【Bar風花】第二章 八女の雫、白狐に託して
まえがき
※完全なる雰囲気重視の静かなお茶回です
※戦闘も恋愛も事件も一切ありません。ただ最高級の玉露と女神と狐白です
※Bar風花のゆるく神々しい空気が好きな方向け
美和さんが、星野村の最高級伝統本玉露を狐白に託して祐徳の山へ送った。
大宮売大神と祐徳院様が静かに茶を味わう中、倉稲魂大神様も加わり、神域で穏やかな茶会が始まる。
白狐の誇らしげな使者姿と、女神たちの優しい時間。
ただそれだけのお話です。
どうぞ、ゆったりと香りを楽しむようにお付き合いください。
第1章:八女の雫、白狐に託して
開店前の『Bar風花』の空気は、いつも磨き上げられたクリスタルのように張り詰めている。
鉄刀木の一枚板の上にぽつんと置かれていたのは、小さな、しかし見るからに上質な桐箱だった。美和が細い指先でその蓋を開けると、中から和紙に包まれた深い緑の葉が現れる。引き締まった細い針のような茶葉からは、まだ火を入れていないというのに、濃厚な覆い香――青海苔を思わせる、玉露特有の甘く覆われた香りがほんのりと立ち上った。
「――美和さん、それは星野の伝統本玉露? それも、そうそう市場には出回らない、品評会に出されるような最高級品だね」
何時ものカウンター席で書き物をしていた天が、眼鏡の奥の目を丸くして覗き込んできた。
「ええ。風花町から少し足を延ばして、星野村の古い知り合いの茶農家から分けていただいたの。一滴に、その年の山の生命がすべて凝縮されているようなお茶よ」
美和はワインレッドとアンバーの異色瞳を優しく和ませ、和紙の包みを丁寧に結び直した。
カウンターの足元では、真っ白な毛並みを輝かせた狐白が、じっとその様子を見上げている。その金色の瞳は、すでに自分の役割を察しているかのように、どこか誇らしげに輝いていた。
「この間のお土産のお礼、それから……里美の本体である大宮売様への、ほんの少しのお詫びを兼ねてね。狐白、これを祐徳の山まで届けてくれる?」
きゅん!
狐白は短く、力強く鳴いた。前回の「強奪事件」の時とは違い、今度は主君から直々に託された正当な使者としての任務である。ふんぞり返る胸の角度が、いつもより心なしか鋭い。
美和はくすくすと笑いながら、お茶の包みを防水の絹布で二重に包み、狐白の首元にある朱色の飾り紐へ、解けないようにしっかりと結びつけた。その際、指先から微かな神気を込めて、夜道を駆ける白狐の守護とする。
「道中、気を付けるんだよ。買い食いをして、お茶を汚したり落としたりしたら、今度こそ里美さんに捕まってお説教だからね」
天がからかうように言うと、狐白は「心外ね」とばかりにふいと顔を背け、そのまま夜霧が立ち込め始めた風花町の路地へと、音もなく躍り出た。その姿は、まるで闇に溶ける一筋の白い光のようだった。
第2章:深夜の茶会、二人の女神
佐賀の祐徳稲荷神社の夜は、現世の喧騒を完全に拒絶した静寂に満ちている。
本殿の裏手、切り立った岩壁の懐に抱かれた石壁社。その小さな庵の前に、一陣の清らかな風と共に、白い影が舞い降りた。狐白は息一つ乱さず、首元の朱い紐に結ばれた包みを、庵の板木の上へと丁寧に外して置いた。
「おや……まあ、今夜は随分と行儀の良い、誇らしげな顔をしたお使いですねえ」
石壁社の奥から、たおやかな萬子媛――祐徳院様の気配が仄かに染み出してきた。
ほぼ同時に、本殿のほうからも、鮮やかでいてどこか懐かしい、華やかな神気が揺らめきながら近づいてくる。大宮売大神が、格式高い神殿の奥からその姿を現したのだ。
「あら、祐徳院様。あの子、今夜は泥棒ではなく、何かを持参してきたようですわ。……おや、これは木花咲耶姫様からの贈り物ですか?」
大宮売大神がその包みを解くと、夜の静寂の中に、一瞬にして清冽な山の香りが広がった。星野村の清らかな霧と、豊かな土壌が育て上げた最高級の茶葉。
「まあ……これは星野の伝統本玉露ではございませんか。美和様、現世の私の暴挙(?)を、これほど見事なお茶で宥めようとされるなんて、本当に罪な方」
大宮売大神はクスクスと嬉しそうに笑いながら、庵の奥から古い宝物である宝瓶と、白磁の茶碗を取り出した。
神域の清らかな湧水を、沸騰させてから人肌にまで、じっくりと冷ます。玉露を淹れるのに、熱い湯は禁物だ。四十度から五十度ほどにまで落とした湯を、茶葉の入った宝瓶へ静かに注ぐ。
待つこと、二分。茶葉がゆっくりと、まるで眠りから覚めるように開いていく。
大宮売大神が最後の一滴――「覆い香の雫」と呼ばれる、最も旨味が凝縮された最後の数滴までを、白磁の器に均等に注ぎ分けた。
「さあ、祐徳院様。温かいうちにどうぞ」
「いただきます。……おや、これは」
