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【Bar風花】第二章 風花の洗礼 ―隣町のバーテンダーの偵察―

まえがき


※隣町のバーマスター・遠藤視点の特別編です

※戦闘も恋愛もありません。ただ一流の技術と空間、そして心の動きだけ

※Bar風花を「外」から見た、静かで少し熱い話です


隣町でバー「ル・シエル」を営む遠藤は、客の間で急に広がった「風花町の店」という噂に苛立ち、偵察のつもりで風花を訪れた。


鉄刀木のカウンター、異色瞳の美和さん、完璧なステア、常連たちの温かな信頼、そして圧倒的なワインリスト。


プライドを砕かれながらも、遠藤が感じたものとは――


どうぞ、静かにカウンターの向こう側をご覧ください。


第一章:氷を削る音、都会の残響

 

 隣町の路地裏で『ル・シエル』というバーを営む遠藤が、氷を丸く削り出す手の動きを止めたのは、馴染みの客が落とした何気ない一言だった。

「……やっぱり、風花町の店とは、キレが違うな」

 悪気のない、独り言のような呟き。それが遠藤の胸の奥に、ざらりとした痛みを残した。

 遠藤の誇りは、都会の老舗オーセンティックバーで、厳しい上下関係に耐えながら過ごした十年間にある。シェーカーの振り方、バースプーンの指の掛け方、客との絶妙な距離感。そのすべてを血の滲むような思いで盗み、地元に戻って店を開いた。そこそこ繁盛しているという自負もあった。

 だが、ここ一ヶ月ほど、客たちの口から「風花町の店」という言葉が頻繁に漏れるようになった。

「あそこの美和さんのマティーニは、全然違う」

「果物の使い方が、ちょっと普通じゃないんだよね」

 最初は、地方によくある一時的な流行りだと高を括っていた。しかし、週末の書き入れ時だというのに、今夜の『ル・シエル』のカウンターには、遠藤と、その一言を呟いた客の二人しかいない。売上は目に見えて激減していた。

 あんな田舎の、しかも若い女がやっているという店に、何がわかるというのか。

 都会の夜を知る自分が、ただの嫉妬で終わるわけにはいかない。翌週の休業日、遠藤はアイロンの行き届いたシャツに袖を通し、ネクタイをいつもより少しだけきつく締め直した。偵察、という言葉を頭の中で否定しながら、彼は風花町行きのバスに乗り込んだ。



 

第二章:真鍮のランタンと鉄刀木

 

 風花町は、四季を問わずどこかに桜の気配が漂う、少し奇妙で静かな町だった。

 飲み屋街の外れの細い路地の奥。街灯の橙色の光がわずかに届くだけの暗がりに、ぽつんと暖かな明かりが灯っている。重厚なオーク材の扉が、静かに佇んでいた。表面は年季の入った深い茶色で、上部には古風な真鍮製のランタンが吊るされている。LEDの安っぽい光ではない。本物の蝋燭が揺らめいているかのような、淡く、深い暖色。扉の中央、小さな真鍮のプレートに『Bar 風花 -kazahana-』と控えめに刻まれていた。

(……ほう)

 遠藤は、知らず知らずのうちに身構えていた。入る前から、この店が持つ格のようなものが、路地の冷たい空気を通じて伝わってきたからだ。ドアノブに手をかけ、押し開ける。カラン、と静かな音が店内に吸い込まれていった。

 一歩足を踏み入れた瞬間、遠藤の皮膚が微かに粟立った。空調の効いた空気はひんやりと澄み切っており、雑音が一切ない。BGMは、ほとんど旋律というより残響に近かった。古いレコードの針が落ちる微かなノイズと、ピアノの最後の音が消えていくような余韻が、空気の中に薄く溶けている。

 何より、遠藤の目を釘付けにしたのは、入って右手へと横たわるカウンターだった。立派な鉄刀木の一枚板。深い黒に近い赤褐色の木肌は、直接照明と間接照明の絶妙な配置によって、静かに艶めいている。何十年もの年月が刻んだであろう細かな傷が、かえって控えめな光沢となって浮かび上がっていた。

