰ってズズッとすする。鼻腔を抜ける蕎麦の清々しい香りを、常温の純米酒の豊かなコクで包み込む。

 次に、カツオの出汁がバシッと効いた濃い目のツユに、蕎麦の先をちょんとだけ浸して手繰り、また酒を含む。

 蕎麦味噌で米を味わい、天ヌキで油を愉しみ、もり蕎麦で素材を締める。

 クラシカルなメイド服の背筋をピンと伸ばした姿勢のまま、完璧な三段論法で酒を干していく黒と白の淑女。その一切の乱れがない美しさは、職人の魂を震わせるに十分だった。



 

第五章:粋な引き際

 

 三合の徳利がすべて美しく空になり、天ぷらの油が溶けたツユに熱々の蕎麦湯を注いでじっくりと飲み干すと、千草はふう、と満足げな溜息を漏らした。

「大将、ごちそうさま。最高の『おやつ』だったわ。夕方からの仕込み、これで頑張れそう」

 そう言って、メイド服のエプロンを軽く整えると、千草はスマートに代金をカウンターに置き、すっと立ち上がった。どれだけ飲んでも長居はしない。それこそが、彼女の譲れない流儀だった。

「ありがとうございました! またお待ちしてます!」

 大将の威勢のいい声に見送られ、千草はふらりと暖簾の向こうへ、初夏の光の中へと消えていく。

 彼女が去った後の店内には、ただ香ばしい出汁の香りと、彼女が残していった仄かな大人の余韻だけが漂っていた。大将は、愛おしそうに彼女専用の薩摩切子と唐津の器を手に取り、丁寧に磨きながら、隣の女将さんにぽつりと言った。

「……見たかい、お前。あの黒と白のメイド服姿のまま、通しからヌキ、最後にもり蕎麦まで、一秒の無駄もなく平らげていく姿。男の俺でも惚れ込めちまうほど粋じゃないか。あの姿を見られるなら、明日も海老のサイズをいつもの倍にしちまうよなぁ」

 

 風花町の午後三時半。

 至福の時間を終えたプロのメイドは、ほんのり桜色に染まった頬を五月の風に冷ましながら、愛する家族の待つ、そして夜の聖域である『Bar風花』へと、足取りも軽く歩みを進めるのだった。


あとがき


千草お姉ちゃんの「おやつ」が、こんなに大人で美しいものだとは……(笑)

蕎麦屋の大将が惚れ込むのも納得の、完璧な流儀と背筋の伸び方。

書いていて本当に幸せな気持ちになりました。

短いけど、風花町の昼下がりの空気感が少しでも伝わったら嬉しいです。

またいつか、別の閑話でカウンター(or 蕎麦屋のカウンター)でお会いしましょう。


天照(Bar風花)



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