萬子媛が器を口元へ運び、その緑の雫をほんの少したしなんだ瞬間、その美しい目が見開かれた。
それは、お茶という概念を超えた、圧倒的な「旨味」の塊だった。まるで上質な出汁を味わっているかのような濃厚なコクが舌の上を満たし、その後から、鼻腔を突き抜けるような、どこまでも清らかな青い香りが追いかけてくる。
「なんと深い……。まるで星野の山の緑を、そのまま一滴に凝縮したようなお味ですねえ。身体の奥底まで、清らかな力で満たされていくようです」
「ええ、本当に。現世の私――里美がこの香りを嗅いだら、またお屋敷で『私もそのお茶が飲みたかったですわ――!』と涙を流して悔しがることでしょう」
二人の女神は、白磁の器を傾けながら、夜の神域で静かな茶会を愉しんだ。その傍らで、狐白は萬子媛の衣の裾に小さな頭を擦り付け、満足そうに喉を鳴らしている。
第3章:稲荷の山の笑声
「おいおい、お前たちだけでそんなに良いお茶を愉しむなんて、水臭いじゃないか」
突然、夜空の彼方、稲荷総本宮の気配を宿した遥か上空から、どこまでも寛大で、それでいてちょっぴり悪戯っぽい声が降ってきた。
倉稲魂大神が、雲の隙間から覗き込むようにして、こちらの茶会を見下ろしていた。その手には、いつの間にか伏見の銘酒ではなく、空の湯呑みが握られている。
「倉稲魂大神様。これは美和様が、私共に届けてくださった大切な玉露でございますのよ?」
大宮売大神が少しだけ口を尖らせて見上げると、倉稲魂大神は大笑いした。
「分かっている、分かっているさ。だがね、私の可愛い眷属がこうして見事な役目を果たしたんだ。総本尊の私にも、一煎分けてくれたって罰は当たらないだろう? ほら、狐白。お前からも二人に頼んでおくれよ」
きゅん、と狐白は板木の上で小さく身を縮め、前足で顔を覆った。「私に振らないでください」と言わんばかりの態度に、萬子媛は声を立てて笑った。
「まあまあ、大宮売様。これほど見事なお茶ですもの、神々で分かち合うのが一番の供養というものです。二煎目は少し湯の温度を上げて、渋みと香りを引き出しましょう。倉稲魂大神様、どうぞお降りになって、現世の風花町の噂話でもお聞かせくださいな」
「おや、それは重畳。では、お言葉に甘えて」
夜霧がさらに深く立ち込める中、祐徳の山には、お茶の清らかな香りと、神々たちの睦まじい笑い声が、いつまでも静かに響き渡っていた。
任務を完璧に遂行し、二煎目の香りが山に広がるのを見届けた狐白は、女神たちに優しく頭を撫でられ、再び風花町を目指して闇を駆けた。その首元の鈴は、行きよりも心なしか、軽やかで誇らしげな音を奏でていた。
第4章:帰還の灯火
「――お帰りなさい、狐白。無事に行ってこられたみたいね」
深夜の『Bar風花』。
オーク材の扉が静かに開き、滑り込んできた白い影を、美和が優しい笑顔で迎えた。
しゃがみ込んだ美和の手が、狐白の体を撫でる。その真っ白な毛並みからは、先ほどまでの杉の匂いや線香の残り香に混答って、紛れもない、星野村の高級玉露の、あの青々とした濃厚な香りがほんのりと漂っていた。
「きゅん」
狐白は美和の足元に丸くなり、大仕事を終えた満足感からか、すぐに眠たそうに目を細め始めた。
天がカウンターの奥の厨房から、丁寧に細切りにされた最高級の厚揚げが載った小さなお皿を運んでくる。
「お疲れ様、狐白。これは美和さんからの、特製のご褒美だよ」
その匂いに、狐白は飛び起きるようにして目を輝かせ、嬉しそうに厚揚げに食いついた。その姿は、先ほどまで神域で女神たちの傍らに佇んでいた厳格な白狐とは程遠い、いつものお茶目で愛らしい櫻庭家の居候そのものだった。
「ふふ。大宮売様も、祐徳院様も、きっと喜んでくださったのね。この匂いなら、倉稲魂大神様も一口ねだりにいらしたのかしら?」
美和は遠い空を見上げるようにして、ワインレッドとアンバーの瞳を細めた。
「さあ、天ちゃん。夜はまだこれからよ。今夜の最後のお客様のために、私たちは私たちの仕事を全うしましょう」
「ええ、美和さん。静かで温かい夜を、ここに用意しておこう」
鉄刀木のカウンターの上、微かに香る桜の余韻と、白狐が連れて帰ってきた八女の雫の残り香が、奇跡のような調和を見せながら、大人の純愛の空間を静かに包み込んでいった。
あとがき
狐白がちゃんと「使者」としてお茶を届けて、女神たちと倉稲魂大神様で茶会を開く話でした。
最高級の星野玉露を想像しながら書いていたら、自分まで飲みたくなってしまいました。狐白が前回より少しだけ成長した(?)ような気もして、なんだか微笑ましいです。
短い話ですが、風花の優しい時間が少しでも伝わっていたら嬉しいです。
また、こんな静かな閑話が書けたらと思います。
天照(Bar風花)