 カウンターの上には、余計なものが一切ない。バーマットの上に、一本のバースプーンが入った、水の張った大きなブランデーグラスがぽつんと置かれている。その脇に、レモンやライムが美しく盛られた籠がひとつあるだけだ。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの奥からかけられた声に、遠藤は視線を上げた。そこに立っていたのは、バーテンダーの櫻庭美和だった。

 遠藤は一瞬、息を止めた。彼女の右目は深いワインレッド、左目は静かなアンバー。異色瞳の視線が、値踏みするような遠藤の目を、すべて包み込むようにまっすぐ見つめ返してきた。

 遠藤は、自分が同業者であること、それも敵意と焦燥を隠し持ってやってきた偵察客であることが、一瞬で見透かされたような錯覚に陥った。言葉を失いかけたが、喉の奥から虚勢を絞り出す。

「……マティーニを。ジンはタンカレーで」

「かしこまりました」

 美和は淀みのない動作で、ボトルとミキシンググラスを引き寄せた。



 

第三章:奇跡のステア

 

 遠藤の目は、彼女の指先に釘付けになった。

 カウンターとほぼ同じ高さに設けられた戸棚には、リーデル、バカラ、ウォーターフォードといったクリスタル製のグラスが種類ごとに整然と収められている。磨き上げられた表面が、照明を受けるたびに細かな虹色の輝きを放っている。

 美和はその中から、一杯のミキシンググラスを選び、氷を滑り込ませた。遠藤の視線が、水の張られたブランデーグラスから引き抜かれた一本のバースプーンに固定される。

(……長い、な)

 違和感は一瞬で驚愕へと変わった。通常、日本のバーテンダーが使うスプーンは三十センチから、長くても三十五センチ程度だ。だが彼女が手にしたそれは、明らかに四十センチを超えている。計算された流線型、指に吸い付くような金属の質感。一目でそれと分かった。日本の精密な研磨技術が生んだ、世界中のトップバーテンダーが愛用する『BIRDIEバーディ』の製品だ。

 しかし、これほど長いモデルは既製品に存在しない。

(特注の四十五センチ……!?)

 バーツールの重量バランスは、数ミリ、数グラムで劇的に変わる。四十五センチという長さは、常人なら指先が揺れ、まともなステアなどできない。だが、彼女がスプーンに指を掛けた瞬間、その長い金属の棒は完全に彼女の体の一部と化した。

 氷と液体がガラスの壁に触れる音は、耳障りな高音を一切立てない。まるで静かな湖面を滑る舟のように、低く、滑らかに響く。

 ふと見れば、バックバーに並ぶシェイカーやメジャーカップのすべてが、同じBIRDIEの鈍い輝きを放っていた。熟練の職人が内側をミリ単位で微細に研磨し、液体の混ざり方を劇的に変える究極のツール。それをすべて揃え、完全に使いこなしている。

 技術を誇示するための動きが、一切削ぎ落とされている。ただ、液体を最も正しい状態へ導くためだけの、祈りのような所作だった。

 冷却され、完全に一体となった液体が、クリスタルグラスへと注がれる。差し出された透明な一杯を、遠藤は手に取った。一口、口に含んだ。

(……っ!)

 衝撃が、脳裏を突き抜けた。

 圧倒的な冷気。それなのに、アルコールの角が一切ない。驚くほどまろやかで、まるで初めからこういう一つの液体として自然界に存在していたかのように、滑らかに喉を落ちていく。そして、通り過ぎた後に広がる、圧倒的に長く、美しい余韻。

「……美味いな」

 ぽつりと、言葉が溢れた。それは、隣町のマスターとしてのプライドを捨て、一人の客として敗北を認めた瞬間だった。



 

第四章:特等席の不在と、二人の常連

 

 カラン、と再びドアの音が響いた。入ってきたのは、二人の女性客だった。山﨑響子と、武井沙耶。

「こんばんは、美和さん。今日はちょっと、仕事で頭を使いすぎちゃって」

 響子が小さく息を吐きながら、鉄刀木の一枚板にそっと手を置く。

「こんばんは、響子さん、沙耶さん。お疲れ様でございました」

 美和が、先ほど遠藤に向けた凛としたプロの顔から、ほんの少しだけ柔らかい微笑みを浮かべる。その距離感は、近すぎず遠すぎず、絶妙に洗練されていた。

 遠藤は、座り心地の良さそうな本皮張りの黒いローチェアーに身を預けながら、彼女たちの様子を観察した。全七席のカウンター。響子と沙耶は、ごく自然に手前の席へと腰掛けた。

 遠藤が気になったのは、一番奥の一脚だけが、ぽつんと空いたままになっていることだった。

 よく見れば、その椅子の黒革だけは、他の席よりも深い艶を帯びている。長年、特定の人間だけがそこに腰掛け、大切に使い込まれてきたような、不思議な温かみが薄暗い照明の中に浮かび上がっていた。

 壁の奥まった一角に飾られた、墨と淡い桜色だけで描かれた一枝の絵にも近く、店内に漂うかすかな桜の香りが、最も濃く感じられる場所。どう見ても特等席だ。だが、彼女たちはそこへ座ろうとはしなかった。

「それでは、少し酸味を効かせて、頭がすっきりするようなものをご用意しますね。ベースはジンになさいますか? それともブランデーで、少し華やかに?」

「うーん、美和さんにおまかせしちゃおうかな」

 響子の言葉に、美和は迷うことなく、棚からアンティークのクリスタルグラスを選び出した。遠藤の店では、「都会直伝のレシピ」を完璧に再現することが正義だった。客の好みに合わせることはあっても、これほど曖昧な「おまかせ」に対して、迷いなくグラスを選べる自信は遠藤にはない。

 美和は籠から新鮮な柑橘を取り出し、流れるような手つきで果皮を剥いていく。沙耶が、出されたカクテルを愛おしそうに眺め、一口含んで、幸せそうな溜息をついた。

「……やっぱり、美和さんのカクテルは魔法みたい。今日一日のトゲトゲした気持ちが、すうっと溶けていくみたい」

 遠藤は、自分の前にあるマティーニのグラスを見つめた。

 自分が誇っていたのは、ただの『型』だったのではないか。この店は、美和というバーテンダーは、客の人生の、その一瞬の隙間に寄り添うために、この圧倒的な技術を使っている。敷居の高さを感じさせない日常の癒やしとして、最高級の技術が惜しげもなく提供されていた。



 

第五章:聖域を借りる時間

 

 夜が更けるにつれ、さらにドアのランタンが揺れる音がした。今度は仕事帰りとおぼしきスーツ姿の男性客が二人、申し訳なさそうに店内を覗き込む。遠藤を含めて、すでに五席が埋まっている。一番奥の席は空いているが、手前には一席しか余裕がない。

 遠藤は思わずハラハラした。あの奥の席へ案内するのか、と。その時、響子がふっと顔を上げて入り口の客に気づいた。

「あ、美和さん。私、一番奥に移るね。お二人さん、こっちどうぞ」

「あ、すみません、山﨑さん」

 常連の男性客が恐縮する中、響子はバッグからスマートフォンを取り出した。

「ちょっと待ってね。一応、席の主にLINEして許可とるから」

「ふふ、響子さん、わざわざ連絡しなくても大丈夫ですよ」

 美和が少し困ったように、けれどどこか嬉しそうに目元を和ませる。その表情は、完璧なバーテンダーの仮面の裏にある、一人の「普通の女性」の顔だった。

「ダメダメ、あそこは天ちゃんの『特等席』だもん。……あ、スタンプ返ってきた。『僕の席で良ければ、ぜひ寛いでいってください!』だって。相変わらず優しいなぁ、天ちゃんは」

 響子は楽しそうに笑いながら、自分のグラスを持って、一番奥の席へと移動した。

 遠藤は、その一連のやり取りを呆然と見つめるしかなかった。

(天ちゃん……?)

 聞いたこともない名前だった。だが、この店の誰もが、その男の存在を当然のように受け入れ、愛し、大切に守っている。

 クールで完璧なバーテンダーである美和が、その名前が上がっただけで、頬をほんのりと桜色に染めている。響子が腰掛けた一番奥の席は、彼女が座ったことで、不思議と店全体の空気をさらに柔らかく、温かいものへと変えていった。

 自分が都会で学んできたのは、効率と、格好と、客をスマートにあしらう世界だった。しかし、ここにあるのは全く違う地平だ。今ここにはいない『天ちゃん』という男を中心にして、美和と常連たちが作り上げている、家族のようでありながらも凛と澄んだ、奇跡のような信頼関係。敵うわけがない、と遠藤は思った。



 

第六章:地産地消の福音と、メイド服の調停者

 

「美和さん、ちょっと小腹が空いちゃった。何か作ってもらえる?」

 響子がメニューも見ずにそう言った。沙耶も「あ、私も乗っかった!」と手を挙げる。

「かしこまりました。では、お二人の今のグラスに合わせて、少しご用意しますね」

 美和は微笑み、バックキッチンの小窓に向かって、小さく声をかけた。

「千草お姉ちゃん、響子さんと沙耶さんに、軽いものを二人前お願いします」

 遠藤は心のどこかで、ようやく自分の「専門領域」で息を吹き返せるかもしれない、と不謹慎なことを考えていた。だが、奥の扉が静かに開き、静謐な店内に衣擦れの音が微かに響いた瞬間、その淡い期待は木端微塵に砕け散った。

 現れた女性――千草の姿を見て、遠藤は思わず目を剥いた。彼女が身に纏っていたのは、驚くほど仕立ての良い、クラシカルなロング丈のメイド服だった。悪目立ちするような派手さは一切ない。上質な生地の黒と白のコントラストが、薄暗い店内のアンバー色の光に美しく溶け込んでいる。格調高い英国の邸宅に仕える本物の使用人のような、気品とプロの矜持を感じさせる佇まい。

 千草はトレイを片手に、吸い込まれるような美しい所作でプレートを差し出した。

「はい、お待たせしました。今夜は風花町の農家さんが大切に育てた完熟イチジクが手に入りましたから、これに極上のブッラータチーズを合わせて、イタリア産の生ハムを少しだけ添えました。オリーブオイルは、美和のジンカクテルに合わせて、少し青い香りが強いものにしてあります」

 差し出された一皿を見た瞬間、遠藤は言葉を失った。

(……綺麗だ。それに、これは……)

 芸術品のように美しい盛り付けもさることながら、遠藤を戦慄させたのはその「思想」だった。

 都会の高級店のように、空輸された海外の珍味をこれ見よがしに並べるのではない。この町に実る最高の一滴、最高のひと果実を、最も新鮮な状態で提供する「地産地消」の極致。地元の豊かな大地の恵みを、そのまま形にしたような圧倒的な瑞々しさ。

 しかもその料理の設計は、完璧に計算され尽くしていた。

 響子たちが頼んだカクテルのアルコール度数、柑橘の酸味、それらすべてを迎え撃つかのように、チーズのコクと生ハムの塩気が、完璧なパズルのピースのように噛み合っている。美和がカクテルを仕上げるタイミングと、千草が料理を運ぶタイミングには、一秒のズレもなかった。

 バックキッチンの奥から漂う、微かな、しかし絶対に妥協のない仕込みの匂い。表のバーテンダーが怪物なら、奥の厨房をメイド服で統べる者もまた、同等以上の怪物だった。

「おいしい……! 千草さんの料理、本当にハズレがないよね」

 幸せそうに微笑み合う常連たち。美和は嬉しそうに目を細め、千草は「たくさん食べてね♪」と優しく笑って、また静かに奥の厨房へと戻っていく。

 最高峰の威容をバックバーに従えながら、その本質はただ、この町の人々の止まり木であること、そして一人の男の特等席を守ることに捧げられている。



 

第七章:勝利の美酒と、天井知らずのリスト

 

「今日、沙耶姉が署の対抗大会で優勝したんだよ! 美和さん、お祝いだからシャンパン開けよう! いつもソーニャさんが飲んでいるルイ・ロデレール・クリスタル!」

 響子が我が事のように胸を張り、隣の沙耶の肩をぽんぽんと叩く。沙耶は顔を赤らめながらも、嬉しさを隠せない様子で俯いた。

 遠藤は、その注文に思わず耳を疑った。

(ルイ・ロデレール・クリスタル……!?)

 それは、世界最高峰のプレステージ・シャンパーニュだ。都会の超一等地にある高級クラブや、一流ホテルのVIPルームでしかお目にかかれないようなボトルである。美和は、カウンターの奥で困ったように、けれどどこか悪戯っぽい微笑みを浮かべた。

「開けてもいいけど、あれはちょっと高いわよ」

 そう言いながら、彼女は鉄刀木のカウンターの上へ、革表紙のワインリストを静かに滑らせた。遠藤は、自分の席から横目でそのリストを盗み見た。

 開かれたページに並ぶ文字を目にした瞬間、遠藤の心臓がどくりと跳ねた。

(……なんだ、これは)

 そこに記されていたのは、単なる銘柄の羅列ではなかった。ヴィンテージの年号、生産者の詳細。そして何より、そこに並ぶ価格の数字が、銀座のトップクラスの店と比べても何ら遜色のない、いや、むしろそれ以上の本物の価値を弾き出していた。

 響子と沙耶はリストを覗き込み、「うわ、本当だ、今月の給料が飛んじゃう」と顔を見合わせて笑っている。その様子を、美和は母親が子供を見守るような優しい眼差しで見つめ、カウンターの下から別のワインリストを差し出した。

「だからね、手ごろで美味しいクレマン・ド・ブルゴーニュはどう?お祝いだからサービスするわよ♪」

「あ、それにする! 美和さんの選ぶものなら間違いないし!」

 響子が嬉しそうに頷く。美和は「かしこまりました」と応じ、セラーから一本のボトルを静かに取り出した。

 遠藤は、深く息を吐き出した。

 ルイ・ロデレールを常飲するソーニャという謎の常連客の存在。そして、それを躊躇なく出せるセラーを持ちながらも、客の懐と状況に合わせて、あえて手頃で最高に美味いスパークリングを薦める美和の矜持。

 格式を誇るのではない、客の笑顔のためにその選択肢を用意しているのだ。

 地産地消をベースにした極上のフード、完璧なカクテル、そしてこの空間の居心地の良さ。そのすべてが、客を癒やすためだけに完璧な調和を奏でている。

 遠藤は立ち上がり、伝票に書かれた、その素晴らしいサービスに対して安すぎるほどの代金を支払った。

「ありがとうございました。またのお越しを」

 美和が、いつもの凛とした、しかし温かいプロの礼を尽くして見送ってくれる。すべてを見透かされているような、けれどそれを咎めもしない、圧倒的な王者の包容力。

 重厚なオーク材の扉を開け、風花町の細い路地へと出ると、ひんやりとした夜風が遠藤の火照った顔を包み込んだ。

 不思議と、悔しさや嫉妬は綺麗に消え去っていた。あるのは、五感を極上の本物で満たされた後の、心地よい高揚感だけだ。

「……負け、だな。完璧な」

 遠藤はぽつりと呟き、自分のネクタイを今度はきゅっと結び直した。

 明日はうちの店も休みだ。メニューを一から見直そう。地元の素晴らしい食材にもう一度目を向け、氷の切り出し方も、あのおもてなしの足元に少しでも近付けるように。

 橙色の街灯に照らされながら、隣町のマスターは、バーテンダーとしての本当の第一歩を踏み出すために、自分の店へと歩き出した。


あとがき


遠藤さんが風花に来て、美和さんの技術と店の空気に完膚なきまでにやられる話でした。


書いていて「これが風花の強さなんだな」と自分でも再確認するような気持ちになりました。

嫉妬から敬意へ変わっていく遠藤さんの心の動きが、短い中でも伝わっていたら嬉しいです。


また、こんな外からの視点の閑話もたまに書けたらと思っています。


天照(Bar風花)

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